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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』126:白石攻め

『伊達日記』126:白石攻め

原文

政宗公は岩出山迄は御下成らせしめられ。北目に御在陣候て七月廿四日白石の城へ御働候。甘糟備後城主に候間若松へ引取られ備後甥北城式部居候朝城外を打廻り。御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ。別而改普請仕所も之無く候。町を御取せ成らるるべき由仰出され町枢輪へ惣人数取付押込火を懸候間敵は本城へ逃込。其夜二三の枢輪迄相破本丸計に成。翌日石川大和守を頼。城中の者命相助られ候はば明渡し申すべき由にて廿五日七つ時分出城候。伊達へは相返され間敷由にて表立候衆はいづれも御旗本に罷有候。雑兵は夜に紛伊達へ逃帰申候。簗川へ御取懸成らるるべく思召れ候所に。家康小山より御帰之由申来候付。関東口より御取詰成られずしては政宗一人にて働成りがたく思召され。白石へ御人数相籠られ。江戸御一左右聞召られ候迄先ず北目へ御引籠成られ候也。

右伊達成実記三冊依無類本不能校合

語句・地名など

現代語訳

政宗は岩出山までお下りになり、北目城に在陣なさり、7月24日白石の城を攻められました。甘糟備後景継という城主でしたが、会津へ呼ばれていたため、備後の甥北城式部(登坂式部勝仍?)が城にいた。
朝城の外を見て回り、引き上げられました。8つ頃また城の周囲を御覧になり、とくに改めて工事するところもないので、町を取るようにと仰り、町曲輪へ総軍を取付押し込め、火をかけると敵は城の中に逃げ込んだ。
その夜は2,3n曲輪まで破り、本丸だけになり、翌日石川大和昭光を頼って、城内の者の命を助けるのであれば、城を明け渡すと言ってきたため、25日7つ頃、城を明け渡した。伊達へ戻ることはできなかったので、表だった衆はみな旗本であった。雑兵たちは夜に紛れて伊達に逃げ帰った。
梁川へ攻めかかろうとお思いになっていたところ、家康が小山から引き返したことをお聞きになったので、関東から取りかかることは政宗1人では難しいとお思いになったため、白石へ軍勢を籠もらせ、江戸の知らせをお聞きになるまで、とりあえず北目城にご滞在になられたのである。

(これは伊達成実が記した三冊である。類本がないため、内容のかみ合わせができない)

感想

とうとう『伊達日記』の最後の章になりました。政宗は対上杉の抑えを命じられ、上杉領南部の白石城を攻めることになります。
ちなみに書かれていませんが、この戦の直前出奔していた成実は石川昭光・留守政景・片倉景綱らの尽力によって帰国し、石川昭光の陣に入り、白石攻めに参加します。
そして白石を攻めた政宗は家康が引き返したことをしり、北目で様子を見ます。ここから北の関ヶ原というべき伊達・上杉・最上三つ巴の戦が始まりますが、成実はそれに触れず、この書は終わります。
それが何故か、というのはわかりませんが、一応『伊達日記』・『成実記』系統のものはいずれもこのあたりで終わっています。
『政宗記』後半ももしかしたら他人の手が入っている可能性もあります。詳細はわかりませんが、読み比べるとおもしろいです。

『伊達日記』125:家康の返し

『伊達日記』125:家康の返し

原文

一義顕。政宗。南部信濃以下奥の大名衆。景勝退治のため国々へ御下候。家康小山迄御出馬の所上方にて謀叛起。伏見の城又京極若狭殿御座候大津の城にも籠置かるる由申来候付而家康江戸へ御引返候。

語句・地名など

現代語訳

最上義光・政宗、南部信濃守利直をはじめとする、奥州の大名たちは上杉景勝退治のため、国々へお帰りになりました。
家康は小山まで出馬したところ、上方にて謀叛が起こり、伏見の城と京極若狭高次がいた大津の城もろうじょうすることになったことが伝わり、家康は江戸へ引き返しなさりました。

