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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』31:小山田筑前の死

『伊達日記』31:小山田筑前の死

原文

一氏家弾正は伊達の人数遣はさるるべき由御意候へ共、今に村押の旗先も見られず。通路不自由何方の注進も之無く、今は今はと相待。正月も立候間朝暮機遣に存られ候。然処に二月二日松山の軍勢打出川を越。先手の衆段々に室山の前を打通。新沼にかかり中新田へ相働候。下新田と申城は義隆公にて城主葛岡監物其外加勢の侍大将には里見紀伊守、谷地森主膳、弟八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部少、黒沢治部少、此もの共こもり候て、伊達の人数中新田へ押返候はば一人も通まじき由広言申候へども、流石多勢にて打通候間、出るべき様も之無く候間、押すも置かれず打通候。跡の室山の城へは侍大将古川弾正、石川越前守、葛岡太郎右衛門、百々左京籠置候。川南には郡々城主黒川月舟籠。城主飯川大隅と云者也。両城道を押はさみ候故、伊達上野、浜田伊豆、舘助三郎、宮内周防四百騎余にて室山の南の広畑の候に相控えられ、先手の人数中新田の近所へ押懸候処に、内より南條下総守町枢輪より四五町出候処を、先手の人数一戦を仕り、内へ追込付入に仕。二三の枢輪町構まで放火仕候へども、下総本丸へ引こもり堅固に持候。敵の城ども余多打通り候條、跡を気づかいに存候而小山田筑前下知仕。惣手を引上段々にそなへを相立候。氏家は俄之働にて中新田までとは存ぜず。取物も取り敢へず罷出候へども、伊達の人数へも押加へず、引上候。伊達勢短日其日深雪にて道一筋を急引上事成らず候て、七つさがりに成候。下新田衆打出候へども、伊達勢物とも存ぜず押入押入通候。上野伊豆の人数へ打添べき之由存候処に、跡々人数疾引上候間、室山より罷出二重の用水堀々橋を引候ゆへ通候事もならず、新沼へ引返し候跡にて下新田衆と合戦候処に、切所の橋を引くの由承。諸軍勢足戸あしく候へども、小山田筑前返合戦候故大崩は仕らず候。筑前敵を追い散歩者一人脇へ逃候を物付仕るべきと存候而其者を追懸、十四五間脇へ乗候処に、深田の上雪積平地の如く見え候間、馬をふけへのり入馬さかさまに成候故、筑前二三間打ぬかれ馬はなれ候。手綱を引あげんと仕候処へ、敵かへし筑前をうたんと仕候て綱を放切合候。多勢の事に候間、前後へ廻り片足切をとされ、犬居にどうと倒れ候へども、太刀を捨てず切合候。老武者軍は久しく息をきり、打出す太刀もよはく成候間、四竈が若党はしりより首をとらんと仕候を、太刀を捨引寄脇指をぬき、ただ中を付留めにして両人同枕に臥候を、あとより参候もの首を取候。敵川より南に相ひかへ候へども軍破れず。前は川をば越えず候処に味方負色に成候を見合、川を越下新田衆へ加候故、日は暮かかり小山田筑前討死ゆへ、味方敗軍仕余多うたれ候切所也。橋を引かれ新沼へ引かへし軍勢籠城致候。

語句・地名など

ふけ:深田。ふけ田
七つさがり:申の刻(午後4時ごろ)

