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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』50:田村の内談

『伊達日記』50:田村の内談

原文

田村にて内々色々申分共候。月斎。刑部少申せられ候は大森に政宗公御在馬成られ。築山に義胤御座候。兎角羽方の衆を入申事いかがに候間。伊達衆。相馬衆ともに如何様の御用候共入申間敷梅雪。右衛門太補其外表立候衆へ相談申され候所に。いずれも尤の由申され候而片倉小十郎所へ両人より内談申され候に付。御飛脚にても遣わされず候。

語句・地名など

現代語訳

田村の家中ではいろいろと言われていたのだろう。月斎と刑部少輔は「大森に政宗公が、月山に義胤がいらっしゃる。とにかく双方の衆を田村にいれるのはどうかと思うので、伊達の者も相馬の者もどのようなことがあっても田村領には入らないで欲しい」と梅雪・右衛門太夫はその他表だった衆と話し合い、みなもっともであると思い、片倉小十郎の所へ二人から相談があった。そのため、飛脚も遣わさなくなった。

感想

田村ではいろいろな事が話され、伊達相馬どちらの兵も中にいれないということで評議に決着が付きました。
しかしこれで決着とはいかず…続きます。

『伊達日記』49:高倉への視察

『伊達日記』49:高倉への視察

原文

一大森に御在馬の内。高倉近辺を御覧成らるるべき由御意にて。五月十五日帰に前田沢迄御出。城之内迄御覧成られ候。我等は御馬を存ぜず。本宮にて追付御供仕候。

語句・地名など

現代語訳

一、大森にいらっしゃったあいだ、高倉周辺を御覧になりたいと思われ、5月15日に前田沢まで出られ、城の中まで御覧になった。私は出馬を知らず、本宮で追い付き、お供した。

感想

外出を聞いて、成実が政宗をあわてておいかけたのかと思うとおもしろいところです。

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え

原文

一田村衆相馬へ申合られ候衆も。尤伊達へ御奉公の衆も石川弾正逆心仕候間。政宗公御出馬成られるべき義存ぜられ候へども。一切其沙汰之無きに付。月斎。橋本刑部少。白石若狭を以米沢へ申上られ候は。弾正逆心仕候間則御出馬成られ御退候かと存候に左様にも之無く候。田村は過半相馬へ申合られ候へども政宗公御出馬を機遣仕事切れ申せられず。弾正は義胤を引出申すべきためを以事切仕候間。御出馬成られ下され候様にと申上られ候。石川弾正逆心候間。則御出馬成られるべく候へども。最上の御弓矢に候。いづ方にも境目には大名候へども。長井は最上さかいに小身もの計さしおかれ候間。米沢を明御出馬成られ候事御気遣いに候。其上弾正抱の地一ヶ所も取せられず候て。一働二働の分にて御入馬なされ候事はいかが思召れ候に付而御延引なされ候由御意候。