[sd-script]

伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』54:郡山合戦

『伊達日記』54:郡山合戦

原文

一天正十六年六月十日比佐竹義重公。会津義広公仰合られ。岩城常隆公の人数五百騎御加勢。彼是安積へ御出馬候。政宗公聞召され。高倉か本宮へ働かしめられるべき由思召され。十二日宮森を御立二本松の杉田へ御馬を移され候。本宮へ御働候而。杉田より助の御人数指曳く仰付らるるべき由にて御在馬候へども。一円御人数少に候。子細は最上。大崎。相馬御敵に候間。其境は助懸之衆迄御人数一人も呼ばしめられず候。佐竹の人数四千騎之有るべきかと申唱候。初日に悪戸へ御働。其後郡山へ御働候而本宮へ御働はこれなきよし思召され。惣人数はたかくらに差置かれ政宗公。窪田山王山へ両日召上られ御覧成られ候。しかる処に佐竹あいづの野陣郡山近所へ相寄せられ近々と働候。右より郡山警固為しめられ鉄炮二百挺馬上卅相籠められ候。奉行大町宮内少輔。中村主馬。塩森六左衛門。小島右衛門遣わされ候。太斉金七は物頭には之無く候へども申請入候。其時分は山への通路も能候間郡山太郎左衛門参られ。郡山は近陣せしめるべきかと見え候。去りながら今に取詰られ候儀はこれなく候。左様の儀候はば追而申し上げるべき由申され罷帰られ候。翌日ははたらき候而西の台に土山を二つ築。小旗を立。町を見下鉄炮打候。此方よりも近陣と見え候と何も見申。郡山よりも左様に申上られ候に付。十四日に山王山へ御出御覧成られ。安積山にて御相談にて。御評定の衆は桑折点了。小梁川ていはん。白石若狭。我等。浜田伊豆。原田左馬助。富塚近江。遠藤文七郎。片倉小十郎。伊藤肥前。原田休雪。以上十一人。点了。ていはん。本は似合に候。子共名代相渡御相伴。又御弓矢の御相談衆に候。伊豆左馬助。近江文七郎は御宿老にて候。文七郎親山城は輝宗公御代に出身仕候。御親子御弓矢の時分御洞取みだし候を山城分別を以取納候。然る処に輝宗公不慮の御他界の砌。山城は煩にて御供仕らず候。御葬礼の一日前追腹仕候。文七郎は其子にて十七歳に罷成候。政宗公仰せられ候は。郡山近陣と相見え候。落城うたがいなく候條、御対陣成らるべき由思召され候。如何様に存ざれ候哉と御意候。点了申上られ候は。御尤に候へども敵は多勢。味方は六百騎には御過申さず候とて御対陣成らるべく候。若御陣所へ合戦を仕懸候はば勝利を失わるべく候由申上候に付。多分点了申さるる分尤の由申され候間。其日は落居申さず候。十五日に政宗公山王山へ御出御覧成られ候。又御相談候て。御意には山王山へ召上られ候間。敵御小旗を見知申すべく候條。郡山落城仕候はば御家の疵に成候。御弓矢の勝負を以御滅亡は世上の習に候間。是非共御対戦成らるるべき由仰出られ候。ていはん申上られ候は。相馬義胤田村を御取有るべき由思召。多分田村衆引付られ候。御本丸の御北様も仰分られ候へども。橋本刑部一人切腹を存詰。御本丸へ参。義胤を入申さず候故御取様候へども。各申組候衆は手切をも仕らず。今に城を持御後に差置かれ御対陣御物体無く候。去りながら大利成らるるべき御見当も候ば是非に及ばぬ由申され候。御意には。窪田。福原。高倉引続味方に候。縦田村の内にて悪事出候へども大川を隔。其上窪田。福原。高倉。郡山城主共人質を取候対戦極候者城を持替。手前の人数を以抱えるべく候。本宮二本松は成実抱候間機遣無く候。縦陣破候とも本宮迄卅里の道に候間。引除候とも急事有間敷候。是非共御対戦と思召さるる由御意候。御尤と存衆も候。又如何と申衆も候へども。