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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事

原文

一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ、万事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。御相伴衆のうち、宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいたしける御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙胆に銘じける。折ふし、かの宗碧、感にたへず、醉興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、聲を上げ、頭をさすり、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。貞山公にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、聲をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらる。されども命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかやうの事ありとも、腹立つことゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候へ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免して朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州へ下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちおしき次第なり。只今の腹立ちは、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆえ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が、ここに希代不思議に、諸人存じたてまつり候御事は、日暮れ申すと、御前衆、或は御小姓頭衆など、召させられ、「何とやらん、今宵火事出来せんと心中にたへず。亭主方のものは、皆くたびれ候はんに、こなたより申付け、用心つよくさせよ」と、ひたすら仰付けられ、御立ちざまに、御自身、くさりの間の爐のうち御取らせ、水など御かけさせ、わざと数寄屋へ出御なされ、爐の中を御らんじ、そのうへ、佐々若狭を召させられ、「いかさま、今夜火事出でんと思ふなり。其方、跡にとどまり、爐中爐中に水をかけさせ、罷り帰れ」と、仰付けられ、御帰城なされ候。諸人も心つき、なるほどなるほどと火事の用心仕り、少しもあたたかなる所へは、水をかけ申すやうに仕り候へども、その暁、水をよくかけ申し候置囲炉裏より、火あまり、房州御屋敷、残りなく火事いたし、並びたる御町も、あまた焼け申し候。諸人、胆を消し、易からぬ御事と、舌をふるひ申し候。次の日、即ち御自身、御指図を以て、御作事悉くなされ進ぜられ、日頃御取立ての宗碧をば、諸奉行衆に仰付けられ、「日頃の御取立て、不便におぼしめされ候間、身命相助けられ候。里離れたる島へ流し候へ。さりながら、扶持などは迷惑いたさぬやうに」と、仰付けられ、又「成人の子供をば、その島近所の城代に預けおくべし。女房以下をば、親類にあづけ候へ」と、仰付けられ候。かやうに事済み候てのち、三十余日を過さぬに、不慮のことありて、宗碧父子御成敗なされ候。天命のほど、諸人身の毛を立てて、恐れ申さぬはなし。

地名・語句など

所役:役目・任務
不便:迷惑/可哀想
いたいたし:可哀想だ・気の毒だ/程度のはなはだしいさま
一入(ひとしお):いっそう
鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。