感想

政宗をはじめとする奥州大名は家康に従い、下向しましたが、家康は上方で謀叛が起こったので、戻ることになりました。

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

原文

一家康公。政宗公御入魂の故か。政宗娘を上総殿へ御取合成られ度思召。宗薫を以御内証に候。四人の大名衆聞召され。秀吉公御他界の砌五人の大名衆申合仕置き仕べき由仰置かれ候所。各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ。宗薫を死罪に申し付くべき由に候。家康公。政宗公。左候はば御相手に罷成るべき由仰られ候故其後は其沙汰無く候。石田治部少輔乱逆を存立。家康と四人衆間を申へだて候由に候。家康は向島に御座なされ候処に押懸候などと伏見。大坂唱事候。佐竹義宣伏見より治部少輔へ御出。治部少輔を義宣一つ乗物に御のせ御帰。御屋敷にかくしをかれ候。大坂にては治部少輔欠落の由にて唱候事相止候。然而義宣大津迄治部少輔を召連。棹山へ送らせしめらる由申候。其年より二年過景勝へ上洛有るべき由家康仰遣はされ候所。秀吉公へ五年の御暇申上候間罷登間敷由仰られ候。其に就いて浮田殿。毛利殿。筑前殿へ御たづね候而重而上洛候への由仰遣され候へども。景勝御上洛ある間敷由仰られ候。左候はば景勝を御退治有べき由にて。伏見御留守居として鳥井彦右衛門に人数三千計指添籠置かれ候。江戸へ御下向に候。治部少輔竿山より方々へ申合。景勝も御同心にて乱逆企申候。

語句・地名など

現代語訳

家康は政宗と仲よくしてらした為か、政宗の娘を上総介忠輝と娶せるよう思われ、今井宗薫を使者として、秘密裏に縁談を進めた。
4人の大名の皆様がこれをお知りになり、秀吉が他界したときに、5人の大名衆で相談して仕置を行うようにと言いつけになったというのに、それぞれ相談もなく、縁談を進めるのは違反であるとして、宗薫を死罪にするようにと仰られた。家康と政宗はそうであるならば、相手にするということを仰られたので、その後は鎮まった。
石田治部少輔三成は反逆を思い立ち、家康と4人衆との仲をわざと隔てるようにされた。家康は向島にいらっしゃったところに押しかけたなどと伏見・大坂で噂になった。
佐竹義宣は伏見から三成のところへお越しになり、一つの駕籠に乗せて、お帰りになり、屋敷にお隠しになった。大坂では三成がいなくなったので噂は止まった。そして義宣は大津まで三成を連れて行き、佐和山へ送った。
その年から2年過ぎ、景勝へ上洛するようにと家康がご命令になったところ、秀吉へ5年の暇をいただいたので、上洛しないでいると言って返したため、家康はそれについて、宇喜多・毛利・前田へお尋ねになり、くりかえし上洛するよう言いつ交わされたのだが、景勝は上洛しないと言ったため、そうであるなら景勝を退治するとお決めになった。伏見の留守居役として鳥居彦右衛門元忠に軍勢3000ほどおつけになり、さしおかれた。
家康が江戸へ下向なさったので、石田三成は佐保山からあちこちへ言い合わせて、景勝も同意し、反逆を企てた。

感想

秀吉の死後、すぐに家康と政宗は子息の婚姻を決め、それが知れ渡り、騒ぎになりました。そしてその後2年の間に世は家康の方に傾き、それに対し反感を持った三成との対立が起こってきました。それに上杉が呼応し(たと思われ)て関ヶ原の戦のタネがまかれました。

『伊達日記』123:秀吉の死

『伊達日記』123:秀吉の死

原文

一秀吉公御違例に候処。次第に重候故諸大名衆をめされ。御病気つよく候間。御他界も候はば秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付。熊野牛王に血判いづれも成られ候を。大峯にをさめ申すべき由御意にて。正護院殿山伏多召連られ御登山に候。天下の仕置家康公。浮田中納言。安芸毛利殿。加賀筑前殿。長尾景勝へ仰置かれ候。然る処に秀吉御存命の時分。景勝は国替仰付られ。程なく秀吉公御煩に付上洛仕候間。御暇下され候へとも御違例の内は在京にて。御他界以後会津へ下向に候。秀吉公新八幡と祝申すべき由御遺言に候へども。勅許なきによつて豊国の明神と祝申候。東山に宮相立られ候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉が病になられ、次第に重篤になっていったので、諸大名をお呼びになり、「病気が重くなってきたので、もし私がシンだなら、秀頼に対し反逆しないように」と誓紙を書くようにとご命令になり、熊野牛王の血判をみな押したものを、大峯に納めるようにご命令になったので、聖護院の山伏を多く連れて山に登らせた。
天下の采配は家康・宇喜多中納言秀家・安芸の毛利輝元・加賀筑前前田利家・上杉景勝へお目維持になった。
秀吉が存命の頃、景勝は国替えを命令され、ほどなく秀吉がご病気になられたので、上洛したので、在地に戻りたくとも病気の間は在京するしかなく、秀吉薨去ののち、会津へ下向した。
秀吉は新八幡として祭るよう御遺言であったが、天皇のお許しがでなかったので、豊国大明神と祭ることになった。東山に神社が建てられた。

