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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

読書感想『近代開拓村と神社』『エゾ地移住の旅』

伊達成実が亘理要害跡の亘理神社で武早智雄命(たけはやちおのみこと)として祀られていることは知られていると思いますが、北海道琴似の琴似神社(ことにじんじゃ)にも祀られています。これはここにあった琴似兵村に屯田兵として行った元亘理家中の人たちがいたからだそうです。
というわけで今回こういう本を読みました。

先日、会津好きフォロワさんが読んでらして気になった本で、目次をネットで見て、さすがにちょこっとだけのために買うのは辛い値段だったんですが、図書館にあったので借りてきました。アイデンティティと宗教という(伊達関係なくても)個人的にとても興味のあるテーマです。
会津藩士を中心に、北海道に設置された各近代開拓村における神社の由来・性格を分析することで、北海道に移住した人たち(士族屯田兵から平民屯田兵まで)の帰属意識が村の成立・成立年代によって変化していくことを丁寧に論考した博士論文を本にしたものでした。
メインテーマは会津藩士の話なので、亘理(=琴似村屯田兵)に関する話はおまけというかちょこっとだけなんですが、大変面白かったです。
琴似神社についてはこちらなどを参照。
琴似神社 - Wikipedia
琴似神社/北海道神社庁HP

琴似神社の鎮座に関する由来について、神社に現在伝えられている史実の概略は次の通りである。「琴似に入植した240戸の人々の有志は、宮城県亘理藩主伊達藤五郎成実公の遺徳を敬慕し、武早智雄神と尊称して山の手に東面して神祠を建立し、新神徳を北海道開拓の上に顕彰するために武早神社と号して祭祀を厚くしたのが琴似神社の創始である。その後、明治30年に琴似神社と改称し、明治44年に大国主大神を増祀し、鎮座地を現在地に移築、昭和43年に伊勢神宮内外宮の神々を拝受し、両宮の神々を増祀した。更に平成6年5月15日琴似屯田兵縁の旧会津藩祖御神号土津霊神を増祀した」(琴似神社由来書)。
ー遠藤由紀子『近代開拓村と神社-旧会津藩士及び屯田兵の帰属意識の変遷-』より引用 96p~

本文では、あくまで会津が主眼なので、明治年間に合祀されたと思われていた保科正之(土津霊神/はにつれいしん)が実は合祀されていなくて平成になってから合祀されたことや、戊辰戦争での敗北・斗南藩への移住をへて北海道移住した元会津藩士にとって神社が果たした役割などがかかれています。
琴似屯田兵の子孫が語った回顧録に、「藩祖(保科正之と成実)は仲良く同じ神社にいる*1のに、会津藩士と仙台藩士の子どもはよく喧嘩していて、 会津は腰抜け侍、仙台はドン五里*2、大酒飲みと罵り合ってた」という話が面白かったです。

しかし会津藩士はずっと正之が合祀されたと思って生きてたのに、平成2年になってから、実は合祀されてなくて、80年間会津藩士がそう思い込んでただけだったという話はちょっとビックリしました。一説には薩長出身の北海道長官が反対していて、結局合祀されたのは平成6年とか。体感としてはつ、ついこないだという感じで…ビックリ…。
同じように東北全体が戊辰戦争でいろいろあったのに、亘理の成実は(祀って)よくって会津の保科正之はダメだとか…屯田兵に応募するのに会津出身だとはねられるからぼかして青森県出身って名乗ってたとか…東北全体がいろいろあったのに、特別扱いで叩かれている会津ー斗南藩出身者の苦労が偲ばれてなりません。
亘理家中も北海道で不作だったのでフキばかり食べていてアイヌの人たちにからかわれた話は聞いたことありますが、斗南では、戦場では何食っても生き残るのが当たり前で、今餓死したら薩長の人たちにあざけりを受けるからって何を食っても生き残るんだと犬の肉を詰まらせた子を叱責する話や、馬のえさの豆食べて鳩侍って嘲られた話などきつすぎる…。そこから北海道へ行って、藩祖の祭神を心の支えに開拓に邁進した話など、会津藩クラスタさんには非常に興味深いご本かと思います(というかとっくにお読みな気が)。
米沢藩やほかの藩士の藩祖神社の話(特に藩祖を祭神とするのは東北諸藩に多かった話)や、時代がさがり、帰属意識を藩やふるさとではなく、開拓村自体に帰属意識を持たせるために神社の傾向が変わっていったことが、丁寧に論じられているので、北海道開拓に携わった屯田兵に興味がある人にはとてもオススメの書だと思います。
私も筆者が卒論で書かれたという本州内(福島県郡山市)の近代開拓村の話などはまったく知らなかったし、時期によって・出身によって開拓村の傾向が大きく違うこともこの本で初めてしっかりとしれたように思います。

よく、仙台藩の各家中の北海道移住の中でも、亘理伊達家中の移住は成功例としてあげられますが、それはもう二度と帰らず、北海道で生きるという覚悟と、保子姫や成実を精神的支柱にしての家中そろっての移住が功を奏したのだなあ…と改めて思えてきます。今はぱっと見ると日本中どこでもあるような普通の町になっているけれど、たった150年たらずの間にこんなに素晴らしい町ができたというのもすごいことなんだなあと。
今度北海道行くときは琴似神社にも行きたいです…。あと開拓村にも…。記念館にも…できれば図書館も…(休みがいくらあっても足りない…(泣))。

余談

…まったくどうでもいいことですが、図の所(100p)だけ、成実の名前が二カ所「成美」になっていて、ああまた「なるみ」で入力されている…と笑ってしまいました。最近読んだ鹿踊の論文でも成美とか茂実とかになっていて、論文では単語登録してあげてー!(笑)と思いました。

あともうひとつ、まったくどうでもいいこと(笑)ですが、心の伊達市民制度というのがありまして、それで貰ったホタテが死ぬほど美味しかった!!です。皆様も是非制度をご活用ください…(笑)。