現代語訳

あるとき(寛永11年2月23日)、伊達安房守成実の屋敷の工事がすべて終わり、よき日を選んで、貞山様(政宗)をお迎えになった。朝は数寄屋にて茶を、その後書院にて能を見ることになった。親類衆・身分の高い者、低い者も、みな長袴を着け、政宗も長袴をお着けになって、すべて作法の通りになさり、一日中能を見学なされた。
その日、兵部大輔宗勝は鵺を演じなされた。普段、お話や挨拶のために、相伴衆を家臣とは別に取立て、座敷の縁側に置いておられた。その相伴衆のうち、宗碧という、京のものを、特に取立て、100貫文の知行を役目なしにお与えになっている者があった。年も取っている者であったので、ますます面倒だと強く思われていた。
その日も宗碧は相伴し、書院の親類衆の中にまじり、政宗のいる縁側の近くに置かれていた。宗勝が能をしたとき、人は皆感動した。まことにすばらしいようすで、音曲や拍子に負けず、踊るさまが優美に思われたので、政宗もいっそう機嫌よく思われ、見ていた者たちはみな感動して涙を流し、心に刻んだ。
そのとき、その宗碧は感動がすぎ、また酒に酷く酔ったのか、また政宗に気に入ってもらおうとおもったのだろうか、政宗のいたところの側までおどりでて、「兵部大輔様のお能はさてもさても」と声をあげ、頭をさすり、立ち上がって、ものの音もきこえぬほど、うかれて振る舞った。
政宗も憎らしいとお思いになったけれども、座敷の雰囲気に、もてなしなど、それぞれに手を込めて手配したことが、すぐさま台無しになるだろうと思われたのだろうか、宗碧はまだ鎮まらず、政宗の膝近くねじより、「やあ殿よ殿よ、あれをよく御覧なされ。いかなる東の鬼神であっても、泣かないということがありましょうか」と声をあげて泣き叫んだとき、急に政宗の様子が変わり、そばにあった刀を抜いて急に打ちかかり、しとどに濡れるほどお打ちになった。しかし、命をとるのは可哀想であるとおもったのだろうか、浅い怪我を追わせて、刀をおしまいになった。この宗碧の黒衣はたちまち赤く染まった。
政宗は御座敷をお立ちになり、わきの座敷へ入られた。奉行衆を介して饗応の主人であった伊達安房守成実をはじめ、それぞれへ仰ったのは「今の様子、皆が何があったのかと思うだろうこと、大変痛み入り、恥ずかしいと思う。亭主の成実に対しては、今日どのような事があっても、腹を立てるようなことは絶対にしてはいけないと、かねてから思っていたのだが、想像外の出来事が起こってしまって、仕方がなかった。しかし、それぞれよく物事を考えてみて欲しい。この宗碧は特別に取立てたものであるので、どのようなことがあっても、許して毎日いらだちを感じており、今日まで側に置いていた。その上、今日のことは、うちうちのことであるならば、どんなことを入っても、結局そのときのふざけとして片付けるが、今日の能見物は庭に数百人の見物人が集まっている。私の国の内であれば、長袴なしで、気楽に見学するけれども、このように身分の高い者から低い者までみな礼義正しく行っているのは、私を重んじるが故のことでないことがあろうか。国の者たちも恥ずかしく思い、私も乱れたことのないように心遣いをしていたが、叶わなかった。また、今日の見物人の中に、様々な国の者が一人ずつはいるだろう。このようなことをそのままにしておいたなら、それらのものたちが国に帰り、いつだったか奥州へいったときに、政宗の親類の安房守という人の所で能があったときに、すべて行儀正しいように振る舞っていたけれども、そばにいた年配の相伴坊主が子息の宗勝の能のとき、『殿や殿や、あの子供の能を見て泣かないのはおかしい』などといかにも心安くいっていたけども、その通りだ、人は聞いたり見たりするのとはそれぞれ違うものだ。官位は中納言だろう。身分に見合わないなどといろいろ言われるのは、口惜しいことである。ただいまの腹立ちはそのことであり、饗応の主には何の障りもない。なので、私の機嫌が悪いはずもない。みなもこころをほどき、気遣いすることなく、能を見るがいい」と使いを介してみなへ仰ったので、そこにいたものはみな、有り難いことであり、御言葉はもっともであると感動なさった。その後政宗は元々の場所へお戻りになり、ますます御機嫌良く、一日中能を御覧になり、夜になってお帰りになることになった。
ここで大変不思議なことだとみなが思ったことなのだが、日が暮れたところ、側近く仕えている者や、小姓頭たちをおよびになり、「どうしてだろうか、今日夜、火事が起こるのではないかという予感がする。館の主の家臣たちはみなくたびれているだろうから、こちらから言いつけて、用心を強くさせよ」と何度も仰った。出発するときに、御自身で鎖の間の炉のうちをお取りになり、水などをかけ、わざわざ数寄屋へお入りになり、炉の中をごらんになり、その上、佐々若狭をお呼びになり、「どのようにかわからぬが、今夜火事がおこるのではないかと思う。おまえはここにのこり、それぞれの爐中に水をかけさせて、帰ってこい」とご命令され、城にお帰りあそばされた。
みな気を付けて、なるほどなるほどと火事の用心をし、少しでもあたたかなところには水をかけるようにしたのだが、その暁、水をよくかけておいた囲炉裏から火が出て、安房守の屋敷は残らず燃え、並んだ町も数多く燃えてしまった。みな大変に驚き、滅多にないことだと、舌をふるって言い合った。
次の日、すぐに政宗は御自分で指図をして、もう一度工事をやり直すように仰り、日頃取り立てていた宗碧を奉行衆にご命令になられ「日頃の取立てで、哀れに思ったため、命は助ける。人里離れた島へ流せ。しかし食い扶持などは不便の内容に」とご命令になり、また「成人した子をその島の近所の城代に預けおけ。女房たちは親類にあずけよ」と御命じになった。このように事が終わった後、30日も経たぬうちに、予想外のことがあり、宗碧親子は処刑された。天の命令であるとみな鳥肌を立てて恐れて言わぬ者はなかった。

