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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』118:秀吉の帰還

『伊達日記』118:秀吉の帰還

原文

一伏見御城文禄二年より御普請なされ候。名古屋に御在陣の内秀次公聚楽御城に御留守にて候。秀吉公直に伏見御城へ御帰陣成られ候。先天下は秀次へ相渡し分にて候。唐海道駿河訖の大名衆相付られ候迄にて。御仕置抔は秀次公御構成られず候。

語句・地名など

現代語訳

伏見の城は文禄2年から工事をなさっていた。名護屋に在陣のうち、秀次は聚楽のお城に留守居していたので、秀吉は直接伏見のお城へお帰りになられた。まず天下は秀次へ渡されるようであった。東海道から駿河までの大名衆がご命令された。仕置きなどは秀次がすることはなかった。

感想

秀吉が帰朝し、伏見の城の工事を行ったことがかかれています。この話は後に続きます。

『伊達日記』117:食料の不足

『伊達日記』117:食料の不足

原文

一秀吉公八月末名古屋より御帰馬候。筑紫四国西国衆は在陣にて坂東勢は九月十日に帰朝申され候。ふさんかい近所に城を三つ取普請仕るべき由仰出され。いづれも其普請成られ候。高麗は弓矢の成らぬ事之無き候へども。日本の御人数少飯米続かず候付御弓矢成兼候。地下人を仕付候て飯米の出候様にと仰付られ候間。ふさんかいの高麗人は有付候間其者を以て色々申され候へども。日本衆ををそれ申て何事をも実儀に存ぜず。只山へ逃候計に候。海道一筋は切領候へども。五里六里へだたり候わきにて耕作仕。日本衆まいり候へば逃跡明候間御弓矢成らず候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉は8月末名護屋からお帰りになった。筑紫・四国・西国衆は在陣していたが、坂東勢は9月10日に帰朝した。釜山海の近くに城を3つとり、工事をするようにとご命令になり、いづれもその工事をお済ませになった。
高麗は戦をして勝てないことはないけれども、日本の軍勢は少ない食料が続かず、戦をすることが難しかった。地下人に食料を作らせようと仰ったので、釜山海の高麗人を捕まえて、この者たちを使っていろいろしようと思ったが、日本衆を恐れてなにごとも信じなかった。ただ山へ逃げるばかりだった。海道一筋は切り従えたけれども、5里6里隔たっていたため、脇で耕作し、日本衆が来たら逃げるという様子で、戦にはならなかった。

感想

高麗での戦は当時の日本衆にとってはそう困難ではなかったようですが、食料が届かず、非常に苦労した様子が書かれています。

『伊達日記』116:赤国合戦

『伊達日記』116:赤国合戦

原文

一筑紫中国四国の大名衆。唐海道。平安道。えそ海道。をらんかい切したがへ。去年は高麗人手と身と計にて逃候間。飯米を取四月迄在陣申候へども。日本より飯米相続かず候故其通名古屋へ申上られ候処に。引除べき由御諚候。縦は去年赤国のもくそ判官城を責候処に。判官功のものにて石火矢を打半弓を射。砂を煎りかけ湯をわかしかけ。芝に火を付なげ懸候故けぶりにむせ。寄手衆死人多引除し所に。内より出合日本衆多うたれ候。此旨秀吉公きこしめされ。都より引除候人数。浮田中納言殿。加藤主計。黒田筑前。戸田民部少。蜂須賀阿波守。安芸の毛利殿。小早川。吉川。浅野弾正。政宗。岐阜の少将殿衆を以赤国判官が城を取申すべく候。人の損申さぬ様に長陣仕討たいらげ申すべき由仰付られ候間。七月廿日比赤国へ何も御越候。彼城南は大川にて岸高。三方は七間程の石垣に候。吉川は河の南向に陣取候。竹束を付仕寄成られ候。城内より日暮候へばたい松を三間計に一づつともし候。加藤主計亀の甲を作人をのせ石垣の根へ押寄。其内より鶴のはしを以て石垣をこぢ候へども大石にて成らぬ処に。城内より焼草をかけ彼亀の甲をやきやぶり候。かさねて牛の皮をはぎ毛を下へなし亀之甲に張付又押寄候処に。右の如く焼草をかけ候。内に居候者ども。有兼出候而一二人つるのはしにて石をこね返し候故石垣くづれ。両人石に打殺され、一人生候。寄手これを見取付責候間破候て。城中のもの働くべきやうなく大川へとび入候所を。吉川人数の分出候間。ありくべき様もなく川下に瀬渡候所へ寄手衆立切候故。水にをぼれ死候者もあり。多分瀬へながれかかり候を切殺候。高麗人は刀脇指を持たず候間働くべき様も之無く三千余うたれ。七月廿九日落城仕候。本丸に土を深掘下へわらを。其上え柴を敷氷を一重置。又わら柴を敷幾重ともなく氷を置候処御座候。蔵の内事の外寒申。熱時分にて何れも給申候。