20160229【追記】

この本も読みました。

明治中期後期の北海道への一般移住者の移住中・移住後の生活がどんなものであったかを丁寧に書いた本。初期の士族移住の話は少なめだけどちょろっとはあり。アイヌとの共存関係の話なども。現在に近い話もたくさん。筆者さんは旧尾張藩士が開拓した八雲の出身だとか。
こないだ読んだ『近代開拓村と神社』の後半に出てきた一般移住者と重なるので、併せて読むと面白い。あと偶然にも荒川弘さん(北海道出身)の農業マンガ『百姓家族』の新刊の後に読んだのでこの流れのあとにいまがあるんだなって実感した…。歴史ってすごい。

この本に、ちょこちょこでてきた伊達の話は以下くらい(主に中後期の一般家庭移住者の話がメインなんで、初期に行った仙台藩のそれぞれの家中の話はほとんどでてこない)
→「伊達支藩片倉小十郎の後続家臣団が石狩から白石へ全員歩いて移動の途次、アイヌの人たちがウグイを沢山獲っているのに遭遇した。いろいろ聞く人がいたが「イランカラプテ」というのみであった。「今日は」という意味であるのは後で分かったことだった。」アイヌとの関わりの章で。
→片倉家中の第一班約400人は咸臨丸に乗ったけど、方向間違えて座礁して転覆沈没。9月だったので全員助かったけど荷物は全部ダメだったとか。その後二班庚午丸と合流して小樽→石狩→手稲と白石に入植。
→邦成の話はちょこちょこ出てくる。中期後期の集団移住は前もって視察するのが普通で、自分たちが希望する土地いくつか見て回り「伊達」と「八雲」を視察した…と書いてあったんで、八雲をググッてみたら、八雲は旧尾張藩士が入植した土地なんすね。徳川慶勝主導。その頃には伊達と八雲が特に移住開拓の成功例と見なされていたってことでいいんでしょうか?

*1:と当時は思われていた

*2:ドンと大砲がなったら五里逃げたという仙台藩士を嘲った言葉

2016冬高野山

高野山に行ってきました!

伊達オタ仲間であるTさんが関西にいらっしゃったので、1/10〜11と高野山に行って参りました(1/9は太平記旅として千早・赤阪城にも行きましたが、伊達とは関係ないので割愛)。

南海電鉄難波駅から電車に揺られて2時間ほど(乗り換えのない特急こうやなら1時間20分ほどでつきます)。南海難波駅〜橋本駅のりかえ〜極楽橋駅〜ケーブルカー〜高野山駅です。
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ちょうど放映日でしたが、南海難波駅がもう真田丸一色になっていました。グッズ売ってたので、クリアファイル買いました。あとから聞きましたが、橋本駅の駅員さんは真田丸コスプレをしているらしいです。途中の九度山駅は真っ赤になっており、町も幟で一杯でした!
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高野山につきました。旅のお供シゲにゃん。今、高野山にいますww
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パンフに政宗を発見。
ちゃんとおっさん期なあたりがツボです。たしかに大坂の陣は伊達勢にとっては大遠征だったでしょうね。
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こうやくん(去年の、高野山開創1200年のときに作られたゆるきゃら)が見てる…。
本当にどこにでもいます。あとグッズ展開が幅広すぎる。たくさん売っています。
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伊達家の菩提寺である北室院も宿坊はあるのですが、檀家さんしか宿泊できないため、高野山の中で温泉などがある福智院という宿坊に宿泊。精進料理美味しいです。豆腐鍋がすごくおいしい!(そして真田丸を二回見ました)元々大河オタの私とTさん、久しぶりの面白い戦国大河にきゃっきゃいいながら風呂に入り、伊達話を寝落ちするまでして、翌日5:45に起きて朝の勤行に参加。ね、ねむかったです!
あと夜と朝すごく寒かった!(でも思っていたよりは暖かかったですが)

そして奥の院探索へGO!
実をいうと、前にネットで、奥の院の詳細マップに、宇和島・仙台本家以外に、石川家や涌谷伊達家の供養塔があり、その中に伊達安○という墓があるという情報を見ていて、それ探そう!ってのが第一目的でもあったのです。
結果から言いますと…何の成果も得られませんでしたっ!(泣)
そもそも私がネットで見たこの詳細地図がどこにも置いておらず。
政宗周りはともかく…政宗のそばのならまだいくつかわかったのですが、ほとんどの(江戸初期あたりと思われる)古いお墓は苔と磨耗で字が読めなくなっていて、広さと墓の多さから、案内があらかじめ立ってるものでないものを探すのはほぼ不可能な状態で…orz(行かれた方は納得していただけると思います)
涌谷伊達家の菩提寺はあるから、やっぱり「伊達安○」の供養塔は安芸(涌谷伊達)だったのだろうか…。
でも!亘理の世臣家譜の、常盤家の項に

「成実死んだ後、正保3年に成実の追善のために常盤吉定が高野山に登った(その後江戸を通って陽徳院(めご姫)に高野山土産を献上し、饗応を受けた)」

とあるので、やっぱり高野山にも、なんかあるんじゃないかと思うんですよ…出奔していた土地でもあるし、文禄3年に成実が施主したという記録が残っている久保姫や晴宗の供養塔も、もしかしたら探せばあるんでないかと…(当時の伊達家の菩提寺、観音院はその後廃寺となり、現在の菩提寺である北室院に引き継がれた)。

