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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』116:赤国合戦

『伊達日記』116:赤国合戦

原文

一筑紫中国四国の大名衆。唐海道。平安道。えそ海道。をらんかい切したがへ。去年は高麗人手と身と計にて逃候間。飯米を取四月迄在陣申候へども。日本より飯米相続かず候故其通名古屋へ申上られ候処に。引除べき由御諚候。縦は去年赤国のもくそ判官城を責候処に。判官功のものにて石火矢を打半弓を射。砂を煎りかけ湯をわかしかけ。芝に火を付なげ懸候故けぶりにむせ。寄手衆死人多引除し所に。内より出合日本衆多うたれ候。此旨秀吉公きこしめされ。都より引除候人数。浮田中納言殿。加藤主計。黒田筑前。戸田民部少。蜂須賀阿波守。安芸の毛利殿。小早川。吉川。浅野弾正。政宗。岐阜の少将殿衆を以赤国判官が城を取申すべく候。人の損申さぬ様に長陣仕討たいらげ申すべき由仰付られ候間。七月廿日比赤国へ何も御越候。彼城南は大川にて岸高。三方は七間程の石垣に候。吉川は河の南向に陣取候。竹束を付仕寄成られ候。城内より日暮候へばたい松を三間計に一づつともし候。加藤主計亀の甲を作人をのせ石垣の根へ押寄。其内より鶴のはしを以て石垣をこぢ候へども大石にて成らぬ処に。城内より焼草をかけ彼亀の甲をやきやぶり候。かさねて牛の皮をはぎ毛を下へなし亀之甲に張付又押寄候処に。右の如く焼草をかけ候。内に居候者ども。有兼出候而一二人つるのはしにて石をこね返し候故石垣くづれ。両人石に打殺され、一人生候。寄手これを見取付責候間破候て。城中のもの働くべきやうなく大川へとび入候所を。吉川人数の分出候間。ありくべき様もなく川下に瀬渡候所へ寄手衆立切候故。水にをぼれ死候者もあり。多分瀬へながれかかり候を切殺候。高麗人は刀脇指を持たず候間働くべき様も之無く三千余うたれ。七月廿九日落城仕候。本丸に土を深掘下へわらを。其上え柴を敷氷を一重置。又わら柴を敷幾重ともなく氷を置候処御座候。蔵の内事の外寒申。熱時分にて何れも給申候。

語句・地名など

現代語訳

筑紫・中国・四国の大名達は、黄海道・平安道・えそ海道・をらんかいまで切り従え、去年は高麗人は手と身だけになって逃げ出していたので、その飯米を取り、4月まで在陣していたのだが、日本からの飯米が続かなかったため、そのことを名護屋へ申し上げられたところ、退くようにとご命令になった。たとえば昨年赤国のもくそ判官丞をお攻めになったとき、判官は功の者であったので、石火矢を打ち、半弓を射た。砂を煎り、湯を沸かしたものをかけ、芝に火をつけ投げかけたので、煙にむせ、寄せ手衆は多くの死人をだしたところに、内から出てきて、日本衆は多く討たれた。このことを秀吉はお聞きになり、都から退いた軍勢は、宇喜多中納言秀家・加藤主計頭清正・黒田筑前長政・戸田民部少輔為重・蜂須賀阿波守家政・安芸の毛利秀元・小早川・吉川・浅野長政・政宗・岐阜少将織田秀信の衆で、赤国判官の城を取るようにご命令になった。被害を少なくするように、長く陣を敷き、すべて討つようにとご命令であったので、7月20日頃いずれの大将も赤国へ到着した。この城の南は大きな川で、岸が高く、三方面は七間ほどの石垣であった。吉川は川の南向きに陣取った。竹把を付け、近寄った。日が暮れたので、城の中から松明を三間ほどにひとつずつ灯した。
加藤主計清正は鼈甲船を作り、人を乗せ、石垣の根元へ押し寄せた。中から鶴の嘴を入れ、石垣をこじ開けようとしたが、大石だったので出来なかったところ、城の中から焼き草をかけられ、この鼈甲船を焼き破られた。
重ねて牛の皮をはぎ、毛を下にして鼈甲船に張り付け、押し寄せたところ、また焼き草をかけ、中にいた者たちが居ることが出来ず1,2人鶴のくちばし石をこね返したので、石垣が崩れ、2人石に打たれて死に、1人生き残った。
寄せ手はこれを見て攻めたので、城は敗れ、城中の者たちはどうすることもできず大川へ飛びこんだところを、吉川勢が出て、歩くこともできず川の下に瀬渡しになっているところへ寄せ手衆が立って切ったので、水に溺れ死ぬ者もあった。たくさん瀬へ流れかかったのを斬り殺した。高麗人は刀や脇指を持っていなかったので、することもなく3000余打たれた。7月29日落城した。本丸に土を深く掘り、下へ藁を、その上に柴をしき、氷を一重おき、またわら・しばを敷、何重にもかさねて氷を置いたところがあった。蔵の中は思ったより寒く、暑い頃であったので、皆食べた。

