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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『治家記録』寛永11年2月23日条

『治家記録』寛永11年2月23日条

原文

廿三日庚辰。天気好、寅の刻(午前4時)伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋に於て御茶饗し奉らる。亭主御花を望み申し、水仙花と梅を出さる。水仙は長く、梅は短く伐て出されしを、公山礬是弟梅是兄といへる事ありと仰せられ、水仙を短く伐り、梅をば長く継て入れ玉ふ。
巳刻(午前10時)表へ御出、御能仰付らる。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上九番あり。安房殿より大夫に時服二重、□惣役者に一万匹、舞台に於いて賜へり。
公より安房殿へ御時服十御夜着一賜ふ、安房殿より御馬一匹黒毛、綿百把、板物三十端献ぜらる。
子刻(午後12時)御帰。
今夜、寅刻安房殿宅出火、家屋不残焼亡し、肴町一町裏向かひ類火す。先刻、公御帰りの時分、今夕は火事御心許なく思召さる。用心せらるべき旨仰せられ、鎖間へ御入り、炉の底を御手自取り玉へり。火事と言ふを聞かせられ、安房殿宅なるべしと仰せられ、即ち御使を遣さる。又井上九郎兵衛を御使者として、御懇に仰遣さる。其後佐々若狭を以て、早々仙台屋敷へ移さる様にと仰遣さる。今日安房殿宅に於て怪異あり。御能以前、未明に桜井八右衛門はしかかり、幕の内より舞台を見るに、はしかかりに二三箇所黒き所あり、高井十右衛門に見すれか血なりと云ふ八右衛門も寄りて見る。又屋上の箱棟に生首二つ見えたり。今日翁の面を懸るに穢なりと思ひ、十右衛門は幸いに奈良の禰宜なり、祓い清めさせ、翁を勤む。箱棟の生首を夜明て見れば、鳶の二羽止り居れるなり。人々奇異の思をなすと云々。
また兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞はる。小野宗碧見て殊の外に褒美し、且つ公へ向て不敬の言を申す。公聞召し付けられざる体に御座せば、猶以て再三高声に申す。因て御立腹あり。御腰物鞘の儘に彼が頭を撃破らる。伺候の輩宗碧を御陰へ引立去る。公鎖間へ入り玉ひ、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て御申の時節斯くのごとくの事、近比御心許なく思召さるといへども、御能見物の中には他国の者もあるべし、不敬の挙動其儘には差置れ難し。因て斯くのごとくに、罰せらる。亭主心に懸けられまじき旨、安房殿へ仰遣され、宗碧をば即ち桃生郡深谷荘大塚浜へ差遣さる。
然るに先年越後少将忠輝朝臣へ台徳院殿御成の時、兼日御手水前の木を公の御物数寄を以て植置る処に、宗碧兄道巴と云ふ者、公の御物数寄なる事をしらざるにや、散々の植様なりとて植直したり。台徳院殿此木は誰が植たると向ひ玉ふ。道巴が植直したるとは御存知なく、公の植玉へる由を忠輝朝臣仰上らる所に、植様悪く思召さるの旨上意あり。其後公聞召し及ばれ、植直したる事を口惜しく思召さるといへども、台徳院殿へ仰分らるにも及ばざれず。此事に就て、年来御心底には宗碧をも悪み玉へり。然るに今度宗碧妻子御預けの時宗碧が甥上方より参りたる者の由申す。尋問はるれば道巴の子なり。公聞召され、道巴が御意に違いたるを存しながら、其者の子を数年隠し置事後闇き仕形なりと憎み思召され、宗碧並びに子供甥共に死罪に行はる。
廿四日辛巳。伊達安房へ書状送る。
廿八日乙酉。伊達安房殿を饗せらる。安房殿へ書院を造り賜ふべき旨仰出され、御絵図を成し遣はさる。

