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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』112:名護屋での喧嘩

『伊達日記』112:名護屋での喧嘩

原文

一六月末の比事の外暑時分家康公御陣所の下に清水候。筑前殿衆其水を汲申され候。多出申さぬ水に候故。家康公衆防の処是非汲申すべき由申からかい候。其聲を承筑前殿御陣所より二人三人宛走寄。尤家康御陣場下に候間人出合二十人三十人成。後は二三千宛出合候。筑前殿衆に大名と見え候衆は一人も之無く候。家康公御下よりは本田中務を初大名衆十人程出合。喧嘩ををさへ候体に候。双方矢をはげ鑓のさやをはづし申候。若事出候はば天下の大事に成るべき程の喧嘩に候。政宗は何も御念比に候へども。別而家康公へ御入魂候間。事出候はば家康公へ御助成られるべき体に候。仰出られは之無く候へども。下々以其覚悟に候。家康公鉄砲大将服部半蔵。渡辺半蔵は鉄砲三百挺程召連。喧嘩には構わず筑前殿の後へ相詰。事出候はば本陣へ取懸べきの体に候。政宗公年寄衆二三人遣され。双方の衆へ押へ候迄にて。連々双方遠ざかり何事無く罷帰候。不思儀に急事出申され候由名古屋中の取沙汰に候。家康筑前御陣所遠候由秀吉公御意成られ。御城近所へ御陣所を相移され候。政宗は渡海仰付らるるべき由思召され候処。其御沙汰もなく御越年に候。

語句・地名など

現代語訳

6月末の想像以上に暑い頃、家康の陣所の下に清水があった。前田利家の家臣たちがその水を汲もうとされた。多く出ない泉だったので、家康の家臣たちは防ごうとしたところ、どうしても組もうとしたところからかわれた。その声を聞いて、利家の陣所から2人3人走ってきた。もともと家康陣場の下であったので、人が出てきて20人30人となり、後には2,3000人ほど出てきた。利家のところに集まった人の中には、大名と思われる人は一人も居らず、家康のところには、本多中務忠勝をはじめ、大名衆が10人ほど出てきて、喧嘩を治めようとした。
双方矢をつがい、鑓の鞘を外した。もしことがおこったならば、天下のおおごとになると思われる程の喧嘩であった。
政宗はどちらも仲良くしていたが、特に家康と親しかったため、何かがおきれば、家康へ助勢する様子であった。口にだされはしなかったが、下々までその覚悟であった。家康の鉄砲大将である服部半蔵・渡辺半蔵は鉄砲300挺ほど連れて、喧嘩にはかまわず利家の陣の後ろに詰めた。何かがおこったら、本陣へとりかかるようにということだった。政宗から年寄衆を2,3人遣わし、双方の衆を抑えたところ、だんだん双方の衆は遠ざかり、何事も無くお帰りになった。不思議なことに急に事が起こり、名護屋中の話題であった。
家康と利家の陣所は秀吉の命令で遠くするように命じられ、城の近所へ城を移された。政宗は渡海命令が出るだろうと思っていたが、その様子もなく年を越した。

感想

名護屋ではたくさんの大名が狭い地域に陣を敷き、渡海を待っていました。その中で喧嘩が起きることも多かったようで、そのうち家康と利家の家臣たちの間で起こった喧嘩について書かれています。

『伊達日記』111:高麗への陣立

『伊達日記』111:高麗への陣立

原文

一二月半時分。岐阜中納言殿。浅野左京大夫。羽柴藤五郎。木村常隆。加藤遠江。その外坂東の大名衆。段々に御陣立候。一番加藤筑前。二番家康。三番政宗。四番佐竹右京亮。押道は聚楽御屋敷よりもどり橋を大宮通へ御返候。政宗家中出立はのぼり三十本。紺地に金の丸。のほり指の衣装具足。下にむりやうのじゅばん。具足は黒糸。前後に金の星。鉄砲弓鑓の衆下着具足同前。銀のし付刀脇指。小尻つか井ほうなりに朱さや太刀の如くきつはにさし申候。金のとがり笠長三尺計。廻り一尺八寸程。馬上は三十騎。共に黒母衣金半月のたし。豹虎又孔雀の尾。熊の皮。色々の馬よろいを懸。金のし付の太刀刀に候。其内遠藤文七郎。原田左馬助ははきそへに木太刀を一間半にこしらへ帯候。小尻さがり候間金物を中程に仕肩へ糸にてつり候。見物の人いづれもの御通には聲もたて申さず候が。政宗御通にははり候出立ゆへ上下をめき物音もきこえへぬ体に候。京中にて褒美申候。其晩はあいと申所へ御着陣成され。それより何も大名衆具足は取納常の衣装にて名護屋御着成られ。家康公。筑前殿も御城の北入海を隔御立陣に候。政宗も其北方御陣所に候。其西は結城殿御陣所に候。

