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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』3-7:黒川月舟晴氏逆心附弾正気遣

『政宗記』3-7:黒川晴氏の裏切りと弾正への気配り

原文

されば伊達へ晴氏逆心の子細をいかにと申すに、其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を、輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近、右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾りと雖ども娘漸十歳計りなるに、式部は其年三十に及ければ、約束迄にて未だ祝言もなし。其内右近思ひけるは、式部は娘に年も似合ず、又我身の隠居も程あるまじきに、彼娘を政宗へ差上、若も此の腹に御子出なば申し請、名代になす程ならば、家中の為にもよかるべきと思ひ、右の契約違変なり。故に式部面目を失ひ、月舟方へも行ずして、直に越後へ引切けり。此恨亦月舟は義隆へ継父なりしが、義隆弟の義康を名代に定め、伊達元安息女を彼義康へ取合、月舟手前に置ける故、義隆滅亡ならば末の身の上大事に思ひ、今度の逆心理りなり。角て弾正気遣けるは、伊達勢を給はらんと御約束にはありけれども、未だ其色もみへず、敵地中に塞りければ通路は叶はず、今や今やと待けれども、今年も暮て天正十五年正月末になりければ、明暮大崎を気遣ける処に、頃は二月二日の日、松山よりの伊達勢三本木の川を打渡し、先陣は師山を押通し、新沼にかかりて、中新田への働きなり。されば下新田は義隆一味の処なれば、城主葛西監物、偖加勢の大将には、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・黒沢治部・米泉権右衛門・宮崎民部・彼七人宗徒の者ども、葛西が城に楯籠り、「伊達の軍兵中新田を押して通る程ならば、一人も通すまじ」と広言なれども、流石無勢なれば口には似合わずして通しけり。師山の大将には、古川弾正・石川越前・葛西太郎右衛門・百々城主右京亮を始め、歴々宗徒の者ども籠りけり。偖川より南桑折の城へは、黒川月舟楯籠り、飯川の城主大隅と、両城の道を立挟みければ、伊達上野・浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡を首め、三本木の川を渡て四百余騎くつわ*1を並、師山の南の畑に控たり。先陣は中新田近所に打出でければ、城内の南条下総と云し者町より四五丁出向ひけるを、先手の軍兵一戦を持掛、内へ押込付入にして、町構へより二三の曲輪まで烽火なせども、下総本城へ引入、城は堅固に抱ひけり。御方の軍勢方々へ押寄押寄働きけるを、軍奉行の小山田筑前、跡を気遣ひ下知をなして、惣手を引上段々備へを取せて差置ければ、氏家弾正此の働きを俄かに聞に、伊達勢近所迄は思ひも寄ざる処に、中新田への働きなれば、弾正取るものも取合はず岩手山を打立、伊達の人数へ加はるべしと働き出れば、御方の軍兵方々を焼払ひ引上げれば、加はることも叶はずして、弾正空しく引取なり。伊達の人数も雪深く道一筋にて、漸く申の刻にも成ける程に、多勢と云ひ急ぎ引上、跡の御方へ加はらんと、師山へ取て返しければ、伊達上野・浜田伊豆、各疾に引上、其上多田川と云ふ流と三四間の用水堀と、両橋共に引れ引上げること叶はざるなり。故に先手の軍勢又新沼へ取て返し、下新田へ一戦を持掛取組けれども、切所の橋を二重迄引れ、味方の者ども是を心に掛け、後れけるを小山田筑前、名誉の者にて敵を守返し追散しければ、歩者一人脇へ横切けるを、物付せんとて追掛、十四五間乗余けるに、深田の上に雪降つもり、平地の如くにみへけるを、ふけとは知らずに乗込けるに、馬は倒に成て筑前打ぬかりければ、手綱を取て引上んとせし処を、敵取て返し筑前を討んとす、其とき手綱をはなし、ぬきたる太刀にて戦ふと雖ども、敵は多勢後ろへ廻り片足切て落されぬ。爾りといえども、太刀をば捨ずに戦ひけれども、軍は久し老武者なれば、打ける太刀もよはかりけるに、四竈が郎等走り寄首を取らんとかかりけるを、持たる太刀を打捨彼郎等を掴寄、腰なる脇指を引抜、真ただなかを突留にして、二人共同じ枕に伏けるを、敵来て首をとる。扨敵の人数は川の南に控けるが、此方の負色見合、川を越て下新田の衆へ加りければ、日も早山の端へかかりけるに、軍奉行の筑前を始め、御方の者ども多勢討れて、剰へ切所の橋迄引れければ、除けることを叶はずして、伊達の軍兵新沼思の外成籠城なり。されば小山田討死の朝、不思議なる奇瑞にや、宿より軍場へ十余間出けるに、乗たりける馬の太鼓は早遅し遅しと物を云、供の者ども是を聞て興をさましけるとかや。筑前今日の軍には勝たるぞ、門出よしとて向けるとぞ。爾るに筑前討死の後敵の方へ分捕けるに、見知たる者有て「此馬一年義隆祈祷のため野々嶽の観音へ神馬に引れける馬なり」と云ふ。義隆も見知給ふとなり。何方を廻り筑前手へ渡て、彼馬に乗て討死なるは神力の威光あらたなり、と其ときの風聞なり。又筑前差物を最上義顕へ、義隆より遣し給へば、日来聞及たる名誉安からざるものなりとて、黒地に白馬櫛の小旗を、出羽の羽黒山へ納められけり。冥加に叶ひ、死して後の高名是なりとて、時の人々感じけり。