語句・地名など

現代語訳

筑紫・中国・四国の大名達は、黄海道・平安道・えそ海道・をらんかいまで切り従え、去年は高麗人は手と身だけになって逃げ出していたので、その飯米を取り、4月まで在陣していたのだが、日本からの飯米が続かなかったため、そのことを名護屋へ申し上げられたところ、退くようにとご命令になった。たとえば昨年赤国のもくそ判官丞をお攻めになったとき、判官は功の者であったので、石火矢を打ち、半弓を射た。砂を煎り、湯を沸かしたものをかけ、芝に火をつけ投げかけたので、煙にむせ、寄せ手衆は多くの死人をだしたところに、内から出てきて、日本衆は多く討たれた。このことを秀吉はお聞きになり、都から退いた軍勢は、宇喜多中納言秀家・加藤主計頭清正・黒田筑前長政・戸田民部少輔為重・蜂須賀阿波守家政・安芸の毛利秀元・小早川・吉川・浅野長政・政宗・岐阜少将織田秀信の衆で、赤国判官の城を取るようにご命令になった。被害を少なくするように、長く陣を敷き、すべて討つようにとご命令であったので、7月20日頃いずれの大将も赤国へ到着した。この城の南は大きな川で、岸が高く、三方面は七間ほどの石垣であった。吉川は川の南向きに陣取った。竹把を付け、近寄った。日が暮れたので、城の中から松明を三間ほどにひとつずつ灯した。
加藤主計清正は鼈甲船を作り、人を乗せ、石垣の根元へ押し寄せた。中から鶴の嘴を入れ、石垣をこじ開けようとしたが、大石だったので出来なかったところ、城の中から焼き草をかけられ、この鼈甲船を焼き破られた。
重ねて牛の皮をはぎ、毛を下にして鼈甲船に張り付け、押し寄せたところ、また焼き草をかけ、中にいた者たちが居ることが出来ず1,2人鶴のくちばし石をこね返したので、石垣が崩れ、2人石に打たれて死に、1人生き残った。
寄せ手はこれを見て攻めたので、城は敗れ、城中の者たちはどうすることもできず大川へ飛びこんだところを、吉川勢が出て、歩くこともできず川の下に瀬渡しになっているところへ寄せ手衆が立って切ったので、水に溺れ死ぬ者もあった。たくさん瀬へ流れかかったのを斬り殺した。高麗人は刀や脇指を持っていなかったので、することもなく3000余打たれた。7月29日落城した。本丸に土を深く掘り、下へ藁を、その上に柴をしき、氷を一重おき、またわら・しばを敷、何重にもかさねて氷を置いたところがあった。蔵の中は思ったより寒く、暑い頃であったので、皆食べた。

感想

軍勢による赤国合戦の様子がかかれています。戦の様子も日本の戦い方と違うのが興味深いですが、戦が終わった後氷室を見つけ、その仕組みに驚いているのがおもしろいです。『政宗記』ではここに「是は珍らしき儘の物語」という言葉があり、書いている本人もめずらしい、信じられないかもと思っていたのだなと思います。

『伊達日記』115:高麗人の出現

『伊達日記』115:高麗人の出現

原文

一陣道具取に夫兵四五十人まいり候処に。高山より高麗人跡の続かずを見切追散五六人討候。その後も薪とり候ものを追散候間。政宗人を差越され地形御見せ候処に。人の一二百程居候而山よりも見えず。深沢へ其夜中に人数二百程差遣はされ隠置。夫兵計道具取の様に差越され候処。又高麗人共其者共を追下候を沢の者共出合押切。御陣屋よりも助合候故八十三人討取候。右頸共を弾正殿へ御越候はば。今に始まらぬ御手がら感入候。名古屋へ申上候由御理候。

語句・地名など

現代語訳

陣道具をとりに、武兵4,50人きたところ、高い山から高麗人の跡が続いているのを見て、追い散らし5,6人討ち取った。その後も薪とりに来た者を追い散らしたので、政宗は人を遣はし地形を御覧になったところ、1,200人ほどいるというのに、山からも見えなかった。深い沢にその夜中に手勢200程遣わし、お隠しになった。武兵のみ道具取りに来たかのように送ったところ、また高麗人たちはその者たちを追い下したため沢に隠れていた者たちが出てきて押しきった。陣屋からも援軍をだしたので、83人討ち取った。この首を浅野弾正へ送ったところ、今に始まらぬ大手柄であると感心し、名護屋へ申し上げるべきと仰ったのも当然である。