感想

秀吉がとうとう病に倒れ、そのまま亡くなりました。秀頼のことを諸大名に頼み、豊国大明神として祭られることになりました。

『伊達日記』122:秀吉の贈り物

『伊達日記』122:秀吉の贈り物

原文

一御普請場へ日々成せしめられ候。十月始寒時分惣の大名衆へ風をふせぎ候への由にて。長持に紙絹を御入町場を御廻り候て移に下され候。政宗は物ずきを仕候へども紺地の金襴。袖は染物にすりはくの入候を御付。すそは青地の段子色をとり合候呉服を下され候。其砌政宗大坂御上下の御座船を御身上成られ。御感の由に候而光忠の御越物を下され候。其明る日御普請場へ政宗彼刀を御差御目見候処。昨日政宗に刀をぬすまれ候間取かへし候へども御免なされ候間参候へと御意成られ候。或時御所柿を御入成られ諸大名へ下され候。政宗町場へ成らせしめられ。政宗は大物ずきにて候間。大き成がのぞみに候はん由御意にて。折の中を御取りかへし候て是より大きなるはなきとて下され候。諸人にすぐれたる御意共度々候を何れも御覧候而。政宗は遠国人にて一両年の御奉公に候。かくのごとく御前よきこと冥加の仁にて候と御取沙汰候なり。

語句・地名など

現代語訳

秀吉は、普請場へ毎日のようにいらっしゃった。10月のはじめ、寒いころであったので、すべての大名衆へ、風を防ぐようにと、長持ちに紙絹の衣を入れ、町場をお回りになり、手ずからお渡しになった。
政宗は数寄者であるので、と紺地に金襴、袖は染め物に摺箔が入ったものを付け、裾は青地の緞子を合わせて、衣類をくださった。
その頃政宗は大坂を行き交う御座船を作り、献上したところ、秀吉は感心して、光忠の刀をくださった。その明くる日、普請場へ政宗はその刀を差して面会したところ、秀吉は「昨日政宗に刀を盗まれたので、返せ」と仰ったのだが、お許しになり、こちらへ来いと仰せになった。
あるとき、御所が気をお持ちになり、諸大名へ下さった。政宗の持ち場へ来られたところ、「政宗は大きいものが好きだろうから、大きいのが欲しいだろう」と仰り、箱の中をひっくり返して、これより大きいものはないと、くださった。
格別に目をかけてもらっているのを、他の人々は見て、政宗は遠国の人間であり、数年の方向であるというのに、このように秀吉の心証がいいのは、すごいことだなあとお噂なさった。

感想

伏見城の工事の途中の出来事がいくつか書かれています。
ここは政宗がどのように気に入られていたかということよりも、秀吉の人心掌握術というか、どのように諸大名に接していたかを垣間見ることができておもしろいです。

『伊達日記』121:慶長伏見地震

『伊達日記』121:慶長伏見地震

原文

慶長元年太閤様伏見の向島と申処に御城御構候。御普請過半出来候処に。閏七月十二日夜半時分大地震にて御城の天守御殿共に破損し。御城の内にて男女五十人余打殺され候。向島は宇治川立廻地形下所にて候故。猶以普請衆数多越度申候。秀吉公此城御立候共然有間敷思召され。同廿二日に小幡山を御覧成られ。御城に成さるるべき由仰出され候。大名衆御馬廻り小身衆迄組々を成られ。極月晦日を切に御移徙成らるるべき由にて。夜を日について御普請いそぎ申され候。地震程をそろしき事は之無き由御意にて。御殿の柱二本は石次へ。三本目は地へ五尺許ほり入。上道具も方々をかすがへにてしめ。兼ての御作事とかはり地震の御用心第一に候。

語句・地名など

現代語訳

慶長元年太閤秀吉は伏見の向島という所に城を建てようと、工事をおこなっていた。その工事が半分以上過ぎたところに、閏7月12日、夜中ごろに大地震が起こり、城の天守・御殿ともに破損し、城の中にいた男女50人余が下敷きになって死んだ。
向島は宇治川が取り囲み、地形が低いところであったので、普請をしていた者太刀もたくさん命を落とした。秀吉公はもう城を建て直すのは無理だとお思いになり、同22日に小幡山を御覧になられ、新しい城になさることをお決めになった。
大名衆の・馬廻り衆・小身衆をみな組に分け、12月晦日を区切りに移ることができるよう、昼夜分かたず工事を急いだ。地震程おそろしいことはないと思われ、御殿の柱2本は礎石をつけ、3本目は地面へ5尺ほど堀り、入れた。部屋の中の道具なども、あちこちにかすがいをつけて留め、これまでの工事とは変わり、地震の用心を第一に考えた作りとなった。

感想

慶長地震とありますが、まだ文禄年間(文禄5年)の7月の出来事です。この数日間の間に大地震が各地で頻発したため、改元も行われました。
この項では、地震の様子とその余波として工事の工法が変わったことがかかれています。