名に疵付候より滅亡是非に及ばぬ由仰出され候間。是非申せられず候。左馬助申上らる者。左候者御陣場何方に候はん。伊豆申さる様に。沢沼を後に当面の原に御陣成られ然るべき由に候。肥前申され候は。大軍小勢弓矢作法は小人数にて場好に御陣然るべからず候。悪所を当若合戦に利を御うしなひ候はば除口の能地形を御見当然るべく候。大軍取廻働かれ候はば、御合戦成らるにて之在るべく候間。窪田を前にあて福原の前に御陣成られ候はば御合戦も成られ能之有るべき由申され候。小十郎も肥前申され候御陣馬然るべき由申され候。伊達申され候は。山王山へ上はたらき候はば御無人数を見切られ候はくるしからず候。合戦成られ能地形然るべく候。福原前は縦合戦に越度御取候共。福原へ御引籠候へば近々由申せらるに付福原前に落居仕候。肥前申され候は。今度御対陣なされ候はば。郡山の御助に候間御合戦は返々御無用之由申され候。政宗公仰せられ候は。肥前申処尤に候。敵は大軍。味方は小勢に候間合戦は入らぬ儀候。去りながら郡山筋に対陣を張。彼地落城候ては面目無き儀に候間。郡山の手詰により有無の合戦を成られ。郡山衆を窪田へ引取べき由仰られ候に付而。何も御意尤に候。末には有無の御合戦成らるべく候。若御合戦之無き儀目出度ことに之有るべき由申され候。彼肥前は名誉の者にて惣団扇休雪。肥前に仰付られ候者に候。窪田の城は飯坂右近。大嶺式部。福原の城へは瀬上中務。高倉の城へは大條尾張遣はされ候。本丸を請取べき由仰付られ候。明日御対陣と仰出られ候。其晩本宮に御在馬。十六日未明に打出られ福原前へ御備を立られ。それぞれに陣場割を仰付られ候。我等に御直に御意成られ候は。働候者山王山続に之有るべく候。窪田の方は植田にて水懸り候間一戦候とも成間敷候。其北の方原つづきにて場能候間彼口より仕懸べく候條。其所陣所に仕るべく候由御意に候間罷越見申候へば。御意の如く之原つづきにて一戦場此筋之有るべき由存候間。人数を繰出し陣場割仕候処。郡山。窪田の間へ働候敵の人数引返。山王山より段々に押備を立。一戦を持懸候へども。御無人数にて合戦大事之由何も申され候間。我等備より一人も出ず候故合戦之無く引上られ候。陣場の前に用水堀御座候を当に取。其日は陣屋をも懸けず。二重に五尺あまりに芝築地を付。明日働之有るべきかと相待候処に。十七日にも働之無く候間。又二重の築地を八尺計につき。陣場の廻を堀二重に堀懸日暮候。十八日普請打立候処に働御座候間。仕度致罷出。二重の築地の内にそなへを相立候。水田の前は田村孫七郎殿。同月斎。片倉小十郎陣場に候。味方も武立我等の陣場。田村衆。小十郎陣場の後へ惣備を打出られ候。敵一戦を持候て。会津の者に尾能因幡と申者人数二三百召連。山ノ根用水堀を埋させ路を扱候間。我等家中に鉄炮能打候もの八人申付打申すべく候。若敵参候はば構わず引除候へと申付候に。二三度参打候へば因幡腕へ当り引上候。其後は普請も仕らず。惣の鉄炮にてつるべを打たしめ引上候。保土原江南。浜尾善斎。其砌は会津へ奉公候間。先手を申され候衆に候。須賀川破候砌より政宗公へ御奉公申され候が。物語にて承候は。十七日にも御働有るべく候へども。三日の御働に人数も草臥候間。一日御休息候て十八日有無の御合戦と思召候処に合戦場と思召候地形に築地を築。堀をほり。城のごとくに相構え候間。先路次を造り候へと尾能因幡に仰付られ候。須賀川衆に先手を仕るべき由仰られ候。須田美濃。矢部下野。保土原江南。矢田野伊豆。浜尾善斎。何れも申され候は。敵の陣場普請も之無く候者。御先手を申衆候ても一仕候か。二重三重の普請と見え候処へ。何とも仕懸申べき様之無き由申上られ候。重而義重仰られ候は。