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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』37:最上義光について

『伊達日記』37:最上義光について

原文

一義顕公。政宗公伯父にて候へども、輝宗公御代にも度々御弓矢に候。然共近年は別而御念比に候。義顕公大事の人にて洞にて大臣兄弟両人共に切腹仰付られ候。政宗公二本松塩の松御弓矢強。佐竹、会津、岩城、石川、白川迄御敵に候間、此時右の大名衆仰合され伊達へ弓矢を取、長井を御取成らるべく思召され候処に、結句大崎にて伊達衆負、泉田安芸守を最上へ相渡さるべきに候間、此砌米澤への事切を思召され、最上境に鮎貝藤太郎と申者仰合され、天正十五年三月十三日鮎貝手切仕候。政宗公聞召され時刻を移候はば成間敷候間、即御退治成らるべき義仰出され候。家老衆申上られ候は、最上より加勢之有るべく候。其上又も最上へ申寄候之在るべく候條、様子ご覧合わせられ御出馬然るべき由申され候へども、左様に候はば米澤を御出候事成まじく候間、是非鮎貝を御退治成らるべき由御意候而御出馬候処に、最上より一騎も御助これなく、鮎貝最上へ加勢乞候へども相助けられぬ上、政宗公御出馬候由承られ、則最上へ引除申され候間長井子細なく候。

語句・地名など

義顕→義光

現代語訳

一、義光公は政宗公の伯父であるのだが、輝宗公の時代にも、たびたび戦になっていた。しかし近年は特に親しくしていた。
義光公はめったにない人であり、親戚の中で、大身の家臣や兄弟二人ともに切腹をさせていた。
政宗公が、二本松・塩松での戦を無理にも行い、佐竹・会津・岩城・石川・白河まで敵になってしまわれたとき、このときこれらの大名は言い合わせをして、伊達へ戦をしかけ、長井を取ろうと思われたところ、あげく大崎の戦で伊達軍が負け、泉田安芸を最上へ渡さなくてはいけなくなった。なのでそのとき米澤との関係を切ろうと思われ、最上との境に鮎川藤太郎という者と言い合わし、天正15年3月13日、鮎貝は手切れを行った。
政宗公はこれをお聞きになり、時間が経ってしまえば、できなくなるだろうから、すぐに退治をするべきであると仰った。
家老達は最上より加勢があるであろうといい、その上また最上へ言い寄っているようでもあるので、様子を御覧になって、合わせて出馬するのがよいのではないかと仰ったのだが、そうすると、米沢を出立することができなくなるのではないかと、是非鮎貝を退治するべきではないかと思われ出馬なされた。すると最上から一騎も援軍がこなかったため、鮎貝は最上へ加勢を請うたが、それも援軍がなかったので、政宗公が出馬したのを知り、すぐに最上へ退いたため、長井は問題なくなったのである。

感想

成実の最上義光への当たりが強いのはネットなどでも最近広まってきましたが、読んでいても、たしかに義光への反感は感じます。しかし何故そんなに毛嫌いしていたかがわからない(敵対していたからという理由もあるかもしれないですが、逆に成実はずっと敵であった大内兄弟の仲介はしているのです)のですが、ここの文では、家臣や兄弟までを殺したことについて、「大ごとの人」(めったにない人。大変な人)という形容で語られています。
同じ部分、『政宗記』では「以ての外なる悪大将」となっています。
ホントになんででしょうね?