感想

軍勢による赤国合戦の様子がかかれています。戦の様子も日本の戦い方と違うのが興味深いですが、戦が終わった後氷室を見つけ、その仕組みに驚いているのがおもしろいです。『政宗記』ではここに「是は珍らしき儘の物語」という言葉があり、書いている本人もめずらしい、信じられないかもと思っていたのだなと思います。

『伊達日記』115:高麗人の出現

『伊達日記』115:高麗人の出現

原文

一陣道具取に夫兵四五十人まいり候処に。高山より高麗人跡の続かずを見切追散五六人討候。その後も薪とり候ものを追散候間。政宗人を差越され地形御見せ候処に。人の一二百程居候而山よりも見えず。深沢へ其夜中に人数二百程差遣はされ隠置。夫兵計道具取の様に差越され候処。又高麗人共其者共を追下候を沢の者共出合押切。御陣屋よりも助合候故八十三人討取候。右頸共を弾正殿へ御越候はば。今に始まらぬ御手がら感入候。名古屋へ申上候由御理候。

語句・地名など

現代語訳

陣道具をとりに、武兵4,50人きたところ、高い山から高麗人の跡が続いているのを見て、追い散らし5,6人討ち取った。その後も薪とりに来た者を追い散らしたので、政宗は人を遣はし地形を御覧になったところ、1,200人ほどいるというのに、山からも見えなかった。深い沢にその夜中に手勢200程遣わし、お隠しになった。武兵のみ道具取りに来たかのように送ったところ、また高麗人たちはその者たちを追い下したため沢に隠れていた者たちが出てきて押しきった。陣屋からも援軍をだしたので、83人討ち取った。この首を浅野弾正へ送ったところ、今に始まらぬ大手柄であると感心し、名護屋へ申し上げるべきと仰ったのも当然である。

感想

高麗での戦闘の様子です。

『伊達日記』114:渡海

『伊達日記』114:渡海

原文

一翌年の正月浅野弾正殿御子左京大夫へ渡海仰付られ候。政宗も渡海仰付られ候。三月十五日舟にめし候へども日和これなく。二十二日迄名古屋の間に舟がかり。政宗公は陸に御宿なされ。御下衆は舟の内にて日をおくり申候。廿二日追手舟政宗御舟は壱岐の風本と申所迄御着舟に候。二月原田左馬助。富塚近江渡海申され候。浅野弾正殿御父子の船。伊達上野。石川大和。片倉小十郎。白石若狭舟風本迄参。中途に舟相懸り。翌日日和よく弾正殿御舟をはじめ何れも対馬助府中迄御出候。政宗公は弾正殿御舟通候由聞召され。御舟を出され候へども風悪く又風本へ御もどり。四五日御逗留候而漸対馬御着候へども日和然なく十四五日御逗留候。中途にかかり候船共。弾正殿始申ふさんかいへ先に御着候。伊達衆も政宗御供申されず候衆はいづれも御先へ参られ候。疾に高麗へ御渡り候由存急候へば跡に御座なされ候。迷惑の由申され候。四五日弾正殿御やすみ候而うるさんへ御働候。彼地は日本衆候而相すて高麗の都へとをり候故。又かうらい人相抱候へども。持つべきやうこれなく。人数さきを見申候て引捨。山々へ引こもり候。

語句・地名など

現代語訳

翌文禄二年の正月浅野弾正の子、左京大夫へ渡海命令が下った。政宗も渡海命令を下された。3月15日船にのったが、天候が良くなく、22日まで名護屋の間に船を停留し、政宗は陸地で宿をとり、家来衆は船の中で日々を送った。22日順風であったので、政宗の船は壱岐の風本というところまでお着きになった。原田左馬助・富塚近江は2月の間に渡海していたが、浅野弾正・左京大夫親子の船、伊達上野・石川大和・片倉景綱・白石宗実の船も風本まで来たが、途中で船はとまり、翌日順風であったので、弾正の船をはじめ、みな対馬の府中まで出ることが出来た。
政宗は弾正の船が到着したことを聞いて船をだされたが、風が悪く、また風本へお戻りになり、4,5日後登流になったあと、ようやく対馬まで御到着になったが、風がよくなく、14,5日逗留なさった。中途にかかった船たちは弾正をはじめぷさんかいへ先にお着きになった。伊達衆も政宗に御供しているのではない者たちはみな先へ到着した。急いで高麗へ渡ろうとお急ぎになったのだが、遅れてしまい、大変お困りになった。
4,5日弾正はお休みになったあとうるさんへ戦闘を仕掛けた。この土地は日本の先陣衆が通り、捨てて高麗の都へと通ったところであったので、また高麗人が立てこもっていたのだが、籠城する様子はなく、軍勢を見て、城を捨て、山へ退いた。