縦者普請候共敵小勢に見え候間。御合戦に大利をえられぬ義はある間敷候。是非御先手を仕るべき由御意に候。重而須賀川衆申され候は。縦須賀川衆打死仕候ても。御合戦に大利を得られ候様に能にのみを仰付られ候はば御先手仕るべき由申上られ候。義重公会津衆を仰付らるべく候由御挨拶に候。須賀川衆は岩城衆を仰付られ然るべく候。左なく候はば御先手仕間敷由申され候。義重仰付られ候は。岩城衆は此度首尾計を以加勢に差越され衆をのぞみ申候は難題に申上候。是非共先手仕べき由仰られ候へども。何と御意候とも迷惑之由申され候。今日の御合戦相止られ然るべく候。成実陣場堀の如く普請を致候。南は窪田水かかり候而ひた白に候間旁御合戦成られ苦敷候。其上合戦始候はば窪田郡山よりも罷出べく候。押へは差置られ候へども。両所より罷出跡にて合戦候はば。御先手の戦仕苦に之有るべく候間相延られ。近々御取詰然るべき由申され候に付尤之由存ざれ。義重へ其通申上られ候に付。御合戦は相止。惣の鉄炮を集つるべを御打たしめ引上られ候由物がたり申され候。十九日二十日は何事も之無く郡山へも自由に通路を仕候。廿一日に敵足軽に奉行計付置られ。郡山と窪田の間少堀を堀鉄炮を差置。郡山の構鉄炮を打懸候間通路を仕苦成候。廿三日敵惣手を郡山窪田の間へ打下。取出の城を普請成られ候。政宗公も窪田へ御出馬候へども御人数無き間其防も成られ候。伊達上野足軽を少出し端合戦候。大和田佐渡御旗本衆に候へども罷越合戦に会。鑓疵太刀疵を請高名仕候。御法度背候間曲事にも仰付らるるべきかと存候処。比類無く仕候條御免成られ候而其日首を御覧成られ候。敵取出へ人数を籠置候間。通路不自由に成候。又廿六日に敵惣人数を打出。廿七日に取出成られ候。東の方に又取出の普請を成られ。定番に片平助右衛門を差置かれ候。其上会津四人の家老衆。日替の番手に居申され候。我等申上候は。御陣取の時分御合戦御無用之由何れも申上られ候へども。郡山通路へ取出の城を二つ築候へば。早通路成らず候間御合戦然るべく候。縦少の内は候とも御対陣の験之由申候へば。休雪。肥前抔申され候は。若候故左様の義申され候。此御人数にて何とて御合戦成らるるべく候哉。返々合戦と存間敷由申され候間是非に及ばず候。さりながら見合申度存候へども仕合無く罷過候。

語句・地名など

悪戸→阿久土
太斉→太宰

現代語訳

一、天正16年6月10日ごろ、佐竹義重公と会津義広公が言い合わせ、岩城常隆公の郡500騎の援軍を引き連れ、安積へ出陣なさった。政宗公はこれをお聞きになり。高倉か本宮への働きかけをするべきであると思われ、12日宮森を出発し、二本松の杉田へ移動なさり、本宮へ戦闘をしかねなさった。杉田からの援軍の差引もあるだろうと杉田に居られたのだが、この辺りは手勢が少なかった。
というのも、最上・大崎・相馬と敵対しているので、その境は援軍の衆まで一人も呼ぶことは出来なかった。
佐竹の軍は4000騎ほど有るのではないかと言い合った。初日に悪戸というところに出られ、その後郡山へ出られ、本宮への出陣は無いだろうと思われ、総軍は高倉に差し置かれていた。政宗は窪田の山王山へ二日間登られ、地形を御覧になった。
そのうちに、佐竹・会津の野陣が郡山の近所から戦闘をしかけていた。
なので、郡山の警固をさせた。鉄炮200挺、騎馬武者30を籠もらせた。
奉行は大町宮内少輔・中村主馬・塩森六左衛門・小鳥右衛門を遣わされた。太宰金七は侍大将ではないけれども、請うてきたので籠もらせた。