現代語訳

一、氏家弾正は伊達の軍勢を送っていただくよう同意をしていたというのに、まだ村を押しての旗色も見えず、通路は不自由になるがどこからの連絡もなく、今か今かと待っていた。正月も過ぎたので、朝から暮れまで一日中心配をしていた。そうしているうちに2月2日、松山の伊達の軍勢が出発し、川を越え、先陣はじょじょに師山の前を通り、新沼に着いて、中新田へ戦闘をしかけた。下新田という城は、義隆の城であり、葛岡(葛西)監物が城主をしており、その他加勢してきた侍大将は、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・米泉権右衛門・宮崎民部少・黒沢治部少、これらの者たちが籠城しており、伊達の勢が中新田へ無理に通ろうとしてきたら、一人も通さないということを広言していたが、さすがに伊達勢が大勢であったので、出陣することもできないでいたので押すことも出来ず、伊達勢は通ることができた。
後の室山(師山)の城には、侍大将として古川弾正・石川越前守・葛岡(葛西)太郎右衛門、百々左京(右京亮)が籠城しており、川より南には郡々城主の黒川月舟斎が籠もっていた。城主は飯川大隅というものであった。2つの城は道を挟んで立っていたので、伊達上野・浜田伊豆・舘(田手)助三郎・宮内周防の四百騎余りを率いて師山の南の畑が広くなっているところに控えていた。先陣は中新田の近くへ出陣していたので、城の中から南條下総守と云う者が、町から4、5町出てきたのを、先陣は一戦をしかけ、内側へ押し込み、そのまま中まで攻め入った。2,3の曲輪の町構えまで放火したけれども、下総は本丸へ引きこもり、固く籠城した。
多くの敵の城を味方が攻めてまわったので、後を心配して、小山田筑前は下知をし、総軍を引き上げ、徐々に備えを差し置いた。
氏家弾正はこの動きを急に聞いたため、中新田までくるとは思わず、取るものも取りあえず出陣したが、伊達の軍勢に加わることができず、引き上げた。
伊達の勢も、その日雪が深く、一筋の道をいそいで引き上げることが出来ず、7つごろ(午後四時頃)になった。
下新田衆も出陣したが、伊達勢は者ともせず、押し入り押し入り通った。伊達上野は浜田伊豆の軍へついていこうと思っており、後ろの方の手勢が急いで引き上げたので、師山より延びている二重の用水堀と橋を落とされていたので、渡ることが出来ず、新沼へ引き返したあと、下新田衆と合戦になった。しかし大事な場所の橋を切られていることを聞き、軍勢は足下が悪かったのだが、小山田筑前は敵を押し返し合戦をしていたので、大崩れにはならなかった。小山田筑前は敵を追いちらし、徒立ちの者が一人脇へ逃げるのを、つかまえようとして、その者を追い掛け、14,5間脇へ乗りかかったところ、深い田であるところに雪がつもり平地のように見えたので、馬を深田に乗り上げてしまい、馬はたおれてしまい、筑前は2,3間打ち抜かれて馬と離れた。手綱をとって引き上げようとしたところ、敵が戻ってきて筑前を討とうとして、手綱を放し切り合いとなった。多勢であったので、前後へ廻られ、片足を切り落とされ、両手を地についてすわりこんでしまったのだが、太刀を捨てず、切り合いをした。しかし老武者であるので、戦は久しぶりで、息はきれ、打ち出す太刀を持つちからも弱くなってしまっていたので、四竈の郎等が走り寄って首を取ろうとしたのを、太刀を捨てて、引き寄せて脇差しを抜き、ど真ん中を付きとどめをさし、二人ともおなじように倒れていたところを、あとから来た者たちが首をとった。
敵は川より南に控えていたけれども、軍を突破することはできず、川をも越えずにいたところ、味方の敗色を見て、川を越え下新田の衆へ加勢した。
日は暮れかかり、小山田筑前は討ち死にしたので、味方は敗軍し、沢山の兵が討たれてしまった難所であった。橋を落とされたため、新沼へ引き返し、籠城することになった。

感想

小山田筑前の奮戦とその死を丁寧に書いています。旧暦2月ということで、深い雪で苦労しているところも。
老武者の死に敬意を払ってか、成実の筆も乗っているように感じられます。こういうところはとても丁寧です。

2018秋亘理角田

お久しぶりのエントリになります。
11/23~24と秋の伊達旅に行って参りました!!!!
政宗、成実と二年間続いた生誕450年関連イベントラストを飾る『亘理伊達家の宝物展』、角田で行われていた『牟宇姫時代展』(どちらも11/25で終了)と、東北歴史博物館での『政宗とその周辺展』が目当て。
とりあえず仕事終わってから22日のうちに仙台まで移動し、宿につき明日に備えてすぐ寝ました。

11月23日

いつも秋に出る市史せんだいの最新号に政宗の手紙がまたたくさん発見され、載っているよということをお聞きしたので、市史せんだい最新号・明治地図・戊辰150年図録だけを買いにまず仙台市博物館へ。

