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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』1-3:青木修理御味方仕り、塩の松、御手に入り候事

『正宗公軍記』1-3:青木修理が味方になり、塩松が手に入ったこと

原文

天正十三乙酉七月初に、米沢へ、拙者、使を上げ候て、猪苗代の儀、相違仕り候て迷惑に存候。会津に御敵は御座なく候間、大内備前を御退治なされ然るべく候。御尤に思召され候はば、備前家中の内、迷惑致候者、御奉公仕候様に、一両人も申合すべく候。如何之あるべき由申上候へば、御意には、会津に御敵は之なく、御馬を収められ候事、口惜く思召され候。此上は、塩の松へ御出馬と思召され候。尤も御忠節仕り候者、遣すべき由、猶以て然るべき儀に候の間、早々才覚申すべき由、仰下され候間、元来、塩の松より罷り出で候大内蔵人・石井源四郎と申す者御座候。此両人に申付け、刈松田の城主青木修理と申す者の所へ、申遣し候へば、尤も御味方仕るべき由、合点致し候て、知行など望み申候故、御判形相調へ差越し候。大内備前、田村境の城主よりは、久しく人質取り申され候。正宗公御意に背き候ては、塩の松中残なく、城主共より証人取り申候。彼の青木修理も、十六に罷成候弟新太郎と申す者は、頃日の青木掃部の事にて候。五歳に罷成候子供を差添へ、両人小浜へ証人に相渡し申候。修理存じ候様には、米沢御奉公仕候へば、彼の人質相捨て候事、迷惑に存候。証人替へ申したく存候て、大内備前家老の子中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と申す者三人へ、状を越し、只今追鳥の時分に候間、慰に罷越し然るべき由申遣す。何れも若き者共故、以後の分別も之なく、八月五日の晩、刈松田へ罷越し、六日の朝追鳥を仕り、帷子十四五取り、料理候て、夜半時分まで大酒を仕り候所に、青木修理申す事には、何れも御酒に酔ひ候の間、過もあぶなく候。刀・脇差を渡し候へと申し候へば、三人の者共、少しも苦しからざる由申候へども、修理は底意御座なく*1候。殊に下戸にて、御酒は給べずと、無理に脇差・刀を取り、長持へ入れ、三人の者沈酔致し、臥し候て、覚えず夜を明し候。修理は、内証へ家中十人計り呼び、具足を着せ、三人臥し候所へ押懸け、起し候て、修理申す分には、大内備前殿への恨の儀候て、逆心仕り、米沢へ御奉公申候。御存じの如く、弟新太郎並びに子供、小浜に人質に置き申候間、証人替に申したく候。命の儀は、御気遣あるまじく候由、申理り候。三人の者共、相果てたき由、申上候へども、刀・脇差を取られ、仕るべき様之なく、絆を打たれ刈松田に居り候。其日に修理、小浜に向つて、火の手を揚げ手切仕候て、我等処へ註進申候の間、則ち米沢へ飛脚を以て申上げ候。御出馬迄*2は遅き由、御意なされ、小梁川泥蟠・白石若狭・原田左馬之助・浜田伊豆差越され候條、我等右四人の衆、同心致し罷越し、刈松田近所飯野に在陣致し、我等はたつこ山と申す所に在陣仕り候。正宗公、十二日に福島に御出馬なされ候。青木修理に、成実使を差添へ、福島へ上げ申候て、則ち御目見仕らせ候所に、今度御忠節の儀、御大慶の由にて、御腰物下され候。其上、塩の松の絵図を仕上げ申すべき由仰付けられ、昼書を宿へ差越され候に付いて、大方、書立て上げ申候へば、絵図を御披見なされ、刈松田近所より、御働なさるべき由、思召され候所に、田村より御手を越され、今度は清顕公と御同陣なさるべく候由、仰合され候間、小手森へ御働なさるべき由、仰せられ候間、川俣へ御馬を移され、御働前に、清顕公へ蕨平と申す所にて、御対面なされ候。小手森へ廿三日に御働なさるべく候由、仰合され候へども、大雨にて相延べ、廿四日に小手森へ御働き候所に、小浜の火勢、会津・仙道・二本松の人数、小手森近所迄助け来る。小手森へは、大内備前自身に籠り、城中堅固に見え候。近々と相働かれ候へども、内より一人も出でず、城中多人数に見え候間、此方よりなされ*3懸るべき様も御座なく、押上げられ候所、後陣の衆へ、内より人数を出し、合戦仕懸け候間、総人数打返され合戦御座候。会津助の勢も打上げ、城中より申合すと見え、両口より合戦仕懸け、助の衆は二本松先手にて候。田村衆は東より、伊達衆は北より働き候。其間に大山候て、田村衆は合戦に用立たず候。然る所に、正宗公、御不断鉄砲五百挺程召連れられ、東の山添より押切り候様に、横合に御懸りなされ候間、城中より出づる人数敗北候故、矢来口へ押入り、頭五十余討たれ候。多くも討たせらるべく候へども、小口へ入らず、南へ逃げ候列*4は、二本松衆との合戦候間、追過候へば、助の衆押切られ候條、追留め候て少々討たせられ候。大内は其夜に小浜へ帰る。其夜は五里ほど引上げられ、御野陣なされ候。夜懸も之あるべきかと、辻々芝見を差置かれ候へども、何事なく候。廿五日に押詰め御働きなされ候へども、城中より一人も出合はず。会津衆も助け来り候へども、なる*5くきと申す所に相備へ、下へは打下げず、通路は城中へ候へども、人数たる人は参らず候。其日は何事もなされず打上げられ候。又野陣へ少し御寄り候。左様に候へども、田村衆と出会ひ候事ならず候。六日又、御働きなされ候へども、内より出でず候間、内の様子御覧なされ候為めに、鉄砲御懸け然るべき由、片倉小十郎申上げ候に付いて、七八百挺程、内の横追へ御懸りなされ候へども、城中堅固に持ち候間打上げられ、又御野陣へ少し御寄りなされ候。拙者申上候は、明日は南の竹屋敷へ越し、通路を留め申すべき由、総陣へ相告げられ然るべき由、申上候へば、御意には、左様に候はば、助の人数打下げ妨ぐべき由、思召され候。左様に候はば、城中よりも出づべく候間、両口の合戦は、如何たるべき由仰せられ候。又申上候は、左様に候とも苦しからず候。竹屋敷へ、陣を移し候へば、田村衆も出会ひ候間、城中より定めて私陣所へ懸り申すべき條、田村衆も拙者に相任せらるべく候。助の人数とは、総御人数を以て、御合戦なさるべく候。両口の御合戦に候とも、御気遣之あるまじく候。其上、助の衆打上げ候地形も切所に候間、合戦仕りにくく之あるべく候。一昨日も城中へ押込まれ候二本松衆の合戦、強く仕懸申さるべく候へども、御気遣か引上げ申され候う由、申上候へば、原田休雪申候は、陣を越し候事、返す返す御無用に候。御戦は御大事にて候間、日数を以て、後には左様然るべき由申候。半分は成実を御越させ然るべき由申し候。又休雪申し候を、尤のよし申す衆も候て、落居仕らず其日は打上げられ候。翌日廿七日、昨日竹屋敷へ陣を移し、通路を切り申すべき由申上げ候所、半分は然るべき由申上げ候へども落居仕らず候。余り悪しき道には之なく候條、御意を請けず候へども、未明に竹屋敷へ陣を越し申候に付いて、伊達上野、拙者陣所へ引続き陣を移し、総陣を相詰べきの由仰付けられ、陣具を持運び候。総御人数は、常々御働の如く、備を取り候て、夫兵は野陣を相懸け候。然る所に、内より敵一人罷り出て候て、成実陣所へ、小旗を振り招き候間、人を越し尋ね候へば、我等家中に、遠藤下野に会ひ申したき由申候。斯様に申候者、石川勘解由にて候。兼ねて懇切の者に御座候間、下野を遣し会はせ申候の所に、勘解由申す事には、此城に小野主水・荒井半内を始めとして、大内備前近く奉公仕り候者共、数多籠り申候。通路を切られ候上は、落城程あるまじく候間、御侘言申し、城を相渡し、小浜へ相退きたく候間、拙者を頼み申すの由、申すに付いて、御前へ使を上げ申候て、斯様御訴訟申候。召出さるべく候哉と申上候所、御弓矢の渉参り候様にと、思召され候間、御退をなさるべく候。去ながら城中の者共、小浜へは遣さるまじく候。伊達の内へ罷退かるべき由、御意に候の間、石川勘解由を呼出し、御意の通り、申候へば、又勘解由罷出で、城中の者共申候は、伊達へ罷越し候事、命乞にて候。大内備前切腹も、程あるまじく候間、腹の供を仕りたく存候て、御訴訟申し候間、去り迚は我等前之あるべく候。右申上候如く小浜へ遣され下さるべき由、申候に付いて、其通り、申上候へば、右の通り、仰出され、小浜へは差越さるまじく候。伊達の内へ引退き申すべき由、御意なされ候。其時遠藤下野、門二重内まで罷越し、其様子申断り候所に、御前より又御使を下され、城中の者共にこわき事をなされず候故、申したき事を申候の條、御攻めなさるべく候。若し本丸まで御取詰なされ候はば、其時は異儀なく、伊達へも引退き申すべく候間、総手へも仰付けられ候由、御意に候間是非に及ばず、城へ取付け候。下野は漸々内より罷出で候。我等手前より早や火を付け候故、山城にて則ち吹上げ、方々へ吹付け候。其外押籠め申候所に、何方にても火を付け候故、存じの外、内の者共、役所を離る。未の刻より御攻め、申の刻に本丸落城申し候。撫切と仰出され、方々へ御横目を差置かれ、男は申すに及ばず、女房・牛馬に至る迄切捨て、日暮れ候て引離れ候。味方に紛れ生き候者は如何、敵と見え候者、一人も残らず打果され候。其夜、新城・木こり山、敵地に御座候。両城共、自焼仕り引退き候。廿八日未明に仰出され候は、木こり山へ相移らるべきの由、御触御座候間、各陣場取に参り候。我等も家中四五騎先へ越し候所へに、馬上一騎、敵方より参り候て招き候間、成実家中の者、乗向ひ尋ね候へば、服部源内と申し候て、我等もと、扶持仕り候者にて、塩の松へ本意仕り候者に候。築館の城を引退き候間、早々追駈け申すべき由、申すに付いて、早早引退く。から城へ乗入り、其由申上げ候へば、築館へ御馬を移され、御休息なされ候。築館に御逗留の内、青木修理抱へ置き候右三人の者共の儀、小浜へ内通申すに付いて、大内備前も、修理弟と子供相返し候事、無念に存じ候へども、家老の者共の子供を相捨て候事ならず候て、日限を申合せ、小瀬川と申す所へ、双方より罷出で、御横目を申請け、弟新太郎と子供を請取り、九郎四郎と新八郎・次郎吉取替へ候て、帰り申候。
斯様に、塩の松は御弓矢に候へども、八丁目親実元居り申し候二本松境は、手切之なく候。其仔細は、右に書付け候通り、二本松・塩の松は、弓矢の強き所へ身上を持ち、相立ち候に付いて、義継、大内備前に加勢なされ候へども、伊達の弓矢つのり候はば、伊達へ御侘申上ぐべき分別と相見え候。又親実元分別には、会津・仙道の衆、塩の松へ相助け候。田村は敵に候の間、二本松領計りを通り候間、義継に疑心申す様にと、思案候て境を静め申候。其存分、正宗公へは申遣され候へども、我等は若輩の間、聞かせ申されず候。此境、手切れ候はば、弥々以て強くなるべく候間申上げ、手切仕るまじく候由、拙者両度迄折紙を致させ、八丁目二本松境無事に仕られ候。
清顕公より仰せられ候は、小浜には助の衆、多人数に候。其上、塩の松の者共、方方より引退き候て、小浜へ集り候間、御働なされ候とも、御敵はあるまじく候條、田村へ御廻りなされ、備前抱の小城共、御取なされ然るべき由、仰遣され候に付いて、築館を九月廿二日に御立にて、黒籠と申す城、田村御抱に候の間、それへ御馬を移され、廿三日には御休息なされ候。小浜に替の衆候て、人数を引籠め申すべき由、片倉小十郎を以て申上げ候に付いて、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎四人は築館に相残され、小浜を取り申すべき由、仰付けられ候。
黒籠より廿四日におうばの内と申す城へ、御働きなされ候。彼の地へ二本松衆助入り候。少々内より人数を出し、合戦候へども、強くもなされず候故、物別仕り候て、其日は何事も之なく、黒籠へ打上げられ候。築館に差置かれ候四人の衆も、小瀬川と申す所へ働く所に、正宗公御働遅く候て、片倉小十郎、其砌無人数にて、手勢二百計りを以て、無兵儀に小浜近所迄参り候所に、小浜の人数押立て、小瀬川迄五里計り追懸け候。四手の衆川を越え合戦仕り候。小浜衆は五六百騎も参り候へども、正宗公御気遣を存じ候て、早く打上げ候。此方の衆は、無人数にて候間押添はず、双方へ首十計りづつ取り申し候。
廿五日に、岩津野へ御働きなされ候。地形を打廻り御覧なされ、近陣に御攻めなされ候て、彼の城を取らせられ候へば、二本松の通路不自由に罷成り候間、明日相移らるべきに極り、又黒籠へ打帰られ候。
小浜に於て助の衆相談には、岩津野を取られ候はば、引退き候事なるまじき由申す。会津衆、大内備前へ異見申し候は、今日正宗公、岩津野を打廻り御覧なされ候。彼の城を取らせらるべき由思召され候と相見え候。取られ候はば、何れも引退き候事罷り成るまじく候間、今夜引退き然るべく候。会津に於て松本図書之助跡、明地にて候間、之を下され、会津に宿老になされ候條、申上ぐべく候條、罷り退くべき由、頻に異見致す。其使には、中目式部・平田尾張両人を以て、催促申すに付いて、大内備前も、通路大事に存じ候て、抱の城共残なく其夜二本松へ引退き、塩の松の分は落居仕り候。