現代語訳

『治家記録』寛永11年2月23日条
23日。天気良く、寅の刻から伊達安房守成実宅へお出かけになり、数寄屋において茶席の饗応をうける。亭主の成実が花を望み、水仙花と梅を出した。水仙を長く、梅を短く切ってだしたところ、政宗は「山礬は弟、梅は兄と言うことがある」と仰り、水仙を短く切り、梅の方を長くして継いでお入れになった。
巳の刻表へ出られ、能会が始まった。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上の九番の演目が演じられた。成実から大夫に時服二重、すべての役者に□一万匹を舞台の上で与えた。
政宗から成実へは時服十と、夜着一つを与えた。成実は黒毛の馬一匹、綿百把、板物30端献上した。
子の刻お帰りになった。
この夜、寅の刻安房屋敷から出火し、家屋残らず消失し、肴町一町うらむかいに類焼した。先ほど、政宗が帰るとき、今日の夕方は火事のことを心もとなくお思いになった。用心するようにとご命令になり、鎖の間へお入りになり、炉の底を御自分の手でお取りになった。火事であるとお聞きになって「安房殿の屋敷だろう」と仰り、すぐに使いを送った。また井上九郎兵衛を使者として、非常に手厚く扱った。その後佐々若狭を以て、早く仙台屋敷へ引っ越すようにと仰ってきた。
この日、安房殿屋敷に於いて、怪異があった。能の前、未明に桜井八右衛門がはしかかり、幕の内から舞台を見たところ、はしかかりに二三ヶ所黒き所あり。高井十右衛門はそれを見て血なりと言った。八右衛門も寄って見た。また屋上の箱棟に、生首が二つ見えた。今回翁の面をかけるのに、穢れであると思い、十右衛門は幸いにも奈良の禰宜であり、祓い清めさせ、翁を務めた。箱棟の生首を夜明けて見れば、トンビが二羽止まっているのであった。人々は気持ち悪いと言い合った。
また、兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞った。小野宗碧はこれを見て非常に褒め称え、かつ政宗に向かって不敬の言葉を言った。政宗は聞こえないふりをしていたが、さらに再三大きな声で言うので、ご立腹なされ、刀を取り、鞘の儘に宗碧の頭を打ち破った。控えていたものたちが宗碧を陰へ引っぱっていき、立ち去った。
政宗は鎖の間へお入りになり、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て仰ったのはつぎのような事であった。
この頃老いについて心もとなくお思いであると思うが、今回の能見物には他国の者もあるであろうし、不敬の言動を、そのままにしておくことはできない。なのでこのように罰した。亭主が気になさることないようにと成実へ仰り、宗碧をすぐに桃生郡深谷荘大塚浜へ送った。
それに、先年越後少将松平忠輝へ台徳院秀忠御成のとき、手水前の木を政宗の見立てで植えさせていたのだが、宗碧の兄道巴という者が、政宗が数寄に通じていることを知らなかったのだろうか、散々な植えかたであると言って植え直した。
台徳院はこの木は誰が植えたと面と向かって聞いた。道巴が直したとは知らず、政宗が植えたと忠輝が申し上げたところ、植え方が良くないと思うとの御言葉であった。その後、それを政宗は聞き及び、植え直したことを口惜しくお思いになったけれど、台徳院へ言い訳することも出来なかった。
このことについて、日頃心の底では宗碧をも憎んで居られた。すると、今回宗碧の妻子を預けるとき、宗碧の甥上方から来たとの知らせが来た。尋ねてみれば、道巴の子であった。政宗はそれを聞き、道巴のことを政宗が良く思っていないことを知りながら、その子を数年隠していたことを後ろ暗いところがあったのかと憎く思われ、宗碧並びに子供・甥ともに死罪にした。
24日伊達安房成実へ見舞いの書状を送る。
28日伊達安房を饗せらる。書院を作る様にと仰り、絵図をかきお渡しになった。