重而月斎。刑部少申上られ候者。左様の御底意を世上にては存ぜず。一切御馬窕申さず候由。田村侍ども存候者残らず相馬へ相付らるべく候。何方の御弓矢も左様に御手ぎはの御座候儀は之無く候間。久敷御在馬成間敷候。一働なされ御入馬候様に申度候。御出馬なく田村の者ども手切仕候はば。我等切腹うたがひなき由しきりに御訴訟申され候に付て。左候はば御出馬候て一調儀成らるるべき由御意にて御陣触仰付られ。大森へ四月十四日御出馬成らる。五日御逗留にて廿日塩の松の内築飯へ相移られ候。石川弾正抱の地築山其身居候。城小手森。彼地は塩の松御手入候砌御加増に下され候城に候。たふめきと申城は相馬の境にて親摂津守居候。小手森は築飯近所に候間小手森へ御働なされ候処。義胤は政宗公御出馬之由聞召。一日前に築山へ御出候。小手森へは石川自身籠候。築山は相馬衆にて抱申候。政宗公小手森の地形を御覧成られるべき由思し召され。北より南へ御通成られ候を。内より鉄炮にて打候へども。召し連れられ候衆は鉄炮一つも御うたせなく御通成られ候。其日は打上られ候。我等は南筋気遣候間二本松へ其夜罷帰候。翌日天気あしく候へども築飯へまいり候へば。御働相止候間罷かへり候。日々参候へども天気あしく御働之無し。廿五日に大森へ御引こもりなされ候。月斎。刑部少おどろき申され候て。白石若狭我等をたのみ申上られ候は。四五日御働成らるるべきと存候処に。天気故とは申ながら一日御働御引こもりなされ候。最上境深御機遣いと見え候由田村のもの共存候はば。伊達をたのみ入候ものども心がはり仕るべく候間。責て大森に御在馬成られ。田村へも長井へも不慮の儀候はば。御早打成らるべき由にて大森に御在馬之由諸人存候様に仕度由申上られ候へば。両人申され分尤に存。若狭同心申大森へ参。原田休雪。守屋守伯。伊藤肥前。片倉小十郎四人衆へ月斎。刑部少申され候通り申候処に。肥前申され候は。御訴訟は尤に候へども。御存知の如く長井には大名一人も之無く候。境今も小身衆計こめをかれ御出馬成られ候。御早打と申ても最上境へは大森より二百里に及候間御用ならず候。当地御在馬如何に存候由申され候。若狭申され候は。田村の様子大形に存られ候哉。月斎。刑部少御奉公存詰られ候計を以先静ならず候分に候。大森を御引籠なされ候はば。両人もたのみなく存分違られ申す義計がたく候由申され候。肥前又申され候は。田村を相抱られ度思召され候ても。長井に急事到来申ては所詮無く候。左候はば以来田村の御抱も罷成らず候間。先本に急事の之無き様に申度由申られ候。小十郎申され候は。是にて問答入ざる事御耳に立御意次第に申せられ。然るべき由にて披露におよび候処に。御意には。尤両人申処拠無く思召られ候。此度は天気故御不手涯に候間。大森へ御引籠成られ尤当地に御在馬成られ。何方へも御早打成らるるべく候間心やすく存らるべき由仰出され候。罷帰若狭を以月斎。刑部に申聞せ候。満足申され候。