語句・地名など

宗徒(むねと):おもだったものども
申の刻(さるのこく):午後4時
ふけ:深田。ふけ田
野々嶽(ののだけ):箆山嶽。遠田郡涌谷町にある山。古くから箆嶽観音の霊地として信仰を集めている。葛西・大崎氏両氏の信仰が篤かった
突留(つきどめ):富くじの一等賞/最後に突くこと転じて物事の極み

現代語訳

さて、伊達へ黒川月舟斎晴氏が反逆した詳細はどうであったかというと、その昔、月舟斎の伯父に黒川式部という者がおり、輝宗の頃月舟斎から伊達へ奉公に出されていた。それを信夫郡飯坂城主飯坂右近宗康はこの式部を聟にして、名代を譲ろうという約束をしていた。しかし、この娘はようやく10歳になったばかりで、式部はその年すでに30を越えていたので、約束のままでまだ祝言もしていなかった。その内右近宗康が思ったのは、式部は娘に年も釣り合わず、また自分の隠居もそれほど先ではないだろうから、この娘を政宗へ差し上げ、もしこの娘が政宗の子を妊娠したならば、この子を請うて、跡継ぎにするのならば、家中の為にもよいだろうと思い、式部との約束を破った。
このため式部は面目へ失い、月舟斎の元にも戻らず、直接越後へ去ってしまった。
この恨みに加え、月舟斎は義隆の継父であったのだが、義隆の弟の義康を跡継ぎと決め、亘理元宗の娘をこの義康へ娶せ、月舟の近くに置いていたため、義隆が滅亡するならば将来の身の上を心配したため、このたびの反逆は不思議ではなかった。
そのため弾正が心配していたのは、伊達勢を送ってもらえるという約束ではあったが、まだその様子も見えず、敵地の中に塞がってしまったなら、道を通ることはできなくなるため、今か今かと待っていたのだが、年もくれて天正15年正月末になった。ずっと大崎方面を心配している頃、2月2日の日に、松山からの伊達勢は三本木の川を渡り、先陣は師山を通り、新沼にかかり、中新田への出兵となった。
下新田は義隆一味の地であったので、城主葛西監物と加勢の大将には、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・黒沢治部・米泉権右衛門・宮崎民部・この主立った者たち七人が、葛西の城にたてこもり「伊達の軍兵が中新田を通ろうとするなら、一人も通さない」と広言していた。しかしさすがに無勢だったため、口ぶりとは逆に伊達勢の通過を許した。
師山の大将は古川弾正・石川越前・葛西太郎右衛門・百々城主右京亮を始め、歴々の主立った者どもが籠っていた。さて川より南の桑折の城へは、黒川月舟斎がたてこもり、飯川城主大隅と両城の道をはさんでいたので、伊達上野・浜田伊豆・館(田手)助三郎・宮内因幡をはじめ、三本木川を渡って400騎あまりがくつわをならべ、師山の南の畑に控えていた。先陣は中新田の近くに出、城内の南条下総という者が、町から4,5丁先へ出迎えているのを、まず配下の軍兵たちが一戦を持ちかけ、城内へ押し込み、付けいり、町構えから2,3の曲輪まで放火したが、下総は本城へ戻り、城は堅固に守った。
味方の軍勢はほうぼうへ押し寄せ、押し寄せ戦闘をしかけるのに対し、軍奉行の小山田筑前は後を心配し下知をし、惣手を引き上げ、じょじょに備えを取らせて兵を置いたところ、氏家弾正はこの動きを急に聞き、伊達勢の近くにいたときは思いもよらなかったのだが、中新田への働きを見て、弾正は取るものも取らず、岩手山を出発し、伊達の軍勢へ加わろうと戦闘に出た。しかし、味方の兵はほうぼうを焼き払い引き上げたので、加わることもできず弾正は空しく引き上げた。