そのときは山への通路も自由だったので、郡山太郎左衛門が来て「郡山は近くに陣を敷くべきであろうと思われる。しかし、今に取り詰められることはないだろうが、そうなったら追って申し上げます」と言って、帰った。
翌日も敵は動いたので、西の台に土山をふたつ築き、小旗を立て、町を見下し、鉄炮を打った。こちらからも近陣となるだろうとみなそう思った。郡山もそのように言われたので、14日に山王山へ出馬なされて、様子を御覧になった。安積山にて相談をしたのだが、そのときの評定衆のメンバーは、桑折点了斎宗長・小梁川泥蟠斎盛宗・白石若狭宗実・私・浜田伊豆景隆・原田左馬助宗時・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信・片倉小十郎景綱・伊東肥前重信・原田休雪斎の以上11人であった。
点了斎と泥蟠斎はもとは本家に仕えていた者だったが、子どもの名代として御相伴衆になっており、また戦の時には相談衆であった。浜田伊豆・原田左馬助・富塚近江・遠藤文七郎は、宿老であった。文七郎の親は輝宗公の時代に出世したものである。晴宗と輝宗が戦をして、非常に御親戚の中が乱れたときに、遠藤山城基信の裁量でうまく収まった。そして輝宗公が不慮の事件によってお亡くなりになったときに、基信は病により、御供出来なかった。葬式の一日前に追い腹をした。文七郎はその子で、17歳になったところであった。
政宗公は「郡山近陣となるだろう。落城は間違いないので対陣はろうと思うが、どう思う」と仰られた。点了斎は「もっとものことでありますが、敵は多く、味方は600を越えるかどうかなので、対陣するのであれば、もし陣所へ合戦を仕掛けるのであれば、勝利を失うだろう」と申し上げた。
おおかたの者は点了斎の言い分を尤もと思われたので、その日は落城はしなかった。
15日に政宗公は山王山へ出馬なされて、地形を御覧になられた。また相談なされ「山王三へ登ったところ、敵の小旗を見た。このまま郡山が落城したならば、家の疵になるであろう。戦の勝敗を以て滅びるのなら、それは世の中の習いであるので是非とも戦いをするべきである」と仰られた。
泥蟠斎は「相馬義胤田村を取りたいと思われ、田村の者たちは大部分が引き付けられている。本丸の北の方も言いくるめられているが、橋本刑部一人が切腹を思い詰め、本丸へ上がり、義胤を入れなかったため、城を取ろうとなさったが、それぞれ言い合わせた者たちは手切れにもならなかった。今に城を持ち、のちに差し置かれ、対陣されるのは勿体なく思います。しかし、大きな利を得られるであろう目星があるのなら、仕方ない」と言った。政宗は「窪田・福原・高倉は引き続き味方である。たとえ田村の領内で好くないことがあっても、阿武隈川を隔て、そのうえ窪田・福原・高倉から郡山の城主たちの人質を取っているので、城を持ち替え、手勢に加えるべきである本宮・二階堂は成実の両地であり、心配はない。たとえ陣が破れたとしても、本宮まで30里の距離であるので、退いたとしても危険なことはないだろう。ぜひ対陣を」と思っていると仰られた。もっともであると思った者たちもいた。また、それはどうかと言う者たちもいたのだが、家名に傷が付くよりは、滅亡の方がよいと仰せになったので、どうしてもと言う者はいなかった。
