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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』6-5:宇田新地駒ヶ峯出城

『政宗記』6-5:宇多郡新地・駒ヶ嶺城の開城

原文

同五月、常隆は田村の小野に在陣、義胤も同内岩井沢と云所に御坐。相互の評定にて田村の中を働き給ふ。是に依て田村へ伊達よりの警固に、大条尾張・瀬上中務・郡摂津守三人、遣し給ふと云ども、義胤尚も働き給ふときこへ、政宗此隙に相馬領の新地・駒ヶ峯を取んとて俄に取立、伊達・信夫・刈田・柴田・伊具・名取の勢力を、五月十四日に大森へ呼給ひ、右に田村へ遣し給ふ。警固の物頭をば、今度新地・駒ヶ峯へ召連ん、扨其代には白石若狭・片倉景綱・伊達成実、三人を田村に入替、同十六日に、信夫の大森を打立、其日に金山の中島伊勢居城へ著く、人数を一日待給ひ、明十八日に駒ヶ峯へ押寄働き攻給へば、二三の曲輪破、本丸迄になりけれども、岸高ふして急には落城成り難し。先人数を少し引上給ふ。然る処に、城中より中島伊勢陣場へ矢文を以て「其方城内へ乗入なば直談せしめ、出城申事有んと」書。故に乗入べき事善悪の二つなれども、流石望の処を入ざれば、武士道も如何の由にて、乗込事の子細を尋んと云。爰に弟の中島大蔵是を聞て、兄同心に乗入んと申す。伊勢申けるに、「乗込悪事ならば、兄弟ともに空くならん事更に詮なき、去程に汝は是に留て、我等如何にもなりなば、其子細申上、予に一合戦成下せられ様に、其ときは汝真先掛候はば、今生・後生の思出ならん」と云。大蔵「宣ふ処は理なれども、兄一人乗込せ、某是に留つては末代迄の恥辱、名に付たる其疵は子孫迄も伝べければ、是非同心に」と申す。其にて伊勢「其方申処十分なり。然りと雖も、矢文の子細を御耳へ入れずして、乗入ける事如何なれば其身参り、其城内へ乗入、出城候はん事実正ならば、会図のために其小籏を城中に打立ん、其ときは敵懇望に究り、出城疑い無く思召置かれける様に申し上げるべく、此御挨拶承る迄暫は爰に留らん」と云、大蔵実もと思ひ、急ぎ本陣へぞ参りける。伊勢其間見合城内へ乗込て、「御望の伊勢にて候、子細は如何に」と尋ねければ、「別にあらず、頼入は唯命を遯は出城申さんがためなり」と云。さらばとて合図の小籏を差上ければ、政宗其夜は夜籠をし給ひ、明る寅の刻より責め玉ふべきに究まりけれども、其義に任、敵地へ伊勢人質と成て、城主藤崎治部同人数とともに、山中に掛て相馬へ引除けるを、伊勢同心して境目迄送り放除せけるは名誉の武略故、城は落居候なり。かかりける処に大蔵「兄に取ぬかれ面目失ふ」とて、兄弟討果さんと云。伊勢「滅亡に及ぶならば、流石兄弟とも空くならんが浅ましさに、一人此世に残さん為也、去とては降参なり」と、様々手を合せけれども承引無し。右の品々政宗聞給ひ、直の申立にて和睦をなす。一人弟を劬りければ、後は大蔵も跡に替らず、ねんごろなる事云に及ばず、惣じて中島伊勢宗徒の者にて、其古へ輝宗、右の駒ヶ峰へ馬を出され取詰給ふに、軍配を見て攻めるべしとて、常の者の体にて、如何にも忍び乗廻し給ふを、城中に目明し在て大将とみうけ、内の人数を掃出し取かかりける程に、輝宗已に討死在とみへけるを、伊勢手勢迄にて手槍を取て、敵中へ破て入輝宗へ入替其より守返し、要害の木戸口迄追込物別をなす。