感想

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

原文

一、有年、伊達安房成実若林の屋敷新宅出来、吉日を選び太守公被為成候。朝は御茶の湯過候て、鎖の間にて色々飾り薄茶を終わって書院に出御、外舞台にて御能作法のごとく、大夫に唐織と箔の物太刀折紙、惣役者つみ銭百貫、太守公御長袴召させられ候故惣侍長袴也。書院上座真中に御着座、御敷居の内に石川民部殿伊達安芸殿伊達武蔵殿白川殿岩城殿、次の間に御一家御一族、御挨拶の為、御縁側に松前市正法橋衆衣体衆、見付のの御際に宿老衆、一間ほど引き下がって年寄衆に茂庭周防奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳片倉小十郎、少引き下がって大身衆段々伺候す。どなたまでも御作法正敷御事にて御能始まる。此頃伊達兵部殿千勝と申侍りしが、其日能二番鵺と小袖曾我めされ候。宗碧とて京方の者なれども御伽の衆に御取たて御知行百貫被下年老たるものなれば、別而御不憫におぼしめし、其日も朝の御茶の湯相伴仕り、沈酔やいたしけん又天命やつきけん、御座敷の縁側に中座して能を折折誉めけるが、千勝殿いたいけなる能をみて太守公御側近くさし出て、千勝殿御能扨も扨もしほら敷御事かな。あれを御覧して御誉めあれかしと申上る。太守公聞こしめし笑はせ給ひて見事能する也、其方は年寄役にただ物ほめ候へと仰られ、御一門衆に御向かひ、宗碧か為体今朝数寄屋にて少被下たる酒に酔い、さし出ておのおの御覧候前にてむさと申度ままの事申也。年ほど無念なるものはなし。酒までも弱くなる事不憫なりとの給ふ。成実御意のごとく年の寄るほど万口惜しき事御座なく候。此頃は殊の外衰へ見へ申候など御座興になる。しかあれどもなをさし出てとやかく申せとも、それぞれに御あしらひ酒に酔いたるな、しばし陰にたち休息して出よとの給ふ。なを御側近く参り、まったく御酒には被下酔申さぬ由申上る。酒に酔わすば乱心するかと笑わせ給ふ時、又申上るあの御子の御能御覧候て泣かせられぬは強き御心なりと申上る。聞こしめさぬふりにて御挨拶なけれは、や、殿殿あれを見あれ、さりとては心強き御人かなと申候へば、俄に御気色かわって御側なる御腰の物とらせられ御座を立たせ給ひながら、宗碧が天辺を鞘まま二つ三つしたたかに打たせられ、近頃空け尽くしたる奴かな、所から悪しければ首は助くる、座敷追ったてよとの給ひて入らせ給ふ。宗碧黒衣の衣装たちまち色変して立ち退く。其の後御家老衆を以て御亭主始め御一門衆へ仰訳也。唯今は近頃無礼見苦しくおぼしめし候はん事拠なし。さりながら予が存る所聞給へ。宗碧と申者は各々も御存のごとく、別而不憫を加へ取立てのものなれば、如何様の事申も常は赦し、荒き風にも当たらぬ様にと側近く召し使ふ所に、今日の仕方は乱心したると見えたり。あるいは野山又は密なる所にての事ならば、日頃愛したる者なれば、目先もちかふ間愛し置候事も候はんつれども、けふは国にをゐては晴がましきもよほし、芝居の白洲に数百人とり入候もの、たとえば一ヶ国のもの一人づつは有べし。然れば天下の目晒のみる所にて聞かぬふりにてあるならば、かのもの共国元へ帰り、いつぞや奥州へ下りし時、政宗親類に伊達安房とて有しかたへ振舞の時能ありし。尤其身も中納言にへあかり一門家老作法正敷様には見えけれども、伽する坊主いかにも親しく子供衆の能するを、座興とはおもへども尾籠の至り、其まま愛しをかれたるはかねてさようの仕掛と見えたり。さなくは空けものを愛す人か、音に聞きたると見たるは格別違うぞと、とりどりにいわれんは口惜しき事なりと、是をもっての義也。亭主も心に懸けられず、各々もさように存ぜらるべし。こなたに機嫌悪しき事なしと仰訳候へば、いづれも至極の御意なりとてやがて出御、終日能終わって帰り給ふ時、火の用心肝要也と被仰付、鎖の間にしばし被成御座、佐々若狭石田将監被召出、何と哉ん火事出んと、ややもすれば胸にたたす。内衆は此ほどの草臥に今日振舞過隙明たると油断有べし。両人は御跡に止まり、屋敷中用心よく申付帰るべしと残しをかる。さるによって両人心の及ぶ所は見届け、そこそこに不寝の者をきて帰る。明方近き頃、置囲炉裏の火よく消し水をかけ子細なしと置たる所より、火底の板に焼けぬけ燃へあかり、成実の屋敷残らず並びの町二三町消失也。太守公さればこそ不思議なれ、城へ帰り候ても火事といふ様にはかり思ひ、随分用心しての上にも焼け候事は天命也とて、翌日より御自身指図あそばされ作事御取立て也。扨又前に申たる宗碧事、御側ちかく被指置たる御慈悲に身命は御助け、陸近き島に流し、物をも心安く被下様にいたし、妻子は其島近所の城主に飢へここへぬ様に宛行預け置べしと奉行衆に被仰付、かくて三十余日経ぬ内に宗碧天命尽きたる印には、宗碧が兄道巴とて生心つきたる茶の湯好くもの有。一年江戸にをゐて、御婿上総守殿両上様へ御茶御上候付、御路次数寄屋の物数寄は政宗へ御頼候へと御内意によって頼み申度旨、上総守殿被仰候。これによって日々御通ひ路次御取立て、すでに御手水前の石共、袖すりの木御植へさせ、明日の事に申べしとて御帰の跡へ道巴御見舞申上る。上総の守殿道巴に方々見たるか、其方は茶の湯の心あれば木などの曲がりたるなどよく見よとの給ふによって、御路次へ参り、此石悪し此木の植へ所悪しきなど申て、石三つ四つ直し申也。木も一二本植へなおす。翌日太守公御出御覧して、是は上総の守直し給ふかと問ひ給へば、道巴が業なりと申。何者なれば上総殿の路次といひ、我等植へさせたる木を直す事推参至極、にくきやつかな是非つれて参れ、木石の悪き子細を尋ね晴れなきにをゐては、見せしめのため路次に獄門にかけて木を直させんと御腹立ち給へば、行衛なく逃げ失せぬ。尋ね給へども見えず、此意趣はれんれん探し出してとおぼしめせども、兄弟といひながら宗碧は御国にはかりさしをかるるものなれば、さのみ御祟りもなき所に、かの道巴が子供を宗碧所に数年隠し置、今度妻子御預けの時此ものは甥にて他国の者なりと知るる。道巴口惜しくおぼしめす事は、存の前にてかやうに御後ろ暗き事口惜しくおぼしめし、宗碧親子道巴が子供御成敗也。天罰逃れがたしとみな人申あへり。前に申安房殿屋敷にをゐて色々不思議なる事有と後に人々申也。太守公御成の一日前に路次の掃除最中に、いつく共なく鳶二つ中にて組あひ、路次の木の中へ落ると等しく二つながら死にけり。又其夜鼬いくつといふ数しらず、書院広間の庭に出て駆け歩き食いあひて、塀の控へ柱に伝わり屋根に上がり、天水桶の水をすくひたて浴びなどして、西隣の屋敷をさして行き去りぬ。又楽屋にて桜井八右衛門翁表を箱の蓋の上に飾り、いつものごとく神酒を供へ候所に、脇にたて置たる役者の刀、五六腰転びかかりぬけたり。大夫心に今日道成寺のあるに気の毒なりとて、行水などして観念し、すでに大夫幕際にかかり、面箱持ちの立ち上がり出る跡を見れば、なるほど凝りたる血吊橋の方へ四五ヶ所こぼれて見ゆる。大夫みて外へ行たるほどに、内に怪我はあらじと心に思ひ出たると也。宗碧が仕合、屋敷の火事後に人是を不思議といふ也。
*此ヶ条相違無御座候。私も其日罷出御能見物仕候。安房殿やしきにての物怪は不存候。舞台にて血こぼれ申候儀は、桜井八右衛門直咄承候事。

語句・地名など

鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。
薄茶:抹茶の一種。製法は濃茶と変わらないが、古木でない茶の葉から製したもの。また、それでたてた茶。濃茶より抹茶の分量を少なくしてたてる。
法橋衆・衣体衆:僧侶衆
天水桶:防火用に雨水を貯えておく大桶。昔は屋根の上・軒先・町かどなどに置き、雨樋の水を引いた。

