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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』58:田村の仕置

『伊達日記』58:田村の仕置

原文

一御北様も舟引へ相移され。孫七郎殿も三春の城へ御うつり候條。米沢御帰城成らるるべき由思召され候処に。月斎。刑部少。小十郎へ申され候は。今度義胤三春を御取有べき由思召られ候ば。牢人衆へ申合され候故普代衆も多分申合され候。此前会津にても牢人払を成られ候而御洞しまり申候。田村の牢人は大杉相馬普代衆に候間。牢人払を仰付られ候はば。弥田村は安泰に之有るべき由申され候に付而原田休雪。片倉小十郎御使として月斎。梅雪。右衛門大輔。刑部少へ其通仰届られ候。此牢人衆は梅雪。右衛門大夫へ申合相馬へ御奉公申すべき由申。組々を政宗公努々御存知なく仰届られ候故梅雪。右衛門大夫跡より申され。組々牢人譜代ともに三十八人同心候而小野の地へ引除かれ候。其外御譜代衆に申合候衆数多候へども相除かれず候。政宗公もケ様の儀は存候者連々御仕置ならるるべき物をと思召され候へども是非なく候。月斎。刑部少分別に牢人衆を御払候はば梅雪。右衛門も引除申すべく候。左候はば田村衆心易孫七郎殿を取立両人仕立申すべきと存。小十郎へ申され候と存候。其に就いて御帰城も成られず。政宗公御仕置き成さしめ三春へ御馬を移され。三十日あまり御在馬成られ候。然る所に大越紀伊守。右衛門大輔。梅雪父子。相馬は相捨。岩城へ申寄せられ候。常隆公御入魂之儀に候間。若松紀伊守と申衆三春へ遣はされ。今度梅雪。右衛門大輔。田村へ引除候。我等迄口惜思召候。去り乍ら両人は清顕親類のものに候間。万事を御免候はば本々の如く御奉公仕候様に申すべき候由御理に候。則時に御耳に立たれ申さず候由にて伊達元安宿へ家老衆打寄。常隆公よりの御ことはりを承り。各挨拶には。政宗ためを思召され常隆公よりの御意忝何れも存候。去り乍ら今度牢人衆相馬へ申合儀歴然に候。内々切腹申し付けらるるべき儀に候へども。数年田村の弓矢に清顕公へ奉公を仕候者どもに候間。命を助相払われ候処。牢人衆いんぎう申。梅雪。右衛門大輔。小野へ引除申され候事。政宗公深口おしく存られ候間。申聞せ候事唯今は機づかひに候條。永御訴訟仕るべき由挨拶申され候。紀伊守は相返申され候。政宗公田村の御仕置仰付られ。門沢くりて両地は小野大越のさかひに候間。田村の衆少々警固相籠然るべき由仰付られ。十月始に米沢へ御帰城成られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、北の方も船引へ移られ、孫七郎宗顕も三春の城へお移りになられたので、米沢へ帰ろうと思われて居たところに、月斎・刑部少輔が小十郎へいってきたのは、「今回義胤が三春を取ろうと思われ田野ならば、牢人衆へ言い合わせため、譜代衆も大部分が申し合わしている。このまえ会津で牢人払いを行われたので、一門の団結はよくなった。田村の牢人は大抵が相馬の譜代衆なので、牢人払いをご命令していただいたら、一層田村は安泰であろう」ということをいったので、原田休雪斎と片倉小十郎を使いとして、月斎・梅雪・右衛門大輔・刑部少輔へその通りご命令が伝えられた。
この牢人衆は梅雪・右衛門大夫へ言い合わせて田村へ奉公する方がいいということを言い、そのことを政宗公は一切御存知ないということを仰られたので、梅雪・右衛門大夫がのちに言った。組々牢人たちは譜代と共に38人心を合わせて、小野の地に退いた。そのほかの譜代衆に言い合わせたものは多くいたが、退きはしなかった。政宗もこのようなことは思わず、長く仕置きをするべきだと思っていたのだが、仕方がなかった。月斎と刑部少輔は特に牢人たちを立ち退かせれば、梅雪・右衛門も退く出あろうと思っていた。そうなったならば、田村衆は安心して孫七郎を取り立て、両人が支えていくのがよいと思っていたと小十郎へ言ったと聞いた。
このため、政宗の帰城もできず、政宗は仕置きを終わらせて、三春へ移動し、30日あまり滞在なさった。
そのとき、大越紀伊守・右衛門大輔・梅雪親子は相馬を捨てて、岩城へ言い寄った。常隆公は入魂であったので、若松紀伊守という者を三春へお遣わしになり、「この度梅雪・右衛門大夫は田村へ退いた。私まで口惜しいと思う。しかしながら2人は清顕の親類のものたちであるので、すべてのことを許したならば、もとのように奉公するのであれば、許すだろう」と仰った。
すぐにお耳に入らないようにと、伊達元安斎の屋敷に家老衆は立ち寄り、常隆公よりのご意見を承り、それぞれ言うところによると「政宗のためを思った常隆公のお考えはかたじけなく何れも思っている。しかしながら、今回牢人衆が相馬へ言い合わせたことは歴然であり、内々に切腹申し付けられるほどのことではあるが、数年田村の軍に、清顕公へ奉公をしていた者たちであるので、命を助け、追放にしたところ、牢人達はもめた。梅雪・右衛門大輔が小野へ退いたことは、政宗は深く口惜しく思われたので、言い聞かせたことが今は心配なさっている。長く訴えをすること」を伝えた。紀伊守はお返しなさった。政宗公は田村の仕置きをお命じなされ、門沢と栗手の二つの土地は、小野と大越の境にあるので、田村の者たちを少し警固に当たらせるべきであると御命じになり、10月始めに米沢へお帰りに成られた。

感想

引き続き田村の仕置きについての記事が続いております。