語句・地名など

一両人:ひとりかふたり
才覚:工作・うまくやる
刈松田:かりまた(飯野町飯野)
過:あやまち、しそこない
底意:心の底、心中
矢来口:矢来をしかけた出口
小口:城の出入り口
辻々:あちこち
芝見:忍び物見
落居:決定・落ち着くこと、落着
おうばの内:大波内
岩津野:岩角

現代語訳

天正13年7月の初めに、私は米沢へ使いを遣わし、猪苗代のことで行き違いがあり、大変困っている。会津に敵は居ないので、大内備前定綱を退治されるべきである。尤もだと思われるのであれば、定綱の家臣の中で、迷惑している者が寝返りをするようひとりふたりと言い合わせるべきである。如何しましょうかと申し上げたところ、政宗は「会津に敵はおらず、戦が終わってしまったことは口惜しく思う。この上は、塩松へ出馬しようと思っている。寝返りをする者は使わすように、それでもそうであるべきことであるので、早いうちに工作するべきである」と仰った。
もともと、塩松からきた大内蔵人・石井源四郎という者がいた。この二人に言いつけ、刈松田の城主である青木修理という者のところへ使わしたところ、寝返って味方になりたいということを同意し、知行のことなどを願い出ていたので、政宗に書状を調えてもらい、送った。
大内定綱は、田村領との境を治める城主から、長い間人質を取っていた。政宗の意思に逆らってからは、塩松領のすべてから城主たちから人質を取っていた。
かの青木修理には16になる弟新太郎という者がおり、それは現在の青木掃部の事である。5歳になった子どもをそえて、二人を小浜へ人質として渡していた。修理は「米沢の政宗に仕えることになれば、この人質たちが殺されるのは、大変困ることになる。人質の交換をしたい」と思い、大内定綱の家臣の子である中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉という三人へ、手紙を送り、いまは追い鳥狩りの季節であるので、気晴らしにお越しになればよいと言ってよこした。いずれも若く、分別のない者たちであった。8月5日の晩、刈松田へやってきて、6日の朝追い鳥狩りをし、雉子14,5匹を取り、料理して、真夜中まで大酒を飲んでいたところ、青木修理は「お酒に酔っていらっしゃるので、なにか過ちがあっては危ない。刀と脇差をお渡しください」と行った。すると3人はみな大丈夫であると行ったが、修理は心の中で考えがあった。とくに私は下戸なので、お酒は飲めませんと無理に脇差と刀を取り、長持ちにいれた。3人は酷く酔って眠り、臥したまま、目覚めることなく夜を明かした。
修理は内密に家臣を10人ほど呼び、鎧を着せて、3人が寝ているところへ押しかけ、起こして、修理は「大内定綱どのへの恨みがあって、裏切り、米沢の政宗へ使えることにした。知っているように、弟新太郎と子どもが小浜に人質として捕らえられているので、人質交換したい。命のことは心配することはない」と言った。
3人はここで死にたいと言ったが、刀と脇差を取られ、できることがなく、つなぎ止められて刈松田に留め置かれた。その日に修理は小浜にむかって火の手をあげ、戦闘体勢に入り、私の所へ連絡してきたので、すぐに米沢へ飛脚で政宗に申し上げた。
御自身の出陣は遅くなるとお思いになり、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆を寄越されたので、私はこの4人の者たちと一緒に行動し、刈松田の近くの飯野というところに在陣し、私は竜子山というところに在陣した。
政宗は12日に福島に出陣なさった。青木修理に私の家臣を付き添わせて、福島へ連れていき、すぐに御目見得させたところ、今回の寝返りのことを大変お喜びになって、刀を下された。そのうえ、塩松の地図を作るように仰り、昼に書状を宿へよこされたので、だいたいのところ書き上がっていたので、絵図をごらんになり、刈松田近所から、戦闘を仕掛けるこよう思われた。
そこへ、田村から書状がきて、今度は田村清顕とともに陣をひくよう仰られたので、小手森へ出陣するべきであると仰られた。川俣へ行かれ、出陣前に、清顕と蕨平というところで対面なさった。小手森へ23日に戦闘を仕掛けるよう仰れたけれど、大雨だったので延期し、24日に小手森をお攻めになったところ、小浜の加勢・会津・仙道・二本松の勢が小手森近くまで助けにいた。小手森には大内備前が籠城しており、城の守りは堅固に見えた。そばへ寄られが、中からは1人も出てこなかった。籠城兵はたくさん居るように見えたので、こちらから取りかかる様子もなく、攻め上げたところ、後陣の者の所へ中から手勢を出し、合戦を仕掛けたので、総勢を返され、合戦となった。会津からの援軍もやってきて、城の中と言い合わせているようであり、両口から合戦をしかけ、援軍は二本松衆が先陣であった。田村勢は東から、伊達勢は北から攻めた。その間に大きな山があって、田村勢は合戦の訳には立たなかった。
そうしているところに、政宗は不断鉄砲衆を500挺ほど連れて、東の山のそばから押しきったところ、横合わせにとりかかったので、城からでてきた勢は敗北したので、矢来口へ押し入り、大将50人あまりが打たれた。もっと討ちとるよう思われたが、城の入り口へは入らず、南へ逃げた者は二本松衆との合戦となったので、追いかけたところ、援軍は押しきられたので、追うのを止めて少々討たれた。大内定綱はその夜に小浜城へ帰った。
その夜は5里ほど引上、野宿の陣をひかれた。夜討ちもあるだろうかとあちこちの辻に見張りの忍びを置かれたけれども、何ごともなかった。
25日に、押して詰めかけ、戦闘を起こしたけれども、城中からは1人も出てこなかった。会津勢も助けに来たけれどもなるくきというところに陣を引き、下へは下がってこなかった。通路は城の中へ続いていたが、戦うべき人はこなかった。その日はなにごともせず引き上げた。また野陣へ少しちかよりなさったが、田村勢と出会うことはなかった。
6日(26日)にまた戦闘をしかけなさったが、城の中からはだれも出てこなかったので、中の様子をごらんになるために、鉄炮をしかけましょうと片倉小十郎景綱が申し上げたので、7,800挺ほど、中の横側へかかりなさったが、城は堅く守られていたので、途中でおやめになり、また野陣に少し近寄りなさった。
私は「明日は南の竹屋敷へ移り、通路を止めるべきであるとすべての陣へつげるべきである」といったのだが、政宗はそのようにしたら、援軍の手勢を防ぐであろうと思われた。そうであれば、城中からも軍勢が出てくるだろうから、両方の入り口での合戦はどうだろうかと思われた。
また私は「そのようになっても大丈夫です。竹屋敷へ陣を移したなら、田村勢とも合流でき、城からきっと私の陣所へ攻めかかるだろうから、田村勢も私に任せてくださいますよう。援軍とは総勢で合戦をすべきである。二箇所での合戦になったとしても、心配することはなにもない。そのうえ、援軍が退却する地形も難所であるので、合戦をするのには難しいと思われる。一昨日も城中へ押し込まれた二本松勢との合戦を強く仕掛けるべきですが、護身@愛ならば引上なさったらいい」と申し上げると、原田休雪斎は「陣を移すことは何度もいうが不要である。合戦はおおごとであるので、日にちをかけて、そのようになるのを待つべき」と言った。半分は成実を寄越させるべきだといい、また休雪斎のいうことが尤もだという者もいて、決まることはなくその日は打ちきった。
翌27日、昨日竹屋敷へ陣を移し、敵のとおるところを切るべきであると申し上げたので、半分はそうすべきであると申し上げたが、議論の決着はつかなかった。あまり分の悪いようになるとは思わなかったので、ご命令はなかったが、未明に竹屋敷へ陣を移したことについて、伊達上野政景は私の陣所に続いて陣を移した。政宗はすべての陣を詰めるべきであると仰せになって戦道具を持ちはこんだ。総勢はいつもの戦闘のように、備えを取って、兵は野陣をしかけた。
そうしているうちに、うちから敵が1人でてきて、成実の陣所へ小旗を振りながら招いてきたので、人を送り、聞いたところ、私の家臣の遠藤下野に会いたいと行ってきた。こう言ったのは石川勘解由であり、以前から親しくしていた者だったので、遠藤下野を送ったところ、勘解由は「この城には小野主水・荒井半内をはじめとして、大内定綱の近くに仕えている者たちが多く籠城している。通路を切られたからには、ほどなく落城するだろうから、懇願し、城をお渡しして、小浜へ引き上げたい」と私を頼ってきたと言うので、政宗の御前に使いを送り、その旨を申し上げた。お呼びになりますかかと申し上げたところ、戦に死傷がでてはいけないと思われたので、止められた。しかしながら、城の中の者たちを小浜に使わすのはできなかった。伊達の内に退くべきであると思われたので、石川勘解由を呼び出し、ご命令の通り言ったところ、また勘解由はやってきて、城内の者たちは「伊達へ行くのは命乞いです。大内定綱が切腹するのももうすぐでしょうから、切腹のお伴をしたいと思い、お願い申しているが、そのために私は御前におります」と言っていると申し上げたところ、そのように仰り、小浜へは退却させず、伊達の領内へ引き上げるようご命令になった。
そのとき遠藤下野は門の二重の内までやってきて、そのようすをいって断ったところに、政宗の御前からまた使いをくだされ、城の者たちに強く攻め上げなかったので、言いたいことを言ったため、お攻めになるべきで、もし本丸まで攻めたなら、そのときは異議なく伊達に引き上げるので、すべての勢に言われ、ご命令になったので、仕方なく城へ攻め上げた。
下野はようやく城からでてきて、私たちのところから早々と火を付けたが、山城であったので直ぐに吹き上げ、あちこちへ火が移った。そのほか押し込めていたところへすべての出口から火を付けたので、思った以上に中の者たちは任せられたところから離れた。未の刻から攻めて、申の刻に本丸が落城した。
撫で切りをせよと仰せになり、あちこちへ見張りを付け、男はもちろん、女房・牛馬に至るまで切り捨て、日が暮れて離れた。味方に紛れて生きていた者はどうなったか、敵と思える者は1人も残らず討ち果たされた。その夜、新城・樵山は敵地であったが、二つの城とも自ら火を放ち、退いた。
28日未明に「樵山へ移るべきである」とご命令になったので、それぞれ陣場とりを大古なった。私も家来が4,5騎先へ行ったところ、馬に乗った大将が1人敵方よりきて、招くので、私の家臣が向かっていき御尋ねたところ、かれは服部源内といい、私のところで仕えていた者で、塩松へ寝返ったものであった。築館の城から退いたので、早々と追いかけるべきであるといって、早々と退いた。からの城へ乗り込んで、そのことを申し上げたところ、政宗は築館へお移りになり、お休みになった。
築館に逗留なさっている間に、青木修理が捕まえていた前述の3人の者たちのこと、小浜へ申し渡したところ、大内定綱も修理弟と子どもを返すこと、大変無念と思うが、家老たちの子息を棄てることはできないといい、日にちを決め、小瀬皮というところで双方からやってきて、政宗の見張りをつけ、青木新太郎と子どもを受け取り、九郎四郎と新八郎を取り替えて帰った。
このように、塩松とは戦をしていたが、八丁目の実元がいた二本松の境は戦闘にはなっていなかった。その詳細は、書き付けたとおり、二本松・塩松は戦の強いところにすりより、成り立っていたので、畠山義継は、大内定綱に加勢していたが、伊達の勢いがあがってきたので、伊達を頼るのがよいとおもったのだろう。また、私の親の実元が健在であった頃には、会津・仙道の衆は、塩松を助けていた。田村は敵であったので、二本松領ばかりを通るので、義継に疑心を抱かせると、考えて、境界をおさめていた。そのことを、政宗へは伝えていたが、私は若輩であったので、聞かされていなかった。この境界が戦闘状態に陥れば、ますます強くなるだろうと申上、手切をするべきではないと私に二度も書状をださせ、八丁目と二本松の境は無事であった。
清顕が「小浜には援軍が多く居る。そのうえ塩松の者はあちこちから退いて、小浜に集まっているので、もし戦闘をしかけても、敵ではない。田村へお回りになって、大内定綱が抱えていた小城どもをとられるべきである」と仰せになったので、築館を9月22日に出立され、黒籠という、田村支配下の城があったので、そちらへ移動し、23日はそこでお休みになった。小浜の敵に、伊達勢を引き入れようとしている者が居ると片倉小十郎景綱を介して申し上げたところ、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎4人は築館に残され、小浜を落とすようにとご命令になった。
黒籠より24日に大波内という城へ戦闘を仕掛けられた。彼の地に二本松衆が援軍に入っていた。内から手勢を出し、合戦となったが、あまり強く攻めなかったので、物別れになった。その日は何ごともなく、黒籠へ引き上げられた。築館に差し置かれた4人の衆も、小瀬川というところへ攻めたところ、政宗の進軍が遅かったので、片倉景綱、その頃あまり兵がいなかったので、手勢200ばかりを連れて、指示なく小浜の近所まできたところに、小浜の勢がやってきて、小瀬川まで5里ほど追いかけた。4人の衆は川を越えて合戦をした。小浜衆は5、600騎も来たが、政宗が来ることを心配して、早く引き上げた。この衆は少なかったので、襲うことなく、双方とも頸10程度取っただけだった。
25日に、岩角へ攻めかけられた。地形を見廻りごらんになって、近くに陣を引きお攻めになって、この城をお取りになったので、二本松勢の通路は不自由になったので、明日移ることにし、また黒籠へお戻りになった。
小浜では援軍の衆は「岩角を取られたならば、退くことは出来ないだろう」と相談していた。会津衆は大内備前に「今日正宗が岩角を廻り、見ていたそうだ。彼の城をとらせようと思っているようだ。もし城が取られたら、みな引き上げることが難しくなるので、今夜退くべきである」と相談していた。会津の中で、松本図書之助のあとが、空いているので、会津の宿老にさせてやるので、退くべきだとしきりに意見した。
中目式部・平田尾張の2人を介して催促してきたので、大内定綱は通路のことを大事であると思って、抱えていた城に詰めていた者たちをみなその夜二本松へ退かせ、塩松の件は落着したのである。