感想

寛永11年2月23日に行われた、新築成実屋敷の饗応での出来事、及びその翌日の火事についての記事です。この日はいわゆる「御成」であり、朝から茶の席・長袴を着ての能見物がありました。
この日は様々なことが起こりました。
この能会は、様々な国から来た数百人の見物人がいたことが政宗の言い分からわかります。普段ならば長袴を着ることもなく、気軽に見るけれども、この能会は皆が長袴を着けており、フォーマルなものとして行われたようです。この能舞台が臨時のものか常設のものかははっきりとはわかりませんが、数百人が見られるということから、かなり大がかりなものであったことがわかります。
そこで、宗碧という相伴衆が酔っ払ってか機嫌を取ろうとしてか、ひどくみっともない様子をしたため、政宗は怒り、宗碧を殴打したあと、部屋に籠もってしまいました。政宗は亭主(成実)には関係ないと言ったあと、ふたたび能会は進みます。
そこでまた事件が起こります。
帰ろうとした政宗は火事が起こるのではないかと考え、念入りに火の用心をさせます。佐々若狭らにも命じ、また成実の家臣たちにも強く言い、用心をさせました。
しかし、その翌日の明け方、なぜか消したはずの囲炉裏から火が出て、成実屋敷は焼失してしまい、廻りの町をも燃やしてしまいました。
正直、この火事に関しては何があったんだかよくわかりません。
怪異なのか、政宗の逆説的な命令で館を燃やしたのか。町まで燃えるとなると大ごとです。何があったんでしょうね。
この事件があったあと、28日に政宗が成実を召して、自ら新しい屋敷の指図をしています。

この記事は他の書物にもかかれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事や、『木村宇右衛門覚書』20にも類似記事があります。
『政宗記』10-1はこちら↓
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こちらは亭主(=成実)側の記録らしく、どのように用意していたか、またこの事件を思い出しての成実自身の感慨などの記述が詳しいです。

『木村宇右衛門覚書』ではさらに宗碧を殴打するまでに政宗と成実がそれをどうにか紛らわそうとしてか、イヤミを言っているシーンなどもあり、非常におもしろいです。とにかくこれは非常に大変な事件だったようです。
(この記事はまた後日アップしたいと思います)

『伊達日記』126:白石攻め

『伊達日記』126:白石攻め

原文

政宗公は岩出山迄は御下成らせしめられ。北目に御在陣候て七月廿四日白石の城へ御働候。甘糟備後城主に候間若松へ引取られ備後甥北城式部居候朝城外を打廻り。御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ。別而改普請仕所も之無く候。町を御取せ成らるるべき由仰出され町枢輪へ惣人数取付押込火を懸候間敵は本城へ逃込。其夜二三の枢輪迄相破本丸計に成。翌日石川大和守を頼。城中の者命相助られ候はば明渡し申すべき由にて廿五日七つ時分出城候。伊達へは相返され間敷由にて表立候衆はいづれも御旗本に罷有候。雑兵は夜に紛伊達へ逃帰申候。簗川へ御取懸成らるるべく思召れ候所に。家康小山より御帰之由申来候付。関東口より御取詰成られずしては政宗一人にて働成りがたく思召され。白石へ御人数相籠られ。江戸御一左右聞召られ候迄先ず北目へ御引籠成られ候也。

右伊達成実記三冊依無類本不能校合

語句・地名など

現代語訳

政宗は岩出山までお下りになり、北目城に在陣なさり、7月24日白石の城を攻められました。甘糟備後景継という城主でしたが、会津へ呼ばれていたため、備後の甥北城式部(登坂式部勝仍?)が城にいた。
朝城の外を見て回り、引き上げられました。8つ頃また城の周囲を御覧になり、とくに改めて工事するところもないので、町を取るようにと仰り、町曲輪へ総軍を取付押し込め、火をかけると敵は城の中に逃げ込んだ。
その夜は2,3n曲輪まで破り、本丸だけになり、翌日石川大和昭光を頼って、城内の者の命を助けるのであれば、城を明け渡すと言ってきたため、25日7つ頃、城を明け渡した。伊達へ戻ることはできなかったので、表だった衆はみな旗本であった。雑兵たちは夜に紛れて伊達に逃げ帰った。
梁川へ攻めかかろうとお思いになっていたところ、家康が小山から引き返したことをお聞きになったので、関東から取りかかることは政宗1人では難しいとお思いになったため、白石へ軍勢を籠もらせ、江戸の知らせをお聞きになるまで、とりあえず北目城にご滞在になられたのである。

(これは伊達成実が記した三冊である。類本がないため、内容のかみ合わせができない)

感想

とうとう『伊達日記』の最後の章になりました。政宗は対上杉の抑えを命じられ、上杉領南部の白石城を攻めることになります。
ちなみに書かれていませんが、この戦の直前出奔していた成実は石川昭光・留守政景・片倉景綱らの尽力によって帰国し、石川昭光の陣に入り、白石攻めに参加します。
そして白石を攻めた政宗は家康が引き返したことをしり、北目で様子を見ます。ここから北の関ヶ原というべき伊達・上杉・最上三つ巴の戦が始まりますが、成実はそれに触れず、この書は終わります。
それが何故か、というのはわかりませんが、一応『伊達日記』・『成実記』系統のものはいずれもこのあたりで終わっています。
『政宗記』後半ももしかしたら他人の手が入っている可能性もあります。詳細はわかりませんが、読み比べるとおもしろいです。