其とき伊勢鉄砲にて頤を打たれ、平癒の後其玉頤に止て、近頃七十に余り病死して、火葬のときとり出し、子共後の伊勢未持なり。其働の刻は政宗漸十二三歳にもや成給はん、然りと雖も、伊勢比類無き事、心に引くはへおはすとみへ、正月三日は伊達の嘉例にて野初也、此時に到りて家の上下万民、思々の戯道にて其日の供を申し、或は山鷹或抜雉子、一日に千余りの勝負、即野場の仮屋に於いて終夜祝ひ給へり、掛りけるに、三日の朝野へ取著給ふに、伊勢を召て「其昔駒ヶ峯にて、汝手柄の砌若年乍らも、褒美をとこそ思ひけれども、輝宗より御褒美の上は、幼少にて延慮の旨なり、爾るに、今朝其身を見付思出とて、差給へる祖父孫六の刀、だてなる拵を腰より抜出、諸人伺候にて賜はり、若きとき駒ヶ峯に於て、汝の働今是を差て思ひ出せ、我も三十余年の心懸を、今晴す」と宣へば、伊勢兎角の御請に兼ね及び、声を立唯泣より外は他事なくして、其場を退く。老後の運を開き、さりとては手柄なる珍敷拝領かなと、時の人々感じけり。是は伊達始終の物語。扨政宗其日は駒ヶ峯にて漸く日も暮遅かりければ、近所に野陣をし玉ひ、翌日新地へ働き給ふ。駒ヶ峯は相馬近所なれども、助も来ず。況や新地は、少なりとも相馬へ遠かりければ、助の人数一人も参らず。故に城主泉田甲斐、身命を助け給ひ出城仕度と申す。政宗承引し給ふ処に、未出城の人質をも取らぬ内、何とやしたるらん、城内より火事到来して味方の惣軍下知ともなく、一度に吶と押掛、或は斬殺し或は取散し、案の外なる落城なれば、甲斐からき命を遯れ出、夫より廻国聖と成て行方知れずに失にける。去程に、政宗両日休息し給ひ、翌日新地の海上へ亘理の浜より、猟師どもあつまり際限無く肴とも数知れず、彼海辺に磯山と云渚の所へ、亘理美濃守俄なれども仮屋を建、種々の馳走にて終日慰給ひ、其夜に金山に移られ、一日逗留有て駒ヶ峯をば黒木肥前、新地は美濃守、肥前跡丸森をば、高野壱岐に給はり、五月廿四日大森へかへり給ふ。されば、右にも申す、常隆・義胤、田村の内に御坐故、警固のため若狭・景綱・成実三人田村へ遺し、在城三春に在陣にて、右の両大将田村の内を働き給ふに、助合けれども別に替りたる事もなく、田村衆迄にて四方気遣はなきに、況や今度新地・駒ヶ峯へ呼給ふ刈田・柴田・伊達・信夫の軍兵を、直に三春へ遣し給へば、両大将何と働き給ふとも、田村の事は心安し。爾るに、会津の猪苗代弾正、忠を申合けれども、其刻は父子の間不和と成て程も延けり。其上四本の松・二本松惣じて安積筋の軍、思の儘に募りければ、此上会津へと思はれけれども、猪苗代へは山中の切所をへだて遠慮なれば、其中軍を先へ延んがため、唯今迄は其方此方としたまひけれども、今は早片平助右衛門忠致すを、阿久ケ島・高玉手に入玉ひ、猪苗代への通路に自由なるに、折節政宗宇田よりかへり、大森に御坐せば、「右より猪苗代への使三蔵軒を大森へ召連、仰の趣を承り、彼出家を遣はし武略をなさん、徒に爰にて日を送りさらに入らぬ事なり」と、白石宗直*1・片倉景綱・伊達成実、三人相談にて、いざとうさらばとて、五月二十六日に、三人とも田村を打立、小十郎は大森へ、若狭四本の松の小浜へ、成実は二本松へかへり、明廿七日に、大森へ参りければ、歓び給ふ事斜めならず。急ぎ猪苗代の武略の使遣はすべしと宣ふ故に、「右進しける政宗判形、聊他事有べからざる程に、急ぎ手切あれ」と景綱・成実同書にてつかはし、成実は二本松へまかり帰る。其後三蔵軒大森へかへり参りて、其返状を景綱に預け、弾正異変無く早手切なりと披露に及候事。

