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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『伊達日記』114:渡海

『伊達日記』114:渡海

原文

一翌年の正月浅野弾正殿御子左京大夫へ渡海仰付られ候。政宗も渡海仰付られ候。三月十五日舟にめし候へども日和これなく。二十二日迄名古屋の間に舟がかり。政宗公は陸に御宿なされ。御下衆は舟の内にて日をおくり申候。廿二日追手舟政宗御舟は壱岐の風本と申所迄御着舟に候。二月原田左馬助。富塚近江渡海申され候。浅野弾正殿御父子の船。伊達上野。石川大和。片倉小十郎。白石若狭舟風本迄参。中途に舟相懸り。翌日日和よく弾正殿御舟をはじめ何れも対馬助府中迄御出候。政宗公は弾正殿御舟通候由聞召され。御舟を出され候へども風悪く又風本へ御もどり。四五日御逗留候而漸対馬御着候へども日和然なく十四五日御逗留候。中途にかかり候船共。弾正殿始申ふさんかいへ先に御着候。伊達衆も政宗御供申されず候衆はいづれも御先へ参られ候。疾に高麗へ御渡り候由存急候へば跡に御座なされ候。迷惑の由申され候。四五日弾正殿御やすみ候而うるさんへ御働候。彼地は日本衆候而相すて高麗の都へとをり候故。又かうらい人相抱候へども。持つべきやうこれなく。人数さきを見申候て引捨。山々へ引こもり候。

語句・地名など

現代語訳

翌文禄二年の正月浅野弾正の子、左京大夫へ渡海命令が下った。政宗も渡海命令を下された。3月15日船にのったが、天候が良くなく、22日まで名護屋の間に船を停留し、政宗は陸地で宿をとり、家来衆は船の中で日々を送った。22日順風であったので、政宗の船は壱岐の風本というところまでお着きになった。原田左馬助・富塚近江は2月の間に渡海していたが、浅野弾正・左京大夫親子の船、伊達上野・石川大和・片倉景綱・白石宗実の船も風本まで来たが、途中で船はとまり、翌日順風であったので、弾正の船をはじめ、みな対馬の府中まで出ることが出来た。
政宗は弾正の船が到着したことを聞いて船をだされたが、風が悪く、また風本へお戻りになり、4,5日後登流になったあと、ようやく対馬まで御到着になったが、風がよくなく、14,5日逗留なさった。中途にかかった船たちは弾正をはじめぷさんかいへ先にお着きになった。伊達衆も政宗に御供しているのではない者たちはみな先へ到着した。急いで高麗へ渡ろうとお急ぎになったのだが、遅れてしまい、大変お困りになった。
4,5日弾正はお休みになったあとうるさんへ戦闘を仕掛けた。この土地は日本の先陣衆が通り、捨てて高麗の都へと通ったところであったので、また高麗人が立てこもっていたのだが、籠城する様子はなく、軍勢を見て、城を捨て、山へ退いた。

感想

いよいよ渡海となりました。とはいっても風の様子で行ったり来たり。大変だったことがわかります。大変ですね、出兵。