語句・地名など

築飯→築館
築山→月山
たふめき→百目木

現代語訳

一、相馬と申し合わせていた田村衆も、伊達へ奉公している者たちも、石川弾正が裏切ったので、政宗が出馬されるだろうと思ったのだが、一切その様子がなかったので、月斎・橋本刑部少輔は白石若狭宗実を介して米沢へ申し上げられた。「弾正が反逆したので、すぐに出馬され、退治なされるかと思っていたのに、そうならず、田村は半分以上が相馬へ傾いているのだけれども、政宗公が出馬されるだろうと思い、手切れにはなっていない。弾正は義胤を引き出すために手切れをしたので、どうかこちらへ出陣くださいますように」と言った。
石川弾正が裏切ったので、すぐに出陣するべきであるけども最上との戦もあり、どちらとも境目には大名を置いているが、長井郡にの最上との境には、小身のものたちばかり置いているので、米沢を空にして出陣したときのことを心配なさっておられるのであった。
そのうえ弾正の土地を一ヶ所も取られないので、多少の働きでお帰りになるのはどう思われたのか、出馬を延期なさった。
月斎・刑部少は再度、「その御本心を世間の者は知りません。一切出馬なされないのであれば、田村の衆は残らず相馬へ付いてしまうでしょう。どこの合戦においてもそのように手際がよいことばかりではありません。長く在馬ができなくとも、一働きされ、お戻りになっていただきたい。出陣なく、田村の者たちが手切れ下ならば、私は切腹させられることは間違いない」と頻りに訴えてきた。
それならばと、出陣して一働きしようとお触れをだし、大森へ4月14日出陣なされた。5日ご滞在され、二〇日に塩の松領内の築館へ移られた。
石川弾正は領地の築山という城に居た。小手森の城は、政宗が塩松を手に入れられたとき、政宗が弾正に加増した城である。百目木という城は相馬との境で、弾正の父摂津守が居る城である。
小手森は築館の側にあるので、小手森へ出陣なさった。
相馬義胤は政宗が出馬されたのを聞き、一日前に築山へでてきた。小手森へは石川弾正自身が立てこもっていた。築山は相馬衆が籠もっていた。
政宗は小手森の地形を御覧になりたいと思われ、北から南へお通りになったところを、内から鉄炮で打たれたのだが、政宗が連れて行った者たちは鉄炮をひとつも打たせにはならず、お通りなさった。その日は打ち上げられた。
私は南方面のことが心配だったので、その夜は二本松に帰った。翌日、天気は悪かったが、築館へ参ったところ、出陣は中止になり、帰った。毎日行ったが、天気がわるく、出陣はなく、25日に大森へお戻りになった。月斎と刑部少輔は驚いて、白石若狭と私を頼って、「4,5日お働きなさると思っていたのに、天気の所為とはいっても、一日だけの出陣でおもどりになっては、最上境のことを深くお気遣いのこととは思いますが、伊達を頼みにしているものたちは心替わりしてしまうことでしょう。せめて大森にご滞在されれば、田村へも長井へも何かがあったときは急いで駆けつけることが出来るので、大森にご滞在くださいとみな思っています」と行った。二人の言うことはもっともであったので、若狭と一緒に大森に行った。原田休雪。守屋守伯意成。伊藤肥前重信。片倉小十郎景綱の四人に、月斎と刑部少輔の言い分をその通りに言ったところ、肥前は「訴えはもっともであるが、御存知のように、長井には大名が一人もおらず、境は今も小身の者たちばかりが詰めている。もし戦になったならば、いくら早く駆けつけたとしても、最上境へは大森から200里もあるので、意味がない。ここに居るのがいいのではないか」と言った。
白石若狭は「皆様は田村の様子を大げさに言っていると思われているのではないですか。月斎と刑部少輔は伊達への奉公を思い詰め、この先大変なことなるのではないでしょうか。大森から退かれるのであれば、二人は頼みもないと思うことでしょう」と言った。また、伊藤肥前は「田村を手に入れたいと思われたとしても、長井に危険なことがおこっては結局どうにもならない。なので、田村の支配も成らないため、まず本領に危険がないようにした方がいいのではないか」と言った。
片倉景綱は「ここで問答していても仕方のない事です。お伝えして、お思い通りになさるのがよいと思われます」と言ったので、そのとおりであると、申し上げたところ、政宗は、二人のいうところはたしかであり、今回は天気のために出陣できないが、大森に引きこもり、ここに在陣し、どの方向へも早駈けできるようにするので、安心するようにと仰せになり、帰る若狭を介して月斎・刑部少輔に知らせた。
二人は満足した。