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てなわけで、気を取り直して、政宗墓所。
奥の院の中程、奥の院に向かって右側にあります。案内も立っているので間違えることはないはず。
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近寄ってみます。21年ぶりです!
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アップ。
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政宗のそばに他の家の人のもあるのではないかと言われたので、周囲を探してみると、政宗区画の外側、右の方にあった伊達河内守宗清(政宗三男)。
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政宗区画の後ろにあったもの。右の倒れかけているのが伊達式部宗倫(忠宗五男/登米伊達四代目)、左が白石若狭宗貞(白石宗直長男/登米伊達二代目)。もしかしたら登米伊達がここに固まってるのかな?
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奥の院入り口すぐにある宇和島伊達家。忠宗・秀宗個人のものもここらへん。
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現在の伊達家の菩提寺、北室院。檀家の方でないと入れないらしいので、門構えだけとらせていただきました。他に伊達家と関連がある成就院・巴陵院(涌谷伊達家の菩提寺だそう)も表まで行きましたが、やはり関係者や研究者でないと見学は無理なようで、外からだけ見てきました。なんでなくなっちゃったんだ、観音院よ!(泣)(経緯は知ってますが)
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門に竹雀紋と立て三つ引き両紋が。
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金剛峯寺。屏風絵がとても綺麗です。豊臣秀次自刃の間があります。内覧チケットを買うと、奥でお茶をいただけます。
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帰ります。楽しかったです。でも登米や宗清のがあるならあるんじゃないかと思うんだ…。またいつかリベンジしたい…。
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最後に。関西の私鉄・南海電車が真田丸に向けて全力で張り切っておるので、どうか 大河『真田丸』に萌えた皆様は南海電車で九度山or高野山を訪ねてみてくださいませ! (笑)  後半に必ず来るであろう(勝手に確信)重綱の出番も楽しみにしております! 政宗もちょろっと出てきてもいいですよ! 成実はモブでいいので配置してくれてたら勝手にこちらで認定して喜びます。

成実好きとしましては、今回も何の成果も得られなかったんですが、当時からあった金剛峯寺やら、町並みを歩いていますと「きっとここ来てるよ!」「ここ通ったに違いない!」などと感慨にひたれます。ええ、痛い歴史オタクですが、いつものことです。
苔むした供養塔がたくさん残る奥の院も、弘法大師がいらっしゃる本堂も、本当に荘厳で、冷たい空気も含め、背筋が伸びる思いで歩きました。もちろん私たちは電車とケーブルカーで行ったのですが、「この山どうやって登ったんだろう?」「伏見からここまで何日くらいで来たのだろう?」「季節的にはいつ頃からいつ頃までいただろう?」といろいろなことを考えました。
観音院の過去帳の翻刻見たときにも思いましたが、伊達家の人たちが結構頻繁に供養や回向のために来ているので、当時の高野山信仰含め興味深いと思いました。また、中世の寺院は私たちが現在想像するよりも影響力を強く持っていたのかな、などと思ったりも。ここらへんも知りたいものです。

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ちなみに前に書きました、昔の高野山旅の写真エントリです。21年前じゃない!23年前だ!(青ざめ)

あけましておめでとうございます!

2016年明けましておめでとうございます。
カメのようなペースでの更新ですが、読みに来て下さる方のおかげで続けていけております。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

これだけでは何なので

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で過去に書いたものなのですが、仙台藩の正月について。

元旦の日、一門は最も先に年賀の挨拶を一人一人藩主にした。「新年ありがとうござりまする」と挨拶する。藩主は「おめでとうござる」と答礼する。「ござる」をつけるのは一門にだけで、一家以下には、「ああめでたい」と答えたという。

元旦や大礼の際の儀礼

仙台城二の丸、表対面所があり、その敷居の外に、松の間という72畳の間がある。主君は対面所の正面に座り、一門衆は、対面所内の左右に、席順を千鳥がけにして列に成って並ぶ。一家以下の者は、松の間の左右に、席順を千鳥がけにして座る。
謁見するとき、一門衆は対面所の敷居より内側、中央二畳目に座る。一家の者は、松の間対面所の敷居より外で、中央二畳目に座る。準一家は三畳目、一族は四畳目、着座は五畳目に座る。
一族以上は、その名を披露し、盃をうけ、返盃する。着座〜召出の者は申次役の者が名前を披露し、返盃はなし。着座以上は太刀馬代を献上する。太刀上の者は次の間より出で、六畳目に座り、太刀のみ献じ、盃をうけて下がる。召出も次の間よりでて、八畳目に座り、太刀も献ずることもなく、盃をうけるのみ。以上の者達は一人ずつ出て行く。
大番組の平士は十二畳目に座り、六人ずつそろってでて、盃の流れをうけた。勺は表小姓による。
古くは、一人一人謁見するのは、一門から一族までだったが、次第に家格が上がる者が増え、席が狭く、式が終わらなくなったため、日にちがわけられるようにもなった。

基本的な伊達家の正月恒例行事

3日:御佳例御野始(鷹狩や追鳥狩などの模擬軍事訓練)が開催される。政宗存命中から、政宗9男で成実の養子となった伊達治部大輔宗実が担当している。
7日:御連歌(伊達家恒例の連歌の会)。
8日:心経会。
11日:政事始。
14日:御諚始。
18日:懺法。一年の懺悔をする。いろいろな種類があるが、おそらく伊達家は観音懺法。だいたい終わった後能会。
20日:在国のときは曹洞宗法問、22〜28まで護摩供あり。
あと、正月行事じゃないけど中秋(9月15日)に月見の会(の歌会)するのが恒例。

『仙台藩家臣録』『伊達騒動実録』『治家記録』を参照。
伊達騒動の頃迄に定まったものなので、政宗の時期にすべて決まっていたわけではないと思いますが、おおまかなところは決まったのではないかと思われます。