感想

話の流れはだいたいのところ『政宗記』と同じですが、ひとつの記事が大変長くなっています。
4,5記事、つまりほぼ一章分をひとつにしているような感じです。
そして一人称に「拙者」「我等」を使っているところも『政宗記』『伊達日記』系にはないところです。
少しおもしろいのは、小手森城の城攻めのところ、『政宗記』では午の刻から酉の刻なのに対し、『正宗公軍記』『成実記』では未の刻から申の刻となっています。
『成実記』が覚書で、『政宗記』が最終形態だとすると、『政宗記』プロトタイプであろう『正宗公軍記』はそのままで、『政宗記』のときにちょっと盛ったのでしょうか?(笑)
よく死者の数が話題になる小手森の撫で切りですが、成実の記事では数が出てきません。

*1:これありカ

*2:待てカ

*3:取りカ

*4:者カ

*5:がカ

湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事

『常山紀談』とは

江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『常山紀談』は江戸中期に成立した逸話集で、名将言行録のもとになっている部分も多々あるようです。有名武将の有名な逸話はこれ発信みたいなものも多いです。
現代語訳はいろいろなところで見られるので、政宗関係の原文のみあげておきます。
『名将言行録』同様、政宗言行録系に載っていないこと、特に政宗の情けない逸話なども載っておりまして(笑)、おもしろいです。

原文

「伊達家の士卒異風出陣の事」

朝鮮を伐るる時、関東の諸将も兵を出さる。伊達政宗は遠国たる故に、騎兵三十騎鉄炮百挺鎗百本と軍配を定められけるに千計の士卒を引具し、天正十九年正月八日岩出山を打立、二月十三日京に著く。小西加藤は先陣たり。岐阜中納言秀信を始として関東の諸将師を出さる。其道は聚楽より戻橋を大宮に押通る。政宗の旗三十本紺地に金の丸付たる具足著て、弓鉄炮の者も同じ出立に銀ののし付の刀脇差、金のとがり笠をかぶり、馬上三十人黒ほろに金の半月の出し豹の皮、又は孔雀の尾、熊の皮いろいろの馬甲かけ、金ののし付の刀脇差あたりもかがやく計なる。仲にも遠藤文七郎、原田左馬介ははき添に木太刀を一丈計に作り帯たりしが、鞘尻のさがりければ、金具を真中に設けて糸を結び肩にかけて馬に乗たりけり。見物の群衆政宗の軍兵押通る時目を驚かす出立なれば、一同にをめきとよめきけるとぞ。
 明の援兵朝鮮に来り、平壌に有て練光亭より日本の兵を望みしに、江上に往来する者大剣を荷ふ。日光下り射て電の如し。是は真の剣にあらず。白蝋を沃ぎたる物なりといふ事、懲毖録にしるせしは、伊達家の二士の木剣の事にや。

「氏郷伊達家の刺客を免されし事」

伊達政宗、蒲生氏郷の威に壓るる事を心中に深く憤りて、氏郷を殺すべき事を思案して、数代家に仕へし者の子に、清十郎といへる十六歳に成ける者、容貌勝れて艶なりしに、密にたくめる事を語り聞せ、田丸中務少輔が児小姓にだして奉公させられけり。田丸は氏郷と姻家の親しみあれば、来られん時便を伺ひて刺殺せ、との事なり。清十郎が父の方へ遣はしける書を関所にて改め見しより事起りて、其謀の泄たりしかば、清十郎を獄に押入、此事を秀吉に告るといへども、秀吉遠く慮りて強て伊達家と和平せさせられぬ。氏郷、清十郎を呼出し、吾過ちて罪なき義士を獄に入れ辱を与へたるよ。其君の為に命を捨て忠をいたす、賞するに余り有り。とくとく伊達家に帰るべし、と礼儀正しくもてなして帰されけり。
 記せし書に清十郎が姓をもらしぬ。をしき事なり。

「黒塚の歌の事」

(前略)〜又安立郡に川あり、向うに黒塚あり。安立は氏郷の領地なりしに、黒塚は伊達政宗の領地なりとて争のありしに、氏郷、平道盛の歌に、
 みちのくの安立が原の黒塚におにこもれりといふはまことか
とよめる事有り。いかに、と申されしに、聞く人、黒塚は安立が原に属したる事分明なり、とて政宗争ひをやめてけり。

「伊達政宗膽気相馬の城下に宿せられし事」

同じ時、伊達左京大夫政宗は急ぎ本国に帰り、からめ手より攻め入るべきよし仰せを承り、大坂を打つ立ち夜を日につぎて馳下る。白川より白石まで皆かたきの中なれば道ふさがりぬ。常陸国を廻りて岩城相馬にさしかかって国に帰らんとするに、相馬また累代の仇なり。然るに政宗僅に五十騎ばかり引具して常州を経、岩城と相馬の境に到り、先相馬が許に使をたて、此の度徳川殿上杉を征伐し給ふにより、政宗からめ手より向ふべきよしの仰せを承りぬ。路既に塞り候ひしほどに、やうやう此の地に馳著ぬ。あまりにはやめて道をうちしゆえ疲れ候。願はくは城下に旅館をたまはらばや。馬の足休めて明日国に帰り入らんと存ず、といはせたり。相馬長門守義胤これを聞き、あつぱれ運の尽たる事ぞかし。さらぬだに伊達は相馬が年比のかたきなり。ましてや味方討ん一方の大将承りたるといふものを、いでいで今宵一夜打して、案内知ぬ奴原を一人も残らず討取て年比の仇に報い、又今度の賞にも預らばや、とてやがて民家をしつらひて迎へ入れ、人々集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛といふ者、はるかの末座に候ひけるが進み出、末座の異見恐入って候へども、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず。抑窮鳥懐に入る時は、猟者もこれを殺さずとこそ申候へ。政宗ほどの大将年来の恨をすてて君を頼みて来りしを、たばかりてやみやみと討れん事勇者の本意にあらず。長き弓矢の瑕瑾ならずや。又彼が国境駒が峯に至らんに行程僅に三里、けふ日未だ未の時にさがらず。政宗が国に入らんとだに思はば日夕ならざるには至るべし。それに僅の勢にて止る事深き慮なからざらんや。只此の度はよきに警固して国に返し、重ねて戦ひに臨ん日、勝敗を天運にまかせらるべきにや、と申ければ、一座の人々此の議に同じ、兵糧秣わら塩魚に至るまでつみ置、かぶりを焼て夜廻りす。義胤が士ども、政宗あまりにしづまりかへりたる体こそ心にくけれ。いざ試ん、とて夜ふけて後、馬二匹とりはなち、人々走りちりて以の外にさわぎののしる。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打かけ、左の手に刀を提て立出、相馬殿の御ン人や候、といふ。是に候、とて行向へば、物音高く候。政宗が下人原狼藉候はんには、よくしづめて給はり候へ、とて又内にぞ入たりける。夜明れども立ちもやらず。巳の時ばかりに成て、義胤の許に使して一礼し、さてしづめて馬を打って行く。ひそかに人を付て窺はしむるに、かの国の境駒が峯のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如くみちみちて出むかへぬ。かくて関が原の事終りて、相馬すでに上杉に心合せたれば亡ぶべきに極る。政宗訴へ申されしは、相馬は年比政宗がかたきなり。石田、上杉に与したるが一定ならんには、政宗彼が為に討たるべし。然るに君の仰せ承りて馳下るよしを聞て、深き恨をわすれ新恩を施しき。彼が逆謀に非るの証に候はずや。又累代の弓矢の家永く断ん事不便の至りなり、と度々なげき申されしかば、後には本領を相馬に賜はりけるとぞ聞えし。

「伊達上杉陸奥国松川合戦の事」

慶長六年四月、伊達政宗奥州景勝の地を斬取んと、百姓を間者にしておこたりを伺れたり。松川は阿武隈川の枝川にて、伊達領の境なれば、本條出羽守、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸、栗生美濃、岡野左内、五千計にて守りけり。政宗は国見峠を踰、信夫郡より瀬の上の川を渉り、五千の兵にて梁川の城を押へ、松川をさして押し寄する。物聞ども斯と告れば、本條出羽、城を出、川を渡してや戦ふ、川を前にして半途をや打ん、といふ処に、松木内匠、敵不意の利を謀て押寄せ候に、味方川を渡りて待ちかけなば、政宗思ひしにたがひて必ず引退くべきなり。川を渉らんこそよかりなめ、といふに、栗生同心せず。此の川中窪にて極めて渡す事たやすからず。政宗わたらんところを半途を打つに利あらん。岡野、いやいや敵大軍なり。爰に待んは敵を恐るるに似たり。勇士の志にあらず。とく川を渡して待設せん、と云ふ。栗生、孫子に少を以て衆に合ふこれを北と曰ふといふことあり。小勢にて無謀の軍せんは、大敵の擒とならんは必定なり、といふ処に、甘糟備後、杉原常陸もはせ来り、まづ物見を出せ、とて、猪俣主膳、本庄段右衛門、井筒小隼人、乗行きて馳帰る。猪俣は、政宗川を渉らじ、といふ。二人は政宗川を渡さん事半時計もやあらん、といふ。子細を問に、猪俣、敵馬の沓を取ず障泥をはづさず。羽壺を常の如く附けたり、といふ。井筒、本庄が云、我等見し所も同く候。されども政宗いまだ来らず。其の間五六町計もや候らん。政宗川際い押寄せて其の支度せんに、何の時刻を移すべき。且小荷駄を遠く引退たれば、戦ひを持ちたる敵なり。政宗二万の軍兵を帥て寄来り、空しく引返すやうや候、といふ。さらば川端二町計置て陣を整へて敵を待ん、といふ所に、岡野は切支丹を信ずる人なるが、南蛮人の贈りける角栄螺といふ冑を著、真先かけて川を打渉す。栗生、甘糟、川を渡るべからず、と下知すれども、布施次郎左衛門、北川図書、小田切所左衛門等二十騎計、真しぐらに川に乗入り打渡す。宇佐美民部鎗を横たへ、残る兵をば押しとめてけり。かかれば政宗押来り、先陣片倉小十郎透間もなく切ってかかる。岡野四百計真丸になりて鎗を打ち入れ、面もふらずをめきさけんで戦ひけれども、大軍に取かこまれ、左内僅に打ちなされ、切りぬけて引退く。北川馬の首を立直し小田切に向て、唯今討死せん。会津に残し候十四なる吾子をたのみ申すよ。是をかたみに送りてたまはり候へ、とて猩々皮の羽折を脱で小田切に渡しければ、小田切、若万死に一生を得候ならばたしかに送り候べし、とて羽折を腰にはさみけり。北川、今は思ひ置く事なし、とて追ひくる敵の中にかけ入て切死にしたりけり。是をはじめとして帰し合せ、火を散して戦ひけるが、討たるる者多し。政宗勇み進んで追かけられしに、岡野猩々皮の羽折著て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、かへす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ、岡野すかさず右の膝口に切付けたり。政宗の馬飛退てければ、岡野、政宗の物具以ての外見苦しかりし故、大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乗入たるに、政宗、又十騎計にて追かけ来り、きたなし返せ、と呼はりければ、岡野ふりかえりて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へかへさぬものぞ、といひて岸に馬を乗上たり。宇佐美兵左衛門十六歳、松川の向ひの岸にて危く見えしかば、父の民部馬を川に打ち入れたり。栗生、いかに先には川を渉る者を止められしが、何事に渡され候や。名将の宇佐美駿河守の子息にはいかに、と問ふ。民部、謀も心より出候。あれ見られよ。一子の兵左衛門向の岸にてはやううたれぬべく見ゆれば、心の乱れたるぞや、といひも終らず川を渉り、打連て引返す。栗生は陣を整へて待かけたれば、片倉が軍兵を追崩し川に追ひたす。されども大軍見る内に重り攻め寄せしかば、上杉勢は福島をさして引退く。福島に至て行程いなか道十八里なりといへり。政宗、いづくまでもあますな、と馬煙を立てて追かけしかば、物具を道に捨る事数を知らず。息きれて行倒れたる者もあり。持鎗の長き柄はもち堪がたくて、多くは捨けるとぞ。青木新兵衛、永井善左衛門を始として、大剛の者ども馬を返しては追ちらし、とって返しては突はらひ後殿しけり。青木は小丈なる馬に乗、柄の短き鎗なりし故、殊に乗さがり幾度となく支え戦ひけり。甘糟備後は上杉家にて勝れし勇将なるが、白石の城を守りしに、会津に行きたりし跡にて、登坂逆心して白石を敵に取られし事を口惜く思ひしかば、今日とりわきて引さがり、取てかへして追退け、勇気をあらはしけり。福島の城下の川を渡る時、政宗の兵弥追詰て、われ先にと川に打入れたるが、永井を後より三刀切る。永井度々の軍に戦ひ疲れ、大軍打渡す川音にまぎれ此れをしらず。青木は鳥毛の棒の出しにて黒きほろかけたるが、乗寄て敵を追払ひ、川岸に打ちあがりて永井に斯といへば、驚きて従者に見すれば、ほろに三刀、鞍にも刀の痕あり。永井、けふは助けられし、とて一礼をぞ述たりける。小田切も敵に取囲れ、あはや討たれぬと見えしを、青木又かけ寄せて敵を追ひ払ふ。岡野は旗おし立て静に福島の城に入、甘糟、栗生も引入りければ、政宗やがて押寄たるに、殿の兵ども、柵をこえて城に入たりしに、青木は柵を越かねて只一騎ひかへ居たる所に、政宗馬を駈寄たり。青木十文字の鎗にて政宗の冑の立物三日月を突折しかば、政宗馬に諸鐙を合せてかけ通られぬ。青木後に政宗と聞て、今一と鎗にて突殺すべきに、口惜き事よ、とぞいひける。斯るところに梁川の城より須田大炊助長義討って出、政宗の兵阿武隈川を前に陣しけるが、此の川奥州第一の大河なれども、須田はよく地の利をしり、兵を二陣にわかち、須田は川上に打上りけるを見て、政宗の兵二ツに分れて防がんと色めく所を、一文字に渡して斬かかる。敵敗北しければ物具を始め多く分捕にせし中にも、伊達家に伝へし幕を、須田宇平次、中村仙右衛門奪取てけり。須田今年二十三、これより武名殊に世に高く聞えけり。政宗は松川にて、後に敵出たりと聞き引退く処を、本庄越前又かけ出て川を渡し追かけければ、政宗敗北し、信夫山に掛りて引き退く時、景勝後巻に打出て紺地に日の丸の旗山の上に見えしかば、政宗とる物もとりあへず仙台に引返されけり。後に政宗使を以て、攻取たる白石の城を幕と取換ん、と云送られしかば、景勝聞て、白石の城は鋒にて攻とられ候。幕も亦吾士卒の骨折て取得候へば、重て幕をも鋒にて取返されよ、と答えへられし後、小城一ツ攻落されしは恥にあらず。昔より名将も城を敵に攻落とされし事なきにあらず。武具を取られし事は弓矢とる身の大なる恥なれば、政宗我をたばかりて斯云しなり、と笑はれけり。台徳院伝上杉の館に御ン出有りし時、かの九曜の幕法華経の幕を厩にうたれしとぞ。其の後政宗、岡野に逢たりし時、松川の軍の有様語り出して、汝を斬つるはわすれじ物を、といはれしかば、岡野、大将の刀の跡と存候て、金糸にて縫あはせ、家の宝とせんと存るよしいひて、羽折を政宗に見せければ、政宗悦ばる。其の時岡野、冑のしころを吹返しかけてなぐり切にしたりき、と申しければ、政宗色を変じ、物語を止られしとかや。