感想

田村の内部が二分されていたことは前にかかれていますが、さらに相馬へ傾く人間が増えてきたことから危機感を感じた月斎・橋本刑部少輔が訴えを起こしたことがかかれています。
後半の四人の家臣たちの相談しているところもそれぞれの言い分が違っていて、興味深いところです。

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

『伊達日記』47:再びの本宮合戦

原文

一四月五日之晩大内備前不図懸入候に付而。会津衆安積へ罷出られ、須賀川へ申合働候由其聞候に付。片倉小十郎大森に居申され候間左右を申候処に。則二本松へ罷越され信夫の侍早早罷越べき義申触られ候へども。俄故か一人も参られず候。小十郎と我等計本宮へ罷越候。高倉へ人数を籠度由申候へども。差置申べき者之無く候間。我等八丁目の家中ともに十騎余。鉄炮五十挺差越候。四月十七日に高倉近江本宮へ参られ候。本二本松譜代にて会津安積之事具に存候者にて候間。明日の働何方へ之在るべき義たづね候へども。近江申され候は。会津須賀川衆計にて候條千騎には過申間敷候。会津にも境の衆は窕申まじく候。須賀川も田村境の衆は参まじく候間多人数には有間敷候。大形本宮迄は働申間敷候。高倉の働に之在るべき由申され候。左候はば此方へ人数の手扱により。観音堂へ打上高倉へ助入申すべければ見合次第に候。若又本宮之働に候はば。此方の人数引籠候て出ず候者定観音堂へは敵の備相立つべく候。下へ人数下候はば尤の事に候。左なく候はば少々内より人数を出し敵へ仕懸敵を町口迄引付合戦をはじめ申すべく候。左候はば、羽田右馬助人数を以先手を仕。跡を小十郎人数にて仕。我等人数は合戦に構はず西の脇を観音堂へ押切候様に人数を出すべく候間。定而敵の足戸悪之在るべく候。左候はば高倉より敵の跡を付切申さるべく候。大勝は明日に之在るべく候。高倉の城高く候間何方へ働も見え*1べく候。又高倉へ人数越候はば。城の西に飛火をあげ申さるべく候。本宮への働に候はば。東に上申さるべき由申合候て高倉近江は相返し申候。十八日に高倉の城西に飛火上げ申候間。扨は高倉への働と見え候由。観音堂の下迄人数を打出候処に。又東に飛火上げ候。さては本宮へ働に候哉と人数を引返べしと申候へども。きおいが廻り候間。此儘合戦仕るべき由申候間備を相立候。我等小十郎観音堂へ打上見候へども段々に人数押来候。鹿子田右衛門一騎先へ抜け候て足軽四五十人召連参り候。石川弥平に申付候ば。鹿子田を引払申すべく候。するすると参候はば我等は下へ引下がるべく候間。其乗参候はば本合戦仕るべき由申候て。羽田右馬助人数を足軽三十人余指添候而越候処。鉄炮打合そろそろと弥平。敵味方の境を乗廻し乗廻し引上候間。右衛門初は一騎に候へども。後は十騎計足軽百余に成候て。小十郎も我等も下へをろし候へども。敵弥平右馬助どもを追立観音堂迄参候而人数を敵かけ候。敵くづれ候。右馬助小姓文九郎と申十六に罷成候者。馬上付候処に取て返し候。文九郎を切候。歩の者二三人返し首を取候処を右馬助乗入。歩の者二人切候故敵引除候。文九郎首は取られず。其内一人打取候。ひとり橋より此方へ越候。人数は備をほごし崩候て橋を逃越。又そなへを立ならし候故又押返され候処を。田沢勘五郎と申政宗公御小姓に候が。御勘当にてわれらを頼み居候。馬を立廻立廻相除候。横に馬を引まはし候処を鑓持一人走り懸り馬のふと腹を突候と同時に。鉄炮方のもみ合に当打返られ候。勘五郎下立具足をすぎ家中共に相返。その身は手鑓を持馬上を一騎つきをとし。則勘五郎頸をかき我等に見せ申候。又本の観音堂へ追付られ候処。牛坂左近。右馬助。弥平三騎返合敵を追返し。ひとり橋迄追付頸四十三取候。味方は三人打たれ物別申候。十七日の相談のごとくに申候者残りなく討申すべき処に。とひ違へ候而大勝申さず候事。于今くやしく存候。そののちとひの事たずね候へば。今日働の由しらせ申合べく。西へ飛火あげ申由申候。其は昨日知候事に候。入らぬ事と申候へども返さぬ事に候。会津衆は一働申候而片平助右衛門老母を人質にとり罷帰らず候由後に承候。大形人質取申べき計に会津より罷出られ働申されかと存候。まけはづし申され候而若松へ引籠申され候う。小十郎は廿一日迄本宮に居申され候へども。会津衆引こもり候由申来候間。廿二日米沢へ罷帰られ候。