でも申し訳ないけど、見てる暇はないんだ…と、ミュージアムショップに駆け込み、上記のものだけ買って次は国府多賀城駅前の東北歴史博物館へ。

こちらでは綱村展をやっていたのですが、これも残念ながらじっくり見る時間はなかったため、綱村ごめえええんんと思いながら、図録だけ買って、展示室二でやっていた、政宗とその周辺展へ。
政宗がお寺関係(虎哉宗乙や康甫和尚やその後継)に送った手紙が16点、近衛信尋と交わした和歌の記録が1点、忠宗の手紙が2点ありました。


伊達オタであると同時に東北古代史クラスタ(アテルイが好きなんですよ…)でもある私には、買わざるを得ないものがミュージアムショップで売っていました。買いましたww

そして亘理へ。
なんでこんなに急いでたかといいますと、1:00から成実ウォークin亘理というイベントがございまして、事前に申し込んであったんですね。それに間に合うようにと超高速で回っていたわけでございます。

無事時間前に着いたので、展示物をいろいろとみます。
成実のものは、香車の陣羽織、香車の鎧、毛虫前立ての鎧、朝鮮から持ち帰った鞍、香台、肌守護、高台院おねさんから拝領したという水入れ、太刀宇佐美長光などが展示。他の時代のものはひな人形、家紋入りの道具などたくさん北海道から来ていました。
驚いたのが、亘理伊達家に伝わる系図。楷書で普通に書いてあるので読んでみたら、
「出奔したのは文禄四年」「岩城御前と結婚したのは慶長9年/成実37歳のとき」「二人の年の差は2歳」「小僧丸は妾腹」という記述が!!!! えっ!!!!て感じでした。
岩城の記録で「岩城御前が女児を産み、すぐに死亡した」というのがあるので、成実の二人居る子どものうち、女児も岩城御前の子ではないかとは思っていたのですが(ときどきネットなどではこの女児は亘理氏の子ではないかとかいてあるところがあります)、小僧丸が妾腹であることがはっきり書かれているのを見たのははじめてなのでびっくりしました。
出奔も、一般的に「文禄四年」か「慶長三年」に意見がわかれていて、はっきりとはわからないというのが、公式だと思っていましたが、家に伝わる書物にここまではっきりかいてあるとは思いませんでした。
学芸員さんにきいたところ、成実の業績についてはもっと長めに書いてあるとのことで、どうか翻刻して出版するか、もう一度どっかで展示をして欲しい…と思いました。
前期は実元の部分を展示されてたそうですが、個人的には実元〜宗実・宗成あたりまでのをじっくり読みたいです!

あと書状で展示されていたのは、人取橋の感状写し・天正年間のいくさの話の書状・亘理拝領の書状・宗実家臣への手紙・喝食丸の猟についての手紙・宗実が亘理へ初めて来たときの手紙…などが展示されていました。他の時代では太政官からの有珠を拝領する書状などがありました。
書状では喝食丸あてのものがかわいかったです。
喝食丸が送った鹿の股について、猟のときのことを詳しく教えておくれといった感じの文章でした。

そして成実ウォークの始まりです!

伊達武将隊の成実さん、重綱さんが来ておられて、ご挨拶をなさってました。しげしげ烏帽子親子コンビ!
お誕生日おめでとうござります!と全員で言ったのがおもしろかったです(笑)。


というわけで学芸員さんのご案内で、まずは赤城神社へ。現在はお堂しか残っていないのですが、かつては城の北東にあたるこの位置に神社があったとか。城の鬼門・裏鬼門に神社を配するのが通常だったそうで、亘理ではこの赤城神社がその役目を担ったのではないかというお話。

街道・町の古道などを教えてもらいながらてくてくとかつて亘理要害であった亘理神社方面へ。

亘理神社へ上ると、なんかやってる二人組がいましたww 素振りやってるww


亘理神社へ参拝。成実が武早智雄命として祀られています。

成実と邦成の功績が書かれた石碑。この石碑は宮城県沖地震(1978年?)で真っ二つに割れてしまったそうで、それを金具でつなげているのだそうです。東日本大震災のときはまさしくこの日と同じように歴史ウォークをなさっていたらしいのですが、まったく被害が無かったそうです。

城の後ろ部分には戊辰戦争の碑があります。あまり知られていないことですが、戊辰戦争での仙台藩の降伏式は亘理要害で行われました。

亘理要害は城の機能はあったものの、城ではなく、一般的には「御館」と呼ばれていたそうです。戊辰戦争すぐに破却されてしまったため、どのような作りだったかは全くわからないそうで、唯一当時の姿が残っているのが、この内堀なのだそうです(もちろん崩れないように補強はしてあります)。

そしててくてくと歩いて大雄寺へ!