「大坂夏御陣真田左衛門佐幸村勇戦の事」

大坂夏御陣、五月五日のあさ真田左衛門佐幸村が物見馳帰りて、旗三四十本、人衆二三萬計国府越より此方へ越来り候、と告。是伊達陸奥守政宗の軍勢なり。真田が士卒、すはや此陣を押出し給ふか、と勇む気色なり。されども障子に靠、片膝を立て居たりしが、静に答て、左あらん、と計にて他に言ばを出さず。午の刻ばかりまた物見馳来り、今朝のとは旗色かはり候が二三本見え、人数二万計、松かげ故不分明候が、龍田越を押下候、と告。是松平上総守忠輝なり。幸村虚見眠して居けるが目を開き、よしよし如何程もこさせよ。一所に集て討とらば心地よからんものを、とて是に取合ぬ有さまなりければ、皆早りたる心も悄静りぬ。是大敵を恐れしめず、味方を騒がしめざるとのことなるべし。夕炊然てのち、此備所は戦ふに便なし。いざ敵近く寄らん、とて一万五千余正奇を乱さず、前後を混じらず、■*1歩次第をととのへ押出せば、敵仮令十倍なりとも恐るるにたらずと思はれける。其夜道明寺表に陣をとり、明れば六日の早旦野村辺に至り、渡辺内蔵助糺は幸村に先達て、水野日向守とたたかふ。糺は勝茂を切靡ること五六十歩、勝成又守返して糺を衝退る。互に刀闘三度に及で糺は深手を蒙り、脇に備を引取、そなへを立直し、幸村へ使を以て、只今の迫合に疵を蒙候故、御人数駈引の妨と存脇に引取候。且横を討んとする勢を見せ候へば、味方の一助たらんか、と申遣す。幸村、御働目を驚候。是より我等受取候、と答ふ。備を進むれば政宗の多勢蒐りきたる。野の地形、前後は岡にて上平なり。中間十町ばかりひきくして、道左右田疇に連れり。幸村已に兵を前んとするとき、令を下して冑を著せず、鑓を取せず、馬の傍にひき添せて、下知せんときを待せたり。敵合十町計になりければ、幸村使番を以て、冑を著せよ、と云。爰に於て皆持せ置たる冑を取て打著、忍の緒をしめたりければ、勇勢新に加り、兵気ますます盛なり。敵合已に一町計にならんと思ふとき、幸村又使番を以て、鑓を取れ、といふ。諸士手手に鑓を取て穂先を敵方に差向たれば、面々いかなる堅陣剛敵なりとも打碎かん、と別に魂を入たるがごとし。此とき幸村が先手半過、岡の上に押上たる処に、政宗の騎馬鉄炮八百挺を、先手より一二町も前で一同に打立けるに、鉛子の飛は霰のごとく、火薬光電に似たり。煙は忽雲霞となりて丈尺の間も見えわかず。幸村先手の士混々と打斃されて、死傷するもの多かりしかども、一足も退心のなかりしが、冑を著鑓を取たる気勢の壮なるが故なり。幸村煙の中より、先手に爰をこらへよ、大事の場ぞ。片足も引ば全く没べしと下知する声耳に徹し、鑓の柄をにぎり、平伏になりてこたへたり。幸村下知して、炮声の絶間に十四五間ほどづつ走行居敷、炮声の絶間にまた斯くのごとくす。このとき、幸村が鑓さきより一尺進みたるものあらば、今日第一の功とせん、と言しに、一人も此先に出るものなし。政宗の騎馬鉄炮といふは、伊達家の士の二男三男、壮力のものを択て、本より仙台は馬所なり、駿足を勝りのせ、奥州にて所々の戦に馬上より鉄炮一放と定て打するに、中らぬ玉は希なり。打立られて備乱るる処を、煙の下より直に乗込で駈散すに、馬蹄に蹂躙せられて、敵敗潰せずと云ことなし。此とき騎馬鉄炮の士馬を入んと駈寄けれども、幸村の先鋒近々と備へて折敷たりと見て漂ふ所に、煙も稍薄くなれば、幸村此しほ合をや計けん、大音上再拝を振て、蒐れ、と言ふ。言の下よりみな起立て直に突かかり、政宗の先手七八町追崩せり。水野日向宗勝成、政宗をすすんで復戦はしむ。政宗、我軍労れたり。戦今日に限るべからず、とて従はず。勝成また忠輝を勇けれども果たさず。勝成は小勢なれば独たたかふこと能はずして止ぬ。幸村未の刻迄合戦を待居たりしが、夫より繰引に引とれり。其体粛然として追討こと能はず、慕はば却って彼為に挫らるべし。東軍の諸隊見るもの感賞せり。

*1:馬偏に歩く

『名将言行録』「伊達政宗」

『名将言行録』とは

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。
全70巻と補遺からなり、主に武田信玄、上杉謙信、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家康などの天下を競った戦国大名から、森長可といった安土桃山時代の戦国武将、江戸時代の譜代大名で老中を務めた戸田忠昌、赤穂浪士の討ち入りを指揮した大石良雄など、多くの時代の人物について、その人物の言行、逸話を記録している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『名将言行録』は江戸時代末期に書かれたものですが、多くの時代の人物について言行・逸話を残しております。戦国時代の項については時代が離れていることもあって、史実とは考えがたい記述も多数ありますが、江戸時代中に普及していた武将たちの逸話がどのようなものであったかを理解するのに役立つ本です。
政宗言行録系に載っていない逸話・相違がある記述などもありますので、比べてみるのもよいかと思い、原文だけ上げておきます。
当然ですが、江戸初期人である成実や政宗とは語彙が違いまして、結構文字打ちに苦労しました(笑)。

原文

底本は岩波文庫版(第3巻153p~181p)を使用

岡谷繁実『名将言行録』「伊達政宗」

 左京大夫輝宗の子、陸奥守に任ず。後従三位権中納言と為り、仙台城に住し、六十四万石を領す。寛永十三年五月二十四日薨、年七十。

 政宗、幼名梵天丸と曰ふ、五歳の時城下の寺に参詣し、仏壇の不動を見て、近臣に、是は何たるものぞと最も猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武将たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。聞く者是を奇成りとす。八九歳小学に入り、礼楽を学び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寛仁人に対し羞色あり、近臣、或は其将器にあらざるを誹る者あり。独り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑑識に服すと云ふ。

 天正十五年、長井の鮎貝太郎、政宗に反く。政宗之を討んとす。老臣等皆曰く、最上より定めて援兵来り候べし、其上御家中に鮎貝の外に、又最上へ内通致し居る者も之あるやに承はりたる間、御探索ありて、御人数御手配の上、御出馬然るべくと。政宗曰く、各申所尤もなれども、左様の延引も時に依ることなり。今火急の節なり。軍は不意を挫くを以て勝利を得ることあり。又物は定まりて、定まらぬものなり。最上より加勢必定と思ふことも、品により其期延ることもあらんか、又加勢あるとも、小勢の折りか、又取掛らん抔評議の内に、急に押散らさんこと第一なり、延引して敵の謀成就しての後は六ヶ敷からん、且つ家中に鮎貝が外に敵に通ずる者あるべきや、と各推量なれども、知らぬ行末計らんよりは、指当ることを為さんには如かじ、目前の鮎貝を差置、事広まり、爰彼所に謀叛の者起らば、一同に退治せんこと難かるべし、時を移さず行ふは、勇将の本望なり、早や打立つべしと触出し、出馬せしにより、家中追々一騎駈の如く駈付け打寄せけれども、最上よりの加勢一人も来らず、鮎貝一人にて敵対すべき様なく、取るものも取りあへず最上へ引退きしに付長井中無事に治め、仕置して帰陣せり。人皆其神速の工夫に感ぜり。

 十七年、須賀川の役、敵将二人善く戦ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壮士なり。其一人は二十許り、その一人三十余歳なるべし、田村月斎、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武蔵三十五、果して其言の如し。人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を択ばず、弱冠の所為なり、一人は強を避け、弱を駆り、進退度を失はず¥、壮年にあらざれば爰に至らずと。

 政宗、既に会津を亡し、疆土広大になりぬれば、老臣、宿将等相議して、政宗に向ひ、古と違ひ、今は御手も広く、諸大将参会申され候上、他家よりも使者多く候に、御城小さく、殊に粗末にて剰へ御城下も狭く候間、御普請ありて御城下をも、御開きありて然るべし、今の通りにては第一御外聞も如何に候と言ふ。政宗聞て、何れも異見の所は尤もなれども、政宗は城普請に心を費さんとは思はず。城抔に年を入るるは、小身なる侍が、彼方此方申合はせ、敵寄せば助勢賜はり候へ抔、互に言合はする者は、成程堅固に普請致すが能きなり。予が心は、昔より近国の大将を頼み、助を得て国を持怺えんとは思はず、敵押寄せ来らば、境目に於て尋常に合戦して打果すか、様子悪くは引退き、敵を領分に引入れ、家中の者共に申合はせ精入れて有無の合戦を遂げ、敵を挫くか、左なくば討死して滅亡と兼ねて究め居るなり。籠城して敵に取籠られ、数月を送るとも、家中騒立ち助くべき隣国もなくば、空く城にて餓死すべしと。況や、其許等申如く手も広く、軍勢も昔に十倍せり、近国に於て恐らくは、我領分へ手出すべき人は覚えず。予、又此城を取り立て迂闊々々として、爰に居住を定めんとは思はず、来春に至らば、諸軍を率ゐ、向ふ所を敵とし、従ふ所を味方として、関東に旗を立て、新に土地を開かんとす。故に予が心を費すは、軍旅の掟、軍用の費、諸将の忠功を賞し、不忠不義の誡何れも道に当らんことを、朝夕之を思ふなり。第一諸士述懐し恨みを含むことのなき様にと思ふ計りなり、古き家々の破るるを見るに、家中に恨を含む者ありて、主君に背き、敵に内通し、夫より家中騒立ち、終に身を亡せし者少なからず。禍は内より起りて、外より来らず、他家の者来りて此城郭の粗末なるを謗り笑ふべきことは、予も恥しけれども、国の為めには替え難き恥なり、予が手の広がるに従ひ、各も少しながらも、領地加増を取て、妻子をも育むは、各精を出して、我に奉公する蔭を以ての故なり。古歌に『人は堀、人は石垣、人は城、情けは味方、怨は大敵』とあり。誠なりと言て、笑はれけり。諸臣、何れも歎服して退けり。

 小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屛居す。秀吉、人をして遅参のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠国田舎の住居にて、夷狄の風に墜ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、万事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒称せられけり。