正月の伊達家、餅と酒の消費量がすごそうです。
では今年もよろしくお願い致します。

『政宗記』3-7:黒川月舟晴氏逆心附弾正気遣

『政宗記』3-7:黒川晴氏の裏切りと弾正への気配り

原文

されば伊達へ晴氏逆心の子細をいかにと申すに、其昔月舟伯父に黒川式部と云けん者を、輝宗代々月舟方より奉公に差上けり。爾るを信夫郡飯坂城主右近、右の式部を聟にして名代を譲らんと云契約也。爾りと雖ども娘漸十歳計りなるに、式部は其年三十に及ければ、約束迄にて未だ祝言もなし。其内右近思ひけるは、式部は娘に年も似合ず、又我身の隠居も程あるまじきに、彼娘を政宗へ差上、若も此の腹に御子出なば申し請、名代になす程ならば、家中の為にもよかるべきと思ひ、右の契約違変なり。故に式部面目を失ひ、月舟方へも行ずして、直に越後へ引切けり。此恨亦月舟は義隆へ継父なりしが、義隆弟の義康を名代に定め、伊達元安息女を彼義康へ取合、月舟手前に置ける故、義隆滅亡ならば末の身の上大事に思ひ、今度の逆心理りなり。角て弾正気遣けるは、伊達勢を給はらんと御約束にはありけれども、未だ其色もみへず、敵地中に塞りければ通路は叶はず、今や今やと待けれども、今年も暮て天正十五年正月末になりければ、明暮大崎を気遣ける処に、頃は二月二日の日、松山よりの伊達勢三本木の川を打渡し、先陣は師山を押通し、新沼にかかりて、中新田への働きなり。されば下新田は義隆一味の処なれば、城主葛西監物、偖加勢の大将には、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・黒沢治部・米泉権右衛門・宮崎民部・彼七人宗徒の者ども、葛西が城に楯籠り、「伊達の軍兵中新田を押して通る程ならば、一人も通すまじ」と広言なれども、流石無勢なれば口には似合わずして通しけり。師山の大将には、古川弾正・石川越前・葛西太郎右衛門・百々城主右京亮を始め、歴々宗徒の者ども籠りけり。偖川より南桑折の城へは、黒川月舟楯籠り、飯川の城主大隅と、両城の道を立挟みければ、伊達上野・浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡を首め、三本木の川を渡て四百余騎くつわ*1を並、師山の南の畑に控たり。先陣は中新田近所に打出でければ、城内の南条下総と云し者町より四五丁出向ひけるを、先手の軍兵一戦を持掛、内へ押込付入にして、町構へより二三の曲輪まで烽火なせども、下総本城へ引入、城は堅固に抱ひけり。御方の軍勢方々へ押寄押寄働きけるを、軍奉行の小山田筑前、跡を気遣ひ下知をなして、惣手を引上段々備へを取せて差置ければ、氏家弾正此の働きを俄かに聞に、伊達勢近所迄は思ひも寄ざる処に、中新田への働きなれば、弾正取るものも取合はず岩手山を打立、伊達の人数へ加はるべしと働き出れば、御方の軍兵方々を焼払ひ引上げれば、加はることも叶はずして、弾正空しく引取なり。伊達の人数も雪深く道一筋にて、漸く申の刻にも成ける程に、多勢と云ひ急ぎ引上、跡の御方へ加はらんと、師山へ取て返しければ、伊達上野・浜田伊豆、各疾に引上、其上多田川と云ふ流と三四間の用水堀と、両橋共に引れ引上げること叶はざるなり。故に先手の軍勢又新沼へ取て返し、下新田へ一戦を持掛取組けれども、切所の橋を二重迄引れ、味方の者ども是を心に掛け、後れけるを小山田筑前、名誉の者にて敵を守返し追散しければ、歩者一人脇へ横切けるを、物付せんとて追掛、十四五間乗余けるに、深田の上に雪降つもり、平地の如くにみへけるを、ふけとは知らずに乗込けるに、馬は倒に成て筑前打ぬかりければ、手綱を取て引上んとせし処を、敵取て返し筑前を討んとす、其とき手綱をはなし、ぬきたる太刀にて戦ふと雖ども、敵は多勢後ろへ廻り片足切て落されぬ。爾りといえども、太刀をば捨ずに戦ひけれども、軍は久し老武者なれば、打ける太刀もよはかりけるに、四竈が郎等走り寄首を取らんとかかりけるを、持たる太刀を打捨彼郎等を掴寄、腰なる脇指を引抜、真ただなかを突留にして、二人共同じ枕に伏けるを、敵来て首をとる。扨敵の人数は川の南に控けるが、此方の負色見合、川を越て下新田の衆へ加りければ、日も早山の端へかかりけるに、軍奉行の筑前を始め、御方の者ども多勢討れて、剰へ切所の橋迄引れければ、除けることを叶はずして、伊達の軍兵新沼思の外成籠城なり。されば小山田討死の朝、不思議なる奇瑞にや、宿より軍場へ十余間出けるに、乗たりける馬の太鼓は早遅し遅しと物を云、供の者ども是を聞て興をさましけるとかや。筑前今日の軍には勝たるぞ、門出よしとて向けるとぞ。爾るに筑前討死の後敵の方へ分捕けるに、見知たる者有て「此馬一年義隆祈祷のため野々嶽の観音へ神馬に引れける馬なり」と云ふ。義隆も見知給ふとなり。何方を廻り筑前手へ渡て、彼馬に乗て討死なるは神力の威光あらたなり、と其ときの風聞なり。又筑前差物を最上義顕へ、義隆より遣し給へば、日来聞及たる名誉安からざるものなりとて、黒地に白馬櫛の小旗を、出羽の羽黒山へ納められけり。冥加に叶ひ、死して後の高名是なりとて、時の人々感じけり。

語句・地名など

宗徒(むねと):おもだったものども
申の刻(さるのこく):午後4時
ふけ:深田。ふけ田
野々嶽(ののだけ):箆山嶽。遠田郡涌谷町にある山。古くから箆嶽観音の霊地として信仰を集めている。葛西・大崎氏両氏の信仰が篤かった
突留(つきどめ):富くじの一等賞/最後に突くこと転じて物事の極み