語句・地名など

弥平→『政宗記』では弥兵衛

現代語訳

一、天正16年の4月5日の夜、大内備前定綱は急に伊達へかけいって来たので、会津衆は安積へ出てきて、須賀川と申し合わせて出陣したことが知らされてきたので、片倉小十郎景綱が大森に居たので、詳細を言ったところ、すぐに二本松へ来て、信夫の侍集を急いで来させるべきであると知らせたのだが、急なことであったので、一人も来なかった。小十郎と私だけが本宮へ来た。
私たちは八丁目の家中と合わせて10騎余り、鉄炮50人ほど連れてきていました。
4月17日に高倉近江が本宮へ来た。もともと二本松に代々仕えていた者であったので、安積のことを良く知っている者であった。明日の働きは何処へあるだろうかと聞いたところ、近江が言うには、「会津と須賀川衆だけであるので、1000騎を越えることはないでしょう。会津も境の衆を留守にすることはできないでしょう。須賀川も田村も、境の衆はこないでしょうから、大人数にはならないはずです。おそらく本宮までは来ないでしょう」高倉だけの戦闘になるであろうと言った。
「そうであるならば、こちらへ来ている手勢を使い、観音堂へ向かい、高倉へ援軍を使わすが、どうなるかによる。もしまた本宮での戦になるのであれば、こちらの人数が引きこもってでないのであれば、本宮へは敵が陣取るだろう。下へ手勢が下るのももっともである。そうでないのであれば、少し中から手勢を出し、敵へしかけ、敵を町の入り口まで引き付け、合戦を始めるのがよいだろう。そうなったならば、羽田右馬助は手勢を以て先手をし、後を景綱の手勢で引き受ける。私の手勢は合戦にかまわず西野脇を観音堂へ押しきるので、手勢をダスので、きっと敵の足下は悪いだろう。
そうなったならば、高倉から敵の後ろにつっきるのが甥だろう。明日は勝たねばならない。
また高倉へ軍勢が到着したら、城の西にのろしを上げるよう。本宮への出陣になるのであれば、城の東に上げるように」と話合い、高倉近江は帰っていった。
18日に高倉の城西に烽火が上がったので、では高倉への出陣と思ったので、観音堂の下まで手勢を出発させたところ、また東にのろしが上がった。では本宮への出陣なのかと手勢を引きかえすべきと言ったが、勢いがまさってできなかったので、このまま合戦するべきであると言い、備えを立てた。私と景綱は観音堂へ上がり、見たのだが、徐々に敵の軍勢が押し寄せてきた。
鹿子田右衛門は一騎先へ抜けてでてきて、足軽4,50人を連れて出てきた。石川弥平に「鹿子田を追い払い、するすると行けば、私は下へひきさがり、その調子であるならば、本合戦になるだろう」と言い、羽田右馬助の手勢を足軽30人程付けて送り出したところ、鉄炮を打ち合わせ、弥平は敵と味方の境を乗り回して、じょじょに引き上げた。鹿子田右衛門は1騎であったが、徐々に増えて10騎、足軽は100人余りになった。景綱も私も下へくだったけれども、敵は弥平・右衛門たちを追い立てて、観音堂まで来て、人数を敵はかけてきた。敵は崩れた。
右馬助の小姓で文九郎という16になった者が居たのが、馬上の武者を突いたところ、取り返され、文九郎を切った。かちの者を2,3人返したため、敵は引き下がり、文九郎の首は取られなかった。そのうち1人を打ち取った。ひとり橋からこちらへ来た。手勢は備えを崩してしまい、橋を逃げて越えた。また備えを立ち直したので、また押し返されたところ、田沢勘五郎と言い、政宗の小姓であったが、勘当されて、私のところへやってきた者が、馬を立ち廻し、立ち廻して、退却した。横に馬を引き回したところ、鑓持ちが一人走り懸かり、馬の太腹を突いたのと同時に、鉄炮方のもみ合いに当たり、返された。勘五郎は下におり、具足を脱ぎ家臣に渡した。手槍を持ち、馬上の武者を一人突き落とし、すぐに勘五郎はその首をとり、私に見せた。
またもとの観音堂へ追い付けられたところ、牛坂左近・右馬助・弥平3騎が戻ってきて、合戦を追い返し、ひとり橋まで追い付け、首を43取った。
味方は3人討たれ、物別れとなった。
17日の相談のように、言った者は残りなく討つべきであったのに、間違えて大勝できなかったのは、今であっても口惜しく思う。その後飛火のことについて尋ねたところ、今日戦があることを知らせるべく西へのろしを上げたと言った。それは昨日知ったことであり、必要ないと言ったけども、返さなかった。
会津衆は一働きして、片平助右衛門の老いた母を人質にとり、帰らなかったと後に聞いた。おそらく人質をとるためだけに会津から出てはたらきしたのだろうかと思った。負け外したので、また若松へ引き込んだのだろう。
片倉小十郎景綱は21日まで本宮にいたのだが、会津衆が引きこもっていたことが知らされてきたので、22日米沢へ帰った。