語句・地名など

現代語訳

2月半ば、岐阜中納言織田秀信・浅野左京大夫幸長・柴田藤五郎・木村小隼人常隆・加藤遠江光泰その他坂東の大名衆が段々と陣立てを行った。
1番は加藤筑前、2番家康、3番政宗、4番佐竹左京亮だった。通る道は、聚楽第屋敷から戻り橋を大宮通りへ返す道だった。
政宗家中の出で立ちは、紺地に金の丸の幟を30本指し、幟指しの衣装具足は、下に六糸緞の襦袢を着こみ、具足は黒糸で威し、前後に金の星が入っていた。鉄砲・弓・鑓の衆は下着・鎧も同じであった。銀ののし付の刀・脇指は小尻を櫂のように朱鞘で、太刀の如く立派にさし、長さ三尺・周り一尺八寸ほどの金のとがり笠を付けた。鎧武者は30騎で、みな黒母衣に金の半月のだし、豹・虎・孔雀などの尾や熊の皮などさまざまな馬鎧をかけ、金ののし付太刀刀を持っていた。
そのうち遠藤文七郎宗信と原田左馬助宗時ははばきそえに、一間半の木太刀を拵え、佩いた。小尻が下がるので、金物を真ん中に肩へ糸でつっていた。
見物の人たちは他の軍勢が通る間は声もたてずにいたが、政宗がお通りになったときは、声をはり、上も下もどよめき、物音も聞こえぬほどになった。京中で褒められていた。その晩は会というところに着陣され、そこからはどの大名衆も鎧を取って納め、普通の衣装で名古屋まで到着なさった。家康・利家も城の北入江を隔てて陣を立てられ、政宗もその北方に陣をしいた。その西は結城秀康の陣所であった。

感想

西の大名から徐々に西へ向かい、名護屋へ向かったことがかかれています。
特に政宗の軍の格好が大変華やかで風変わりで、京都の人々の目を引いたことがかかれています。
原田宗時・遠藤宗信の姿も格好良かったことでしょう。

『伊達日記』110:岩出山出立

『伊達日記』110:岩出山出立

原文

一高麗入の御支度。萬御道具は京都へ仰上られ候。岩出山御留守居は屋代勘解由兵衛に。御領内中其身任され置度由仰付られ。天正十九年正月九日岩出山御立成られ黒川に御着。七森の鹿御狩成られ年内より名取。国分。宮城。黒川。沢谷。松山のせこ仰付られ候。大崎中は一揆御退治故。地下人有付けず候間。差置かれ候。十一日御鹿狩三百余狩取られ。御供衆岩出山御留守居衆に下され候。彼山は秀衡子退治之砌頼朝公御狩の由申つたへ候。惣山の鹿御立場へ参地形山のまはり見事の所にて候。十二日円森へ御着。二月十三日京都聚楽御屋敷へ御着なされ候。左候へば筑紫西国四国大名衆。一番に小西摂津守。二番加藤主計。其外段々に渡海成られ候。聚楽御留守居は関白様秀次公相付られ候。大名衆は加藤肥前。中村式部少。田中民部少。渡瀬小次郎。山内対馬。池田三左衛門。その外小大名衆あまたつけおかれ候。

語句・地名など

現代語訳

高麗入りの支度で、すべての道具は京都へお頼みになった。岩出山留守居役は屋代勘解由兵衛景頼に任せられ、領内すべて納めるようにご命令になり、天正19年正月9日、岩出山を出発し、黒川にお着きになった。七ツ森で鹿狩りをなされた。昨年のあいだから、国分・宮城・黒川・沢谷・松山の勢子を作るようご命令になっていた。旧大崎領内は一揆を退治してすぐだったので地下人を集めることができなかったので、そのまま差し置かれていた。
11日鹿狩りをして300余りを取られ、御供衆や岩出山留守居衆に与えられた。この山は藤原秀衡の子泰衡を退治の際、頼朝公が狩をなさったと伝わるところであり、鹿が多く、地形や山の景色が素晴らしいところであった。12日は丸森へ、2月13日に京都聚楽第の御屋敷へお着きになった。
すると、筑紫・西国・四国の大名衆、1番は小西摂津守行長、2番は加藤主計頭清正、その他徐々に渡海なされた。聚楽第の留守居役は関白秀次が命じられた。大名衆は加賀肥前守前田利家・中村式部一氏・田中兵部吉政・渡瀬小次郎・山内対馬一豊・池田三左衛門輝政、その他小大名衆がたくさん付け置かれた。

