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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』31:小山田筑前の死

『伊達日記』31:小山田筑前の死

原文

一氏家弾正は伊達の人数遣はさるるべき由御意候へ共、今に村押の旗先も見られず。通路不自由何方の注進も之無く、今は今はと相待。正月も立候間朝暮機遣に存られ候。然処に二月二日松山の軍勢打出川を越。先手の衆段々に室山の前を打通。新沼にかかり中新田へ相働候。下新田と申城は義隆公にて城主葛岡監物其外加勢の侍大将には里見紀伊守、谷地森主膳、弟八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部少、黒沢治部少、此もの共こもり候て、伊達の人数中新田へ押返候はば一人も通まじき由広言申候へども、流石多勢にて打通候間、出るべき様も之無く候間、押すも置かれず打通候。跡の室山の城へは侍大将古川弾正、石川越前守、葛岡太郎右衛門、百々左京籠置候。川南には郡々城主黒川月舟籠。城主飯川大隅と云者也。両城道を押はさみ候故、伊達上野、浜田伊豆、舘助三郎、宮内周防四百騎余にて室山の南の広畑の候に相控えられ、先手の人数中新田の近所へ押懸候処に、内より南條下総守町枢輪より四五町出候処を、先手の人数一戦を仕り、内へ追込付入に仕。二三の枢輪町構まで放火仕候へども、下総本丸へ引こもり堅固に持候。敵の城ども余多打通り候條、跡を気づかいに存候而小山田筑前下知仕。惣手を引上段々にそなへを相立候。氏家は俄之働にて中新田までとは存ぜず。取物も取り敢へず罷出候へども、伊達の人数へも押加へず、引上候。伊達勢短日其日深雪にて道一筋を急引上事成らず候て、七つさがりに成候。下新田衆打出候へども、伊達勢物とも存ぜず押入押入通候。上野伊豆の人数へ打添べき之由存候処に、跡々人数疾引上候間、室山より罷出二重の用水堀々橋を引候ゆへ通候事もならず、新沼へ引返し候跡にて下新田衆と合戦候処に、切所の橋を引くの由承。諸軍勢足戸あしく候へども、小山田筑前返合戦候故大崩は仕らず候。筑前敵を追い散歩者一人脇へ逃候を物付仕るべきと存候而其者を追懸、十四五間脇へ乗候処に、深田の上雪積平地の如く見え候間、馬をふけへのり入馬さかさまに成候故、筑前二三間打ぬかれ馬はなれ候。手綱を引あげんと仕候処へ、敵かへし筑前をうたんと仕候て綱を放切合候。多勢の事に候間、前後へ廻り片足切をとされ、犬居にどうと倒れ候へども、太刀を捨てず切合候。老武者軍は久しく息をきり、打出す太刀もよはく成候間、四竈が若党はしりより首をとらんと仕候を、太刀を捨引寄脇指をぬき、ただ中を付留めにして両人同枕に臥候を、あとより参候もの首を取候。敵川より南に相ひかへ候へども軍破れず。前は川をば越えず候処に味方負色に成候を見合、川を越下新田衆へ加候故、日は暮かかり小山田筑前討死ゆへ、味方敗軍仕余多うたれ候切所也。橋を引かれ新沼へ引かへし軍勢籠城致候。

語句・地名など

ふけ:深田。ふけ田
七つさがり:申の刻(午後4時ごろ)

現代語訳

一、氏家弾正は伊達の軍勢を送っていただくよう同意をしていたというのに、まだ村を押しての旗色も見えず、通路は不自由になるがどこからの連絡もなく、今か今かと待っていた。正月も過ぎたので、朝から暮れまで一日中心配をしていた。そうしているうちに2月2日、松山の伊達の軍勢が出発し、川を越え、先陣はじょじょに師山の前を通り、新沼に着いて、中新田へ戦闘をしかけた。下新田という城は、義隆の城であり、葛岡(葛西)監物が城主をしており、その他加勢してきた侍大将は、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部少・黒沢治部少、これらの者たちが籠城しており、伊達の勢が中新田へ無理に通ろうとしてきたら、一人も通さないということを広言していたが、さすがに伊達勢が大勢であったので、出陣することもできないでいたので押すことも出来ず、伊達勢は通ることができた。
後の室山(師山)の城には、侍大将として古川弾正・石川越前守・葛岡(葛西)太郎右衛門、百々左京(右京亮)が籠城しており、川より南には郡々城主の黒川月舟斎が籠もっていた。城主は飯川大隅というものであった。2つの城は道を挟んで立っていたので、伊達上野・浜田伊豆・舘(田手)助三郎・宮内周防の四百騎余りを率いて師山の南の畑が広くなっているところに控えていた。先陣は中新田の近くへ出陣していたので、城の中から南條下総守と云う者が、町から4、5町出てきたのを、先陣は一戦をしかけ、内側へ押し込み、そのまま中まで攻め入った。2,3の曲輪の町構えまで放火したけれども、下総は本丸へ引きこもり、固く籠城した。
多くの敵の城を味方が攻めてまわったので、後を心配して、小山田筑前は下知をし、総軍を引き上げ、徐々に備えを差し置いた。
氏家弾正はこの動きを急に聞いたため、中新田までくるとは思わず、取るものも取りあえず出陣したが、伊達の軍勢に加わることができず、引き上げた。
伊達の勢も、その日雪が深く、一筋の道をいそいで引き上げることが出来ず、7つごろ(午後四時頃)になった。
下新田衆も出陣したが、伊達勢は者ともせず、押し入り押し入り通った。伊達上野は浜田伊豆の軍へついていこうと思っており、後ろの方の手勢が急いで引き上げたので、師山より延びている二重の用水堀と橋を落とされていたので、渡ることが出来ず、新沼へ引き返したあと、下新田衆と合戦になった。しかし大事な場所の橋を切られていることを聞き、軍勢は足下が悪かったのだが、小山田筑前は敵を押し返し合戦をしていたので、大崩れにはならなかった。小山田筑前は敵を追いちらし、徒立ちの者が一人脇へ逃げるのを、つかまえようとして、その者を追い掛け、14,5間脇へ乗りかかったところ、深い田であるところに雪がつもり平地のように見えたので、馬を深田に乗り上げてしまい、馬はたおれてしまい、筑前は2,3間打ち抜かれて馬と離れた。手綱をとって引き上げようとしたところ、敵が戻ってきて筑前を討とうとして、手綱を放し切り合いとなった。多勢であったので、前後へ廻られ、片足を切り落とされ、両手を地についてすわりこんでしまったのだが、太刀を捨てず、切り合いをした。しかし老武者であるので、戦は久しぶりで、息はきれ、打ち出す太刀を持つちからも弱くなってしまっていたので、四竈の郎等が走り寄って首を取ろうとしたのを、太刀を捨てて、引き寄せて脇差しを抜き、ど真ん中を付きとどめをさし、二人ともおなじように倒れていたところを、あとから来た者たちが首をとった。
敵は川より南に控えていたけれども、軍を突破することはできず、川をも越えずにいたところ、味方の敗色を見て、川を越え下新田の衆へ加勢した。
日は暮れかかり、小山田筑前は討ち死にしたので、味方は敗軍し、沢山の兵が討たれてしまった難所であった。橋を落とされたため、新沼へ引き返し、籠城することになった。

感想

小山田筑前の奮戦とその死を丁寧に書いています。旧暦2月ということで、深い雪で苦労しているところも。
老武者の死に敬意を払ってか、成実の筆も乗っているように感じられます。こういうところはとても丁寧です。