『伊達日記』125:家康の返し

『伊達日記』125:家康の返し

原文

一義顕。政宗。南部信濃以下奥の大名衆。景勝退治のため国々へ御下候。家康小山迄御出馬の所上方にて謀叛起。伏見の城又京極若狭殿御座候大津の城にも籠置かるる由申来候付而家康江戸へ御引返候。

語句・地名など

現代語訳

最上義光・政宗、南部信濃守利直をはじめとする、奥州の大名たちは上杉景勝退治のため、国々へお帰りになりました。
家康は小山まで出馬したところ、上方にて謀叛が起こり、伏見の城と京極若狭高次がいた大津の城もろうじょうすることになったことが伝わり、家康は江戸へ引き返しなさりました。

感想

政宗をはじめとする奥州大名は家康に従い、下向しましたが、家康は上方で謀叛が起こったので、戻ることになりました。

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

原文

一家康公。政宗公御入魂の故か。政宗娘を上総殿へ御取合成られ度思召。宗薫を以御内証に候。四人の大名衆聞召され。秀吉公御他界の砌五人の大名衆申合仕置き仕べき由仰置かれ候所。各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ。宗薫を死罪に申し付くべき由に候。家康公。政宗公。左候はば御相手に罷成るべき由仰られ候故其後は其沙汰無く候。石田治部少輔乱逆を存立。家康と四人衆間を申へだて候由に候。家康は向島に御座なされ候処に押懸候などと伏見。大坂唱事候。佐竹義宣伏見より治部少輔へ御出。治部少輔を義宣一つ乗物に御のせ御帰。御屋敷にかくしをかれ候。大坂にては治部少輔欠落の由にて唱候事相止候。然而義宣大津迄治部少輔を召連。棹山へ送らせしめらる由申候。其年より二年過景勝へ上洛有るべき由家康仰遣はされ候所。秀吉公へ五年の御暇申上候間罷登間敷由仰られ候。其に就いて浮田殿。毛利殿。筑前殿へ御たづね候而重而上洛候への由仰遣され候へども。景勝御上洛ある間敷由仰られ候。左候はば景勝を御退治有べき由にて。伏見御留守居として鳥井彦右衛門に人数三千計指添籠置かれ候。江戸へ御下向に候。治部少輔竿山より方々へ申合。景勝も御同心にて乱逆企申候。

語句・地名など

現代語訳

家康は政宗と仲よくしてらした為か、政宗の娘を上総介忠輝と娶せるよう思われ、今井宗薫を使者として、秘密裏に縁談を進めた。
4人の大名の皆様がこれをお知りになり、秀吉が他界したときに、5人の大名衆で相談して仕置を行うようにと言いつけになったというのに、それぞれ相談もなく、縁談を進めるのは違反であるとして、宗薫を死罪にするようにと仰られた。家康と政宗はそうであるならば、相手にするということを仰られたので、その後は鎮まった。
石田治部少輔三成は反逆を思い立ち、家康と4人衆との仲をわざと隔てるようにされた。家康は向島にいらっしゃったところに押しかけたなどと伏見・大坂で噂になった。
佐竹義宣は伏見から三成のところへお越しになり、一つの駕籠に乗せて、お帰りになり、屋敷にお隠しになった。大坂では三成がいなくなったので噂は止まった。そして義宣は大津まで三成を連れて行き、佐和山へ送った。
その年から2年過ぎ、景勝へ上洛するようにと家康がご命令になったところ、秀吉へ5年の暇をいただいたので、上洛しないでいると言って返したため、家康はそれについて、宇喜多・毛利・前田へお尋ねになり、くりかえし上洛するよう言いつ交わされたのだが、景勝は上洛しないと言ったため、そうであるなら景勝を退治するとお決めになった。伏見の留守居役として鳥居彦右衛門元忠に軍勢3000ほどおつけになり、さしおかれた。
家康が江戸へ下向なさったので、石田三成は佐保山からあちこちへ言い合わせて、景勝も同意し、反逆を企てた。

感想

秀吉の死後、すぐに家康と政宗は子息の婚姻を決め、それが知れ渡り、騒ぎになりました。そしてその後2年の間に世は家康の方に傾き、それに対し反感を持った三成との対立が起こってきました。それに上杉が呼応し(たと思われ)て関ヶ原の戦のタネがまかれました。