語句・地名など

岩井沢:田村郡路地村岩井沢
物頭(ものがしら):武家時代、弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。武頭(ぶがしら)。物頭役。足軽大将。
金山:宮城県伊具郡丸森町金山

現代語訳

天正17年5月、岩城常隆は田村領の小野に在陣し、相馬義胤も同じく田村領内の岩井沢というところに在陣した。お互いに相談して決め、田村領内へ戦闘をしかけなさった。これに合わせて、田村領へ伊達からの警固として、大條尾張宗直・瀬上中務景康・桑折摂津守政長の三人を遣わせなさったのだが、義胤はそれでもまだ活動しているとお聞きになったため、政宗はこの隙に相馬領である新地・駒ヶ嶺を取ろうと突然計画し、伊達・信夫・刈田・柴田・伊具・名取の勢力を5月14日に大森へおよびになり、前述の田村領にお遣わせになった。
その警固の侍大将たちを、今度は新地・駒ヶ嶺へ連れて行こうとされたため、その代わりに白石若狭宗実・片倉景綱・伊達成実の三人を田村にいれることになさった。5月16日に信夫郡の大森を出発され、その日に金山の中島伊勢宗求の居城へ到着し、一日軍勢が集まるのをお待ちになった。翌18日に駒ヶ嶺へ押し寄せ、お攻めになった。二つ三つの曲輪は落ち、本丸だけになったが、岩壁が高かったため、すぐには落城させることが難しかった。少し手勢を引き上げさせなさったところに、城の中から、中島伊勢宗求の陣場へ矢文を使い「あなたが城の内へ来て下さるならば、直接に相談し、開城いたしましょう」と書いてきた。
このため、中へ乗り込むことはメリットとデメリットがあったのだが、さすがに先方が望むことを受け入れなければ、武士道としてはずれるのではないかということで、何故乗り込まねばならないかを聞いてみようということになった。ここで、弟の中島大蔵信真は是を聞いて、兄と一緒に入城しようと言った。
兄の伊勢がいうには「もし乗り込んで悪い結果となったならば、兄弟二人とも死ぬことになったらさらに甲斐がない。だからおまえはここに留まって、私がどのようになったとしてもその詳細を申し上げ、予定通り合戦となったときにおまえは真っ先に攻めいれば、今世と来世の思い出となるであろう」と言った。
弟の大蔵は「仰ることは最もですが、兄一人を乗り込ませ、私がここに留まっては、末代までの恥辱であり、名についたその疵は子孫までも伝わることでありましょう。是非一緒に行かせてください」と言った。
それを聞いて伊勢は「おまえの言うことはもっともである。しかし、矢文の詳細をお伝えしていないから、入城することが判明したら、城の中に入り、開城することが事実であるならば、合図のために小旗を城の中に立てよう。そのときは敵の望み通りにし、開城が間違いなく行われるように(政宗に)申し上げるため、このお答えを承るまではここに留まろう」といったため、大蔵はなるほどと思い、急いで政宗の居る本陣へ参上した。
伊勢はその間を見て城の中に乗り込み、「お望みの伊勢でござる。詳細はなんであろうか」と聞いたところ、「とくにない。貴方の来るのを頼んだのは、ただ、命を逃してくれるのであれば開城するということを言いたいためである」と言った。
ではと、合図の小旗を上げたところ、政宗はその夜は夜を徹しての茶会を行い、明くる午前4時ごろから攻めようと決めていたのだが、そのため伊勢は敵地までの人質となって、城主である藤崎治部とその手勢とともに山中をかけて相馬へ引き上げた。伊勢はこれに同道して境目の地まで送り、その後解放されたのは、すぐれた計略であったため、城は落ち、開城することになった。
しかし大蔵は「兄に抜け駆けされ、面目を失った」と言って、兄弟を討ち果たそうと言った。伊勢は「もし滅亡になるのなら、流石に兄弟二人とも無くなることが残念で、一人でもこの世に遺すためにしたことである。許してくれ」とさまざまに手を合わせて謝ったが、大蔵は納得しなかった。
この事情を政宗はお聞きになり、直接の申し立てによって仲直りをさせた。ひとり弟をいたわったのだから、後は大蔵も以前と変わらず、仲良くしていたことはいうまでもない。
そもそも中島伊勢宗求は重臣であり、その昔、輝宗がこの駒ヶ嶺へ出陣して城を攻めていたときに、軍の様子を見て攻めようと、普段の格好でどのようにも忍び乗り回していたのだが、城の中に、見知った者がいて、輝宗を大将とみうけ、中から手勢を出し、攻めかかったため、輝宗はすでに討ち死にされたであろうと思われていたとき、伊勢は手勢だけを引き連れ、自ら槍を持ち、敵の中へはいって輝宗を助け出し、それから守って帰り、城の木戸口まで追い込み、休戦とした。