現代語訳

さて、伊達へ黒川月舟斎晴氏が反逆した詳細はどうであったかというと、その昔、月舟斎の伯父に黒川式部という者がおり、輝宗の頃月舟斎から伊達へ奉公に出されていた。それを信夫郡飯坂城主飯坂右近宗康はこの式部を聟にして、名代を譲ろうという約束をしていた。しかし、この娘はようやく10歳になったばかりで、式部はその年すでに30を越えていたので、約束のままでまだ祝言もしていなかった。その内右近宗康が思ったのは、式部は娘に年も釣り合わず、また自分の隠居もそれほど先ではないだろうから、この娘を政宗へ差し上げ、もしこの娘が政宗の子を妊娠したならば、この子を請うて、跡継ぎにするのならば、家中の為にもよいだろうと思い、式部との約束を破った。
このため式部は面目へ失い、月舟斎の元にも戻らず、直接越後へ去ってしまった。
この恨みに加え、月舟斎は義隆の継父であったのだが、義隆の弟の義康を跡継ぎと決め、亘理元宗の娘をこの義康へ娶せ、月舟の近くに置いていたため、義隆が滅亡するならば将来の身の上を心配したため、このたびの反逆は不思議ではなかった。
そのため弾正が心配していたのは、伊達勢を送ってもらえるという約束ではあったが、まだその様子も見えず、敵地の中に塞がってしまったなら、道を通ることはできなくなるため、今か今かと待っていたのだが、年もくれて天正15年正月末になった。ずっと大崎方面を心配している頃、2月2日の日に、松山からの伊達勢は三本木の川を渡り、先陣は師山を通り、新沼にかかり、中新田への出兵となった。
下新田は義隆一味の地であったので、城主葛西監物と加勢の大将には、里見紀伊守・谷地森主膳・弟八木沢備前・黒沢治部・米泉権右衛門・宮崎民部・この主立った者たち七人が、葛西の城にたてこもり「伊達の軍兵が中新田を通ろうとするなら、一人も通さない」と広言していた。しかしさすがに無勢だったため、口ぶりとは逆に伊達勢の通過を許した。
師山の大将は古川弾正・石川越前・葛西太郎右衛門・百々城主右京亮を始め、歴々の主立った者どもが籠っていた。さて川より南の桑折の城へは、黒川月舟斎がたてこもり、飯川城主大隅と両城の道をはさんでいたので、伊達上野・浜田伊豆・館(田手)助三郎・宮内因幡をはじめ、三本木川を渡って400騎あまりがくつわをならべ、師山の南の畑に控えていた。先陣は中新田の近くに出、城内の南条下総という者が、町から4,5丁先へ出迎えているのを、まず配下の軍兵たちが一戦を持ちかけ、城内へ押し込み、付けいり、町構えから2,3の曲輪まで放火したが、下総は本城へ戻り、城は堅固に守った。
味方の軍勢はほうぼうへ押し寄せ、押し寄せ戦闘をしかけるのに対し、軍奉行の小山田筑前は後を心配し下知をし、惣手を引き上げ、じょじょに備えを取らせて兵を置いたところ、氏家弾正はこの動きを急に聞き、伊達勢の近くにいたときは思いもよらなかったのだが、中新田への働きを見て、弾正は取るものも取らず、岩手山を出発し、伊達の軍勢へ加わろうと戦闘に出た。しかし、味方の兵はほうぼうを焼き払い引き上げたので、加わることもできず弾正は空しく引き上げた。
伊達の兵も雪が深く道は一筋しかないため、午後4時ごろになったころにようやく引き上げ、後の味方へ加わろうと師山へ引き返したところ、留守上野・浜田伊豆はそれぞれ急いで引き上げ、その上多田川という流れと3,4間の用水堀と、二つの橋は共に落とされ、引き上げることが出来なかった。そのため先手の軍勢は新沼へとって返し、下新田へ一戦を持ちかけ取り組んだのだが、重要な場所の橋を二つも取られ、味方の者はこれを心配して後れた。小山田筑前は功の者であったので敵から守り返し、追い掛け散らしていたのだが、徒の者が一人脇へ横切ったのを仕留めようと追い掛け、14,5間追い掛けたところ、深い田の上に雪が降り積もり、平地のように見えていたのを、深い田と知らずに乗り込んでしまい、馬が倒れてしまい、筑前はどうにか逃げ、手綱を引いて引き上げようとした。すると、敵は引き返してきて、筑前を討とうとした。そのとき手綱を放し、抜いた太刀で戦ったのだが、敵は多勢背後へまわり、片足を切られ落とされた。しかし太刀を捨てずに戦い続けたが、戦は久しぶりの老武者だったため、打つ太刀の力も弱く、四竈の郎等が走り寄って首を取ろうとしたところ、持っていた太刀を投げ捨て、この郎等を掴み寄せ、腰につけていた脇差を引き抜き、最後のひとつきで倒し、二人とも倒れていたところ、敵が来て首をとった。
さて敵の勢は川の南に控えていたのだが、この敗色濃厚なのを見て、川を越えて下新田の衆へ加わったところ、太陽がはやくも山の端にかかっており、戦奉行の筑前をはじめ、味方の者たちが多く打たれ、その上肝心の橋まで落とされたので、退却することが出来ず、伊達の軍兵は想定外に新沼の城に籠城することになった。
すると小山田が討ち死にした翌朝、不思議な現象であったのだろうか、宿から戦場へ10間余り出たときに、「乗った馬の太鼓がもう遅い遅い」とものをいい、供の者たちはこれを聞いて気を取り直した。筑前は「今日の軍には勝つぞ、門出がいい」と向かったという。筑前が討ち死にしたあと、敵に奪われていたのを、見知った者がいて「この馬は一年間義隆が祈祷のため、野々嶽観音の神馬に使われていた馬である」と言った。義隆も知っているという。どこをめぐってか筑前のもとに渡り、筑前がこの馬に乗って討ち死にしたのは、神の力のためである、とそのとき噂となった。また筑前の差し物を義隆から最上義光へお送りになったところ、日ごろよく聞いた名誉の素晴らしいものであると、黒地に白馬櫛の小旗を出羽の羽黒山へ納められた。神々の恩恵を受け、死して後に高名を得るというのはこういうことだと、その時の人々は感心した。

感想

黒川晴氏がなぜ背いたかという話をはじめに説明しています。
飯坂城主飯坂宗康が黒川式部という男に娘を娶らせ、婿としようという約束があったのを、年齢が離れていたためできていなかったのを、政宗に娶らせることにし約束を反故にしたため黒川式部が恨みを持っていたこと、晴氏が義隆に近かったことがその理由としています。
そこへ伊達勢が進軍していく有様、特に小山田筑前の戦死ぶりを書いています。
こういう軍記は、敵であっても武士として素晴らしい死に方をした武将を顕彰するために書かれているとも言えるでしょう。特に成実はそういうのを好んで書いていますね。