 此役終らば、秀吉会津発向に付、先達て小田原表より、出勢之あり、諸大名宇都宮近辺へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物静にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禅院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀軽しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舎育にて、事の辨なく、奥州辺の国風に任せ、私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の義は申すに及ばず、本領米沢の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相続の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病気、之に依り其義に能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの箱の封を切り、是は蘆名旧領の絵図目録帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より伝へたる米沢領絵図目録にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、逐一承届け候、是より申承はるべく候、病気保養油断あられ間敷旨、返答に及び候となり、右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ参陣のこと、奥州筋所々へ聞え渡りたるに付、出羽、奥州にあるとあらゆる大小の武士ども、大に驚き、我も我もと宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奥羽両国悉く、手に入り申されしとなり。其後吉隆方より秀吉公御対面之あるに付、片倉を召連れ明早天登城致さるべくとのことに付、翌日に至り、政宗出仕の所、秀吉対面あり、其上岡江雪相伴にて、政宗、景綱へ料理賜はり、茶抔も相済み候、已後又秀吉前へ政宗を呼出され、吉隆、件の箱を持出、政宗前に差置く。秀吉申されけるは、蘆名旧領の地は召上げ候、其方持参り候、本領米沢の義も今度差上ぐると雖も、手前心入を以て返し与へ候條、相替はらず領地尤もなり、我等も追付帰京候條、早早帰り然るべきとて、首尾能く暇を賜はりたるに付、政宗其箱を押戴き、一礼を述尋ねければ、景綱曰く、黒川を始め、其外の城々の義も、悉く明け候て、城番の侍足軽、少々居残候までの義に候間、明日にも差上ぐべくと申たり。政宗は申すに及ばず、景綱も只尋常の者にては之なしと、其頃取沙汰せしとなり。

 十九年、葛西大崎一揆起る。蒲生氏郷討て之を平ぐ。政宗、右一揆の棟梁たりとの聞えあるにより、秀吉怒り、政宗の敵に交通せし書牒を以て、政宗を詰問せられしに、政宗陳して曰く、箇様の無実あるべきことを計り、某が判形の鶺鴒に心印を付け置きしが、謀書の判には、其印なし。其印と申は鶺鴒の眼を針にて突て瞳と成したり。此頃人の方へ遣はしたる書牒と引合はせ、御覧あるべしとの趣なり。然れども、氏郷より分明の注進あるにより、秀吉、政宗に上京あるべしとのことなり。此時政宗、金銀の上箔にて包みたる磔柱を行列の先に立て上京せり。是は政宗程の者が磔に掛らんに、並々の様にては口惜きとの用意なり。折節、秀吉、伏見の城を築き、其役を見て居られしが、政宗上り来るを聞き、是へ来るべしと言はる。政宗猶予せる気色もなく、秀吉の前に出ければ、秀吉、杖取直して、政宗の頭に押当て、其元上京せざるに於ては、斯の如くすべしと思へども、時刻移さず馳上りし上は、宥免するなりと言はれけり。

 文禄四年、関白秀次謀叛の聞えありし時、政宗も之に与みせしとの説あり。秀吉怒り、政宗の封を伊予に移す。政宗、伊達上野外一人を以て、徳川家康へ斯の如く仰付られたり。伊達家の浮沈此時に極りぬ。賢慮を仰ぎ奉るより外なしと請ふ。家康聞て両使に茶飯等を賜る。暫くありて、両使暇を告げ政宗嘸ぞ待遠に存候はん、疾く罷帰り御返事を申聞かせ度と存ずると申せば、家康大声にて己々が主の越前と曰ふ男は、当りは強き様に見ゆるが、腰の抜けたる男にて、後の弱き故に、左様には狼狽の付くことなり。四国へ行て魚の餌に成るがましか、爰にて死したるがましか能く分別あるべしと言へと、重ねて秀吉より催促の有る時の返事の様を、細々と示教ありて、両使は罷出る。追付家康、秀吉の所に至らる。又た秀吉より政宗へ使にて、昨日の請如何、早々予州へ下るべしとのことなり。此使政宗宿所へ参り見るに、門前に弓、鉄炮、鎗、長刀を帯したる者ひしと並居て、只々打出ん有様なり。御使あると聞て政宗は無刀にて出迎ひて、座に請じて、御使の旨を聞て涙をはらはらと流して申けるは、上様の御威勢程世に有り難きことは侍らず、人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙る程の不幸はなく候、今日こそ存なして候へ。某に於ては仮令此御不審を蒙りて首を刎られ候ても、異儀に及ぶべきや、況や国郡を下し賜はりて、所を替ふるとの義、何の子細か候うべき、なれども譜第の家僕等、何れも訴申候、何條数十代の御領を離れて、他国へ流浪することやあるべき、速に是にて腹を切られ、我々も一人も生きて所を去り渡すべき所存はあらずと申切て、平らに自害を勧め申に付、色々に理を尽し申聞かせ候へ共、家臣等一向に同心仕らず、各々御覧の通り、狼藉の至りなる様にて候、去れば偏に当時御勘当の身に罷成候へば、数十代の家人さへ、下知を用ひず忽諸に仕候こと、是非に及ばず候と述ぶ。其使罷帰りて、此旨を申せば、家康如何にも左様にこそ承り候へ、政宗一人の義に於ては、上意を違背候て、旧領を去り渡し奉らざるに於ては、某に仰付られ候はば、即時に彼旅宿へ押寄せ、踏み潰し候に、何の事か候べき。此度此所へ供仕りたる、千に足らざる小勢にてさへ、家臣ども左様の存切候へば、旧国に残り留りたる郎従等、国を退くべきことには得こそ申間敷候へ、彼郎従を追払ひ給ふべき賢慮さへ御座候はば、政宗に於ては某に仰付らるべきものか、然りと雖も、累代の所領を没収し給はらんこと、彼の郎従の愁訴仕候所も、不便に存奉り候へば、枉て此度は、御赦免もあるべきものかと申されしかば、秀吉、兎も角も家康が計らひ給ふに若くは候はじとありければ、国替のこと沙汰なくして、其事止み、其後勘当も免されしとぞ。

 秀吉、大なる猿を飼ひ、諸大名登城の時通る辺に繋置く。猿歯をむき飛掛りし時、諸人狼狽する体を、秀吉透見せられけり。政宗之を聞き、病と称し登城せず。猿引を百方手にいれ、密に猿を借り玄関に繋置き、政宗通りければ、猿歯をむき飛び掛らんとす。政宗策を以てしたたかに打すくめたり。斯く度々しければ、彼猿後には政宗を見て屏息す。斯の如く仕込み、猿を返せり。偖登城しければ、秀吉右の事は知らず、政宗様子如何と透見せられければ、政宗玄関を上る時、猿飛び掛らんとせしに、政宗はつたと睨みければ、彼猿萎縮して退きたり。秀吉、之を見て曲せ者めが、又先へ廻りたると言て、笑われしとぞ。

 秀吉、嘗て舟遊に出づ。政宗にも供すべきとのことなりけるに、遅参して、舟の出たる跡を来りけり。之に依り、馬引寄せ打乗て、只一騎舟に目を掛け、住吉の方へ乗行きけるに、秀吉見て、大方政宗なるべしと言はる。舟住吉にも着られず、又漕戻さるるに依て、政宗も又乗返し、着船せられし所に参りければ、秀吉只今の馬は政宗にてありつるか、武者振見事なり、定めて草臥たるべしとありて饅頭の入たる折を賜はりける。政宗頂戴して折を傾け、我着物の前を広げ、饅頭を移し、入れ包みて立退き、我内の者を呼び寄せて、上様より拝領申たるぞ、汝等も有難く存じ頂戴せよと言て、残らず与へたり。何れも其厚志に感ぜり。

 会津の役、政宗急ぎ本国に帰り、搦手より攻入るべき由の命を受け、大阪を打立ち、夜を日に継て馳下る。白川より白石に至りて、皆敵の中なれば、道塞りぬ。常陸を廻はりて岩城相馬を経て、国に帰らんとするに、相馬又累代の仇なり。然るに、政宗僅五十騎計り引具して常陸を経、岩城と相馬への境に至り、先づ相馬が許に使者を立て、此度徳川殿上杉を攻め給ふにより、政宗搦手に向ふべき由の仰を承はりけれども、路既に塞りし程に、漸漸此地に馳着きぬ。余りに早めて道を打し故、疲れ候、願くは城下に旅館を賜らばや、馬の足を休めて、明日国に帰り入らんと存ずると言はせたり。長門守義胤是を聞き、天晴運の尽きたることぞかし、去らぬだに、伊達は相馬が年頃の敵なり。況や味方を撃たんとて、一方の大将承はりたると言ふ者を、いで一と夜討して案内知らぬ奴原を一人も残らず討取て、年頃の仇に報い、又今度の賞にも預らばやとて、頓て仮家を出来迎入れ、人々を集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛進み出、末座の異見恐入て候へ共、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず、抑抑窮烏懷に入る時は、猟師も之を殺さずとこそ申候へ、政宗ほどの大将、年来の恨を捨てて君を頼み来りしを誑り、やみやみと撃んこと勇者の本意にあらず、長き弓箭の瑕瑾ならずや、又彼が国境駒ヶ峰に至らんに、行程僅に三里、今日、日未だ未の時に下らず、政宗が国に入らんとだに思はば、日夕ならざるに至るべし。夫に僅の勢にて止まること、深き慮なからんや、只此度は能きに、警固して国に返し、重ねて戦に臨ん日、勝敗を天運に任せらるべきやと申ければ、一座の人々皆此議に同じ、兵糧秣藁塩魚に至るまで、積置き、篝を焼て夜廻はりす。義胤が士共、政宗余りに静まり返りたる体こそ、心悪けれ、いざ試みんとて、夜深て後馬二匹取放ち、人々走散りて、以の外に騒罵る。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打掛け、左の手に刀を提げ立出、相馬殿の御人や候と言ふ。是に候とて行向へば、物音高く候、政宗が下人原狼藉候はんには、能く静めて賜はり候へとて、又内にぞ入りたりける。夜明れども、立も遣らず巳の刻計りになりて、義胤の許に使して一礼し、偖静に馬を打て行く、密に人を付て窺はしむるに、彼国の境駒ヶ峰のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如く、充々て出向ひぬ。斯くて関ヶ原の軍終て、相馬既に上杉に心合はせたれば亡ぶべきに極る。政宗訴申されしは、相馬は年頃政宗が敵なり、石田、上杉に与したるが、一定ならんには、政宗彼が為めに撃るべし。然るに君の仰承はりて馳下る由を聞て、深き恨を忘れ、新恩を施しき。彼が逆謀にあらざるの証に候はずや、又累代の弓箭の家、永く断んこと不便の至りと、度々嘆き申せしかば、本領を相馬に賜はりてけり。

 大阪冬役、政宗馬上にて城を巡見せし時、銃丸飛び来るに、覚えず、身を引きしを無念に思ひ、夫より歩行立になり、城の際へ行き堀を眺め入て銃丸繁く来る所に暫らく居て退けり。

 此役、和睦になりて諸大名皆閑暇なり。之に依り陣中出合咄に、何れの方にても景物の香合はせあり、其所に政宗参られければ幸なり、香御嗅あれとて勝負せり、何れも鞍泥障弓箭抔を景物に出すに、政宗は腰に付けたる瓢箪を出す。何れも笑き景物とて取る者なし。亭主の家来之を取て事済みぬ。偖政宗帰る時、乗来りし馬飾の儘にて、瓢箪から駒が出しなりとて、瓢箪取りし者に与へられたり。初め奥州の大将の景物とて笑ひし者、此時に至り羨みしとぞ。

 大阪夏役、陣触の時、政宗嘉例とて、仙台より七里出で宿す。其所へ行着く時分、火事出来たり。政宗日頃の山臥出立にて、貝を吹かせて、鬨の聲を揚げよとて、揚げさせ、目出度ことなり、我往前に火の手が揚りたりとて、機嫌能く、其次の在所に宿せりとぞ。

 夏役、大和口の大将は徳川上総介忠輝なりしに、臆して戦場をも見ず、政宗も先陣にて、其機を察せしにや、誰にても逆心の者あらんには、追掛け擊取り申べくと言ふ。聞く人早き見様なりと誉めり。其故は忠輝には、政宗の聟なりしかども、此時の様子を疑ひ、其跡に付くことを嫌ひてのことなりとぞ。

 此役、政宗手にて味方の神保を打亡したりとのことにて、咎めらる。政宗曰く、如何にも打取りたり。仔細は向より来る者は、敵の外にはあるまじと存じ、打取れと下知仕りたり、箇様の大軍には敵味方見分けられずと申ししとぞ。

 此役、政宗、家康に向ひ、今度の大軍の内に逆意の者之なく、御手柄結構なることなりと申す。家康此様なる勝軍の時は、敵は死にたれば、逆意の者も知れぬものなり、あるまじと思はれずとなり。政宗、如何にも上意の如くに候、我等抔の家来の内にも、若し逆心の者も之あるべく候へ共、御勝軍故、敵に口かなければ知れぬこともあるべく候、と答え申ししとぞ。

 此役、政宗、奈良に於て、足軽頭を集め、鳥銃を放たするに、加藤太が組下三百人計り放さず、政宗之を見て糺明あれば、道中にて火を持てば、火縄の弊あり、薬を足軽に預れば、路に溢れて、多く廃る故に、倹約を考へ、両品共に包みて小荷駄に付て跡より来る故、不図期に後れしと言ふ。政宗大いに怒り只吝嗇を本として、職分を忘るるは士の道にあらず、以後懲悪の為なりと言て、直ぐに斬て衆人に侚へり。

 耶蘇教盛りに天下に行はる。政宗、南蛮を征し、其根を抜んと欲し、向井将監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等年を経て呂宋王の書及び、奇貨珍宝を斎らして返る。且つ曰く、南蛮風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ厳にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。

 加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、団助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行したるが、内府の気色に相応したると側に聞きたり。其故は石田等が乱を事故なく平げられ、既に六十余州掌の内に入られたることなれば、政宗如き国持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて、日月を暮せば、心元なきことなしと思はるるが故なりとて、殊の外称誉し、頓て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。