感想

高麗御陣のため、岩出山を出立し、上洛する政宗ですが、上洛する途中、七ツ森にて鹿猟を行ったことが書かれているのが印象的です。源頼朝が狩を行ったという故事にならい行った狩猟は、士気を上げるためのものかもしれません。

『伊達日記』109:高麗御陣への準備

『伊達日記』109:高麗御陣への準備

原文

一岩出山。政宗公御在城に相立られ候。御上洛の時分より来年は高麗陣と申ならはし候。政宗公は遠国と云国替弥一揆の跡を下され候由も。其体にては成らせしめられず馬上三十騎。鉄砲百。弓五十張。鑓百。のぼり三十本仰付られ候。彼是千余の御人数に候。奥模様と上方はちがい候條具足は下さるべく候條。其外の支度ばかり仕るべき由仰出され候に付て。いづれも拝領申候知行所へまかり越々年仕候。

語句・地名など

現代語訳

岩出山が政宗の本城となり、上洛したときから来年は高麗に攻め入るということになっていた。政宗は遠国であり、国替え後でもあり、また一揆のあとの領地を下されたが、軽くすませることはできないだろうと、鎧武者30騎・鉄砲100挺・弓50張・鑓100・幟30本を御命じになった。すべて合わせて1000人余りの軍勢となった。奥羽と上方は違うので、鎧は下賜されることになったので、その他の支度のみするようにご命令になった。そのためみな拝領した場所へ行き、年を越した。

感想

奥羽仕置が終わり、次は高麗攻めが始まります。

『伊達日記』108:奥羽仕置の完了

『伊達日記』108:奥羽仕置の完了

原文

一関白様は最上へ御下向。家康公は岩出山に御逗留なされ候。佐沼岩出山を御再興候而政宗公へ相渡され候。関白様へ相付られ御人数浅野弾正殿も南部迄御下。奥中平均に仰付られ御登候。政宗公も直に岩出山へ御移候。長井。伊達。信夫。田村。塩の松。刈田迄蒲生飛騨殿御拝領候。関白様。家康公御登成られ候。政宗公御国替に付伊達。信夫。田村。塩の松の侍衆妻子下され引移申され候。

語句・地名など

現代語訳

関白秀次は最上へお下りになった。家康は岩出山に滞在なされ、佐沼・岩出山を再興なさり、政宗へお渡しになった。関白秀次に付けられた軍勢と浅野弾正も南部までお下りになった。奥州の平和を御命じになり、お上りになった。政宗も直接岩出山へお移りになり、長井・伊達・信夫・田村・塩松・刈田まで蒲生飛騨氏郷拝領なさった。秀次と家康は上洛された。政宗は国替えになり、伊達・信夫・田村・塩松の侍衆は妻子を移した。

感想

奥羽仕置の終了により、家康が城割を行った岩出山に本拠を移すことになりました。政宗が手に入れた新領地はほぼ蒲生氏郷の領地となりました。一揆を経て、小田原参陣時の約束とはかなり違うものになってしまいました。

『伊達日記』107:一揆終結

『伊達日記』107:一揆終結

原文

一関白様へ二本松にて御目見へ候処に。両使を以大崎。葛西一揆の様子御たづね候。政宗仰られ候は。城々多相抱地下人迄も譜代の者に候間。御退治御六ヶ敷候條。命ばかりは相助られ候様に御訴訟申すべき由申候間。沢谷と申所へ引寄而差置候間。御意次第討果申すべき由仰上られ候。一段仕様然るべく候。早々死罪仕べき由御意に候間。御先へ御使差越され泉田安芸守に黒川之人数を指添られ。一揆の物頭二十人余討殺され。首ともに御のぼせ候。塩漬に成られ京都へ上らせしめられ候。

語句・地名など

現代語訳

関白秀次と二本松にて面会したところ、2人の使いで、大崎・葛西一揆の様子をお尋ねになった。政宗は「城は多く、籠城している者たちは地下人にいたるまで代々仕えてきた者たちなので、退治するのは難しい事です。なので、命ばかりはお助けになるように訴訟するように言ったので、沢谷というところへ集め、さし置かれたなら、ご命令次第で討ち果たすことができます」と仰った。
一区切りするようにと、すぐに死罪にすべきとご命令になったので、まず先へ使いを遣わし、泉田安芸に黒川の軍勢を添えて、一揆を率いていた者たち20人あまりは打ち殺され、首を塩漬けにして京都へ上洛させた。

感想

関白秀次の命により、一揆の頭目たちが捕らえられ処刑されたことが書かれています。