*1:馬偏に鹿、その下にれんが(点よっつ)

『政宗記』3-6:氏家弾正忠節の事

『政宗記』3-6:氏家弾正の内応のこと

原文

去程に義隆へ刑部一党訴訟の旨を弾正聞て、「安からざること也、返忠の徒党共逆意のときは、某一人思詰名生に於いて籠城ならば、岩出山より取移し、滅亡の御供こそ思ひしに、今又我を退治とは移れば替る世の習ひ、か様のことを申すらん、さらば我も手を越て伊達へ申しより、命をまぬがれん」とて、片倉河内・真山刑部といふ郎等二人を米沢差上、片倉景綱を以て、「新田刑部を始め親類の者ども、一度義隆を背き伊達へ忠申すといふとも、思の外に義隆を刑部生捕、今は早其忠を致し違変して、已に某を滅亡させんといふ謀あり、仰ぎ願くば御助勢下されなば、大崎中をばたやすく治め差上奉らん、如何あらん」と申す。政宗「年来義隆への憤り、剰へ刑部一党中の違変、彼是なれば、軍兵ども遣はし加勢をなさん」と宣ふ故に、両使急ぎ帰りて仰せの旨を申し渡せば、弾正悦ぶこと斜めならず。されば義隆を新田へ生捕、其後名生はあき処なれども、義隆の北方と子息正三郎殿、御袋に東の方と両人をば弾正名生の城に人質に押へ置、其守りには弾正親参河と、伊場惣八郎を附置けり。角て弾正、正三郎殿を伊達へ差上べしとは思ひけれども、不慮なることにて譜代の主君を、背くだにあるに況や引連差上なば、天命をも背き仏心三宝にも放され奉るべきことを感じ申し、新田の城代南条下総所へ送りけり。二人の北の方は、義隆父子へも離れければ、二六時中の歎き已に自害をと思はれけれども、流石に叶はざれば明暮涙のみにて候こと。かかる処に、同十五年*1丁亥正月十六日に、大崎へ伊達勢を向給ふと雖ども、安積表を気遣ひ給ひ、信夫より南の侍大将をば、遣はし給はで、中奥の人数ばかりを指向給ふ。是に付て政宗伯父*2に伊達上野守政景、一家の泉田安芸重光、両大将にて、其外粟野助太郎・永井月鑑・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡・館助三郎、家老浜田伊豆、軍奉行は小山田筑前、横目には小成田惣右衛門、山岸修理にて、惣軍を相具し、松山の遠藤出羽処へ遣はし玉ふ。去程に大崎より伊達へ忠を入ける面々、氏家弾正・一栗兵部・湯山修理・一の迫伊豆・宮野豊後、三の迫の富沢日向何れも岩出山近所と云幸ひなれども、月舟伊達へ逆心なれば、四竈と松山の間は月舟居城の黒川にて、尾張何と存ずるとも是も叶はず、さては何方より働き、偖如何せんといふ、各申ければ、桑折・師山二ケ城に籠もりたりける敵軍、伊達の軍兵押て通る程ならば、敵二ケ城より取出合戦も取組ども、三本木の川後口に当て、中々働き難しと申す。其にて遠藤出羽「新沼の城主甲斐は、某妹聟にて代々伊達へ忠の者なり、さらば師山には押へを指置、中新田へ押て通り玉ふとも、別義有るまじき」と申す。上野、「左は候へ共、中新田へは二十里余り、況や敵の城を後に当て、両地へ道を付置けるに、彼地を押て通ること気遣なり」と云ふ、其にて重光思ひけるは、今度の軍は其発起なれば、上野殿日来は我等に不和と云ひ、其に又月舟は御身の舅にて、彼是此軍は情に入まじきと疑心をなして、「安芸・出羽申処理也、伊達の勢を氏家見かけざる時は、頼みを失ひ、義隆へ返忠危きことなり、師山には押へ差置通り給はば好るべし」と申す。故に是非なく中新田への働に相済ける事。