普段は1月と8月の16日にしか開かない御霊屋なのですが、武将隊重綱さんのかけ声に応じて、開けてもらえることに!! 今年綺麗に修理された木像が見られました!! 学芸員さんによると「ムカデに見られることもあるが、実際近くで見ると気持ち悪いくらいに毛虫の形をしていて、そこに毛が生えている。この毛が抜けてしまっているところを参考に独眼竜政宗などで鎧を作られてしまい、ムカデの誤解が広まってしまった」とのことです。
この前立て部分は比較的新しく、かつてはこういうのではなかったとのことで、今度直すときは熊毛の毛虫にするつもりがあるというようなことを仰っていました。

御霊屋裏の、切り株二つ。
おそらく岩城御前とその子の墓であろうと思われるところだそうです。この子は今までずっと小僧丸のだと思っていたけど、女児のものである可能性が高くなった…のかな?

そして裏の土塁から海と亘理の町を眺める武将隊成実さん。
もう何も起こりませんように。復興がさらに進みますようにと祈りながら、おがませていただきました。





亘理の町を成実が今も守ってくれていると思いたいですねえ。


朝鮮から成実が持って帰ってきたものというと、少年(その後家臣となる杉山摩海)、鞍と、竹(孟宗竹?)があるのだそうですが、その竹は家臣の庭に植えられたそう(亘理世臣家譜略記で確かめてみたところ、清野壱岐の家の庭でした)で、それはどこかと郷土史家の方が探したところ、これではないかと思われるのだそうです。

こんな感じで町の中には古い街道や古道の名前が石碑に刻まれています。

今回実を言うと、何が目的かというと、亘理の海から満月の昇るのと朝日が昇るのを見てみたいということがありました。私は実は海のない県の生まれでございまして、海から月日が昇るのを見たことがないのです。なので、成実ウォークと満月に合わせ、来たのでした。
ところが資料館に戻っていろいろと質問させていただいていたら時間ぎりっぎりに!
しかも薄曇りになりかけていたので、これは見られないかな〜と思っていたら!



見事な満月が!!!! 本当はもっとすごいんです!
私の腕&機材ではまったく反映されていないのですが、オレンジ色というかピンク色というかに染まった、大きくて美しい満月が見られました!!
ホント綺麗だったのです!
あまりに美しくて、なのに撮れないので、写真を撮るのは諦めて、昇りきるまでホテルのベランダで見ていました。
この日はわたり温泉鳥の海で宿泊。オーシャンビューツインなのにひとりかよwwwwってひとりで笑っていたのですが、御飯も温泉も良かったです。温泉はナトリウム泉。ちょっと色がついてぬるっとしていて、肌に良さそうでした。

11月24日





今度は朝日!6時半頃でした。また長時間外にでて寒いので、も一度フロに。

もう一度資料館で展示を見つつ、いつもご一緒してくださるTさんを待ち、合流。

このときに気づいたのですが、宇佐美長光の拵え、黒漆塗りですごく簡素(それが伊達家っぽいともいう)なのですが、笄と小柄に龍の飾りが付いていました。他がシンプルな分、眼を引きました。

わたりふれあい市場で、いちごを!

ずんだもちを!

武将隊重綱さん推薦のはらこ飯プリンを!いただきました。
はらこ飯プリンはシャケ部分がババロア、いくら部分がタピオカでできていました。結構美味しかった。でもババロア部分がめちゃめちゃアンキモに見えましたww

荒浜のあら浜さんで、はらこ飯を!!ついに!!食べました!!何年越しだろう…。
開店時間でもう30組ほどの時間待ちが…見ている間にもどんどん増えていく…。
御飯部分の味が濃くて美味しかったです。あと鱒の刺し身もウマウマ!でした!