 元和の初、将軍鷹場近辺にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、将軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合わせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て余多の人を召具し、鷹使ひながら参られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隠くし、漸漸と遁去り、竹藪の陰に潜まり居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盗みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はうはうに逃んとせしに、其方竹藪の陰に踞まり居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと逃たりと言はれければ、政宗承はりて、左様のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盗み狩りに参りしに、御成の様子を見て、息をこらし隠くれ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、逃ながらも、少しは息を休むべきものを、双方咎人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を発して笑ければ、伺公の輩も、皆々腹を抱たりとぞ。

 七年正月、政宗江戸の邸災に罹る。政宗、改築せんとす。諸老臣諫めて曰く、近歳の軍費少なからず、然るに、又土木のこと起る。若し一朝事あらば、如何せらるべしと。政宗曰く、是よりは四海無事なり、若し事あらば、幕府に請て其軍費を弁ぜん、或は敵を打ち、糧に敵に拠るに何のことかあらんとて、笑われけり。

 寛永四年二月、加藤嘉明会津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢いしかば、足下父子に会津の地預け給ひたると承はる。会津は全く陸奥の鎮衛の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の為に、容易は防ぎ留められまじと言て、大声を発して笑たり。明成、其聲の下より、老黄門、若し今の禄に倍して百二十万石をも領し給はば、今にても取掛け申すべきをと申けりとぞ。

 十二年正月、家光、政宗の邸に臨む。政宗には今日の亭主故、家光一と役と言はれしかば、畏り候とて、観世左吉に太鼓を持たせ、其跡に引続き、舞台に出て、役者と同く御前に向ひ拝せしかば、家光、大声にて誉めらる。階上階下に並居たる大小名も、均く声を揚げて褒めたり。政宗は暫らくの間、只座して小刀を抜き、爪を取りながら、観世左吉と物語りして居たるを見られ、前後箇様の役者は有間敷とのことにて、早や太鼓太鼓と言はれければ頓て太鼓を打始め、静に打すまし、果てて桴をからりと舞台へ投棄て、其儘仕手と脇師の間を会釈もなく押通り御前へ参り、ぬかづきしかば、偖々気味の能き役者よとて、人々褒めあえり。其時家光、偖も偖も聞及びたるよりも膽を潰したり。今より能き役者を見付け、大慶之に過ぎずとて、からからと笑はる。政宗拝謝して、先刻も太鼓の役にひたもの御意を伺ひ候、政宗ながら能くも仕り候様に覚候と申上げしに、役義終りて、早々舞台を下り、爰に出たる挙動感に堪ぬと言はれ、其後は打解けられたる物語にて、頻りに盃を重ねられ、何れも腹を抱て笑つぼに入られしとなり。又兼ねては御座の辺りさばかり抔盤狼藉として、山海珍羞を所狭く積み重ぬることなるべしと思ひしに、左もなく作り花付けし洲浜様の物二つ計りのみにて、最と手軽きこと是れと云、彼れと云、去りとは諸人感じ入りしとなり。

 政宗、嘗て江戸城にて酒井忠勝に行き逢ひ、讃岐守殿、相撲一番参ろうと言ふ。忠勝聞て、公用ありて只今御前を退きたり。重ねてのことに仕らんと辞退せしかど、政宗承引せず、忽ち組付ぬ。諸大名列座にて、政宗、忠勝の相撲なれば、晴れごとなり、時に井伊直孝進み出て、若州負け給ひては、御譜第の名折ならん、我等関相撲に出、陸奥守殿を投げ申さんに、手間は取るべからずと申けるが、忠勝は力量ある人なれば、政宗を大腰に掛けて投られける。政宗むくと起上り、御辺は思ひの外相撲功者哉、と言て誉めたり。又或時政宗、忠勝方に茶の客に行き、利休の茶杓を見、繰返し見て、此茶杓は埒もなき者なりと言てへし折られたり。忠勝も驚きしかども、戯の体にて、事済みたる。政宗帰邸の後、先刻は御茶賜はり忝き仕合に候、興に乗じ粗忽の義致し候、右代りに茶杓進上申とて、紹鴎の茶杓を贈られけり。

 政宗、名物の茶碗を見るとて、取落さんとせし時、心を動かせしかば、名器と言ひながら、無念のことなり。政宗一生驚くことなかりしに、此茶碗の価千貫目と曰ふに、心を奪はれて驚きたるは、口惜とありて其茶碗を庭石に打付け、微塵に碎き捨られたり。

 政宗、江戸城大広間の溜の間に在りし時、徳川頼房の臣、鈴木石見と曰ふ者、頼房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故政宗、不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何様のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に、鈴木石見とて隠れなき者にて候、御自分のこと、音には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戸は奥州の御先手にて、奥州に逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顔を能く見覚置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき為めに斯の如く見申候、水戸の内にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奥州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に参らるべしとて、則ち頼房にも、断わり申て、私邸に招き、自身給仕をして、殊の外、馳走し、終日顔を見せられしとぞ。

 政宗、内藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も参りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて、和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに得るならば、打てや打てや犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々、流石政宗なりと言あへり。

 政宗少しの病にても必薬を服し。或日物語に病気抔少しとて油断すること不覚悟なり、物事小事より大事は発るものなり、油断すべからずと言はれけり。

 政宗曰く、惣て武士は仕合はせ能き時は、領中家屋敷に至るまで、事の欠ざる様なれば宜し、何事にてもあれ、仕合はせ悪きことか、又国替屋敷替抔あらんには、陰々までも塵を置かぬ様に掃除し、家作を致し、領中の沙汰をも、弥弥言付け破れたる所は塗直して去るべし。夫は跡の批判を遁れん為めなり。武士の名を惜まぬは沙汰の限なり、父子兄弟の中にても、時移り代替る時は、他人よりも猶恥ヶ敷ものなりと。

 家光嗣ぎ立、年尚少なり、人皆徳川頼宣の異心あらんことを疑ふ。是に於て、政宗大臣巨室の者に命じ、其養士の多寡を算せしむ。蓋し用ふる所あらんとすればなり。一日頼宣を訪ひ、将に帰らんとする時、頼宣玄関まで送られしに、広間所々、座敷々々に家中の歴々伺公せしを見て、偖も偖も御家中衆に目を驚かしたり。是程の御人数を持たせらるれば、仮令如何様の大国へ御取掛けあるとも、御勝利疑ひ有間敷なり。然し万々一幕府へ御等閑の義之あるに於ては、箇様申年寄日頃国元に秘蔵仕置たる郎等共を召連れ、真先掛て、紀州へ押寄せ参るべくの間、左様御心得候へと言て、大に笑て去れり。此事府下に伝播し、疑ふ者皆釈けり。家光之を聞て、甚だ其志を称せり。

 政宗、少より老に至り、未だ嘗て横臥するを見ず、希に柱に靠り仮寝することあり、片時を空く過ごさず、常に手に巻を釈てず、性、強識、外臣商売と雖も、一見の後姓名風芥必ず失忘せず、政宗詩歌を好み、常に騒筵を設け、詞客を招く、僧虎渓、林信春などと唱酬せり。

 政宗嘗て江戸に赴く、千手を過ぐ。将軍家光、千手に狩りす。従者政宗に謂て曰く、今日将軍遊猟すと、請ふ疾く馳て其未だ至らざるに及ばんと。聴かず、故らに徐々として過ぐ。家光方に鷹を臂にし𨻫間に立ち、従臣未だに来り属せず、時に政宗輿に在り、見ざるまねして過ぐ。後ち家光に謁す。家光曰く、日者吾鷹を千手に放つ、卿何為知らざるまねして過ぐ、対て曰く、臣千手を過ぐる時、唯一男子、鷹を臂にするを見る。未だ嘗て、殿下を見ざるなり。家光曰く、是乃ち吾なり。政宗、偽り驚き、謝す。因て諫めて曰く、公、天下の重を任ぜられ、遊猟を好み給ひて、数々軽出し給ひ、警衛を須ひられず、臣恐くは一旦不測の変あらんことを、公の為めに之を危ぶむと。家光之を嘉納せり。

 政宗、老臣某と書院の作事出来して掃除する時、見物に出でしに、掃除人共椽下の塵を掃出すに、政宗立て居らるる故に、恐れて敢果取らず、某聲を掛けて念入れて掃くべし、何事も人の見ぬ所とて、粗略にするは悪きことなり、人の目の届かぬ所程、念入ること誠の奉公なれと言へり。其後、政宗、某を呼び、其方事国政を任せ置く所に、彼下賤なる者にも、人の見ぬ所程、念を入れよ抔言ふは、軽々敷ことなる、何事も政事の響きになることは明かならず、闇からぬこそ善けれと言はれければ、某大に感歎して、過を謝しけり。

 政宗恩顧の町人若狭に在り、佐渡屋某と曰ふ。或時政宗の許へ茶道、陸阿弥取次にて家隆の真蹟名歌百首の巻物を献ぜり。政宗甚だ重宝し、諸大名にも馳走に出さる。偖陸阿弥へ言はれけるは、斯の如き宜き道具は、何方にもあるべからず、右佐渡屋へは過分の礼謝あるべきとのことなり。陸阿弥誠に勝れたる御道具なり、佐渡屋は質物を取り候故、色々右の外にも宜き品を所持仕り居る由承はり候と申ければ、政宗大に驚き、今までは嘗て知らざることなり、価を以て買取りたるか、または持伝へたるを呉れたると思ひけるに、質物に取りたるとあれば、少し心掛りなり、汝より書簡を以て、右の巻物買主の名知れ居りしや、佐渡屋へ尋ぬべしと言はる。乃ち佐渡屋へ申し遣はしければ、若狭浪人今川求馬、近年困窮に及び、質物に入れ候ひしを、年限立し故、手に入りしを直ぐに奉りたる由なり。政宗、早速飛脚を以て金五両相副へ、今川求馬を尋ね差戻されけり。佐渡屋は如何なることにやありけんと迷惑しけれども、詮方なく陸阿弥まで密に尋ねければ、少しも心に挟むべからず、其方志は請け入れ給ひぬ。御道具になりて後、求馬には返されたる由申越す。斯くて後、諸大名の中にて、右の百首の物語出づれば、政宗、最初爾々の由にて手に入れ候へども、質物に取りたる物の由承りけるまま、我心に掛り、右の道具困窮にて質物に入れし者は、嘸々手放しては叶はぬ義理合もあるべきことなりと押返し承はり候へば、今川求馬と申浪人の家珍の由に付、不便に存じ、金子少し相副へ、差返したる由言はれければ、一座の人々大に感ぜられける。其後政宗へ礼謝お為め、求馬若狭より下りければ、逢はれて、念頃に挨拶あり、滞留中の料に二十人扶持を賜はる。此今川、南蛮流の外科を覚居たり。其上学力もありて、用に立つべき者なれば仕ふ間敷や否を問はしめけるに、固より恩に感ずることなれば、大に喜びて仕へけり。後勤労積みて足軽大将に経上りたり。政宗不思議の思慮にて、能き人を得られたりと、人皆言あへり。

 政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ帰服せんと言ふ。家老共何んの御気遣かあらん、そこそこへ人数を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし、降参の志を見せんとて打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり、左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛けておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に参られたりとて、指当る咄抔ありて、奥州の事心元なし、早く帰られよとて、暇を賜はる。忝しとて早速酒匂へ帰て、帰国せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る枚方へ石田、富田、施薬院三人御使にて来り、其方は秀次公と別て親しきこと隠れなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御発明にて、御目鑑違たる故か、箇様成らせらるる秀次公に、天下を御譲り関白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる。其上万事を秀次公へ仰付られて、御隠居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を刎られよ、本望なりと言ふ。施薬院、左様には申上られまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施薬院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人来るを連れて城中へ行く。案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の様なる者来りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ体にて居たる所に、太閤来り給ひ、和尚出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄てて御傍へよりて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奥州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間将監御茶入の箱に入りたるを持参して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、将監方へ押戻どす、将監再三言へども、弥弥受けず、此由を将監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の内より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拝領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻将監御意の由にて、何やらん持参仕りたれども、御道具を御台所の畳の上にて拝領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の体なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことども、人口にありと雖も、左程のことと思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。

 寛永の頃、幕府にて、政宗は歴世の宿将なればとて、優待並々ならず、恩遇頻りにて、屡々召されて茶を賜はり、又は酒宴に預りけるが、政宗は老年に似合はしからざる大脇差を好みけるが、家光の前にては、何つも其脇差を脱して進みけるを見られ老年のこと故、苦しからねば、此後は脇差を帯したる儘進むべし、汝は如何様なる心あるやらん、知らねども、予は政宗のこと少しも、気遣には思はず、脇差差して出でずば、盃をば遣らず、と戯られしかば、政宗、感涙を止めあへず、是まで御両代の間、政宗、不肖ながら身命を抛て汗馬の労を致せしことは、身に覚あれど、今の上様には、何にもさせる忠勤箇間敷こと少しも申上げず。然るを御代々の御余恩と、老臣が残喘の衰態を愍ませ給ひ、斯くまで有り難き御恩遇を蒙ること、死すとも忘るべからずとて、其日は殊更大に酩酊し、前後も知らず御前にて鼾かきて熟睡したる間、側に脱置きし彼大脇差を近習の輩密に抜きて見れば、中身を木刀にて造りありしとぞ。

 征韓の役、政宗一梅を載せて帰り、之を後園に栽ゑ詩を賦し、其事を、紀す。『絶海行軍帰国日。鐵衣袖裏□*1芳芽。風流千古余清操。幾歳閑看異域花』又醉余口号。『馬上少年過。世平白髪多。残躯天所許。不楽復如何。』