感想

いよいよ渡海となりました。とはいっても風の様子で行ったり来たり。大変だったことがわかります。大変ですね、出兵。

『伊達日記』113:名護屋での出来事

『伊達日記』113:名護屋での出来事

原文

一盆に加賀筑前殿御家中前田孫左衛門と申人より政宗公御陣所へをどりを差越され候。其返事成らるるべき由にて何も稽古仕候。廿日の晩相返成らるるべき由にていづれも出立候処に。日暮家康公御陣前にて安部伝八郎と申者。柏原新五郎と申者衆を討欠落仕候。家康公より陣所陣所へ御穿鑿候様にと仰越され候に付。方々へ続松にてたづねまはり候間をどりも相止。其後は御返し之無く候。

語句・地名など

続松:ついまつ・たいまつ

現代語訳

盆に加賀筑前前田利家の家臣に前田孫左衛門という人から、政宗の陣所へ踊りを送られた。
その返事をしなくてはいけないため、みな稽古をした。20日の晩、返す予定で、皆出発したところ、日暮れになり家康の陣所前で、安部伝八郎という者、柏原新五郎という者を討ち、逃げ出したので、家康から陣所陣所へ調べるようにと言ってこられたので、あちこちへ松明を付け、訊ねまわったので、踊りのことは無いことになった。

感想

喧嘩があったことは前の項にもありましたが、今度は踊りの送り合いが行われ、その準備のために稽古したり装束をつけたりしていたことが書かれており、非常におもしろいです。
しかしそれも家康の陣中で起こった殺人事件のせいで流れ、人探しすることになりました。やはり名護屋は大変な状況に置かれていたようです。

『伊達日記』112:名護屋での喧嘩

『伊達日記』112:名護屋での喧嘩

原文

一六月末の比事の外暑時分家康公御陣所の下に清水候。筑前殿衆其水を汲申され候。多出申さぬ水に候故。家康公衆防の処是非汲申すべき由申からかい候。其聲を承筑前殿御陣所より二人三人宛走寄。尤家康御陣場下に候間人出合二十人三十人成。後は二三千宛出合候。筑前殿衆に大名と見え候衆は一人も之無く候。家康公御下よりは本田中務を初大名衆十人程出合。喧嘩ををさへ候体に候。双方矢をはげ鑓のさやをはづし申候。若事出候はば天下の大事に成るべき程の喧嘩に候。政宗は何も御念比に候へども。別而家康公へ御入魂候間。事出候はば家康公へ御助成られるべき体に候。仰出られは之無く候へども。下々以其覚悟に候。家康公鉄砲大将服部半蔵。渡辺半蔵は鉄砲三百挺程召連。喧嘩には構わず筑前殿の後へ相詰。事出候はば本陣へ取懸べきの体に候。政宗公年寄衆二三人遣され。双方の衆へ押へ候迄にて。連々双方遠ざかり何事無く罷帰候。不思儀に急事出申され候由名古屋中の取沙汰に候。家康筑前御陣所遠候由秀吉公御意成られ。御城近所へ御陣所を相移され候。政宗は渡海仰付らるるべき由思召され候処。其御沙汰もなく御越年に候。