伊達の兵も雪が深く道は一筋しかないため、午後4時ごろになったころにようやく引き上げ、後の味方へ加わろうと師山へ引き返したところ、留守上野・浜田伊豆はそれぞれ急いで引き上げ、その上多田川という流れと3,4間の用水堀と、二つの橋は共に落とされ、引き上げることが出来なかった。そのため先手の軍勢は新沼へとって返し、下新田へ一戦を持ちかけ取り組んだのだが、重要な場所の橋を二つも取られ、味方の者はこれを心配して後れた。小山田筑前は功の者であったので敵から守り返し、追い掛け散らしていたのだが、徒の者が一人脇へ横切ったのを仕留めようと追い掛け、14,5間追い掛けたところ、深い田の上に雪が降り積もり、平地のように見えていたのを、深い田と知らずに乗り込んでしまい、馬が倒れてしまい、筑前はどうにか逃げ、手綱を引いて引き上げようとした。すると、敵は引き返してきて、筑前を討とうとした。そのとき手綱を放し、抜いた太刀で戦ったのだが、敵は多勢背後へまわり、片足を切られ落とされた。しかし太刀を捨てずに戦い続けたが、戦は久しぶりの老武者だったため、打つ太刀の力も弱く、四竈の郎等が走り寄って首を取ろうとしたところ、持っていた太刀を投げ捨て、この郎等を掴み寄せ、腰につけていた脇差を引き抜き、最後のひとつきで倒し、二人とも倒れていたところ、敵が来て首をとった。
さて敵の勢は川の南に控えていたのだが、この敗色濃厚なのを見て、川を越えて下新田の衆へ加わったところ、太陽がはやくも山の端にかかっており、戦奉行の筑前をはじめ、味方の者たちが多く打たれ、その上肝心の橋まで落とされたので、退却することが出来ず、伊達の軍兵は想定外に新沼の城に籠城することになった。
すると小山田が討ち死にした翌朝、不思議な現象であったのだろうか、宿から戦場へ10間余り出たときに、「乗った馬の太鼓がもう遅い遅い」とものをいい、供の者たちはこれを聞いて気を取り直した。筑前は「今日の軍には勝つぞ、門出がいい」と向かったという。筑前が討ち死にしたあと、敵に奪われていたのを、見知った者がいて「この馬は一年間義隆が祈祷のため、野々嶽観音の神馬に使われていた馬である」と言った。義隆も知っているという。どこをめぐってか筑前のもとに渡り、筑前がこの馬に乗って討ち死にしたのは、神の力のためである、とそのとき噂となった。また筑前の差し物を義隆から最上義光へお送りになったところ、日ごろよく聞いた名誉の素晴らしいものであると、黒地に白馬櫛の小旗を出羽の羽黒山へ納められた。神々の恩恵を受け、死して後に高名を得るというのはこういうことだと、その時の人々は感心した。

感想

黒川晴氏がなぜ背いたかという話をはじめに説明しています。
飯坂城主飯坂宗康が黒川式部という男に娘を娶らせ、婿としようという約束があったのを、年齢が離れていたためできていなかったのを、政宗に娶らせることにし約束を反故にしたため黒川式部が恨みを持っていたこと、晴氏が義隆に近かったことがその理由としています。
そこへ伊達勢が進軍していく有様、特に小山田筑前の戦死ぶりを書いています。
こういう軍記は、敵であっても武士として素晴らしい死に方をした武将を顕彰するために書かれているとも言えるでしょう。特に成実はそういうのを好んで書いていますね。

*1:馬偏に鹿、その下にれんが(点よっつ)