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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』45:石川弾正について

『伊達日記』45:石川弾正について

原文

一四月十五日に石川弾正。西と申所白石抱の内草を入。其身も罷出しこみに居候。早朝に内より一両人罷出候ものを打候。城中より出合候処に弾正助合戦へ追入取付責候。鉄炮しきりにきこへ候間。白石若狭助合候而弾正見合引除候処へ懸付合戦候て若狭勝。頭二十計打取申候。我等も二本松にて鉄炮を承早打仕候へども。遠路故をそく候而罷帰候処へかけ付候。若狭よろこび候て宮森へよせ申され馳走申され候てまかり帰候。此石川弾正と申者本塩の松の主久吉と申大名の家中にて候。大内と傍輩に候。久吉沙汰悪家中共相談仕押出候。備前親その比伊達を頼入候石川弾正親田村を頼入候。其以後伊達御洞弓矢の砌。備前も田村を頼入御近所に居申され候間。別て御奉公仕候処に。片平助右衛門家中と田村右馬頭家中と岩城へ御弓矢の自分野軍に於いて喧嘩仕候。右馬頭家中を御成敗成られ候やうにと申上られ候へども。御合点なきに付御恨に存ぜられ。翌年より会津佐竹を頼入御弓矢に罷成候。石川弾正は相替ず田村へ御奉公仕候。左候へども政宗公塩の松を御取なされ候間。石川弾正知行皆塩の松の内に候。田村さへ御名代相渡され候間。弾正も知行に付政宗公へ御奉公仕候様にと清顕公御意にて相付られ候者にて候。その外にも寺坂山城。大内能登。彼是四五人へ本久吉家中田村へ御奉公仕り候ものを相付られ候。其もの共は若狭□に相付られ。弾正一人直に召遣られ候。本領一へ一へのごとくに返下され候。

語句・地名など

久吉→塩松尚義

現代語訳

一、4月15日に石川弾正、西という白石若狭宗実の領地の中に草を入れた。弾正自身も出てきて仕込みに出てきた。早朝に中から二人出てきた者を打ち取った。城の中から出会ったところに弾正は助け、合戦へ追いこみ、取り付け、攻めた。鉄炮の音がしきりに聞こえたので、白石若狭は助勢し、弾正と見合わせ、退いたところへ、駆けつけて合戦し、白石若狭が買った。頭を二十ほど打ち取った。
二本松で鉄炮の音を聞き、急いで出立したのだが、遠かったので、遅くなり、退却したところへ駆けつけた。白石若狭は喜んで、宮森へ私を呼び、歓待され、帰った。
この石川弾正という者は、塩松の城主塩松尚義という大名の家中であった。大内定綱と同僚であった。塩松尚義は政治の取りしきりが悪かったため、家中一同で相談し、追い出した。
大内備前定綱の親はその頃伊達を頼み、石川弾正の親は田村を頼っていた。その後伊達で親戚同士の戦があったとき、大内備前も田村を頼って、近い所であったので、特に奉公していたところ、片平助右衛門親綱の家中の田村右馬頭清通家中とが、岩城への戦のときに陣中において喧嘩をした。右馬頭家中を成敗して下さるようにと申し上げたのだが、合意しなかったので、恨みに思い、その翌年から会津と佐竹を頼んで、田村と戦になった。石川弾正は相変わらず田村に奉公していた。が、政宗が塩松をお取りになったので、石川弾正の知行はみな塩松の中にあった。田村さえ名代を渡されたので、弾正も知行について、政宗へ奉公するようにと清顕の命令で付けられた者であった。その他にも寺坂山城・大内能登を初め、かれこれ4,5人のもともと塩松尚義に仕えていた者たちは田村へ奉公することになった。かれらは白石若狭の配下に付けられ、弾正だけ一人直接召し仕えられた。本領はもとのように返された。

感想

石川弾正がどういう人かということが書かれています。