『伊達日記』36:最上からの使者

『伊達日記』36:最上からの使者

原文

一、最上より義顕、野辺沢能登守と申衆を蟻が袋へ遣はされ候而、能登守月鑑に会候て何と申合候哉。月鑑は深沢へ帰。安芸守は小野田へ同心申。小野田の城主玄蕃、九郎左衛門両人へわたし申され候。其夜能登守、泉田宿へ罷越申され候は、貴殿を引取申候事は相馬、佐竹、岩城、会津申合、伊達へ弓矢を取申すべき由相談候て、相馬より茶窪又左衛門と申者使に参られ候。貴殿好身衆へ申合され謀叛を申されるべき由申候。安芸守申せられ候は、我等の主君の奉公に一命を捨新沼へ籠候軍勢を相扶候。御弓矢の儀は存ぜず候。早々首を召され候様に頼入由申され候。御申分比類無き由能登守感申され候。安芸守より斎藤孫右衛門と申者を忍使に政宗公へ指上、右の段々具に注進申され候。

語句・地名など

現代語訳

一、最上義光が、最上から、野辺沢能登守という者を蟻ヶ袋へお遣わしになり、能登守が月鑑斎に会ってどんな話をしたのだろうか、月鑑斎は深沢へ帰り、安芸守は小野田へ同道した。
小野田の城主玄蕃・九郎左衛門の二人へ渡された。
その夜、能登守が泉田安芸が泊まっていたところへ来て、貴方を引き取ることは相馬・佐竹・岩城・会津が言い合わせて、伊達へ戦をすることを相談して、相馬から茶窪又左衛門という者が使いとして来た。
あなたもこの一味へ申し合わせ、謀叛をされるのがいいのではないかと言った。
安芸は私は主君への奉公に一命を捨てて新沼へ籠城していた軍勢を助けた。戦のことは知らない。はやく首をきるようにと頼んだことを言った。
その言い分は比べるものない素晴らしいものだと能登守は感動して言った。
安芸守から斎藤孫右衛門という者を忍びの使いに、政宗へお送りになり、以上のことごとを詳しく申し上げた。

感想

『伊達日記』35:月鑑と安芸

『伊達日記』35:月鑑と安芸

原文

一百々鈴木伊豆守、古川の北江左馬丞中途へ罷出新沼へ使を越、大谷加沢呼出候而申候は、泉田安芸守と深谷月鑑両人人質に相渡され候はば、諸軍勢は除為しめ申べき由申候。大谷賀沢引こもり其由申候処に、泉田安芸守家中溜村源左右衛門と申もの申候は、中々多勢へ切入て打死は覚悟のまへに候。諸勢を除為しめ候て安芸守一人、末には縛首をきられ申すべく候間、死後の恥辱に罷成候條、安芸守は合点申され間敷由申候。月鑑申され候は、我等共両人證人に渡諸軍勢相扶申事故政宗公迄御奉公に罷成候間、是非證人に渡し申すべく候。安芸守殿はなにと思召候と申され候。又源左右衛門申候は、貴殿御心中疾に推量申候由にて口論仕候処に、安芸守申されけるは、源左衛門申事無用に候。我等人にもかまい申さず、一人にても人質に相渡諸勢を相扶申すべき由申され候て、其通鈴木伊賀守北江左馬允所へ申ことはり候。右より月鑑人質に相渡すべき由申され候間、両人共に二月廿三日新沼を出て蟻カ袋と云所へ参られ候間、諸勢松山へ引除候。浜田伊豆、小山田惣右衛門、山岸修理、米澤へ参られ大崎の様子申上られ候。御意には、今度は余深働仕越度を取候。重ては氏家に仰合され桑折室山二ヶ所の城を取、弾正折加候様になさるべき御意に候。