感想

二度目の本宮合戦です。
この記事ではただの「橋」となっていますが、『政宗記』では「人取橋」となっており、『政宗記』がかかれた時期には既に「人取橋」という名称ができていたことがわかります。

*1:ユか

『伊達日記』46:田村家の内情

『伊達日記』46:田村家の内情

原文

一天正十四年霜月清顕公御遠行以来。三春の城に御北様御座成られ候。万事の差引田村月斎。同梅雪。同右衛門大夫。橋本刑部少。此四人に候。其比は政宗公御夫婦間然無く候。内々御北様御うらみに思召され候。月斎。刑部少は縦御夫婦間然無く候共。政宗公を頼入らず候ては田村の抱成まじき由分別に候。梅雪。右衛門大夫は御北様。相馬を頼みいり。政宗公へ違候ともくるしからざる由分別申され候上は。伊達をたのみ入候様にて底意は相馬へ申寄られ候上は。をしなべて伊達御奉公の様にて月斎方梅雪方と申様にて候。然処ろに大越紀伊守と申もの田村一家にて義胤にはいとこに候。田村に番の大名に候。此者相馬へ申合内々からくり仕候。其外にも田村中に相馬の牢人城を持候ほどのもの四五人も御座候。一番の大名梅雪が子田村右馬頭と申候て小野の城主に候。是も相馬へ申合られ候。ある時月斎刑部少。若狭物がたり申され候は。大越紀伊守相馬へ申合逆心歴然に候間。大越を抱由申され候。其通米沢へ申上られ候処に政宗より我等所へ御状を下され御用候間使を一人為登申べき由仰くだせられ候間使上申候処に。大越紀伊守を相かかへ度由月斎。刑部少申上られ候。無用之由御意なされ候へども。若不図相抱候はば田村の急事に成るべく候。田村は二頭を引立御持成らるるべきと思召候に月斎つのり候事もいかが。紀伊守は其方を以御奉公だてを申上候間。油断申さず候様に知らせしめ申候間しかるべき由仰下され候。兼て我等家中内ヶ崎右馬頭と申紀伊守に念比に候。紀伊守より使に大越備前と申もの右馬頭所へいく度もまいり候條。大越備前を指越さるるべき由紀伊守所へ申遣候。即備前まいり候間田村の様子相たづね腹蔵無く物がたり申候て。政宗公仰越され候通申理べき由存候て。備前に会申たづね候へども。一円かくし候て申さず候條。大事の儀直にいかがと存候。右馬頭に其様子物がたりに致させ候。備前まかり帰候てより紀伊守三春へ出仕を止。城に引籠罷出ず候間。田村四人の老衆よりつかいを立。いか様の儀を以罷出ず候。存分候はば申べき由申理られ候処に。始は何角と申候が頻りに子細をたづねられ候間。成実より三春へ出仕申されず候はば相抱えらるるべく候間。出仕無用之由しらせ候間。罷出ぬ由申され候に付て。我等所へ四人衆より右の品々申越され候間。我等あいさつには。田村の御内何角六ケ敷候間。如何様にも相静られ候やうにと存候。争左様の儀申すべく候哉と返答申候。四人衆より紀伊守へ我等返答の通申越れ候処に。必内ガ崎右馬頭を以知らせしめ申さるる由申に付。かさねて我等所へ其通申越され候條。我等あいさつ申候は。右馬頭にたづね申候へば紀伊守久しく懇切に御座候。世上にて紀伊守逆心成られ候か。相抱られ候儀も成がたく候由我等異見に申候。成実より申され候とは申さず候。大越備前承違にて之有るべき由申候と返答申候へば。左候はば右馬頭と備前と対決致させ然るべき由承候條。備前相だされ候はば右馬頭も指越申すべき由申候條。三月初めに鬼生田と申所へ大越備前罷出候由申越候間。田村より検使御座候歟と相たづね候へば。検使は参らず候よし申に付て検使之無く候はば右馬頭出し申間敷由申候間。大越備前も罷帰候。そののち田村へ拙者つかいを越申。此間右馬頭出申すべく候へども検使を差そへられず候間。右馬のかみ出し申さず候。かさねて備前に検使を差そへられ相出され然るべき由申に付て。田村衆も満足申され。検使両人備前に差そへ鬼生田へまかり出候間。右馬の頭も相出し申候。備前は貴所を以成実御理には。三春へ出仕申間敷由しらせ候よし申され候。右馬頭は御存分ちがい候はば御出仕御無用の由申候に。御出仕なくば逆心御くはだてと相見え申候。ただ今にも御存分違ひ申さず候はば御出仕之有るべく候。三春にて御相違は之有る間敷由申候て埒も付かずまかり帰候。かやうに御洞六ヶ敷候故おのおの打寄伊達をたのみ入べく候哉。いかやうに申すべきと相談候処に。常盤伊賀と申もの御相談に及ばず候。清顕公御死去の砌御名代は政宗公へわたし申され候間御思案も之無く候。去りながら各御分別次第の由申候條。誰も別て申出べき様之無し。何も尤の由申され落去申候。されども上は伊達へ付内は相馬へ引候衆過半候。子細は田村に牢人衆の表立候衆多分相馬衆に候。梅雪。右衛門大夫内々は相馬をへ申合され候間相馬牢人衆と申組られ候。牢人傍輩の由申候て仙道。佐竹。会津の牢人も梅雪。右衛門大夫へ念比に候。其様子石川弾正本傍輩にて存前に候。当座清顕公御意を以政公へ御奉公申候へども。末々は身上大事に存其上御<此末くさりて文字見えず。写さず候。>