そのとき伊勢は鉄砲であごを討たれ、直ってからもその銃弾があごに残っており、最近七十余歳となって病死し、火葬するときに取り出して、のちに伊勢となった子どもの宗信はこれを今も持っているという。その戦闘があったとき、政宗はやっと12,3になった頃であっただろうか。だが、伊勢の比べる者のない手柄が心に強く残っていたと思われる。
正月の三日は伊達の新年の祝いとして、野始が行われるのだが、このときは家の家臣たち全てが思い思いのやり方でその日のお伴をし、或いは山の鷹、雉子を撃ち、一日に1000以上の獲物を取り、すぐにその場の仮屋において宴をし一日中お祝いするのがしきたりである。
そのとき、三日の朝、野へ到着したときに、伊勢をお呼びになり、「その昔、駒ヶ嶺にておまえが手柄を立てたとき、私は若年であったが、褒美をやりたいと思ったのだが、輝宗から褒美をいただいていたので、年少の自分が何かするのはおかしいと遠慮したのである。しかし、今日おまえの身を見つけ、思い出した」と言って、お指しになっていた、素晴らしい拵えの祖父孫六の刀を腰よりお抜きになり、みなが見ている前でお授けになった。「若いとき駒ヶ嶺においてのおまえの働きを是を見て思い出せ。私も30年以上気になっていたことを今晴らす」と仰った。伊勢はありえないほどのお申し出に我慢することができず、声を立て、泣くより他にすることがない様子となって、その場を退いた。
老いた後の運を開く、大変に手柄である珍しい拝領であるなあとそのときいた人々は非常に感動した。これは宗求のはじめからおわりまでの物語である。
さて政宗はその日は、だんだん日も暮れ、時間が遅くなったので、駒ヶ嶺近くで野陣をし、翌日新地へ戦闘を開始した。駒ヶ嶺は相馬の近くではあるが、援軍も来なかった。まして新地は、少しではあるが相馬から遠かったので、援軍は一人も来なかった。そのため城主泉田甲斐は命を助けるのと引き替えに開城したいと言った。政宗はそれで了承したのだが、まだ開城の為の人質をとっていなかった内に、なにがあったのであろう、城の内から火事が起こり、味方の惣軍は下知もない間に、一度にどっと押しかけ、或いは惨殺し、或いは取り散らし、想定外の落城となった。泉田甲斐は命からがら逃げ出し、それから諸国をめぐる僧となって、行方知れずになって居なくなった。
そのため政宗は二日ほどお休みになり、翌日亘理の浜から新地の海の上に漁師たちを集め、際限なく沢山の魚を捕った。この海辺に磯山という渚があり、亘理美濃守重宗は急なことではあったが、仮屋を建て、様々な馳走をして一日中お楽しみになった。
その夜に金山にお移りになり、一日逗留なさったあと、駒ヶ嶺を黒木肥前宗元、新地は亘理重宗にお与えになり、黒木肥前がいた丸森を高野壱岐親兼にお与えになり、5月24日に大森にお帰りになった。すると、前述のとおり、岩城常隆と相馬義胤が田村領にいたため、警固として白石若狭宗実・片倉景綱・伊達成実の三人を田村に遺し、三春の城に在陣させた。常隆と義胤は助け合っていたけれども別に変わったこともなく、田村衆のみでどこも心配はなかったため、今度新地・駒ヶ嶺へ呼んだ刈田・柴田・伊達・信夫の兵達を直接に三春へおつかわしになったので、常隆も義胤がどのように戦闘をしかけてこようとも、田村のことは心配ないとなった。
そのころ、会津の猪苗代弾正盛国が内応を申し合わせていたのだが、そのときは盛国親子の間が不和となり、延期となった。その上、塩松・二本松の安積筋の軍を思い通りに集めたので、この上会津へ攻めいろうと思われていたが、猪苗代へは山の中の険しいところがあるため、心配していたが、その中を軍を先に進めるためにそれまではそちらとこちらとしていたけれども、今はもう片平助右衛門親綱が寝返りしたため、安子ヶ島・高玉を手にいれなさり、猪苗代へ通ることが可能になったので、そのとき政宗は宇多郡から帰り、大森にいらっしゃった。
「これから猪苗代への使いの三蔵軒を大森へ召し連れ、仰ることをお聞きし、計略をしよう。いたずらにここで日を送るのは不要なことである」と宗実・景綱・成実が三人で相談し、いざさらばと、5月26日に、三人とも田村を出発し、小十郎景綱は大森へ、若狭宗実は塩松の小浜へ、成実は二本松へ帰った。翌27日に大森へ行ったところ、政宗は尋常でなくお喜びになった。
急いで猪苗代への計略の使いを送れと仰ったため、「渡した政宗の判形は他にささいな心配することは無いため、急いで手切れしてください」と景綱と成実が一緒に書状をしたため送り、成実は二本松へ帰った。
そのあと、三蔵軒が大森へ帰ってきて、その返信を景綱に預け、猪苗代弾正は間違いなくもう手切れしたと披露した。

