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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』110:岩出山出立

『伊達日記』110:岩出山出立

原文

一高麗入の御支度。萬御道具は京都へ仰上られ候。岩出山御留守居は屋代勘解由兵衛に。御領内中其身任され置度由仰付られ。天正十九年正月九日岩出山御立成られ黒川に御着。七森の鹿御狩成られ年内より名取。国分。宮城。黒川。沢谷。松山のせこ仰付られ候。大崎中は一揆御退治故。地下人有付けず候間。差置かれ候。十一日御鹿狩三百余狩取られ。御供衆岩出山御留守居衆に下され候。彼山は秀衡子退治之砌頼朝公御狩の由申つたへ候。惣山の鹿御立場へ参地形山のまはり見事の所にて候。十二日円森へ御着。二月十三日京都聚楽御屋敷へ御着なされ候。左候へば筑紫西国四国大名衆。一番に小西摂津守。二番加藤主計。其外段々に渡海成られ候。聚楽御留守居は関白様秀次公相付られ候。大名衆は加藤肥前。中村式部少。田中民部少。渡瀬小次郎。山内対馬。池田三左衛門。その外小大名衆あまたつけおかれ候。

語句・地名など

現代語訳

高麗入りの支度で、すべての道具は京都へお頼みになった。岩出山留守居役は屋代勘解由兵衛景頼に任せられ、領内すべて納めるようにご命令になり、天正19年正月9日、岩出山を出発し、黒川にお着きになった。七ツ森で鹿狩りをなされた。昨年のあいだから、国分・宮城・黒川・沢谷・松山の勢子を作るようご命令になっていた。旧大崎領内は一揆を退治してすぐだったので地下人を集めることができなかったので、そのまま差し置かれていた。
11日鹿狩りをして300余りを取られ、御供衆や岩出山留守居衆に与えられた。この山は藤原秀衡の子泰衡を退治の際、頼朝公が狩をなさったと伝わるところであり、鹿が多く、地形や山の景色が素晴らしいところであった。12日は丸森へ、2月13日に京都聚楽第の御屋敷へお着きになった。
すると、筑紫・西国・四国の大名衆、1番は小西摂津守行長、2番は加藤主計頭清正、その他徐々に渡海なされた。聚楽第の留守居役は関白秀次が命じられた。大名衆は加賀肥前守前田利家・中村式部一氏・田中兵部吉政・渡瀬小次郎・山内対馬一豊・池田三左衛門輝政、その他小大名衆がたくさん付け置かれた。

感想

高麗御陣のため、岩出山を出立し、上洛する政宗ですが、上洛する途中、七ツ森にて鹿猟を行ったことが書かれているのが印象的です。源頼朝が狩を行ったという故事にならい行った狩猟は、士気を上げるためのものかもしれません。

『伊達日記』109:高麗御陣への準備

『伊達日記』109:高麗御陣への準備

原文

一岩出山。政宗公御在城に相立られ候。御上洛の時分より来年は高麗陣と申ならはし候。政宗公は遠国と云国替弥一揆の跡を下され候由も。其体にては成らせしめられず馬上三十騎。鉄砲百。弓五十張。鑓百。のぼり三十本仰付られ候。彼是千余の御人数に候。奥模様と上方はちがい候條具足は下さるべく候條。其外の支度ばかり仕るべき由仰出され候に付て。いづれも拝領申候知行所へまかり越々年仕候。

語句・地名など

現代語訳

岩出山が政宗の本城となり、上洛したときから来年は高麗に攻め入るということになっていた。政宗は遠国であり、国替え後でもあり、また一揆のあとの領地を下されたが、軽くすませることはできないだろうと、鎧武者30騎・鉄砲100挺・弓50張・鑓100・幟30本を御命じになった。すべて合わせて1000人余りの軍勢となった。奥羽と上方は違うので、鎧は下賜されることになったので、その他の支度のみするようにご命令になった。そのためみな拝領した場所へ行き、年を越した。

感想

奥羽仕置が終わり、次は高麗攻めが始まります。

『伊達日記』108:奥羽仕置の完了

『伊達日記』108:奥羽仕置の完了

原文

一関白様は最上へ御下向。家康公は岩出山に御逗留なされ候。佐沼岩出山を御再興候而政宗公へ相渡され候。関白様へ相付られ御人数浅野弾正殿も南部迄御下。奥中平均に仰付られ御登候。政宗公も直に岩出山へ御移候。長井。伊達。信夫。田村。塩の松。刈田迄蒲生飛騨殿御拝領候。関白様。家康公御登成られ候。政宗公御国替に付伊達。信夫。田村。塩の松の侍衆妻子下され引移申され候。

語句・地名など

現代語訳

関白秀次は最上へお下りになった。家康は岩出山に滞在なされ、佐沼・岩出山を再興なさり、政宗へお渡しになった。関白秀次に付けられた軍勢と浅野弾正も南部までお下りになった。奥州の平和を御命じになり、お上りになった。政宗も直接岩出山へお移りになり、長井・伊達・信夫・田村・塩松・刈田まで蒲生飛騨氏郷拝領なさった。秀次と家康は上洛された。政宗は国替えになり、伊達・信夫・田村・塩松の侍衆は妻子を移した。