語句・地名など

現代語訳

一、天正14年11月、田村清顕がお亡くなりになって以来、三春の城は奥方がいらっしゃった。すべての采配は田村月斎・田村梅雪・田村右衛門大夫・橋本刑部少輔の四人がとり仕切っていた。
この頃政宗とめご姫夫婦のあいだは良く無かった。こっそりと田村の北の方はこれを恨みに思われていた。月斎・刑部少輔はたとえ夫婦仲が悪くとも、政宗をたよらずには田村の仕切りが成りたたないということをわかっていた。梅雪と右衛門大夫は北の方が相馬を頼み、政宗と敵対してもかまわないと思っていたので、表向きは伊達を頼っていたが、本心は相馬と内通していた。しかしだいたいの家臣は伊達に仕えるという者が多く、月斎方と梅雪方と言っていたという。
そこに大越紀伊守という田村一族の者で、相馬義胤の従兄弟にあたる者がいた。田村に詰めていた大名であった。この者は相馬と言い合わせ、秘密裏にいろいろと仕込みをしていた。その他にも田村の中に、相馬の牢人で、城を持つほどの者たちが、4,5人もいた。一番の大名である梅雪の子、田村右馬頭といって、小野の城主であった。これも相馬と語らって内通していた。
あるとき、月斎と刑部が、若狭に語ったところによると、大越紀伊守は相馬と話し合い、反逆するであろうことは歴然なので、大越紀伊を生け捕りにするようにと言った。
そのとおり米沢の政宗へ申し上げたところ、政宗から私のところに、書状が来て、用があるので、遣いをひとり米沢へ登らせるように仰られたので、遣いを送ったところ、大越紀伊を召し捕らえたいと月斎と刑部少輔は申し上げた。それはしなくていいとお思いになったのだが、もし急に捕らえたならば、田村にとって急ぎのよくない事態になるだろう。田村は二派に分かれて成り立たせるべきとお思いに成り、月斎がいいつのってもそうしないように言った。それというのも、紀伊は月斎を理由に奉公をしているのであって、油断せずに知らせて、しかるべきであると仰せになった。
以前から私の家来で内ヶ崎右馬頭という者が、紀伊守と懇意にしていた。紀伊よりの使いには、大越備前という者が右馬頭のところに何度も来ていた。大越備前をこちらへ使わすように紀伊へ申し伝えた。すぐに備前が来たので、田村の様子を聞き、腹の内までもすべてを話会い、政宗が仰った通りに言わねばならないと思い、備前に会って尋ねたのであろうが、すべて隠して、言わなかった。なので、大ごとの話は直にいうのはよくないかもしれないと思い、右馬頭にその様子を知らせさせた。備前は帰って以降、紀伊守は三春への出仕をやめ、城にひきこもって出なくなったので、田村の4人の家老衆は使いをたてて、何があって出てこないのか、思ったことがあるのならばそれを話すようにと言ったところ、はじめはなんのかのと言っていたが、何度も詳細を尋ねられたので、成実より三春へ出仕しなければ、捕らえられるので、出仕は無用であるということを知らせたので、出仕しない理由を言った。なので私の所へ4人衆から以上の詳細を言ってきたので、私は、「田村の家中は何かと難しいので、どのようにしても鎮まれるようにと思っている。どうしてそんなことを私が言うでしょうか」と返答した。4人衆から紀伊へ私の返答の通り言って聞かせたところ、必ず内ヶ崎右馬頭を通して知らせてくるだろうと思うので、ふたたび私のところへその通り言ってきたので、私が返したのは、「右馬頭に聞いたので、紀伊は長くとくに親しくしている。世間において、紀伊が裏切るだろうと言っているのだろうか。そのような状態ならば捕らえられるということもないだろうと私たちは言ったが、成実から言ったとは言わなかった。大越備前の勘違いだろう」と返答したところ、そうであるならば、右馬頭と備前とを対決させるべきであると言ってきた。
備前を出されたのならば、右馬頭も使わすと言ったので、3月初めに鬼生田とというところへ大越備前が来たと知らせがきたので、田村から検分の使い来たかと尋ねたところ、使いは来ないということだった。使いがないというのなら、右馬頭を出すことはできないと言ったところ、大越備前も帰った。
その後、田村へ私の使いを送り、このことで右馬頭を出すべきであるけれども、使いを付き添わせなかったので、右馬頭を出さなかった。再び備前に検分の使いを添えられ出すべきであると言うので、田村の衆も満足し、検分の使いを二人備前に着けて鬼生田へ出てきたので、右馬頭も送りだした。備前は身分の高い方を通して成実に言ってきたのは、「三春へ出仕しない理由を知らせたことを言った。右馬頭は考えが違うのであれば、出仕しなくてもよいと言ったところ、出仕しないのであれば、反逆を企てていると思われるであろう。今も思っていることが違うのであれば、出仕するべきである。三春において、諍いはないであろう」と言っても、らちもつかなかったので、帰った。
このように、御親戚のあいだのことは難しいため、それぞれが伊達を頼りにしているのだろうと思われた。どのように言うべきだろうと相談していたところ、常盤伊賀と言う者が「政宗に相談する必要はないでしょう。清顕公がお亡くなりになったとき、名代を政宗に任せるよう仰ったのであるのだから、考えることもないことです。しかしながらそれぞれ思うところによってこのようになっているのでしょう」と言ったので、他の者たちは特に言うことがなかった。みなもっともであると言い、去った。
しかし、表面上は伊達へ付き、中では相馬へ付いている者が半分を越えていた。詳しいことは田村に牢人衆の表だった者たちはおそらく相馬方であると思われた。
梅雪と右衛門大夫は本当のところは田村へ申し合わせていたので、田村の牢人衆と組まれていた。牢人は中迄あると言い、仙道・佐竹・会津の者も梅雪・右衛門大夫へ親しくしていた。
そのようすを石川弾正はもともと同僚であったので、前もって知っていたのだろう。とりあえず清顕の石により政宗へ奉公していたけれども、将来は身上を大事に思い、其の上……(この後くさって文字が見えないので写しませんでした*1