『伊達日記』123:秀吉の死

『伊達日記』123:秀吉の死

原文

一秀吉公御違例に候処。次第に重候故諸大名衆をめされ。御病気つよく候間。御他界も候はば秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付。熊野牛王に血判いづれも成られ候を。大峯にをさめ申すべき由御意にて。正護院殿山伏多召連られ御登山に候。天下の仕置家康公。浮田中納言。安芸毛利殿。加賀筑前殿。長尾景勝へ仰置かれ候。然る処に秀吉御存命の時分。景勝は国替仰付られ。程なく秀吉公御煩に付上洛仕候間。御暇下され候へとも御違例の内は在京にて。御他界以後会津へ下向に候。秀吉公新八幡と祝申すべき由御遺言に候へども。勅許なきによつて豊国の明神と祝申候。東山に宮相立られ候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉が病になられ、次第に重篤になっていったので、諸大名をお呼びになり、「病気が重くなってきたので、もし私がシンだなら、秀頼に対し反逆しないように」と誓紙を書くようにとご命令になり、熊野牛王の血判をみな押したものを、大峯に納めるようにご命令になったので、聖護院の山伏を多く連れて山に登らせた。
天下の采配は家康・宇喜多中納言秀家・安芸の毛利輝元・加賀筑前前田利家・上杉景勝へお目維持になった。
秀吉が存命の頃、景勝は国替えを命令され、ほどなく秀吉がご病気になられたので、上洛したので、在地に戻りたくとも病気の間は在京するしかなく、秀吉薨去ののち、会津へ下向した。
秀吉は新八幡として祭るよう御遺言であったが、天皇のお許しがでなかったので、豊国大明神と祭ることになった。東山に神社が建てられた。

感想

秀吉がとうとう病に倒れ、そのまま亡くなりました。秀頼のことを諸大名に頼み、豊国大明神として祭られることになりました。

『伊達日記』122:秀吉の贈り物

『伊達日記』122:秀吉の贈り物

原文

一御普請場へ日々成せしめられ候。十月始寒時分惣の大名衆へ風をふせぎ候への由にて。長持に紙絹を御入町場を御廻り候て移に下され候。政宗は物ずきを仕候へども紺地の金襴。袖は染物にすりはくの入候を御付。すそは青地の段子色をとり合候呉服を下され候。其砌政宗大坂御上下の御座船を御身上成られ。御感の由に候而光忠の御越物を下され候。其明る日御普請場へ政宗彼刀を御差御目見候処。昨日政宗に刀をぬすまれ候間取かへし候へども御免なされ候間参候へと御意成られ候。或時御所柿を御入成られ諸大名へ下され候。政宗町場へ成らせしめられ。政宗は大物ずきにて候間。大き成がのぞみに候はん由御意にて。折の中を御取りかへし候て是より大きなるはなきとて下され候。諸人にすぐれたる御意共度々候を何れも御覧候而。政宗は遠国人にて一両年の御奉公に候。かくのごとく御前よきこと冥加の仁にて候と御取沙汰候なり。

語句・地名など

現代語訳

秀吉は、普請場へ毎日のようにいらっしゃった。10月のはじめ、寒いころであったので、すべての大名衆へ、風を防ぐようにと、長持ちに紙絹の衣を入れ、町場をお回りになり、手ずからお渡しになった。
政宗は数寄者であるので、と紺地に金襴、袖は染め物に摺箔が入ったものを付け、裾は青地の緞子を合わせて、衣類をくださった。
その頃政宗は大坂を行き交う御座船を作り、献上したところ、秀吉は感心して、光忠の刀をくださった。その明くる日、普請場へ政宗はその刀を差して面会したところ、秀吉は「昨日政宗に刀を盗まれたので、返せ」と仰ったのだが、お許しになり、こちらへ来いと仰せになった。
あるとき、御所が気をお持ちになり、諸大名へ下さった。政宗の持ち場へ来られたところ、「政宗は大きいものが好きだろうから、大きいのが欲しいだろう」と仰り、箱の中をひっくり返して、これより大きいものはないと、くださった。
格別に目をかけてもらっているのを、他の人々は見て、政宗は遠国の人間であり、数年の方向であるというのに、このように秀吉の心証がいいのは、すごいことだなあとお噂なさった。

感想

伏見城の工事の途中の出来事がいくつか書かれています。
ここは政宗がどのように気に入られていたかということよりも、秀吉の人心掌握術というか、どのように諸大名に接していたかを垣間見ることができておもしろいです。