現代語訳

ある年、伊達安房成実の若林城近辺の屋敷が新築され、吉日を選び政宗が御成なされた。朝は茶の湯を過ごし、鎖の間にていろいろと飾り、薄茶を終わった後、書院に出、外舞台で能を行った。正式な作法通り、大夫に唐織りと箔の物太刀・折紙を与え、すべての役者に100貫を与えた。
政宗が長袴を着られたので、すべての家臣たちが長袴を着けた。書院の上座の真ん中に政宗がお座りになり、敷居の内に、石川民部・伊達安芸・伊達武蔵・白川・岩城らの一門衆が、次の間に一家・一族の者たちが居並んだ。挨拶のため、縁側に松前市正ら僧侶衆、目付の際に宿老衆が、一間ほど下がった所に年寄り衆と茂庭周防・奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳・片倉小十郎がおり、少し下がって大身衆が一段一段列になって並んでいた。どの人であっても作法の通りにして、能会が始まった。この頃、後の伊達兵部宗勝は千勝と呼ばれていたが、その日能を二番、鵺と小袖曾我をなさった。
宗碧という京の方の者であるが、御伽衆に取り立てられ、知行100貫を与えられていた者がいた。年寄りなので、特別に気の毒だと思われ、その日も朝の茶の湯の相伴をした。酷く酔ったのか、それとも天命が尽きたのか、座敷の縁側の真ん中に座り、能をそのときそのとき誉めていたが、千勝丸の幼くかわいらしい能を見て、政宗のそばちかくまで出てきて、「千勝殿のお能は大変優美なものである。あれを見てお褒めになられますように」と申し上げた。
政宗はそれをお聞きになり、お笑いになって、「能は見事である。おまえは年寄りの役目としてただものを褒めていろ」と仰られ、一門衆に向かって、「宗碧のていたらくは、今朝数寄屋にて少し与えた酒に酔い、でしゃばってみなの見ている前にてむさ苦しく、いいたいことそのまま言っている。年を取ることほど無念なものはない。酒までも弱くなることは気の毒であるなあ」と仰った。成実は「仰ったとおり、年の取ることほどすべてにおいて口惜しいことはない。このごろはとくに衰えてしまっている」と冗談を言われた。
しかし、それでも宗碧はなおでしゃばってとやかく言ったが、政宗はそれぞれに挨拶をいい、「酒に酔わないように。しばらくかげに出で休んでこい」と言った。宗碧はなお側近くに居り、「まったく酒には酔っては居ません」と言った。「酒に酔わないのであれば乱心するか」とお笑いになったとき、また「あの御子息の能を御覧になって、お泣きにならないのは強きお心であります」と言った。政宗は聞こえなかったふりをして、返事をしなかったが、「や、殿、殿、あれを見なされ、それにしても心強い御方ですなあ」と言ったところ、急に政宗の様子が変わり、お側にあった刀をお取りになり、お立ちになりながら、宗碧の頭を鞘をつけたまま2,3回強く殴打した。
「もううつけつくしたのか、このような場であるから、首は助けてやる。座敷から出ていけ」と仰って、お部屋におこもりになった。宗碧の黒い衣はたちまち色が変わり、その場を退いた。
その後、家老衆を介して饗応の主人である成実をはじめ一門衆へ言い訳をされた。
「ただいまの言動はこのごろ礼義がなく、見苦しく思われることは仕方ない。しかしながら私の思うところを聞いて下さい。宗碧と言う者は、皆様も御存知の様に、特に気の毒に思い、取り立てた者であるので、どんなことを言っても普段は許し、世間の荒い風にもあたらぬようにと、側近く召し使っていたところに、今日の様子は乱心したかと思った。野山や、または内々の所でのことであったならば、日頃愛情を傾けていた者なので、目先も近いほど愛したこともあったけれども、今日は国に於いて、晴れがましき催しであり、芝居の白洲に数百人もの人が集まっている。その中には、一国のものが一人ずつは居るだろう。なので、天下の衆目が集まっているところで、聞かなかったふりでそのままにしておいたなら、その者たちは国元に帰り、『いつぞや奥州へ言ったとき、政宗の親類の伊達安房というところで振る舞いのとき、能があった。政宗は中納言にまで出世し、一門・家老たちも作法正しくしているように見えるけども、伽をしていた僧侶はいかにも親しげに子供が能をするのを、冗談とは思うけれども、礼義をわきまえないことしきりで、そのまま寵愛して側においておるのは、いつもこのような感じなのだなと思える。そうでなければうつけものを愛す人なのだろうか、噂で聞くのと、見るのではかなり違うぞ』といろいろといわれるのは口惜しいことであると思っての事である。主人も気にせず、みなもそのように思ってくれ。おまえたちに対して機嫌が悪いわけではない」と仰ったので、みなこの上ないお考えであると思った。
やがて政宗は現れ、一日中能が行われ、終わってお帰りになるとき、火の用心が大事であると仰られ、鎖の間にしばらく居られ、佐々若狭・石田将監を呼び出され、「なぜだろうか、火事になるのではないかと、もしかしたらという予感がする。この屋敷の者たちは今回の支度でくたびれ、今日の振る舞いが終わり、隙があるから油断があるだろう。二人は後に止まり、屋敷中の用心をよく言いつけて帰れ」と置いていった。そのため、若狭・将監の二人は気がつくところはすべて見届け、至るところに寝ずの番を置いて帰った。
明け方が近い頃、置き囲炉裏の、火をよく消し、水をかけ、問題ないと思っていた所から、底の板が火があがり、燃え上がり、成実の屋敷は残らず燃え、並びの町2,3町も焼失してしまった。
政宗は「やはりそうだったか、不思議なことだ」と城へお帰りになっても火事のことばかりを思い、あれほど用心したのに火事になってしまったのは天命であると言って、翌日から御自身で指図され、工事を行われた。
さて前述した宗碧の事だが、御側近く仕えていたため、慈悲を以て命はお助けになり、陸の近い島に流し、何事も問題ないようにして、妻子は島の近所の城主に、飢えたり凍えたりしないように扶持を与えて預けよと奉行衆にご命令になった。30日過ぎないうちに、宗碧の天命が尽きた理由には、宗碧の兄で、道巴という、中途半端に茶の湯を好く者があった。1年江戸に於いて政宗の婿である上総守忠輝殿、両上様へお茶を献上したため、路次数寄屋のしつらえは政宗へ頼めとのお心であったので、政宗に頼みたいと上総守殿は仰られた。
このため、日々お通いになる路次作りをされ、すでに手水前の石や袖すりの木を植えさせ、明日には完成させようとお帰りのところに道巴が見舞いに来た。上総守は道巴に「あちこちを見たか。おまえは茶の湯の心得があるなら、木などの曲がり具合などよく見よ」と仰られたので、路次へ来て、「この石は悪い、この木の植えた場所は良くない」などと言って、石を3,4つ直した。木も1,2本植え直させた。
翌日、政宗がお越しになり、御覧になり、「これは上総守がお直しになったのか」と問うと、道巴がしたことであると申し上げた。「上総の守の路次であり、私が植えさせた木を直すなど、無礼の極みであり、何者のつもりであるか。憎いやつである。是非連れて来い、木や石の悪いという理由を聞き、ハッキリとした答えがないのであれば、路次に獄門にかけて、木を直させよう」と腹をお立てになったので、行方知れずになって、逃げて消えた。行方をお尋ねになっても見つからず、このときのわだかまりは長く続き、探し出したいと思っていたが、兄弟とはいえ、宗碧は国元にばかり置いていたので、それほどお怒りもなかったところ、この道巴が子供を宗碧の所に数年隠しおいており、今回の妻子がお預けになったとき、この者が甥で、他国の者であったと知った。道巴にたいして口惜しくお思いになる理由は、このように後ろ暗い事を口惜しくお思いになり、宗碧親子と道巴の子供を処刑なさった。天罰からは逃れがたいと人はみな言い合った。
前述した安房屋敷においていろいろと不思議なことがあったとのちに人々は言った。政宗の御成の一日前に、路次の掃除をしている最中に、どこからともなくトンビが二つ飛んできて、くみあい、路次の木の中に落ちると、二つとも死んだ。またその夜イタチが数えることが出来ないほど多く、書院広間の庭に出て、走り、歩き、食い合って、塀の控え柱を伝わって屋根に上がり、防火用の桶の水をすくいたてて浴びるなどして、西隣の屋敷を向かって行き去った。
また楽屋にて桜井八右衛門、翁の面を箱の蓋の上に飾り、いつものように神酒を供えていたところ、脇にたておいていた役者の刀、5,6本倒れて、抜けた。大夫は、今日は道成寺があるのに気持ちが悪いと、行水などをして心を静め、大夫が幕際にかかり、面箱持ちが立ち上がって出ていったあとを見ると、たしかに固まった血が吊り橋の方へ、4,5ヶ所こぼれているのが見えた。大夫はこれを見て外へ行ったのは、内にけが人はないだろうと思ったためである。
宗碧の出来事、屋敷の火事のことは、のちに人々は不思議なことだと言った。
*この条のことは間違いないことである。私もその日屋敷に行き、能を見物したのである。安房殿の屋敷でのおかしな事は知らない。舞台にて血こぼれが有ったことは、桜井八右衛門の話を直接聞きました。