感想

高麗での戦闘の様子です。

『伊達日記』114:渡海

『伊達日記』114:渡海

原文

一翌年の正月浅野弾正殿御子左京大夫へ渡海仰付られ候。政宗も渡海仰付られ候。三月十五日舟にめし候へども日和これなく。二十二日迄名古屋の間に舟がかり。政宗公は陸に御宿なされ。御下衆は舟の内にて日をおくり申候。廿二日追手舟政宗御舟は壱岐の風本と申所迄御着舟に候。二月原田左馬助。富塚近江渡海申され候。浅野弾正殿御父子の船。伊達上野。石川大和。片倉小十郎。白石若狭舟風本迄参。中途に舟相懸り。翌日日和よく弾正殿御舟をはじめ何れも対馬助府中迄御出候。政宗公は弾正殿御舟通候由聞召され。御舟を出され候へども風悪く又風本へ御もどり。四五日御逗留候而漸対馬御着候へども日和然なく十四五日御逗留候。中途にかかり候船共。弾正殿始申ふさんかいへ先に御着候。伊達衆も政宗御供申されず候衆はいづれも御先へ参られ候。疾に高麗へ御渡り候由存急候へば跡に御座なされ候。迷惑の由申され候。四五日弾正殿御やすみ候而うるさんへ御働候。彼地は日本衆候而相すて高麗の都へとをり候故。又かうらい人相抱候へども。持つべきやうこれなく。人数さきを見申候て引捨。山々へ引こもり候。

語句・地名など

現代語訳

翌文禄二年の正月浅野弾正の子、左京大夫へ渡海命令が下った。政宗も渡海命令を下された。3月15日船にのったが、天候が良くなく、22日まで名護屋の間に船を停留し、政宗は陸地で宿をとり、家来衆は船の中で日々を送った。22日順風であったので、政宗の船は壱岐の風本というところまでお着きになった。原田左馬助・富塚近江は2月の間に渡海していたが、浅野弾正・左京大夫親子の船、伊達上野・石川大和・片倉景綱・白石宗実の船も風本まで来たが、途中で船はとまり、翌日順風であったので、弾正の船をはじめ、みな対馬の府中まで出ることが出来た。
政宗は弾正の船が到着したことを聞いて船をだされたが、風が悪く、また風本へお戻りになり、4,5日後登流になったあと、ようやく対馬まで御到着になったが、風がよくなく、14,5日逗留なさった。中途にかかった船たちは弾正をはじめぷさんかいへ先にお着きになった。伊達衆も政宗に御供しているのではない者たちはみな先へ到着した。急いで高麗へ渡ろうとお急ぎになったのだが、遅れてしまい、大変お困りになった。
4,5日弾正はお休みになったあとうるさんへ戦闘を仕掛けた。この土地は日本の先陣衆が通り、捨てて高麗の都へと通ったところであったので、また高麗人が立てこもっていたのだが、籠城する様子はなく、軍勢を見て、城を捨て、山へ退いた。

感想

いよいよ渡海となりました。とはいっても風の様子で行ったり来たり。大変だったことがわかります。大変ですね、出兵。

『伊達日記』113:名護屋での出来事

『伊達日記』113:名護屋での出来事

原文

一盆に加賀筑前殿御家中前田孫左衛門と申人より政宗公御陣所へをどりを差越され候。其返事成らるるべき由にて何も稽古仕候。廿日の晩相返成らるるべき由にていづれも出立候処に。日暮家康公御陣前にて安部伝八郎と申者。柏原新五郎と申者衆を討欠落仕候。家康公より陣所陣所へ御穿鑿候様にと仰越され候に付。方々へ続松にてたづねまはり候間をどりも相止。其後は御返し之無く候。

語句・地名など

続松:ついまつ・たいまつ

現代語訳

盆に加賀筑前前田利家の家臣に前田孫左衛門という人から、政宗の陣所へ踊りを送られた。
その返事をしなくてはいけないため、みな稽古をした。20日の晩、返す予定で、皆出発したところ、日暮れになり家康の陣所前で、安部伝八郎という者、柏原新五郎という者を討ち、逃げ出したので、家康から陣所陣所へ調べるようにと言ってこられたので、あちこちへ松明を付け、訊ねまわったので、踊りのことは無いことになった。

感想

喧嘩があったことは前の項にもありましたが、今度は踊りの送り合いが行われ、その準備のために稽古したり装束をつけたりしていたことが書かれており、非常におもしろいです。
しかしそれも家康の陣中で起こった殺人事件のせいで流れ、人探しすることになりました。やはり名護屋は大変な状況に置かれていたようです。