語句・地名など

鈴木伊豆→鈴木伊賀
北江左馬丞→北郷左馬尉
深谷月鑑斎→長江月鑑斎
溜村源左右衛門→湯村源左衛門

現代語訳

一、百々の鈴木伊豆守、古川の北江左馬丞途中まで来て、新沼へ使いを寄越し、大谷・加沢を呼び出していったのは、泉田安芸守と深谷月鑑斎両人を人質に渡されるのであれば、諸軍勢は退却させることをおっしゃった。大谷・加沢が戻りそのことを言ったところ、泉田安芸の家中に溜村源左右衛門という者がいうには、多勢の中に切り入って、討ち死にするのは覚悟している。諸勢を退かせて、安芸守一人が最終的には首を切られるであろうから、死後の恥辱になるので、安芸守は合意しないであろうと言った。
月鑑斎は、我等二人を証人として渡し、諸軍勢を助けることが政宗への一番の奉公になるから、是非ともとも証人に渡すのがよい、安芸守殿はなんと思って居るのかと言った。また源左衛門が言うには、あなたの心の中はすぐにわかることであると言って口論になった。
安芸守は源左衛門の言うことは無用のことである。私は人にかまうことなく、一人であっても人質として渡され、諸勢を助けるべきであると仰ったので、その通り鈴木伊賀守・北江左馬尉へ言い、断った。
以上のことから、月鑑斎人質に渡すべきであると言ったので、二人とも2月23日新沼を出て、蟻ガ袋というところへ来たので、諸勢は松山へ退却した。
浜田伊豆・小山田惣右衛門・山岸修理は米澤へ来て、大崎の様子を申し上げた。政宗は、今回は敵地へ深入りして、落ち度を取った。次は氏家に言い合わせ、桑折・師山二ヶ所の城をとり、弾正の言うとおりにするべきであると仰った。

感想

人質をめぐるやりとりです。

『伊達日記』34:新沼の籠城

『伊達日記』34:新沼の籠城

原文

新沼に籠候衆五千に及候間、新沼小池にて食物もなく籠城致され体に候。政宗公内々御人数をもつかはされ引出され度思召れ候へども、山道は御気遣成られ左様にも之無く候。新沼衆申され候は、室山を押通向敵を切払、松山へ引除かれるべき由申さるる処に、沢谷月鑑申され候は、桑折室山両地除口はさみ候ども、地形能候はばくるしからず候。大川を越候砌双方より仕かけ候はば手もとらず犬死仕るべく候間、先様子見合然べきよし申さるるに付相止候。

語句・地名など

沢谷月鑑→長江月鑑斎

現代語訳

新沼に籠城していた者は5000人にもなっていたので、新沼は小さな池で、食べるものもなく籠城されたようであった。政宗は秘密裏に軍勢を遣わし、連れ出したいと思われていたのだが、山道を気になされて、そうすることもできなかった。新沼衆が言ったのは、室山を押し通り、向かう敵を切り払い、松山へ退却するべきであると仰ったときに、長江月鑑斎は桑折・師山両地が退却口を挟んでいるけれども、地形はよければ、難しくないだろう。大川を越えたとき、双方から仕掛たならば、玉をとらずに犬死にするであろうから、まず様子を見合わせるべきであると言ったので、出陣をやめた。

感想

『伊達日記』33:伊達政景の交渉

 『『伊達日記』』33:伊達政景の交渉

原文

一伊達上野介先々人数を引付度存ぜられ候へども、日はくれ候。川を越北へそなへ候間、桑折室山より出候はば、除兼ねるべき由存られ、月舟は上野舅に候間、上野所より使者を以申され候うは、爰許引のき度存候間、異義無く御除させ預候へと申され候処に、月舟挨拶には、貴殿一人引除かるるべく候。其外は成まじき由仰られ候。重而上野申され候は、浜田伊豆を始一両輩同備候を相捨、拙者一人争罷除くべく候。とても我等を相とおさるるべければ、彼旁も相通さるる預かるべく候。左様に成まじきにをいては打死相究の由申越され候はば、千の森相模と申者月舟伯父にて候が申候は、上野殿を始として打果弓矢之実否を相付然るべく候。大崎は洞一品に候。政宗公大身にて候間果して月舟の身上相立べきにも之無く候。仕るべき事を控へ滅亡詮なき所に候由しきりに異見申候へども、月舟流石衆聟を打果事いたはしく候。左様に候はば、其許に相備へられ候衆いづれも相除かるるべき由申され候間、いづれも上野同心に松山へ引除られ候故、中新田衆中切候上橋を引かれ候故、思の外新沼へ籠城致され候。