感想

寛永11年2月に、若林城のそばにできた成実屋敷での出来事を書いた記事です。
この記事は他の書物にも書かれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事、『名語集』42にも記事があります。
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それぞれは筆者が違い、視点が違うのがこの記事のおもしろさになっています。
『政宗記』『名語集』では、饗応が行われたこと、政宗が宗碧について激怒したこと、政宗の弁明、火事の話題に続き、遠島になった宗碧が一ヶ月後に処刑されたところで終わっていますが、木村宇右衛門は他にも屋敷におかしな事件が起きたことを述べ、宗碧の兄道巴がそもそも政宗の怒りを買っていたことを記し、終えています。特に謎の血痕については、「直接聞いた」と注に述べるほどです。
『政宗記』では若林の町についてと、政宗の弁明、それに対する成実本人の感慨が中心で、『名語集』では宗碧事件を中心に、そして『木村宇右衛門覚書』では木村宇右衛門が見聞きしたことが加えられています。
こういう事件があったこと、政宗がどう語ったかはほぼ共通しており、こういう事件があったことは事実だと思われますが、それぞれの記事から違う事情が伝わってきて非常におもしろいです。

『木村宇右衛門覚書』・目次

『木村宇右衛門覚書』について

仙台伊達家から昭和26年に仙台市へ寄贈された伊達家寄贈文化財の中にあった一資料である。江戸時代には「木村氏覚書」「木村宇右衛門書立」と称されることもあった。上中下巻の3巻からなる。
内容は伊達政宗が晩年に小姓の木村宇右衛門に語った様々なことを木村が書きとめたもので、184項目、政宗の出生から政宗の死後の慶安5年(1652)5月24日の17回忌までの記事が記されている。
木村宇右衛門可親(よしちか)は元の名を森右衛門といい、9歳の頃から奥小姓として政宗に仕えた。政宗死後職を離れたが、忠宗より慶安5年(1652)に30貫文の知行を宛がった。延宝3年(1675)4月に老齢を理由に隠居。覚書の成立は政宗の17回忌にあたる慶安5年に間もない時期と考えられる。
主人公政宗と書き手右衛門の同時代性こそが、本資料の最大の魅力である。