左馬助は「そうであるならば、陣場は何処になるるのでしょうか」と言った。伊豆は「沢沼を後ろに、前の原に陣をひくのがよいのではないか」と言った。伊東肥前は「大軍と少人数の戦の作法があり、少人数でよい場所に陣を引くのは間違っている。足場の悪いところに陣を引き、もし合戦していて利がないと思われたら、退く道がきちんとある土地を見つけなくてはいけません。大軍がとりまわして戦をしかけられたならば、合戦になるだろうから、窪田を前に、福原の前に陣を引くのであれば、合戦も上手くいくであろう」と言った。小十郎も「肥前のいうとおり出馬なさるのがいい」と言った。伊達(伊豆の誤字と思われる)は「敵が山王山へ働いたなら、こちらの人数が少ないのを見極められるのことが心配である。合戦になったとしてよい地形を選ぶことが大事であります。福原の前はたとえ合戦に利がなくとも、福原へ引きこもり、籠城するならば、近いです」と申し上げたので、福島前に落ち着かれた。
肥前は「今回対陣なされるのは、郡山を助けるためであるので、合戦は無用である」ということを申し上げた。
政宗公は「肥前の言うことはもっともである。敵は大軍。味方は小勢であるので、合戦はするべきではない。しかしながら、郡山筋に対陣を張られ、かの地が落城してしまっては面目がないので、郡山の手詰まりにより、仕方のない合戦となった。郡山衆を窪田へひきとるよう」と仰られた。みなそのお考えはもっともであると思った。そのため避けられない戦になるだろうと思われた。
「もし合戦にならないのであればめでたいことである」と言った。この肥前は非常に武功の者であるので、総軍の指揮を休雪斎と肥前に仰せ付けられた者である。
窪田の城には飯坂右近宗康・大嶺式部信祐、福原の城へは瀬上中務景康、高倉の城へは大條尾張宗直をおつかわしになり、本丸を受け取るように仰られ、明日対陣であると仰られ、その晩は本宮に在陣なさった。
16日未明に出発され、福原の前に備えをお立てになり、それぞれに陣場割りを命じられた。政宗が、私に直接「きっと働きは山王山の続きにあるだろう。窪田の方は植えられた田んぼで、水が入っており、戦には成らないだろう。その北の方は草原が続いて、場所がよいので、この方面から仕掛けるべきだろう。そこを陣所にするべきだろう」と仰ったので、そちらへ行き、見てみたら、仰るとおり野原の続きであったので、戦場はここのあたりであるだろうと思われた。人をくりだして、陣場割をしたところ、郡山・窪田のあいだへ向かっていた敵の軍勢が引き返してきて、山王山よりじょじょに押してきて、備えを立てた。一戦を持ちかけたが、こちらは人数が少ないので、合戦の方が大事であるとみな言っていたので、私の備えからは誰も出ず、合戦とはならず、敵は引き上げた。
陣場の前に用水堀があったのをちょうど使い、その日は陣屋も立てず、二重に5尺あまりに芝築地を作った。明日働きがあるかと待っていたのだが、17日にも戦闘は無かったので、また二重の築地を8尺ほどに作り、陣場の周りを堀を二重にして、日が暮れた。18日も普請をしていたところに、働きがあったので、仕度をして出発した。二重の築地の植えに、備えを立て、水田の前には田村孫七郎宗顕、田村月斎顕頼、片倉小十郎景綱の陣場となった。味方も私の陣場に立ち、田村衆や小十郎も陣場の後ろへ総備えを展開した。
敵は一戦を持ちかけてきた。
会津のもので尾能因幡と言う者が、手勢を2,300引き連れ、山のふもとの用水堀を埋めさせ、道を作ろうとしたので、私の家中で鉄炮に優れたもの8人を呼び、打つようにと命令した。もし敵が来たなら、構わずに退くように言いつけたので、2,3度打ったところ、因幡の腕に当たり、引き上げた。
その後は普請も為ず、すべての鉄炮を使い、つるべ打ちにして引き上げた。