語句・地名など

室山=師山
千ノ森→『政宗記』では八森

現代語訳

伊達上野介政景は軍勢を引き付けたく思っていたけれども、日は暮れ、川を越え北へ備えようと思い、桑折・師山より兵が出てきたならば、退くこともできなくなるだろうと思った。月舟斎は上野介の舅であるので、上野介のところから使者を以て、ここから退きたいと思うので、反対せずに退却させてくださいと言ったところ、月舟斎の返事は、貴方一人退却なさい、その他はそうするわけにはいかないと言った。重ねて上野介は浜田伊豆をはじめ、同輩・同備を捨てて、私一人がどうして退却できるだろうか、我等を通してくださるのであれば、かれらも通してくれないと困る。そうならないのであれば、討ち死にをすると言って寄越したので、千の森(八森)相模という月舟斎の伯父である人が、上野介殿をはじめとして、討ち果たし、戦の勝敗を明らかにするべきだと言った。
大崎は洞の中でも最も位が高い。政宗は大大名であるので、月舟斎の身を立てるにも無理であるだろう。しなくてはいけないことを控えては、滅亡するのは仕方のない事であるということを何度も意見したのだが、月舟斎はさすがに聟を討ち果たすのは心苦しい。そのように思うのならば、伊達の勢をすべて退かせるべきであると言われたので、いずれも上野介と一緒に松山へ退かせたため、中新田衆が切った上橋を落とされたため、予定と違って新沼に籠城した。

感想

伊達上野介政景は留守政景のこと。黒川月舟斎は舅の間柄です。伊達は大大名ですが、位としては大崎の上であるという認識があったことが書かれていて当時の東北を知る上で興味深いです。

『伊達日記』32:小山田筑前の馬

『伊達日記』32:小山田筑前の馬

原文

一小山田筑前打死朝不思議成る奇瑞あり。宿より馬にのり十間計出候処に、乗たる馬、時の太鼓は早遅々と物を云ければ、めし仕候者興をさまし扨々と申候。筑前聞て、今日の軍は勝たるぞ、目出度と申候。討死以後其馬を敵方へ取見候。知りたるもの有て此馬は一年義隆祈祷為しめ、野々嶽の観音へ神馬に引せられ候馬の由申候。義隆きこしめし其馬を引よせ御覧候へば、まことに神馬に引かれ候馬の由御覧覚えられ候。何方より廻り筑前乗て此軍に討死仕事神力の威光あらたの由いづれも申され候。義隆より筑前さし物を最上の義顕へ遣はされ候。義顕彼筑前はか子て聞き及ぶ名誉の覚のものの由仰せられ、くろ地に白馬櫛の指物を出羽の羽黒山へ納められ候。冥加の者の由申し候。

語句・地名など

室山=師山

現代語訳

一、小山田筑前が討ち死にする朝、不思議なめでたい出来事があった。泊まっていたところから馬に乗って、10間ほどでたときに、乗っている馬の太鼓が早おそしおそしとものを言ったので、供をしていた者たちは興ざめしてしまい、さてさてなんであろうかと言った。
小山田筑前はこれを聞いて、今日の戦はは勝ちであろう、めでたいと言った。筑前が討ち死にしたあと、その馬は敵方へ捕られているのを見た。其の馬について知っている人がいて、この馬は義隆が一年間祈祷させ、野々嶽観音へ神馬として引かれていた馬であるということを言った。義隆はそれを聞き、その馬をひきよせて御覧になると、本当に神馬に引かれていた馬であると見てわかった。そこからどうなってかめぐり、筑前が乗って、この戦で討ち死にしたことは神の威光があたらしく起こったのだと、みな言い合った。
義隆から筑前の旗指物を最上義光へお遣わしになった。義光はこの筑前のことは以前から耳に聞く軍功素晴らしい者であることを仰り、黒地に白馬櫛の旗指物を、出羽の羽黒山へ納められた。神仏の恩恵を預かった人であると、人は言った。

感想

小山田筑前が乗っていた馬に起こった不思議な出来事とその後の各将の反応が書かれています。
大崎義隆も最上義光も小山田筑前の見事な死に感じ入り、供養をしたということです。