何回か調査され、付帯文書が付けられている。

  1. 奥山大炊常辰(1614〜1689/奥山大学常良の子)によるもの 木村宇右衛門の息子太郎左衛門が所有していたものを、奥山大炊が調査し、1675〜89年までに付け札したものと思われる。
  2. 田辺喜右衛門・遊佐次郎左衛門によるもの 四代藩主綱村の命によって、『治家記録』が編纂された際に調査を命じられた。「大形相違多き物に相見へ」と全体を評価した。その後藩の蔵にしまわれた。
  3. 五代藩主吉村によるもの 寛保元年(1741)に蔵から取り出し、見た。
  4. 入江権大夫によるもの 七代藩主重村の代に、奥村大炊が付けた札がはがれかけていたため、再調査を命じる。どうしても見つからなかった札もあったという。重村は「宇右衛門覚書を第一と定め」と高く評価した。

———小井川百合子編『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』序より抜粋・要約

当ブログはあくまで成実が書いたとされる各書の紹介・考察を目的としておりますが、内容比較のために、成実が登場する項や『政宗記』『成実記』や『名語集』と重なる項を紹介していきたいと思います。

『木村宇右衛門覚書』は小姓木村宇右衛門可親(よしちか)が政宗が語ったことを記した、政宗言行録の一つ。小井川百合子編『伊達政宗言行録-木村宇右衛門覚書-』として公刊されております。近習の小姓ならではの視点で、政宗の言ったこと・日頃の行動・考え方などを記した書で、とても読み物として面白いです。
成実の各書や『名語集』と違う特徴としては、

  • ものすごく記憶力がいい人だったようで、ディティールが詳しい
  • 都合の悪いことをかかない傾向がある成実や、感情に走りがちな『名語集』筆者と違って、自分の感情を入れず、聞いたこと・見たことを比較的正確に記している(と思われる)
  • 政宗のフィルターが入っているので、あくまで「こういうことにしておいた事」ではあるが、他の史料にない独自の記述がたまにあって興味深い
  • ただし木村のフィルターは成実のフィルターより薄いと思われるので信用できる
  • 記事によって史料批判する必要がある

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事

原文

一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ、万事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。御相伴衆のうち、宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいたしける御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙胆に銘じける。折ふし、かの宗碧、感にたへず、醉興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、聲を上げ、頭をさすり、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。貞山公にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、聲をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらる。されども命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかやうの事ありとも、腹立つことゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候へ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免して朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州へ下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちおしき次第なり。只今の腹立ちは、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆえ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が、ここに希代不思議に、諸人存じたてまつり候御事は、日暮れ申すと、御前衆、或は御小姓頭衆など、召させられ、「何とやらん、今宵火事出来せんと心中にたへず。亭主方のものは、皆くたびれ候はんに、こなたより申付け、用心つよくさせよ」と、ひたすら仰付けられ、御立ちざまに、御自身、くさりの間の爐のうち御取らせ、水など御かけさせ、わざと数寄屋へ出御なされ、爐の中を御らんじ、そのうへ、佐々若狭を召させられ、「いかさま、今夜火事出でんと思ふなり。其方、跡にとどまり、爐中爐中に水をかけさせ、罷り帰れ」と、仰付けられ、御帰城なされ候。諸人も心つき、なるほどなるほどと火事の用心仕り、少しもあたたかなる所へは、水をかけ申すやうに仕り候へども、その暁、水をよくかけ申し候置囲炉裏より、火あまり、房州御屋敷、残りなく火事いたし、並びたる御町も、あまた焼け申し候。諸人、胆を消し、易からぬ御事と、舌をふるひ申し候。次の日、即ち御自身、御指図を以て、御作事悉くなされ進ぜられ、日頃御取立ての宗碧をば、諸奉行衆に仰付けられ、「日頃の御取立て、不便におぼしめされ候間、身命相助けられ候。里離れたる島へ流し候へ。さりながら、扶持などは迷惑いたさぬやうに」と、仰付けられ、又「成人の子供をば、その島近所の城代に預けおくべし。女房以下をば、親類にあづけ候へ」と、仰付けられ候。かやうに事済み候てのち、三十余日を過さぬに、不慮のことありて、宗碧父子御成敗なされ候。天命のほど、諸人身の毛を立てて、恐れ申さぬはなし。

地名・語句など

所役:役目・任務
不便:迷惑/可哀想
いたいたし:可哀想だ・気の毒だ/程度のはなはだしいさま
一入(ひとしお):いっそう
鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。