Tさんは漁師丼を。これもとっても美味しそうっていうか贅沢すぎる海の幸の塊。

ここから車で亘理から角田まで峠越えをしました。
というのも、寛永13年の政宗が江戸で危篤になったときに、成実が江戸に向かったという記述があり、そのときどのルートを通ったのか…というのが、私の疑問だったのです。
角田の人たちに見つかっている(その後角田の石川民部も江戸に向かうが、途中で訃報を聞く)ので、多分亘理から角田を通って白石行きか、丸森などを経て福島行きなのではないか…?と思ったので、聞いてみました。
亘理要害のすぐ側から延びている道から割山峠を越えてもらいました。
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通ってもらったのはこのルート。
でも思ったより低い峠で、これならおじいちゃん&急いでいる状態でも通れるかな?という感じでした。
下のルートは浜街道を南下し、坂元から峠へ向かい、金津宿を通って角田へ行くルート。幕府の巡見使はこの道を逆に通って白石から相馬へ抜けたそうです。


そして角田の郷土史資料館で行われている牟宇姫展へ!
受付はしなきゃいけませんが、無料ですよ無料!!


いろは姫の衣装。

牟宇姫の衣装。

筆がおいてあるのがいいですね。

牟宇姫と親交のあった帥局の衣装。

そして政宗の衣装。

建物もとても趣があり。

角田の牟宇姫推しはとてもいいなあと。

そして書状は外の蔵に展示されていました。政宗からの手紙を初め、いろは姫・秀宗・宗信・宗高・石川宗敬などからの書状。
翻刻・現代語訳付きのレジュメも完備されていてとてもよかったです!
なのに無料!最高です!
政宗からの手紙では、成人して牟宇姫と飲めるようになったことを喜んでいる様子、牟宇姫母のお山の方が酔っ払ったのでおもしろかったねとか書いてあって、とてもおもしろい…!! 他にもたくさん書状が在るらしく、それ全部翻刻・現代語訳して本にしてくれませんかね…牟宇姫文書とかって…。
牟宇姫はきっと手紙をたくさんかいて、返事を大事にとっておく、賢い人だったのでしょうね。



角田要害は現在角田高校となっており、関係者以外は入れない様子。

入り口付近の看板だけ撮らせていただきました。


それから、石川家廟所のある長泉寺へ。
とにかく広かったです。石川家の墓も人によっていろいろなところに分かれていて、それを探すのもひと苦労…。興味本位で近づくのもどうかと思いましたので、途中で切り上げました。

成実正室亘理氏の墓も大正時代までは長泉寺にあったらしい写真があるらしいのですが、その後どうなったかわからないということでした。角田の資料館でもそうらしいということは聞いているが、詳しいことはわからないということで。行く前には、それらしいものを探せるかなと思ったのですが、無理です。広すぎて大きすぎた…。
ただ、古そうな墓はたくさんありました。丹念に探せば見つかるのかなあ…。


不思議な音がする馨石がありました。

看板。

そして角田から阿武隈急行に乗って福島へ。道中夕焼けと紅葉が綺麗でした〜。
しかしこの道はかなりきついので、やっぱり角田から白石相馬道を通って白石から奥羽街道行く方が安全だろうなあという感じ。

というわけでかけぬけて参りました生誕450年の2018年の行脚もこれで終わりです。
本当は武者まつりとか花火とかもありましたが、残念ながら遠方ゆえ参加出来ませんでしたが、北海道での摺上上演、南相馬での展示、亘理での展示を見ることができて、とても楽しい一年でした。
去年・今年は生誕450年イヤーであちこち大変でしたが、来年は大人しくできるかな…?という感じですが、そろそろ福島にもまた行きたいです。
大森と二本松と杉目(福島)あたり…。
各展覧会・催し物の主催者の皆様、誠にありがとうございました!!
来年もまた行くぜえええ!(どこかはまだわからない)