 政宗、狀貌魁偉、人となり胆略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年内立春と云題、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声。』又八月十五夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武蔵野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武蔵野の原。』題又知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの声。』又関の雪、『ささずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪、』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の関の戸の歌を入れさせ給ひしとぞ。

*1:つつむ

今年もよろしくお願いします。

ってもう春節も終わったよ!って感じですが、新年のご挨拶に上がりました。
今年もどうぞよろしくお願いします。
年が変わるのに合わせて、Topの2019年の分の更新履歴を過去更新履歴に移しました。
sd-script.hateblo.jp
昨年は『伊達日記』をやっと全部アップしできましたが、今年もぼちぼちとやっていきたいと思います。
『正宗公軍記』、文字打ちは終わっているのですが、なかなか訳すまとまった時間がとれません(『正宗公軍記』は章の区切りが『伊達日記』『政宗記』と比べて長いのですよね…)。
あと、『木村宇右衛門覚書』内の成実登場部分も上げていきたいと思います。

今年は差し迫った絶対行くべきな展示情報がないので、伊達旅行でどこに行こうかなあと思案中です。
しばらく行ってない福島(大森や杉目や八丁目?)か、行きたい行きたいっていって全然行ってない米沢方面(特に資福寺跡)かなあ…? なんか秋ぐらいでいいのでおっきい展示があればいいんですけども。展示や講演会情報あったらこっそりお教えいただけると飛び上がって喜びます。

では今年もよろしくお願い致します。

2019秋伊達登別

観測史上最大とも言われた巨大台風の近づく中、台風の間を駆け抜けて、だて歴史文化ミュージアムの『伊達政宗と伊達成実展』に行ってまいりました! 5月にも北海道行ったし、さすがに年二回北海道はないよね…と思ったのですが、伊達武将隊さんブログで上がっていたポスターが格好良すぎて、即決しました。その後、Tさんも同行してくださるということで、連休のこのタイミングに。

しかし、本当は12日出発予定だったのですが、そのころ巨大台風が関西に最も近づくだろう…ということで、こりゃ飛ばないな…と判断し、11日の夜の便で北海道に向かいました。結局12日の便は全便欠航になったので、変更しなきゃ行けなかったでしょうね。
札幌に住む長年の友人に会いに行き、この日はTentotenという札幌のゲストハウスに泊まりました。1階がおしゃれなカフェバー、2階がドミトリーという造りで、とても綺麗で、過ごしやすかったです。オススメ。
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結構、札幌を満喫してるやんか…。

1日目(10/12)

で、私にとっては2日目だけど初日。いつも同行してくださるTさんと合流。Tさんも午後の便だったら運休していたかもしれないというギリギリのところでやっと到着。そのまま電車で伊達紋別駅まで。
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新しくなった兜オブジェ! ひらっぺたくなっていたのが、やや上向きになり、弦月前立てが毛虫前立てになっています。伊達市のアーティストさんによる造型だそうです。
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きたきたきたー!!
中身は撮影不可だったのですが、政宗・成実の鎧と幟それぞれと、仙道ノ図、高麗御陣で取ってきたとされる香炉、同じく鞍、人取橋感状、政宗→成実書状、政宗→おちゃこ書状、政宗公御軍記3冊などが展示されていました。

来館記念スタンプが超かわいい。
十分堪能したあと、5月の旅で食べ損ねたジンギスカンを食す。
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でも食べ方あってたのかどうかわからないですが。

2日目(10/13)

ミュージアムに行くと、午後2時からギャラリートークがあるというので、しばらく時間をつぶすためにあたりをうろうろすることに。
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伊達邦成・田村顕允が神として祭られている伊達神社へ。
個人情報で申し訳ないと思いながら質問したら、宮司さんは亘理伊達家家臣黒野家の子孫の方だそうです。
そして帰ってきたらちょうど2時頃で、ギャラリートークを聞きました。

20191013ギャラリートーク
・政宗の鎧が北海道に来るのは初めて(本当に歴史上初めてかどうかはわからないので断言はしないけど、少なくともミュージアムに来るのは初めて)。次来るとしても、2、30年はないと思われる。
・人取橋のときに着ていた鎧は政宗と共に埋葬されたものである可能性が高い(史料より)。
・初めは小十郎重綱の鎧もそろえる企画案があったが、痛みが激しく、移動に適さなかったので中止になった。
・政宗の肖像画は歴代藩主の画集みたいなものがあり、それから。よく見るものと違ってやや憂い顔のような斜め下を見るような絵。兜は後ろを向いていて、鎧は大鎧風。
・画集の絵は両面になっていて、裏は何代目かの(ド忘れ)藩主の絵がある。
・成実の肖像画は古美術商に見つけられ、紋や前立て、年代などから特定された。
・肖像画のバックにある青い旗がミュージアム所蔵品から出てきて、それが形通りだったので、肖像画の絵としての信憑性が上がった。棒に引っかける部分に四角い陰陽の模様が入っており、鹿の皮に金箔が貼られている(これも絵と同じ)。
・仙道ノ図は成実が描いたものをリメイクしたものを江戸時代にコピーしたもののコピーと思われる。
・朝鮮から持ってきた香炉については特に言及なし。
・朝鮮から持ってきた鞍は、鳳凰と龍が螺鈿細工で描かれた、大変貴重なもの。
・政宗の日輪の旗は湯殿山に誕生を祈願した話から。旗と前立てで、日と月を表している。
・政宗の三日月前立ては外れる。三日月は木に金箔を貼ったもの。運ぶ用に箱がある。正直言って成実の前立ては運ぶの難しい。
・政宗の鎧は、面頬のあごのところに九曜紋あり(汗を落とすためのもの)。通常はただの丸穴。
・成実の鎧は市博の人が驚くほど重い(1.5倍くらい?)
・鎧の背筋や脛当てのふくらはぎの部分が発達してる。胸元も政宗のものと比べると大きめ。
・試し撃ちの跡がたくさんある(胴正面や草摺の一枚一枚に)。
・人取橋感状は新しいのでは?それもありうる。年代の間違い(政宗が17歳との誤り)、筆蹟の違いなどから、祐筆が書いた可能性、写しである可能性などあり。
・おちゃこ宛書状の切り込みの入れ方(切れた跡がある)。
・亘理伊達家所有の成実記(政宗公御軍記)は全三巻。写本であることが書かれている。

しっかりと覚えているのはこれくらいかなあ…見てるだけではわからない情報満載で、良かったです!
ギャラリートークは決まった日に行われるので、是非参加を!
また歌みくじをやったのですが、どうしても成実のは出ず(泣)。
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こんな看板もありました!
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そして伊達におさらば。オロフレ峠を越えて登別温泉へ。入浴剤と一緒で、色が白かったです。
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ちょうどこの太陽の沈むあたりが伊達市なのだそうです。すごく綺麗!!
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3日目(10/14)

そして登別温泉。地獄谷へ足を伸ばしました。
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そして幌別にある登別資料館へ。登別温泉ターミナルから、登別駅経由の資料館行きバスが出ています。
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2階に片倉家の移住に関する資料、家臣の鎧など、1階にはかつての民具など、多くの資料が展示されていました。
片倉家移住に関する本なども販売しており、伊達家家臣団の北海道移住に興味がある方は是非とも訪れて欲しい資料館でした!


だて歴史文化ミュージアムで入手した図録。すごい力作です!

これは登別郷土資料館で入手した、片倉家の移住に関しての本。


だて歴史文化ミュージアムで購入した伊達の風土最新号では、去年行われた能「摺上」の上演経緯について書かれてました。

旅自体は大変有意義で楽しかったのですが、帰宅したら亘理・角田を初め宮城県・福島県の多くの地域が大変なことになっていて、複雑な気持ちになりました。
被災地の方々の安全と速やかな解決をお祈りいたします。もうこれ以上自然災害は起きて欲しくないですよね…。

『正宗公軍記』1-2:大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事

『正宗公軍記』1-2:大内定綱、反逆のことと会津義広の態度の相違により戦になったこと

原文

天正十三乙酉、大内申上候は、雪深く普請も成り難く候間、御暇申請け、在所へ罷帰り妻子を召連れ、伺候申すべく候。其上数年、佐竹・会津御恩賞相請け候御礼をも、申上げたくと申すに付きて、御暇下され候。其後雪消え候へども罷登らず候。是に依つて、遠藤山城方より、罷登るべき由、度々申遣し候へども参らず候。後には、何と御意候とも、伺候申すまじき由申払ひ、大内御退治なされ候はば、会津・佐竹・岩城・石川、近年仰せ組まれ御一党に候所に、御敵になされ候の事、輝宗公、御笑止に思召され大内伺候申す様に、御異見なさるべくと思召し候て、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎両使を以て御意候は、罷登り然るべく候。田村への御首尾迄を以て、斯様に仰せられ候間、其方身命知行、少しも気遣ひ申すまじく候。輝宗公御請取なされ候由、仰せ遣され候へども、御意は過分ながら、斯くの如くに申上げ候上は、縦ひ滅亡に及び候とも、伺候申すまじき由申候。又重ねて、片倉意休斎・原田休雪斎両使を以て、仰せられ候は、気遣ひ申す所、尤に思召され候。左様に候はば、人質を上げ申すべく候。其身罷登らず候とも、正宗公へ御訴訟なされ下さるべきの由、仰せ遣はされ候へども、何と御意なされ候とも、人質をも上げ申すまじく候由申払ひ、大内親類大内長門と申す者、米沢へも節々使者に参り、御父子共に御存の者に候。後は我斎と申し候。彼の者、休雪・意休に向ひ申し候は、正宗公、大内御退治は、存じ寄らず候由申し候。剰へ、散々悪口申すに付いて、両人の御使者、腹を立て、其方共、米沢へ「    」*1御退治なされ候か。末を見候へとて罷帰り、則ち其段披露致し候に付き、御父子共に弥々口惜しく思召され候。其後、会津より御使者として仰せられ候は、大内備前儀、御赦免なさるべく候はば、米沢へ遣すべく候。此方に於て少しも介抱申すまじき由、仰せ越され候へども、内々は会津の御底意を以て、備前逆心申す由、聞召され候に付いて、原田左馬之助・片倉小十郎を召出され、右の品々、具さに仰せ聞けられ、会津御表裏に於ては御無念に候間、御手切なされたく思召し候へども、大切所多く候間、会津の内に、御味方仕るもの一両人も候はば、御弓矢なされたく思召し候由、仰出され候。原田左馬之助申上げ候は、会津よりは、一段御懇なる御使者にて、大内備前申払ひ候事、不審の由存候へば、扨は会津よりの御底意を以て、逆心候哉、是非なき御事に候。会津へ御手切御尤に候。左様に候はば、拙者与力に平田太郎左衛門と申し候者、会津牢人に御座候。彼の者を差越し、一両人も御奉公申す様に、才覚仕らせ申すべき由申上候。正宗公御意には、左様の才覚も仕るべきものに候哉の由、御尋ねなされ候へば、底意は存じ申さず、当座の才覚能き者に御座候。其上御奉公の儀に候間、如才仕るまじく候由、申上ぐるに付いて、左候はば申付くべく候由の御意にて、差越し候所に、会津北方柴野弾正と申す者、御味方仕るべしと申上候。其外にも、二三人同心の方御座候。当方へ御出馬に於ては、手切仕るべき由申候に付いて、五月二日に原田左馬之助を、猿倉越と申す難所を越させ、弾正所へ差越され候所に、弾正、城も持ち申さず、少し抱へよき屋敷に居申候て、手替仕候所へ、左馬之助罷越し、火の手を揚げ候の所に、会津衆、殊の外乱れ申候。方々より人々助け来り候へども、何れも替り候。其後気遣ひ申す所に、右繕の使仕り候平田太郎左*2衛門、又会津の人数へ懸り籠り替る衆弾正一人にて候。原田左馬之助無人数にて、一頭越し申候由申すに付いて、其時、会津衆心安く存じ、一戦仕り候間、左馬之助敗軍致し、与力下*3中数輩討死、弾正妻子共に召連れ引除き候。正宗公、同三日に檜原へ御出馬なされ、檜原は則ち御手に入り候へども、御隠密の御手切故、長井の御人数計り召連れられ、総人数参らず候間、御出陣触なされ、御人数参り候を相待たれ候。人数大塩の城へ籠め置き、堅固に相抱へ、大切所にて大塩の上の山まで、八日に御働きなされ候。下へ打さげらるべき地形も、之なき大山にて、道一筋に候故、後陣の衆は、檜原を引離れざる様に、細道一筋にて罷成らず一働なされ、不肖*4の衆は相返され、檜原に御在陣なされ候。会津へは御手切候へども、二本松境は手切も之なく、八丁目に伊達実元隠居仕り候所へ、二本松義継より、細々、使を御越し御懇に候。其仔細は、会津・佐竹は、御味方に候へども、本々より二本松・塩の松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、弓矢の強く候所へ頼み入れ、身を持たれ候身上にて候間、此度も伊達強く候はば、実元を頼み、伊達へ御奉公申すべき由、義継思召し、御懇切に候故、手切之なく候の條、拙者事は、八日に大森を罷立ち、九日に檜原へ参り、直に正宗公御陣屋へ伺候致し候所に、御意には、二本松境如何候哉と、御尋ねなされ候。先づ以て、静に御座候。義継も大事に思召され候哉、打絶えず親実元所へ、遊佐下総と申す者、我等親、久しく懇切に候彼の者を使に預り、又飛脚をも預り申候。彼の境は、御意次第に手切仕るべき由、申上候へば、御前の人を相払はれ、会津への御手切の段、原田左馬之助合戦に負け候様子、残なく仰せ聞けられ、会津に御奉公の衆之なく候間、何れも大切所にて成さるべく候様之なく候て、御人数相返され候。定めて昨日人数に会ひ申すべき由御意候て、二本松は先づ赦免申すべく候。両口の手切は、如何候由御意候。拙者申上候は、会津に御身方申候衆、御座なく候はば、猪苗代弾正を、引附け見申すべく候由申上候へば、手筋も候哉と仰せられ候間、羽田右馬之助と申す者、猪苗代家老に、石部下総と申す者へ、筋御座候て、別して懇切に御座候。幸ひ此度、召連れ伺候仕り候の由申上げ候へば、則ち右馬之助を召出され、猪苗代に其身好身のある由、聞召され候間、状を相調へ越申すべき由、仰せられ候に付いて、御前に於て状を認め申候。拙者・片倉小十郎・七ノ宮伯耆状をも相添へ申すべき由、仰せられ候間、何れも状を書き申し候。此状共、檜原より、猪苗代へは三十里の間、之依り遣はさるべく候由、返事は大森へ差越すべく候間、早々罷帰るべき由、御意なさる。拙者申上候は、今日は人馬も草臥れ候。其上、日も晩刻に及び申候間、明日罷帰りたき由申上候へば、二本松境弥々御心元なく思召され候。此方に居り候て、御用なく候の間、一刻も急ぎ申すべき由、今夜の宿はつなきの民部に仰付けられ候。先へ遣され候間、早々罷帰るべき由、御意に候の條、檜原を日帰致し罷帰り候。此七ノ宮伯耆は、久しき会津牢人にて、不断御相伴を仕り、御咄衆に候。会津衆何れも存候故、差添へられ候。左候へば、四五日過ぎ候て、檜原より御使として嶺式部・七ノ宮伯耆、大森へ差越され、猪苗代よりの状共、御披見なされ候へば、合点に候。御大慶なされ候。其方此口に居り申さず候間、其許より繰り申すべき由にて、両人遣され候。人も存ぜず候所に、宿申付け差置かれ、本苗代より罷出て候三蔵軒と申す出家を、使に申付け、出湯通を越し申候。書状の文言には、檜原より進じ候御返答披見申し候。正宗へ御奉公之あるべき由、満足仕り候。此上は、望の儀も候はば、具さに承るべく候。正宗判形を調へ進ずべく候由申付け、弾正望の書付を越す。
一、北方半分、知行に下さるべく候事。
一、拙者以後に、御奉公申され候衆候とも、会津に於て仕置の如く、座上に差置かれ下さるべく候。御譜代の衆には構之なく候事。
一、御弓矢思召し候様に之なくとも、猪苗代引除き候はば、伊達の内にて、三百貫文堪忍分を一つ下さるべく候事。
右三箇條の外、望も御座なく候由、書状相認め差遣し申され候に付いて、式部・伯耆、大森に逗留致し、書付計り檜原へ上げ申候。正宗公御覧なされ、書付の通り、少しも御相違あるまじく候。弾正、書付を御前に差置かれ、引退き候時分の堪忍分、早早御書付下され候由にて、刈田・芝田の内、所々朝指三百貫文、御書付御判に差添へ遣され候。式部・伯耆は、御書付拙者に相渡し、則ち檜原へ罷帰り候。又三蔵軒に御判を持たせ、猪苗代へ差越し申候。二三日過ぎ罷り帰り候て申す様は、御判形相渡し申候。去りながら子息盛胤、会津御奉公是非仕るべき由、申され候間、之を如何様に催促申候て、手切れ仕るべき由、申越され候。一両日過ぎ候て三蔵軒を遣し候。早々手切れ申され候様にと、申上候へども、盛胤合点申されず候間、家中二つに別れ、如何はしく成り候由にて、手切れ罷り成らず候。会津への御弓矢なされず候て、檜原に新地を御築き、後藤孫兵衛差越され、御入馬なされ候。