語句・地名など

四竈(しかま):宮城県加美郡色麻村四竈
三本木(さんぼんぎ):宮城県志田郡三本木町

現代語訳

前述したように、義隆へ刑部一党が訴えたということを弾正は耳にして「心配である。再び寝返りの者たちが逆心を抱いていたときは、私一人だけが思い詰め、名生で籠城していたら、岩出山より場を移し、滅亡のお供をしようと思っていたのに、いままた私を討とうとは、移ろいやすい世の習いはこのようなことをいうのだろう。ならば私も手を使って伊達へ近づき、死を逃れよう」と、片倉河内・真山刑部という郎等二人を米沢に使わし、片倉景綱を介して「新田刑部をはじめ親類の者たちは一度義隆に背き伊達へ内応するといいながら、想定外に刑部が義隆を生け捕ったため、今はまたそちらに内応し、心を変え、私を滅ぼそうというはかりごとをしております。願わくば、助勢をくだされば、大崎領をたやすく手にいれ、差し上げいたしましょう、どうでしょうか」と言った。
政宗は「近頃の義隆への憤りに加え、刑部一味全体の心変わりといろいろあったので、我等の軍兵を遣わし、加勢をしよう」と仰ったため、両使いは急いで仰った内容を伝えた。すると氏家弾正は非常に喜んだ。
義隆を新田へ生け捕ったあと、名生は空き城となっていたのだが、義隆の正室とその子正三郎は、義隆の母親と東の方の両人を弾正は名生の城に人質として置き、その守りに弾正の親である参河と、伊場惣八郎をつけ置いた。そして弾正は義隆の子正三郎を伊達へ献上しようと思っていたのだが、思わぬことで、代々仕えた主君を、背くのみならず、召し連れ差し上げたならば、天命に背き、仏心三宝にも見放されるであろうと強く思い、新田の城代南条下総のもとへ送った。
二人の北の方(正室と義隆母)は、義隆父子と離れてしまったことで、一日中嘆いており、自害をしたいと思っていたのだが、さすがに不可能だったため、涙に明け暮れることしかできなかった。
そうこうしているところに、政宗は、天正15年1月16日*3に伊達の軍勢を大崎に向かわせなさったのだが、安積方面へ心を配り、信夫より南の侍大将たちは遣わされず、中通りの勢だけを向かわせられた。このため政宗叔父の留守上野介政景・一家の泉田安芸重光を両大将にして、そのほか粟野助太郎重国・永井月鑑(長江晴清)・高城周防・大松沢左衛門・宮内因幡(中務重清)・館助三郎(田手宗実)、家老浜田伊豆景隆、軍奉行は小山田筑前、横目には小成田惣右衛門重長、山岸修理定康にて、総軍をつけ松山の遠藤出羽高康のところへ遣わせなさった。
それに大崎から伊達に内応した者たち、氏家弾正・一栗兵部・湯山修理・一の迫伊豆・宮野豊後、三の迫の富沢日向、いずれも岩出山に近くというのは幸いであったのだが、黒川月舟斎晴氏が伊達に逆らったので、四竈と松山の間は、月舟斎の居城の黒川があるため、尾張は何と思っても実行することができず、さてどの方角から戦を仕掛け、どのように兵を進めようと評定になった。
それぞれが言ったのは、桑折・師山の二つの城に籠もっている敵軍は、伊達の軍兵が無理に通るのなら、この敵の二つの城から出て合戦となるだろうが、三本木川が後ろにあるため、なかなか戦闘しづらいであろうと言った。そのため、遠藤出羽は「新沼の城主甲斐は私の妹聟ですので、代々伊達へ忠節を誓っている者であります。なので師山には抑えをおき、中新田を強引に通ったとしても、困ることはないでしょう」と言った。
上野は「そうではあっても、中新田までは20里あまりである。敵の城を後ろにして、両地へ進路を向けると、彼の地を通ることは心配である」と言った。それを聞いて重光が思ったのは、今度の軍は重光が言い出しであるので、日ごろから自分と不和をなしている留守上野政景は、その上月舟斎を舅としていたので、この戦にかれこれと情けをかけるのではないかと疑いを持ち、「泉田安芸重光、遠藤出羽の申すように。氏家が伊達の勢を見ることができないときは頼みを失い、義隆へ再び内応する可能性があり、危うい。師山には押さえを置き、お通りなさるのであればよいのではないでしょうか」と言った。そのため、仕方なく中新田への進軍することになった。

感想

大崎合戦展開中です。注でも書きましたが、『政宗記』では天正15年となっていますが、『治家記録』では天正16年となっています。まあ成実の思い違いでしょう!(笑)←結構年号の間違いありますよね…おじいちゃんなので忘れたのか!(笑)
成実は「信夫より南の侍大将」にあたるので、自身は参加していません。だから間違えたのか!(笑)
この大崎合戦で重要になってくるのは泉田安芸重光と留守上野政景の不仲です。月舟斎の婿である政景の微妙な立場も関係してきます。興味深いです。

*1:『治家記録』はこれを天正16年とする

*2:叔父

*3:治家記録によると天正16年

『政宗記』3-5:大崎陣之事

『政宗記』3-5:大崎での戦のこと

原文

同十四年七月、政宗仙道の軍募りて四本松二本松迄で手に入玉ひ、八月始めに米沢に帰陣し給ふ。然る処に大崎義隆の家中二つに分り政宗へ申寄、其根本を如何にと申すに、其頃義隆へ拒障上の新田刑部と云、双びなき義隆崇敬の者あり。爾るに彼者いか成虚言もありけるやらん、義隆前跡のやうにもなく、其後又伊揚*1惣八郎といへし者近く使いひ給ふ。故に刑部驚怖を銜み、親類多き者なれば、其者ども一同してさたなしけるを、惣八郎見合大事とや思けん、岩手の城主氏家弾正と云けん者、末の頼みになさんとて、弾正方へ其旨頼みければ、引立候べきとて誓詞を以て約束なり。刑部親類是を聞て、弾正取持程ならば、刑部一党悪むべしとや思けん、其頃大崎・伊達の境論にて、義隆と政宗不和なりけるを、刑部一党是を悦び、「伊達より加勢を下され弾正一党惣八郎と共に討果たし、義隆へも自害をさせ、大崎中をばたやすく御手に入ん」と申す。政宗「一左右次第に人数を遣すべし」と宣ふ。爾と雖も刑部其頃迄、義隆へ付参らせ玉造の名生の城に相詰けり。されば義隆へ弾正申けるは、「刑部一党政宗へ忠を入れ、逆心して既御滅亡の禍ひなり、去程に刑部をば誅罰あるべく候や、しからずば牢舎には如何あらん」と申す。義隆中処は「去る事なれども、幼少の者より召使ひ、又死罪牢舎は不便なり、只其身の在所新田へ遣はすべし」と宣ふ、様々に諫めけれども其甲斐なし。斯て義隆刑部を召して、「其身一党逆意を企ち口惜けれども、幼少より召使ける其賞に死罪を思ひとどまり候ぬ、今より在所新田へゆけ」と宣ふ。刑部「仰せは尽し難けれども、御暇を給はり御本丸を退きなば、心に掛り候とて傍輩どもに、即時に討れ候べし、恐れ多き申ことには候へども、只今迄の報恩に、中途迄召連下されなば、有難く覚へ候べし」と申ければ、不便の由宣ひ大崎の内伏見と云処迄送り給ふ。爾るに刑部究竟の郎等ども二三十人、刑部には付ずして義隆を、前後左右に打囲て参りけるを、義隆「供の者ども無用」と申せば、早事を出すべき風情にて、漸伏見へ送り玉ひ、「是よりゆけ」との宣へば、刑部は「其身計り参るべき体なれども、郎等ども迚も新田迄召連下さるべし」と申す、供の衆如何あらんと申しければ、義隆を討果さんとす、故に思ひも寄ず新田へ送り、在城名生へも送らずして新田に止置候なり。去程に刑部親類、狼塚の城主里見紀伊守、谷地森の城主主膳、宮沢の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正、百々の城主左京亮、八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部、中の目兵庫、飯川大隅、黒沢治部、これは義隆の子舅なり、斯くの如くの歴々の者共、右には政宗へ申寄、御威勢にて氏家一党惣八郎と共に討果し、義隆へも自害を成せ参らせんと企ちけれども、思の外義隆を生捕本の心を今又引替、伊達を相捨義隆を守立て、氏家と惣八郎を退治せんとの評定にて、帰忠の面々共義隆へ申しけるは、「刑部親類申合せ、取立申す程ならば、累代の主君と申し誰か疎に思ひ奉るべき、只弾正一人と思ひ詰、已に二世の供迄約束なりしを、今に到りて退治とは面目なきとは思ひけれども、新田に押止訴訟なれば、流石力及ばず尤もなりと同じける」。