保土原江南行藤・浜尾善斎という、そのころ会津へ奉公していたので、先陣を任されていた者であったが、須賀川が落城した頃から、政宗公へ仕えるようになった者が語っていたのは「17日にも働きがあるように思っていたけれども、3日の働きに、兵達もくたびれたので、1日お休みになって、18日に不可避の合戦となるであろう」と思われ、合戦常と思われた地に築地を築き、堀を掘って、城のようにそなえたので、先ず路地をつくろうと尾能因幡に命令した。須賀川衆に先陣を任せるよう仰ったので、須田美濃・矢田野伊豆・浜尾善斎のいずれもがいったところによると、敵の陣場普請もなかったので、先陣を仰せったのだろうか。二重三重の普請と見えたので、どう仕掛けることができなかった」と言っていた。重ねて、義重は「たとえ普請していても、敵は小勢であるので、合戦になれば勝利を得られないことはない。是非先陣をしよう」と仰られた。須賀川衆が重ねて「たとえ須賀川の衆が討ち死にしても、合戦に勝利をえられるようにご命令いただくのであれば、先陣を我々に」と申し上げた。義重公は「会津衆に」と仰せになった。須賀川衆は「岩城衆を」と言った。「そうでないのならば、先陣は請けない」と言った。義重は「岩城衆はこの度始めと終わりだけを以て加勢に付けられたものたちなので、先陣を申し付けるのは難しい」と仰ったので、「どのように思われても、困ります」と言った。
成実の陣場は堀のように普請を行い、南は窪田の方は水びたしになっていたので、合戦になったならば、苦労するだろう。その上合戦が始まったならば、窪田・郡山より、援軍が出てくるだろう。押さえは差し置かれるだろうが、両所から軍が出てきて合戦となるならば、先陣の戦は大変苦しいものになるだろうと思われたので、延期になり、近々取り決めるよう仰ったので、もっともであると思われ、義重へその通り申し上げられたので、合戦はやんだ。
すべての鉄炮を集め、連射させて、引き上げたことを語った。
19日20日は何事も無く、郡山までも自由に通ることができた。21日は敵足軽に奉行のみ付けて、郡山と窪田の間に小さな堀をほって、鉄炮隊を置いた。
郡山の構えは鉄炮を打ちかけたので通ることが難しくなった。23日敵は総軍を郡山・窪田の間へ打ち下し、砦となる城の普請を行った。
政宗公も窪田へお越しになったが、手勢が少ないため、防御され、伊達上野政景の足軽を少しだし、小さな合戦になった。大和田佐渡は旗本衆であったのだが、やってきて合戦に出くわし、槍傷・太刀傷を請け、功名を立てた。法度に背いたので、罰があたえられるかと思っていたところ、比べる者がない功を上げたので、政宗公はお許しになって、その日取ってきた首を御覧になった。
敵は砦へ手勢を置いたので、通ることが不自由になってしまった。
また26日に敵の総軍が出発した。27日に砦が完成した。東の方にまた砦の普請をし、常の番に片平助右衛門を差し置かれた。そのうえ会津四人の家老衆は日替わりの番になった。
私が「陣をとるとき、合戦は無用といずれも申し上げていたけれども、郡山への通路へ砦の城を二つ築けば、すでに通ることはできないので、戦になっていただろう。たとえ少しおくれても、対陣をするべきである」と申し上げると、休雪斎と肥前は「若いのでそのようなことをいうのだ。この人数でどうやって合戦ができるか。返す返す合戦とならないように」といったので、仕方なかった。しかし戦を仕掛けたかったのだが、しかたなく日は過ぎた。

感想

最後の所、一族の長老たちに若さを理由に諫められ、それを不満に思っていたことが書かれ、『政宗記』の方でも「21歳の6月、若輩心の愚案にて対陣の効なるに、是非防戦をと睨べけれども其時節なくして未待暮候」とあり、不満であったことが書かれています。