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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』53:大越紀伊退治の訴え

『伊達日記』53:大越紀伊退治の訴え

原文

田村月斎。梅雪。右衛門大輔。橋本。宮森へ参られ。小十郎。伊藤肥前。原田休雪を以申上られ候は。大越紀伊守事始より田村へ出仕仕らず。今度の謀逆も止候。彼二人引こもり居申候。彼城を取消され候様に仕度由申上られ候。御意には。急而大越仕様共具聞召され口惜思召され候去りながら一働にて落城仕義計がたく思召され候。左候へば佐竹義重安藝*1表へ近日御出馬之由聞召され候間。若彼城に御手間を取られ。其内義重出馬候はば彼城巻ほごされ候事如何に候間。御はたらき成らるまじき由御挨拶に候。又々申上候は。佐竹殿は御出馬必候はば御近陣持は御無用に候。一働は成られ下さる由にて我等を呼ばしめされ候間。本宮より宮森へ参候へば田村衆大越働かるべき御訴訟申上られ候。近日義重安藝表へ出馬之由聞召され候間。其の身を御代官として大越へ御働成らるるべく候間。罷越すべく候由仰付られ候。安積筋へは義重御出馬之儀承らず候。何方より申上られ候哉と申上候へども。御前の衆相相払われ須賀川須田美濃所より申上候由御意に候。拙者申候は。存之外に候。美濃は無二佐竹へ御奉公之由承候。扨は此方へ申寄られ候哉と申上候へば。両度人を遣候。初の筋は悪候間機づかひ候。重而も御意に候はば此筋を以仰下さるべき由申上候而。佐竹義重の出馬の儀も申上候而。其砌石川大和より八大と申山伏を飛脚に差越され候。其山伏に御たづけなされ候も右の通申候。和州よりは其沙汰之無き由御意候。則罷帰両日仕度申舟引へ罷越。大越の働候請町構引籠。二三の枢計持候間。此方よりも仕様べき之無く引上候。政宗公も御隠候而御出なされ候。然る処に小野鹿俣の人数東より働候。北の伊達衆引上候付而鹿俣衆へ出合。合戦候而頻に鉄炮の音仕候間。惣人数を打返。内々人数を押切候間方々へ追散。頸三十計取上引上候。翌日政宗公。宮森へ御帰る。御人数も相返され候。

語句・地名など

安藝→安積の間違い?

現代語訳

田村月斎・梅雪・右衛門大輔・橋本刑部少輔は宮森に来た。片倉景綱・伊藤肥前・原田休雪を通じて「大越紀伊守は始めから、出仕していない。今回の裏切りも来なかった。この二人は引きこもっている。彼の城を取り消したい」ということを申し上げた。
急いで大越のしたことの詳細をきき、口惜しく思われていたけれど、ひと働きのみにて落城したことがわかりがたいと思われた。すると佐竹義重安積方面へ近日中出陣されるとお聞きになったので、もし彼の城に手間をとられ、そのうち義重が出陣なされたなら、彼の城をまきほごされるとしたらどうだろうかというので、働きはしないようにとのおことばであった。
またまた申し上げたのは「佐竹どのが出陣必ずあるのならば、近陣をする必要は無いけれども、ひと働きをしてください」とのことで私をお呼びになったので、本宮から宮森へ参上すると、田村衆から大越紀伊が戦闘をするだろうと訴えられた。
近いうちに佐竹義重が安積方面へ出陣するだおるとお聞きになったので、今回は代官として大越へ戦闘を仕掛けるべきであるので、こちらへ来るようにと仰せになった。
安積方面では義重の出陣のことは聞かれなかった。どこから聞かれたのだろうかと申し上げると、周りにいた者たちを下がらせ、須賀川の須田美濃から連絡があったと仰った。私は「想定外であった。美濃は佐竹に無二の奉公をしていると聞いていた。さてはこちらへ内通しているのか」と申し上げたところ、二度を使わし、初めのうちは上手くいかないだろうと思い、心配していたが、何かがあったら、この筋を使って伝えるようにと申上、佐竹義重の出陣のことも言ってきた。
その頃石川大和から八代という山伏を飛脚として送られてきた。その山伏にお尋ねになったことも、その通りであった。大和からはその様子もないとの知らせであった。すぐに帰り、二日間で仕度し、船引へいうところへ行った。
大越の働きを請け、町構えは籠城していた。2,3曲輪を保っていたので、こちらからもするべきことがなく退いた。政宗公もお隠れになって出陣なさった。そうこうしているところに、小野・鹿俣の手勢が東から攻めてきた。北の伊達衆が引き上げたので、鹿俣衆の軍勢と出会い、合戦になった。頻りに鉄砲の音がしたので、総軍を引き返し、内々の手勢を押し切ったので、ほうぼうへ散っていった。首を30程取り、引き上げた。
翌日政宗は宮森へ帰った。軍勢も返された。

感想

田村衆の大越紀伊退治への訴えです。やっぱり会議中の描写がおもしろいと思います。

*1:安積