『伊達日記』30:黒川月舟斎について

30:黒川月舟斎について

原文

一 黒川月舟逆意の底意は、月舟伯父式部大夫を、輝宗公御代に御奉公に上げられ候飯坂の城主右近大夫息女に誓約仕、名代を相渡すべき由申合され候へども、息女十計の時分三十計の人に候間、今に祝言之無く候。右近大夫存分には年もことの外ちがひ候。式部太夫年入候間、その身の隠居もはやく之在るべく候。政宗公御目かけにも上げ候はば、彼腹に御子も候はば名代に相立、家中のため能之在るべき由思案申され候。遠返申され候に付、式部大夫迷惑に存。月舟所へ参られずを後へ引切申され候。此恨又月舟は大崎義隆御為に継父に候。義隆御舎弟義安を月舟の名代続にと申され伊達元安の聟に申され候て、月舟手前に置申され候間義隆滅亡候へば、已来は其身の身上を大事に存られ、逆心をくはだてられ候由相見え申候。

語句・地名など

義安→義康

現代語訳

一、黒川月舟斎晴氏の裏切りの真意は、輝宗公の時代に、月舟斎の伯父式部大夫を奉公にさしあげていた。飯坂の城主右近大夫の息女と約束し、跡継ぎにするよう約束していたのだが、娘はまだ10ほどだったのに、式部は30ほどであったので、まだ祝言を行っていなかった。飯坂右近は年があまりにも違うと思っていた。式部大夫は年をとっているし、右近大夫は隠居も近いだろうとなった。政宗公の側妾にさしあげたならば、その腹に子どもができたなら、跡継ぎにすれば家のためによいだろうと思いました。
約束を破られ、式部大夫は大変なことだと思い、月舟斎のところにも戻らず、縁を切った。この恨みの上、月舟斎は大崎義隆の継父であり、義隆の弟義康を養子とし、伊達元安斎の聟にして、月舟斎の手元に置かれていたので、もし義隆が滅亡したならば、未来の自分の身上を大事に思われ、裏切りを企てたように見えるからである。

感想

黒川月舟斎晴氏については詳しくはこちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E6%99%B4%E6%B0%8F
この系譜の図をみてもわかるように、伊達家の親族および大崎家と深く繋がっていた人です。
小田原参陣せず、領地を没収されましたが、政景の庇護で余生をすごしたそうです。
この話題になっている式部と娶せられるはずだった娘が政宗の側室飯坂氏だと思われますが、たしかに10歳の子を30過ぎの人と婚約させるのはちょっと無理があった…かも…。

『伊達日記』29:評定にて

29:評定にて

原文

一 天正十六年正月十六日大崎へ仰付られ候御人数、伊達上野介、泉田安芸守両大将に仰付られ、粟野助太郎、長井月鑑、高城周防守、大松沢左衛門、宮田因幡、飯田三郎、浜田伊豆、軍奉行小山田筑前、御横目に為しめ、小成田惣右衛門、山岸修理、其外諸軍勢を遠藤出羽守城松山へ遣わされ候。大崎に伊達御奉公は氏家弾正、湯山修理亮、一栗兵部少、一廻伊豆、宮野豊後、三々廻之、富沢日向何も岩出山近辺の衆に候。其外は義隆公に候。松山従りは手越候間、此人数打加べき地形にも之無く候。松山に於いて上野介、伊豆、安芸守、其外いずれも寄合評定には、今度大崎御弓矢黒川月舟御奉公申され候はば、幸四竈尾張も申寄られ候條、岩出山へも間近候。然るべき儀に候へども、月舟逆意仕られ桑折の城へ入伊達勢押通候はば、川北の室山にこもり候衆へいひ合せ防ぐべき由存ざると相見え候間、はたらきの調儀何と候はんと評定に、遠藤出羽守申候は新沼の城主上野甲斐私の妹聟に候間、御当家へ代々御忠節のものに候間、室山に押を差置かれ中新田へ打通られ候はば、別儀あるまじき由申され候。上野申され候は、中新田へ二十里余の通、敵の城を後に両地指置押通候事機遣の由申され候はば、泉田安芸守所存は、上野久敷我等と中悪候。其上今度大崎の弓矢の企我等申上、御人数相向はれ候。月舟は上野介の舅に候。彼是今度の弓矢上野情に入間敷由存ざれ、出羽守申さるる所尤に存候。氏家岩出山に在陣仕伊達勢の旗先をも見申さず候はば力を落、又義隆へ御奉公申さるるも計り難く候間、室山には押を差置かれ打通られ然るべき由申され候間、是非に及ばず中新田への働に相さだまり候。