現代語訳

あるとき(寛永11年2月23日)、伊達安房守成実の屋敷の工事がすべて終わり、よき日を選んで、貞山様(政宗)をお迎えになった。朝は数寄屋にて茶を、その後書院にて能を見ることになった。親類衆・身分の高い者、低い者も、みな長袴を着け、政宗も長袴をお着けになって、すべて作法の通りになさり、一日中能を見学なされた。
その日、兵部大輔宗勝は鵺を演じなされた。普段、お話や挨拶のために、相伴衆を家臣とは別に取立て、座敷の縁側に置いておられた。その相伴衆のうち、宗碧という、京のものを、特に取立て、100貫文の知行を役目なしにお与えになっている者があった。年も取っている者であったので、ますます面倒だと強く思われていた。
その日も宗碧は相伴し、書院の親類衆の中にまじり、政宗のいる縁側の近くに置かれていた。宗勝が能をしたとき、人は皆感動した。まことにすばらしいようすで、音曲や拍子に負けず、踊るさまが優美に思われたので、政宗もいっそう機嫌よく思われ、見ていた者たちはみな感動して涙を流し、心に刻んだ。
そのとき、その宗碧は感動がすぎ、また酒に酷く酔ったのか、また政宗に気に入ってもらおうとおもったのだろうか、政宗のいたところの側までおどりでて、「兵部大輔様のお能はさてもさても」と声をあげ、頭をさすり、立ち上がって、ものの音もきこえぬほど、うかれて振る舞った。
政宗も憎らしいとお思いになったけれども、座敷の雰囲気に、もてなしなど、それぞれに手を込めて手配したことが、すぐさま台無しになるだろうと思われたのだろうか、宗碧はまだ鎮まらず、政宗の膝近くねじより、「やあ殿よ殿よ、あれをよく御覧なされ。いかなる東の鬼神であっても、泣かないということがありましょうか」と声をあげて泣き叫んだとき、急に政宗の様子が変わり、そばにあった刀を抜いて急に打ちかかり、しとどに濡れるほどお打ちになった。しかし、命をとるのは可哀想であるとおもったのだろうか、浅い怪我を追わせて、刀をおしまいになった。この宗碧の黒衣はたちまち赤く染まった。
政宗は御座敷をお立ちになり、わきの座敷へ入られた。奉行衆を介して饗応の主人であった伊達安房守成実をはじめ、それぞれへ仰ったのは「今の様子、皆が何があったのかと思うだろうこと、大変痛み入り、恥ずかしいと思う。亭主の成実に対しては、今日どのような事があっても、腹を立てるようなことは絶対にしてはいけないと、かねてから思っていたのだが、想像外の出来事が起こってしまって、仕方がなかった。しかし、それぞれよく物事を考えてみて欲しい。この宗碧は特別に取立てたものであるので、どのようなことがあっても、許して毎日いらだちを感じており、今日まで側に置いていた。その上、今日のことは、うちうちのことであるならば、どんなことを入っても、結局そのときのふざけとして片付けるが、今日の能見物は庭に数百人の見物人が集まっている。私の国の内であれば、長袴なしで、気楽に見学するけれども、このように身分の高い者から低い者までみな礼義正しく行っているのは、私を重んじるが故のことでないことがあろうか。国の者たちも恥ずかしく思い、私も乱れたことのないように心遣いをしていたが、叶わなかった。また、今日の見物人の中に、様々な国の者が一人ずつはいるだろう。このようなことをそのままにしておいたなら、それらのものたちが国に帰り、いつだったか奥州へいったときに、政宗の親類の安房守という人の所で能があったときに、すべて行儀正しいように振る舞っていたけれども、そばにいた年配の相伴坊主が子息の宗勝の能のとき、『殿や殿や、あの子供の能を見て泣かないのはおかしい』などといかにも心安くいっていたけども、その通りだ、人は聞いたり見たりするのとはそれぞれ違うものだ。官位は中納言だろう。身分に見合わないなどといろいろ言われるのは、口惜しいことである。ただいまの腹立ちはそのことであり、饗応の主には何の障りもない。なので、私の機嫌が悪いはずもない。みなもこころをほどき、気遣いすることなく、能を見るがいい」と使いを介してみなへ仰ったので、そこにいたものはみな、有り難いことであり、御言葉はもっともであると感動なさった。その後政宗は元々の場所へお戻りになり、ますます御機嫌良く、一日中能を御覧になり、夜になってお帰りになることになった。
ここで大変不思議なことだとみなが思ったことなのだが、日が暮れたところ、側近く仕えている者や、小姓頭たちをおよびになり、「どうしてだろうか、今日夜、火事が起こるのではないかという予感がする。館の主の家臣たちはみなくたびれているだろうから、こちらから言いつけて、用心を強くさせよ」と何度も仰った。出発するときに、御自身で鎖の間の炉のうちをお取りになり、水などをかけ、わざわざ数寄屋へお入りになり、炉の中をごらんになり、その上、佐々若狭をお呼びになり、「どのようにかわからぬが、今夜火事がおこるのではないかと思う。おまえはここにのこり、それぞれの爐中に水をかけさせて、帰ってこい」とご命令され、城にお帰りあそばされた。
みな気を付けて、なるほどなるほどと火事の用心をし、少しでもあたたかなところには水をかけるようにしたのだが、その暁、水をよくかけておいた囲炉裏から火が出て、安房守の屋敷は残らず燃え、並んだ町も数多く燃えてしまった。みな大変に驚き、滅多にないことだと、舌をふるって言い合った。
次の日、すぐに政宗は御自分で指図をして、もう一度工事をやり直すように仰り、日頃取り立てていた宗碧を奉行衆にご命令になられ「日頃の取立てで、哀れに思ったため、命は助ける。人里離れた島へ流せ。しかし食い扶持などは不便の内容に」とご命令になり、また「成人した子をその島の近所の城代に預けおけ。女房たちは親類にあずけよ」と御命じになった。このように事が終わった後、30日も経たぬうちに、予想外のことがあり、宗碧親子は処刑された。天の命令であるとみな鳥肌を立てて恐れて言わぬ者はなかった。