語句・地名など

喜多方:喜多方市
猿倉越:米沢市と喜多方市の境の大峠

現代語訳

天正13年乙酉の年、大内定綱は「雪が深く、工事も進めづらいので、しばらくお暇をいただけましたら、城へ戻り、妻子を引き連れて、御奉公したく思います。それに、数年間佐竹・会津に恩賞をいただいていたお礼も、申し上げたいのです」と言うので、政宗は定綱にしばらくの時間を与えた。その後、雪が消えたというのに、やってくることはなかった。
このため、遠藤山城基信から、こちらへくるようにと何度も言って使わしたのだが、来ることはなかった。ついには、なんと命n令されようとも、使えることはないということをきっぱりと言ってきた。もし大内定綱を退治するのならば、会津・佐竹・岩城・石ここ数年共に言い合わせて仲間となっているので、輝宗公は、もし敵にまわしたならば、大変なことになると思われ、輝宗は大内定綱に伊達に奉公するように意見を言った方が良いとお思いになり、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎という二人の使いを送り、米沢へ上るべきである、田村とのいさかいの成り行きまでも含め、このように仰ったので、大内の身上や知行については、心配することはない、政宗ではなく輝宗の采配に任されたということをいい渡されたが、定綱は「そのお心は大変ありがたいことであるが、このように申し上げた上には、たとえ滅亡することになっても、伊達に仕えることはない」と言った。
再び、片倉以休斎景親・原田休雪斎の二人の使いを送って、「心配するところはもっともである。それならば、人質をあげるのが宵だろう。その身で来ることはなくても、政宗へ訴えるべきである」と仰ったのだが、「なんとお考えになられても、人質を上げることはない」と言い、大内定綱の親類の大内長門という、米沢へもたびたび使いとしてきたことがあり、輝宗・政宗親子ともによく知っている者がいた。後には我斎と名乗ったこの男が休雪斎・以休斎に向かって政宗が大内を退治することはないだろうと言った。あまつさえ、さんざん悪口を言ったので、二人の使者は腹を立て「おまえ達が米沢へ来るか、退治されるかどちらかだ。先のことを考えろ」と言って米沢へ帰り、すぐにそのことを政宗に申し上げたところ、輝宗・政宗親子ともどもますます残念に思われた。
その後、会津から使者がやってきて「大内備前定綱のことをお許しになるのであれば、米沢へ遣わすでしょう。こちらにとっては関係のないことです」と言ってきたが、うちうちでは、会津のかくれた考えにより、定綱が反逆したことをお聞きになったので、原田左馬助宗時・片倉小十郎景綱をお呼びになり、以上のことを詳しく仰り、会津の裏表な態度には無念であると思うので、関係を切りたいとお思いになられたが、しかし大きな要害が多くあるので、会津の中にこちらに寝返る者がひとりふたりでもいれば、戦をしたいとおっしゃった。原田左馬助宗時は「会津からは、特に仲良くしている使者で、大内備前がそのように言ったことは、不審であると思われます。もしかしたら会津からの内々の考えで反逆しているのかもしれません。それは仕方ないことです。会津への手切はもっともなことであると思います。それならば、私の与力に平田太郎左衛門(太郎右衛門)と言う者、かつては会津に仕えており、今は牢人となっております。この者を送り、ひとりふたりでもこちらへ寝返る者がいるように、仕掛てみるべきではないでしょうか」と申し上げた。政宗が「そのようなしかけも出来るであろうか」とお尋ねになると、「心の中の考えは知らないが、さしあたっての機転のきくものでございます。その上、寝返りのことについては、問題なくすることでしょう」と言ったので、政宗はそうであるなら、そう命じるようにとお思いになられ送ったところ、会津の喜多方の柴野弾正という者が、寝返り、味方になると言ってきた。その他にも、2,3人味方になるという者が現れた。政宗がそちらへ出陣するのであれば、手切すると言うことを言ってきたので、5月2日に原田左馬助宗時を猿倉越という難所を越えさせ、弾正のところへ送ったところ、弾正は城も持たず、保ちやすい屋敷に居り、代わって仕事をしていたところへ、左馬助がやってきて、火の手を上げたところ、会津の者たちは思った以上に取り乱した。あちこちから援軍が来たが、それも心変わりした。その後心配していたのは、この寝返りを仕組んだ平田太郎左衛門、また会津の軍勢にかかって、心変わりし、寝返りするのは弾正一人になった。
左馬助は無勢であったので、ただ一頭できたと言うことを聞いて、そのとき会津の衆は安心して一戦を行ったので、左馬助は敗北史、与力のものたちが多く討ち死にし、弾正妻子を連れて退いた。
政宗は同じく3日に檜原へ出陣なされ、檜原はすぐに手に入ったのだが、内密の手切であったため、長井の手勢のみ連れ、総軍を連れてこなかった。そのため出陣のお触れを出され、軍勢がくるのをお待ちなさった。その間、会津の軍勢は大塩の城へ籠城し、堅く守り、大きな要害であったので、大塩の上の山まで、8日に戦闘を仕掛なさったが、備えを立てるべき場所もない大山で、道一筋であったので、後からきた衆は、檜原をはなれることができなかったので、細道一筋で出来ない戦闘をなされ、小身の衆は返され、檜原に在陣なされた。
会津へは手切なさったけれども、二本松との境は手切することなく、伊達実元が隠居している八丁目城へ、二本松義継から、ほそぼそと使いを遣わし、親しくしていた。というのも、会津・佐竹の味方ではあったのだが、昔から二本松と塩松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、戦の強いところを頼り、身代を保っていたところであるので、今回も伊達が強いのであれば、実元を頼り、伊達へお仕えすると義継は思い、親しくしていたのであった。そのため手切はなかった。
私は8日に大森を出発し9日に檜原に行き、直接政宗の陣屋へ行ったところ、「二本松の境はどうであるか」とご質問になった。「ひとまず静かでございます。義継のことも大事に思われておられるのでしょうか。いつも私の父の実元のところへ遊佐下総という者がいつも来ております。私の父が非常に親しくしているこの者を使いにし、また飛脚も受け持っております。二本松の境の手切は、政宗のお心次第でございます」と申し上げると、政宗は人払いをし、会津への手切のこと、原田左馬助が合戦に負けたようす、残らず仰られ、会津に、寝返る者がいないので、いずれの城も大きな城であるので、できることがなく軍勢をお返しになった。昨日軍勢を返すということを仰り、まず二本松のことは許さなくてはと思われた。両方面での戦はいかがであろうかとお聞きになった。
私は会津に寝返る者がいないのであれば、猪苗代弾正をこちらに引き付けるおはどうだろうかと言った。「つてはあるのか」と仰ったので、羽田右馬助という者が、猪苗代家老の石部下総という者とつてがあるので、特に親切にしていた。幸い、今回右馬助を連れてきておりましたと言ったところ、すぐに右馬助をお呼びになり、猪苗代によしみの有ることをお聞きになり、書状を調え、送るようにと仰られたので、政宗の御前で、書状をしたためた。私・小十郎・七ノ宮伯耆の書状も添えて送るべきであると仰ったので、三人とも書状を書いた。
この書状は、檜原から猪苗代までは30里の間、これから使いをおくるので、返事は大森へ送るので、すぐに帰るようにとご命令になった。私は「今日は人も馬もくたびれている。そのうえ、日も遅くなったので、明日帰りたい」と言ったが、二本松境のことがますます心もとなく思われたのだろう。ここにいても仕方ないので、一刻も早く帰るようにとのことで、今夜の宿は綱木野民部に命じられていた。先に使いを送ってあるので、すぐに帰るようにとご命令になったので、檜原から日帰りした。
この七ノ宮伯耆という者は、長く会津で牢人していた者で、普段は相伴衆で、お話をする者であった。会津の者を良く知っているので、付けられた。
すると、4,5日過ぎて、檜原から、大峯式部と七ノ宮伯耆が大森へやってきて、猪苗代からの書状を御覧になり、寝返りが決まったので、大変お喜びになった。「あなたはここにいなかったので、こちらから送った」と二人の使いをお送りになった。知らないうちに宿も言いつけられ、差し置かれ、猪苗代から出てきた三蔵軒という僧侶を使いに申付け、出湯通を越えてきた。
書状の文言には、檜原から送られてきたご返答が書いてあった。政宗へ味方することに満足しており、この上、望むこともあるので、詳しく書いてあった。
政宗は書状を調え送るように命じ、弾正は望むところの書付を送ってきた。
・北方半分を知行にくださるように。
・私の後に寝返る者がいても、会津においてそうするように、私を上座にしてください。譜代の衆には関係ありません。
・戦が思ったようにいかなくとも、猪苗代を退いたときは、伊達の領内で、300貫文の知行をくださるよう。
右の3カ条のほかは望むものはないと書状を書いて送ってきたので、式部と伯耆は大森に逗留し、書付のみを檜原に送った。政宗はこれを御覧になり、書付の通り、少しも相違のないようにすると誓われた。猪苗代弾正は書付を政宗にお送りになり、退いたときの知行について早々と書付くださったので、刈田・柴田のうち、300貫文を与える旨を書付に添えておつかわしになった。式部と伯耆は政宗の書付を私に渡し、すぐに檜原へ帰った。また三蔵軒に花押を記した正式な書状をもたせ、猪苗代へ送った。2,3日過ぎて帰ってきていうところには、書状は無事渡した。しかし子息の盛胤が会津へ仕えるべきであると言ったので、これをどのように催促して、手切すれあびいかと言ってきた。2,3日すぎ三蔵軒がやってきた。早く手切するようにと言ったが、盛胤が合意しないので、猪苗代家中は二つに分かれ、大変難しい状況になったので、手切は出来なかった。会津への戦ができなかったので、檜原に新地を築かれ、後藤孫兵衛を城代をして、御自身は先にお帰りになった。

感想

基本的には『政宗記』『伊達日記』と同じ流れですが、段落の切れ目が変わっています。その二つと比べて、少し長めです。

*1:召し上げられ候か

*2:

*3:家か

*4:小身か