語句・地名など

狼塚(おいぬづか):宮城県加美郡中新田町狼塚
拒障(こしょう):辞退すること
崇敬(すうけい):あがめ奉ること、心から尊敬すること
一左右(いっそう):便り、知らせ、指示
究竟(くっきょう):非常に強い、この上なく優れている
早事(はやこと):急いですること、慌ててすること

現代語訳

天正14年7月、政宗は中通りの兵を集め、塩松・二本松までを手中にし、8月始めに米沢にお帰りになられた。そのころに大崎義隆の家中が二つに分裂し、政宗へ申し入れてきた。
その詳細はどのようであったかというと、その頃義隆への出仕をやめていた新井田刑部という、義隆から並ぶものない寵愛を受けていた者がいた。しかし、どのような偽りの言葉をいったのだろうか、義隆は前のような寵愛を与えることがなくなり、その後伊場惣八郎(伊場野総八郎)という者を近く使うようになった。そのため、刑部はこれに驚き、恐れを抱き、刑部には親類が多くいたため、その者たちを集めて、謀略をしようとした。これを見て惣八郎は大事であると思い、岩手沢城主氏家弾正吉継という者を将来の頼みにしようとし、弾正へそのことを頼んだところ、同意して、誓詞をかわし約束した。
刑部の親類はこれを聞いて、弾正が取り持つほどならば、刑部の一党は憎々しいと思ったのだろう、その頃大崎と伊達の境の争いで、義隆と政宗は不和になっていたことを、刑部一党は喜んで、「伊達より加勢をいただき、弾正一党と惣八郎を共に討ち果たし、義隆も自害させ、大崎領をたやすくお手に入れることができましょう」と言った。政宗は「知らせ通りに兵を残すことにする」と仰った。しかし、刑部はその頃までに、義隆へついて玉造の名生の城に詰めていた。
なので弾正は、義隆に「刑部一党は政宗へ寝返り、既に大崎家滅亡の禍いである、なので刑部を誅伐するべきであります、そうでないなら牢舎へ入れるのはどうでしょうか」と言った。義隆の心中は「そうではあるけれど、幼少の頃から召使った者を、今死罪や投獄するのは可哀想である、ただかれの在所である新田に返すのがいい」と仰った。家臣たちががさまざまに諫めたけれど、義隆は考えを変えなかった。
義隆は刑部を呼んで「おまえとその一党は反逆を企てたことは口惜しいことであるが、幼少から仕えてくれた褒美として、死罪とすることを思いとどまった。今より在所の新田へゆけ」と仰った。刑部は「仰せは有り難いことであるが、暇を給わって本丸をしりぞいたならば、心配の種であるとして同僚たちにすぐに討たれるでしょう、恐れ多いこととは思いますが、今までの御恩への報いとして、中途まで連れていってくだされば、有り難く思うことでしょう」と言ったので、義隆は哀れに思い、大崎領の内、伏見というところまでお送りになった。
すると刑部配下の強い郎等たちが2,30人刑部ではなく義隆を前後左右に取り囲んだのを、義隆は「供の者は無用である」と言ったのだが、急がなくてはいけない様子であったので、ようやく伏見へ送り、「ここからゆけ」と言った。すると刑部は「ただ身ばかりで行くべき身でありますが、郎等たちも新田まで一緒におつれください」と言った。供の者たちはどうしましょうと言ったところ、義隆をうち果たそうとした。そのため思いもよらず新田へ送り、在城であった名生へ送ることなく新田に留め置くことになった。
これをうけ、刑部の親類である狼塚の城主里見紀伊守・谷地森の城主主膳、宮沢の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正、百々の城主左京亮、八木沢備前、米泉権右衛門、宮崎民部、中の目兵庫、飯川大隅、義隆の小舅である黒沢治部など、この通りの歴々の者たちは政宗へ申し入れ、政宗の加勢により、氏家弾正一党と惣八郎を供に討ち果たし、義隆も自害させようと企てたのだが、刑部が想定外に義隆を生け捕ったことで心をいれかえ、伊達への内応を中止し、義隆を盛り立てて、氏家弾正と惣八郎を退治しようと評定で決まった。
再度内応した者たちは、義隆に「刑部親類たちは申し合わせ義隆を盛り立て、累代の主と言い、だれがおろそかに思うことでしょうか。ただ頼れるのは弾正一人と思い詰め、既に殉死し次の世まで仕えるとお約束したことを、今になって退治するというのは面目がないと思うけれど、新田に押し止め、訴えることができたので、とても力及ばず、もっともであると思いを同じくした」と言った。

感想

天正14年7月、塩松・二本松を手にいれ、政宗が米沢に帰陣した8月以降の出来事、大崎合戦のスタートです。
大崎氏は本姓は源氏、奥州管領・探題をつとめた一族でしたが、戦国時代になって弱体化し、稙宗の援助を受けたことから伊達氏との力関係が逆転していました。
大崎家中の内紛をきっかけに政宗は大崎領への侵攻を開始します。

*1:仙台叢書版では伊場