語句・地名など

現代語訳

6月末の想像以上に暑い頃、家康の陣所の下に清水があった。前田利家の家臣たちがその水を汲もうとされた。多く出ない泉だったので、家康の家臣たちは防ごうとしたところ、どうしても組もうとしたところからかわれた。その声を聞いて、利家の陣所から2人3人走ってきた。もともと家康陣場の下であったので、人が出てきて20人30人となり、後には2,3000人ほど出てきた。利家のところに集まった人の中には、大名と思われる人は一人も居らず、家康のところには、本多中務忠勝をはじめ、大名衆が10人ほど出てきて、喧嘩を治めようとした。
双方矢をつがい、鑓の鞘を外した。もしことがおこったならば、天下のおおごとになると思われる程の喧嘩であった。
政宗はどちらも仲良くしていたが、特に家康と親しかったため、何かがおきれば、家康へ助勢する様子であった。口にだされはしなかったが、下々までその覚悟であった。家康の鉄砲大将である服部半蔵・渡辺半蔵は鉄砲300挺ほど連れて、喧嘩にはかまわず利家の陣の後ろに詰めた。何かがおこったら、本陣へとりかかるようにということだった。政宗から年寄衆を2,3人遣わし、双方の衆を抑えたところ、だんだん双方の衆は遠ざかり、何事も無くお帰りになった。不思議なことに急に事が起こり、名護屋中の話題であった。
家康と利家の陣所は秀吉の命令で遠くするように命じられ、城の近所へ城を移された。政宗は渡海命令が出るだろうと思っていたが、その様子もなく年を越した。

感想

名護屋ではたくさんの大名が狭い地域に陣を敷き、渡海を待っていました。その中で喧嘩が起きることも多かったようで、そのうち家康と利家の家臣たちの間で起こった喧嘩について書かれています。

『伊達日記』111:高麗への陣立

『伊達日記』111:高麗への陣立

原文

一二月半時分。岐阜中納言殿。浅野左京大夫。羽柴藤五郎。木村常隆。加藤遠江。その外坂東の大名衆。段々に御陣立候。一番加藤筑前。二番家康。三番政宗。四番佐竹右京亮。押道は聚楽御屋敷よりもどり橋を大宮通へ御返候。政宗家中出立はのぼり三十本。紺地に金の丸。のほり指の衣装具足。下にむりやうのじゅばん。具足は黒糸。前後に金の星。鉄砲弓鑓の衆下着具足同前。銀のし付刀脇指。小尻つか井ほうなりに朱さや太刀の如くきつはにさし申候。金のとがり笠長三尺計。廻り一尺八寸程。馬上は三十騎。共に黒母衣金半月のたし。豹虎又孔雀の尾。熊の皮。色々の馬よろいを懸。金のし付の太刀刀に候。其内遠藤文七郎。原田左馬助ははきそへに木太刀を一間半にこしらへ帯候。小尻さがり候間金物を中程に仕肩へ糸にてつり候。見物の人いづれもの御通には聲もたて申さず候が。政宗御通にははり候出立ゆへ上下をめき物音もきこえへぬ体に候。京中にて褒美申候。其晩はあいと申所へ御着陣成され。それより何も大名衆具足は取納常の衣装にて名護屋御着成られ。家康公。筑前殿も御城の北入海を隔御立陣に候。政宗も其北方御陣所に候。其西は結城殿御陣所に候。

語句・地名など

現代語訳

2月半ば、岐阜中納言織田秀信・浅野左京大夫幸長・柴田藤五郎・木村小隼人常隆・加藤遠江光泰その他坂東の大名衆が段々と陣立てを行った。
1番は加藤筑前、2番家康、3番政宗、4番佐竹左京亮だった。通る道は、聚楽第屋敷から戻り橋を大宮通りへ返す道だった。
政宗家中の出で立ちは、紺地に金の丸の幟を30本指し、幟指しの衣装具足は、下に六糸緞の襦袢を着こみ、具足は黒糸で威し、前後に金の星が入っていた。鉄砲・弓・鑓の衆は下着・鎧も同じであった。銀ののし付の刀・脇指は小尻を櫂のように朱鞘で、太刀の如く立派にさし、長さ三尺・周り一尺八寸ほどの金のとがり笠を付けた。鎧武者は30騎で、みな黒母衣に金の半月のだし、豹・虎・孔雀などの尾や熊の皮などさまざまな馬鎧をかけ、金ののし付太刀刀を持っていた。
そのうち遠藤文七郎宗信と原田左馬助宗時ははばきそえに、一間半の木太刀を拵え、佩いた。小尻が下がるので、金物を真ん中に肩へ糸でつっていた。
見物の人たちは他の軍勢が通る間は声もたてずにいたが、政宗がお通りになったときは、声をはり、上も下もどよめき、物音も聞こえぬほどになった。京中で褒められていた。その晩は会というところに着陣され、そこからはどの大名衆も鎧を取って納め、普通の衣装で名古屋まで到着なさった。家康・利家も城の北入江を隔てて陣を立てられ、政宗もその北方に陣をしいた。その西は結城秀康の陣所であった。

感想

西の大名から徐々に西へ向かい、名護屋へ向かったことがかかれています。
特に政宗の軍の格好が大変華やかで風変わりで、京都の人々の目を引いたことがかかれています。
原田宗時・遠藤宗信の姿も格好良かったことでしょう。