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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』11-5:政宗下国事

『政宗記』11-5:政宗が領国にいるときのこと

原文

同年(寛永十二年)の六月二十日に、御暇にて江戸より下り給ふ。然るに、領中白石川の水上小原と云処に鮎盛りなれば、在城国分の若林へは着給はで、信夫の桑折より直に小坂と云処を打越、右の小原へ着給ふ。故に鵜共に出けるを、其鵜を以て川狩をし給ひて、際限なく勝負近頃の慰にて、其より秋保といふ処へ移し、多く漁り給ふ。然る処に、江戸上屋敷大広間を立向ひ、金銀をちりばめ、或は築山・泉水、或は名石・名木の類数を尽し、宮殿・楼閣・車寄・御成門に至る迄残る処もなく大屋形出来、扨来る春には近代日来に退転したる、式掌の御成を極め、其上家督忠宗に領分を譲り給ふべき心掛、其響江戸御老中へも聞へ、宜しく覚しける処に、比は七月始め、未だ秋保に御坐す中、島津中納言殿(家久)屋敷より火事出来して、父子の屋敷とも片時の間に炎上す。此義政宗へ知らせのため、忠宗より早飛脚を下し給ふ。秋保にては、其日暮の認の所へ申来る。供の上下是を聞面々宿々より、我先にと仮屋へ走参じ、さこそ気色悪かるらんと、諸人思ひけるに、火事の品々尋ね給ひ、「笑止なれども、焼亡の家どもに縁こそなからめ、何に付ても、其時節は逃れざる物なり、大広間をば立しかども、間々の古家ども心掛りなるに、重ての作事には、手段共に能こそあらめ、明日より上方へ人を登也、材木共を用意して、作事急ぐべきこと肝要なり」と宣ひ、誠に少しなりとも心にかけ給ふ気色夢々なく、翌日も又川狩をし給ふ。扨諸人是を見参らせ、常々善悪に譟ぎ給はぬ人なりしが、例の如くなりとて何れも感じ奉る。秋保に於て数日の川猟、其より若林へ着給ひ、方々野山川ある程の慰にて、其年も已に暮行候事。

地名・語句など

水上小原:白石市小原
小坂:福島県伊達郡国見町小坂

現代御訳

寛永十二年の六月二十日に、政宗は家光から暇をいただき、江戸から領国へお下りになった。領内の白石川の上流、小原というところで、鮎が盛りであったので、在城である国分の若林城へは帰らず、信夫の桑折から直に小坂というところを越え、この小原へお着きになった。鮎がでているので、一緒に鵜が出ているのを取って、その鵜を使って川狩りをなさって、際限なく獲物を取らせ、ひごろの慰みとされた。それから秋保というところへ移動し、また多く魚を捕られた。
そうこうしているうちに、江戸の上屋敷の大広間を、金銀をちりばめ、或いは築山・泉水を配置し、或いは名石・名木の類を多く配置し、宮殿・楼閣・車寄・御成門に至るまでのこるところなく立派な工事をしたのができあがり、さて次の春にはそろそろ引退し、きまりの御成をなした上で嫡男忠宗に領分を譲ろうという心づもりでおられ、それが江戸の老中たちにも伝わり、その予定でいた。
ところが、七月の始め、まだ秋保にいらっしゃるところ、島津中納言家久の屋敷から火事が起こり、両方の屋敷とも、かたときの間に炎上した。このことは政宗へ知らせのため、忠宗から早飛脚をお送りになった。秋保にはその日の夕食のところへ到着した。
お供の者たちはみなこれを聞きそれぞれ宿から我先にと政宗の仮屋へと走って参じ、さぞや機嫌が悪かろうとみな思っていたところ、火事の詳細をお尋ねになり、「大変ではあるが、焼けた家の者と縁こそないが、何につけてもこの時期は(火事は)逃げられないものである。大広間を立てたけれども、間の古い家が心掛かりであるので、重ねての工事の際には、よくやるように。明日より上方へ人を登らせ、材木などを用意して、工事を急ぐのが肝要である」と仰り、本当に少しも心にかける様子がなく、翌日もまた川狩りをなさった。みなこれを見て、つねひごろ善し悪しにこだわりなさらない御方であったが、例の通りであると、みな感動いたしました。
その後秋保にて数日の川猟をなさった後、若林へお着きなさり、またほうぼう野山がりや川狩りをなさり、その年は暮れていった。

感想

政宗が寛永12年に下国し、その途中で川狩りをし、滞在中に島津家の火事により作ったばかりの上屋敷が燃えてしまったときのことをかいています。
『名語集』64に類似記事あり。…というかほぼ文章は違えど同じ内容の文なのでどちらかがどちらかを参照したか、そもそも元は同じ筆者の文かのどちらかかと想像します。
豪華絢爛な上屋敷の大広間を作ったのに、それが燃えてしまったこと、その知らせに機嫌が悪いだろうと川猟にお供したものたちがあわてふためいたというのに、政宗は燃えた屋敷やその費用などについては意に介せず、心配だけをし、川猟を続けたことにみなが感じいった…ということがかかれています(みなっていうか…成実がなんだろうけど)。
寛永12年6月21日の政宗→成実書状(政宗文書3359)に、忠宗が疱瘡にかかっていたが快癒したこと、家光から暇をもらい、下向するのでその時に「万々物語申すべく」とかいてあります。
おそらくこの書状を送った後に下向したのでしょう。
ちょっと不勉強で、島津家の火事が何日に起こったのかわかりませんが、島津家上屋敷は芝の増上寺の側、現在セレスティンホテルなどがあるあたりにあったそうです。伊達家上屋敷は芝口の日テレタワーのところに掲示板があるそうですね。近所です。
しかし焼失してしまった上屋敷の大広間はどんな絢爛豪華なものだったのでしょうね(というか費用に付いて考えてしまいアワワ)。