語句・地名など

現代語訳

一、天正16年1月16日、大崎へ向けて命令された軍勢は、伊達上野介・泉田安芸守を両大将にお命じになり、粟野助太郎・長井月鑑・高城周防守・大松沢左衛門・宮田因幡・飯田三郎・浜田伊豆、小山田筑前をいくさ奉行とし、小成田惣右衛門・山岸修理を目付役にした。そのほか諸軍勢を遠藤出羽守の城松山へおつかわしになった。
大崎で、伊達に内応を決めていたのは氏家弾正・湯山修理亮・一栗兵部少・一廻伊豆・宮野豊後・三々廻之・富沢日向、いずれも岩出山近くの衆である。そのほかは義隆についていた。
松山からは手越えになるので、この人数が通れる地形ではなかった。
松山において、上野・伊豆・安芸その他全員で行った評定で、今回の大崎の戦で、黒川月舟斎がこちらへ内応するというのなら、幸い、四竈・尾張もこちらへ寄ってくるだろうから、岩出山へも近い。しかし、もし月舟斎が裏切り、桑折の城へ入り、伊達勢を押し通すならば、川の北の室山に籠もっている衆へ言い合わせて防ぐのがいいだろうと思っていると見えたので、どのように戦略を調えようかと話し合いになった。遠藤出羽守は「新山の城主上野甲斐は私の妹聟でありますので、伊達家へ代々仕えているものでございます。なので室山に抑えをおかれ、中新田へ通られるのであれば、危険なことはないでしょう」と言った。
伊達上野介政景は「中新田へ20里あまりの間、敵の城を後ろに、両地をさしおいて押し通るのには心配である」と言ったので、泉田安芸は「上野は長く私とは仲が悪い。その上今回の大崎の戦の計画を私が申し上げ、軍勢を向かわせることになった。月舟は上野の舅である。かれは今度の合戦では情を入れるべきではない」と思い、出羽守のの言うことがもっともであると思った。「氏家が岩出山に在陣し、伊達勢の旗を見つけることができなければ、力を落とし、また義隆の方へ寝返るかも予測しにくいので、室山には抑えを置き、通るべきである」と言ったので、仕方なく中新田への働きが決まりました。

『伊達日記』28:弾正の苦悩

28:弾正の苦悩

原文

一 弾正所存に、不慮の儀を以普代の主君を相背、伊達殿へ御奉公仕候。天道も恐敷存候。流石に主君の御子勝三郎を某引立、政宗公へ参傍輩に成り奉る事も天命も口惜しく、仏神三宝にも放奉るべきと感て、中新田の御留守居南條下総所迄正三郎殿を送り奉り候。二人の御方は義隆にも正三郎殿にも離され候て明暮御歎きに候。御自害も流石罷成らず。御なみだのみにて候。

語句・地名など

勝三郎→正三郎

現代語訳

弾正は思いも寄らない出来事で、代々使えた主君を裏切り、伊達へ奉公することになった。天の定めた道にも背く恐ろしい事である。さすがに主君の子正三郎を私が引き連れ、伊達へ送り、同僚になるとなれば、天命にも背き、仏神三宝にも見放されるだろうと思い、新田の城代南條下総のところまで正三郎をお送り申し上げた。二人の北の方は、義隆からも正三郎からも離されて、歎き明け暮れていた。自害することはさすがにできず、泣くこと以外できずにおられた。

感想

氏家弾正は仕方なく伊達へ内応することにしたけれども、正三郎を政宗に引き渡すことはさすがにできないと思い、やめたことが書かれています。ここの弾正の悩みはまことに人間らしいところが出ているなあと思います。

『伊達日記』27:名生城の様子

27:名生城の様子

原文

— 名生の城は義隆新田へ御越以来明所に成候を、義隆の御台と御子正三郎殿御袋に御東と申御方二人をば人質に名生の城に押置、御守には弾正親三河守、伊場惣八郎を指添差置申候。

語句・地名など

現代語訳

一、名生の城は、義隆が新田へ移ったあと、空所に成っていたが、義隆の正室と子正三郎の母で於東という女性がおり、二人を人質として名生の城に置いた。首尾には弾正の親氏家三河守と伊場惣八郎を添えて置きました。