感想

その当時の田村家の内情が書かれています。
政宗とめご姫の夫婦仲がよくなかったこと、そのため北の方が相馬を頼ろうとしていたこと、そしてそれに合わせて家中が二つに割れていたことが書かれています。
「かやうに御洞六ヶ敷」このように親戚衆のことは難しい、と書いているように、成実の目にも南奥羽の親戚衆との渡り合いが難しいことであったことがわかります。興味深いです。

*1:と写本者がかいています

『伊達日記』45:石川弾正について

『伊達日記』45:石川弾正について

原文

一四月十五日に石川弾正。西と申所白石抱の内草を入。其身も罷出しこみに居候。早朝に内より一両人罷出候ものを打候。城中より出合候処に弾正助合戦へ追入取付責候。鉄炮しきりにきこへ候間。白石若狭助合候而弾正見合引除候処へ懸付合戦候て若狭勝。頭二十計打取申候。我等も二本松にて鉄炮を承早打仕候へども。遠路故をそく候而罷帰候処へかけ付候。若狭よろこび候て宮森へよせ申され馳走申され候てまかり帰候。此石川弾正と申者本塩の松の主久吉と申大名の家中にて候。大内と傍輩に候。久吉沙汰悪家中共相談仕押出候。備前親その比伊達を頼入候石川弾正親田村を頼入候。其以後伊達御洞弓矢の砌。備前も田村を頼入御近所に居申され候間。別て御奉公仕候処に。片平助右衛門家中と田村右馬頭家中と岩城へ御弓矢の自分野軍に於いて喧嘩仕候。右馬頭家中を御成敗成られ候やうにと申上られ候へども。御合点なきに付御恨に存ぜられ。翌年より会津佐竹を頼入御弓矢に罷成候。石川弾正は相替ず田村へ御奉公仕候。左候へども政宗公塩の松を御取なされ候間。石川弾正知行皆塩の松の内に候。田村さへ御名代相渡され候間。弾正も知行に付政宗公へ御奉公仕候様にと清顕公御意にて相付られ候者にて候。その外にも寺坂山城。大内能登。彼是四五人へ本久吉家中田村へ御奉公仕り候ものを相付られ候。其もの共は若狭□に相付られ。弾正一人直に召遣られ候。本領一へ一へのごとくに返下され候。

語句・地名など

久吉→塩松尚義

現代語訳

一、4月15日に石川弾正、西という白石若狭宗実の領地の中に草を入れた。弾正自身も出てきて仕込みに出てきた。早朝に中から二人出てきた者を打ち取った。城の中から出会ったところに弾正は助け、合戦へ追いこみ、取り付け、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえたので、白石若狭は助勢し、弾正と見合わせ、退いたところへ、駆けつけて合戦し、白石若狭が買った。頭を二十ほど打ち取った。
二本松で鉄炮の音を聞き、急いで出立したのだが、遠かったので、遅くなり、退却したところへ駆けつけた。白石若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、歓待され、帰った。
この石川弾正という者は、塩松の城主塩松尚義という大名の家中であった。大内定綱と同僚であった。塩松尚義は政治の取りしきりが悪かったため、家中一同で相談し、追い出した。
大内備前定綱の親はその頃伊達を頼み、石川弾正の親は田村を頼っていた。その後伊達で親戚同士の戦があったとき、大内備前も田村を頼って、近い所であったので、特に奉公していたところ、片平助右衛門親綱の家中の田村右馬頭清通家中とが、岩城への戦のときに陣中において喧嘩をした。右馬頭家中を成敗して下さるようにと申し上げたのだが、合意しなかったので、恨みに思い、その翌年から会津と佐竹を頼んで、田村と戦になった。石川弾正は相変わらず田村に奉公していた。が、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の知行はみな塩松の中にあった。田村さえ名代を渡されたので、弾正も知行について、政宗へ奉公するようにと清顕の命令で付けられた者であった。その他にも寺坂山城・大内能登を初め、かれこれ4,5人のもともと塩松尚義に仕えていた者たちは田村へ奉公することになった。かれらは白石若狭の配下に付けられ、弾正だけ一人直接召し仕えられた。本領はもとのように返された。

感想

石川弾正がどういう人かということが書かれています。