感想

奥羽仕置の終了により、家康が城割を行った岩出山に本拠を移すことになりました。政宗が手に入れた新領地はほぼ蒲生氏郷の領地となりました。一揆を経て、小田原参陣時の約束とはかなり違うものになってしまいました。

『伊達日記』107:一揆終結

『伊達日記』107:一揆終結

原文

一関白様へ二本松にて御目見へ候処に。両使を以大崎。葛西一揆の様子御たづね候。政宗仰られ候は。城々多相抱地下人迄も譜代の者に候間。御退治御六ヶ敷候條。命ばかりは相助られ候様に御訴訟申すべき由申候間。沢谷と申所へ引寄而差置候間。御意次第討果申すべき由仰上られ候。一段仕様然るべく候。早々死罪仕べき由御意に候間。御先へ御使差越され泉田安芸守に黒川之人数を指添られ。一揆の物頭二十人余討殺され。首ともに御のぼせ候。塩漬に成られ京都へ上らせしめられ候。

語句・地名など

現代語訳

関白秀次と二本松にて面会したところ、2人の使いで、大崎・葛西一揆の様子をお尋ねになった。政宗は「城は多く、籠城している者たちは地下人にいたるまで代々仕えてきた者たちなので、退治するのは難しい事です。なので、命ばかりはお助けになるように訴訟するように言ったので、沢谷というところへ集め、さし置かれたなら、ご命令次第で討ち果たすことができます」と仰った。
一区切りするようにと、すぐに死罪にすべきとご命令になったので、まず先へ使いを遣わし、泉田安芸に黒川の軍勢を添えて、一揆を率いていた者たち20人あまりは打ち殺され、首を塩漬けにして京都へ上洛させた。

感想

関白秀次の命により、一揆の頭目たちが捕らえられ処刑されたことが書かれています。

『伊達日記』106:関白秀次の下向

『伊達日記』106:関白秀次の下向

原文

一関白様御下向の由聞召され御迎に御上候砌。大崎。葛西一揆の侍共。命の儀は御赦免成られ候様に申され候間。在所に居事いかがに候。沢谷へ罷出然るべき由仰付られ沢谷へ何も召寄られ二本松迄御迎に御上候。

語句・地名など

沢谷(深谷?)

現代語訳

関白秀次が下向なさるということをお聞きになり、迎えに上がったとき、大崎・葛西一揆の侍たちは命はお許しになるように言ったので、在所にいるのはどうかと思われ、沢谷へ出るようにとご命令になり、沢谷へみな集まり、二本松までお迎えに上がった。

感想

今度は関白秀次が下向して来ました。このときのことがのちのち問題になるのですが…。

『伊達日記』105:佐沼攻め

『伊達日記』105:佐沼攻め

原文

一佐沼近所の者共のあつまり。町構え西舘相抱候一揆の城共。大崎葛西中に多候間御人数損候も如何思召され。惣構を御覧候而仕寄を所々に仰付られ。竹束を付取寄屏際に付候。政宗公御陣所は西枢輪の西の山に候間。沼候而地形悪候。沼と川との間は茂庭石見役所に候。其東は片倉小十郎役所にて候。三日仕寄を仕られ候処。四日の明方西曲輪を持兼引こもり候付而町構も破本丸計に罷成。其日一日責候へども落城仕らず候。其夜の明方落城仕候。城主は夜の内に欠落。葛西の内西郡と申所にて討れ候。家中侍百姓共二三千余打果され候。城中死骸多候而土の色も見えず。死骸の上計あろき候体に候。政宗翌日登米へ相移られ。何方の城とも取らしめらるべく思召候処に。葛西本侍衆政宗御弓矢の強事覚候間何も御侘言申され。其後は御働も之無く候。<<

語句・地名など

現代語訳

佐沼近くの者たち集まり、町構の西館まで抱えた一揆の者たちは、大崎・葛西家中の者たちが多かったので、軍勢を損ねることもどうかと思われ、すべての構えを御覧になり、城攻めをところどころに命じられ、竹把を付け、塀際に付けた。
政宗の陣所は西曲輪の西の山にあったので、沼があり、地形が悪かった。沼と川との間は茂庭石見綱元の担当であり、その東は片倉小十郎景綱の担当であった。3日城攻めを仕掛けられたところ、4日の明け方西曲輪を保ちかねて、籠城したので、町構えも破り、本丸のみになった。その一日は攻め続けたが、落城はしなかった。その夜の明け方落城した。城主は夜の内に逃げだし、葛西のうち西郡というところで討たれた。家中の侍・百姓たち、2,3000余討ち果たされた。城の中は死骸でいっぱいになり、土の色も見えなかった。死骸の上を歩くようなありさまであった。
政宗は翌日登米へお移りになり、次はどこの城を取らせるべきかとお思いになっているところ、葛西の元侍衆は政宗の軍が強きことを知り、みな降参してきて、その後は戦闘もなかった。

感想

佐沼の周辺を政宗が落としていったことが書かれています。佐沼の城の中の描写、あまりに死骸が多くて、地面の色が見えず、死骸の上を歩いた…というのはすさまじい情景ですね。