感想

やや長いエントリですが、天正17年の5月、岩城常隆と相馬義胤の相馬領侵略について起こった出来事を大きく分けて三つ書いています。
一つは中島伊勢・大蔵兄弟の駒ヶ嶺攻略の際の手柄の話、二つ目は新地攻略の次第、三つ目は猪苗代弾正盛国への内応の計略についてです。
ここで面白いのは中島伊勢宗求の手柄についての話です。政宗が若い頃、手柄を立てた伊勢に褒美をやりたかったけれどもやれなくて、それをずっと気に掛けていたエピソードが書かれています。面白い! 「時の人々感じけり」とありますが、こう記している成実が実際感動したんだろうなあ…と思います(笑)。
あと戦の後、亘理重宗の仕切りで、新地の海で猟をさせ、それで馳走をしたことが書かれています。こういう戦の間のいろいろも面白いものです。
文中で「いざとうさらば」という言葉があるのですが、これは定型句なのかな…? はっきりわかりませんでした。能や狂言で出てくるかな…?
あと、正月嘉例である御野初(おのそめ)での拝領が書かれていますが、初陣で相馬を攻めたときから「30年以上」とあるので、これは時系列的に田村仕置しているときより、もう少し後のことなんだと思います。多分。それを成実が付け加えているんだと思います。
戦描写も面白いですが、その前後のいろいろな記述が面白い項です。

*1:宗実の誤りと思われる