感想

寛永11年2月23日に行われた、新築成実屋敷の饗応での出来事、及びその翌日の火事についての記事です。この日はいわゆる「御成」であり、朝から茶の席・長袴を着ての能見物がありました。
この日は様々なことが起こりました。
この能会は、様々な国から来た数百人の見物人がいたことが政宗の言い分からわかります。普段ならば長袴を着ることもなく、気軽に見るけれども、この能会は皆が長袴を着けており、フォーマルなものとして行われたようです。この能舞台が臨時のものか常設のものかははっきりとはわかりませんが、数百人が見られるということから、かなり大がかりなものであったことがわかります。
そこで、宗碧という相伴衆が酔っ払ってか機嫌を取ろうとしてか、ひどくみっともない様子をしたため、政宗は怒り、宗碧を殴打したあと、部屋に籠もってしまいました。政宗は亭主(成実)には関係ないと言ったあと、ふたたび能会は進みます。
そこでまた事件が起こります。
帰ろうとした政宗は火事が起こるのではないかと考え、念入りに火の用心をさせます。佐々若狭らにも命じ、また成実の家臣たちにも強く言い、用心をさせました。
しかし、その翌日の明け方、なぜか消したはずの囲炉裏から火が出て、成実屋敷は焼失してしまい、廻りの町をも燃やしてしまいました。
正直、この火事に関しては何があったんだかよくわかりません。
怪異なのか、政宗の逆説的な命令で館を燃やしたのか。町まで燃えるとなると大ごとです。何があったんでしょうね。
この事件があったあと、28日に政宗が成実を召して、自ら新しい屋敷の指図をしています。

この記事は他の書物にもかかれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事や、『木村宇右衛門覚書』20にも類似記事があります。
『政宗記』10-1はこちら↓
sd-script.hateblo.jp
こちらは亭主(=成実)側の記録らしく、どのように用意していたか、またこの事件を思い出しての成実自身の感慨などの記述が詳しいです。

『木村宇右衛門覚書』ではさらに宗碧を殴打するまでに政宗と成実がそれをどうにか紛らわそうとしてか、イヤミを言っているシーンなどもあり、非常におもしろいです。とにかくこれは非常に大変な事件だったようです。
(この記事はまた後日アップしたいと思います)

『伊達日記』126:白石攻め

『伊達日記』126:白石攻め

原文

政宗公は岩出山迄は御下成らせしめられ。北目に御在陣候て七月廿四日白石の城へ御働候。甘糟備後城主に候間若松へ引取られ備後甥北城式部居候朝城外を打廻り。御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ。別而改普請仕所も之無く候。町を御取せ成らるるべき由仰出され町枢輪へ惣人数取付押込火を懸候間敵は本城へ逃込。其夜二三の枢輪迄相破本丸計に成。翌日石川大和守を頼。城中の者命相助られ候はば明渡し申すべき由にて廿五日七つ時分出城候。伊達へは相返され間敷由にて表立候衆はいづれも御旗本に罷有候。雑兵は夜に紛伊達へ逃帰申候。簗川へ御取懸成らるるべく思召れ候所に。家康小山より御帰之由申来候付。関東口より御取詰成られずしては政宗一人にて働成りがたく思召され。白石へ御人数相籠られ。江戸御一左右聞召られ候迄先ず北目へ御引籠成られ候也。

右伊達成実記三冊依無類本不能校合

語句・地名など

現代語訳

政宗は岩出山までお下りになり、北目城に在陣なさり、7月24日白石の城を攻められました。甘糟備後景継という城主でしたが、会津へ呼ばれていたため、備後の甥北城式部(登坂式部勝仍?)が城にいた。
朝城の外を見て回り、引き上げられました。8つ頃また城の周囲を御覧になり、とくに改めて工事するところもないので、町を取るようにと仰り、町曲輪へ総軍を取付押し込め、火をかけると敵は城の中に逃げ込んだ。
その夜は2,3n曲輪まで破り、本丸だけになり、翌日石川大和昭光を頼って、城内の者の命を助けるのであれば、城を明け渡すと言ってきたため、25日7つ頃、城を明け渡した。伊達へ戻ることはできなかったので、表だった衆はみな旗本であった。雑兵たちは夜に紛れて伊達に逃げ帰った。
梁川へ攻めかかろうとお思いになっていたところ、家康が小山から引き返したことをお聞きになったので、関東から取りかかることは政宗1人では難しいとお思いになったため、白石へ軍勢を籠もらせ、江戸の知らせをお聞きになるまで、とりあえず北目城にご滞在になられたのである。

(これは伊達成実が記した三冊である。類本がないため、内容のかみ合わせができない)

感想

とうとう『伊達日記』の最後の章になりました。政宗は対上杉の抑えを命じられ、上杉領南部の白石城を攻めることになります。
ちなみに書かれていませんが、この戦の直前出奔していた成実は石川昭光・留守政景・片倉景綱らの尽力によって帰国し、石川昭光の陣に入り、白石攻めに参加します。
そして白石を攻めた政宗は家康が引き返したことをしり、北目で様子を見ます。ここから北の関ヶ原というべき伊達・上杉・最上三つ巴の戦が始まりますが、成実はそれに触れず、この書は終わります。
それが何故か、というのはわかりませんが、一応『伊達日記』・『成実記』系統のものはいずれもこのあたりで終わっています。
『政宗記』後半ももしかしたら他人の手が入っている可能性もあります。詳細はわかりませんが、読み比べるとおもしろいです。

『伊達日記』125:家康の返し

『伊達日記』125:家康の返し

原文

一義顕。政宗。南部信濃以下奥の大名衆。景勝退治のため国々へ御下候。家康小山迄御出馬の所上方にて謀叛起。伏見の城又京極若狭殿御座候大津の城にも籠置かるる由申来候付而家康江戸へ御引返候。

語句・地名など

現代語訳

最上義光・政宗、南部信濃守利直をはじめとする、奥州の大名たちは上杉景勝退治のため、国々へお帰りになりました。
家康は小山まで出馬したところ、上方にて謀叛が起こり、伏見の城と京極若狭高次がいた大津の城もろうじょうすることになったことが伝わり、家康は江戸へ引き返しなさりました。

感想

政宗をはじめとする奥州大名は家康に従い、下向しましたが、家康は上方で謀叛が起こったので、戻ることになりました。