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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

『政宗記』9-4:秀吉御逝去事

『政宗記』9-4:秀吉の逝去のこと

原文

同(慶長)三年戊戌の六日*1、秀吉公違例の心地出させ給ひ、日を重ね尚も重らせ給ふ。其故諸大名衆を召集め、「縦ば明日にも御他界なりとも、若君秀頼公へ全く不忠有間敷、」との誓紙をせよと上意に付て、各血判を差上給ふ。是を聖護院へ渡し給ひ、峯へ納め奉れと宣ひければ、多くの山伏を引具し登山有て、大峯へ納め奉らる。爾して後、秀頼公幼少にて御坐せば、松平(徳川)家康・浮田中納言(宇喜多秀家)・安芸の毛利(毛利輝元)・加賀の(前田)利家・長尾(上杉)景勝五人にて天下を談合持に、扨秀頼公十五歳に成給はば、直の御支配にと御遺言にて、同八月十八日に逝去し給ふ。去程に秀吉公其身の上を新八幡に祝ひ立よと仰置なり、故に秀頼公其旨奏聞なされば、新八幡は相叶はず、豊国の廟号賜はり、豊国大明神と成し奉る。されば、秀吉公御残命の御時、長尾景勝越後より会津へ国替なれども程なく御違例なれば、未だ国の仕置きもなく上洛し給ふ。去程に暇を賜りけれども、御違例中は在京有て、御他界已後に下り給へり。然るに、其頃政宗息女を家康御貰ひ、御子上総介忠輝公へ御取合せ有度として、名屋(今井)宗薫御使也。本より御懇にておはせば、いかにも首尾能相済けるを、浮田中納言・安芸毛利・加賀利家聞給ひ、「四人の者をば加へずして、家康・政宗計りの談合は、御遺言を翻し私の至なり、此上は宗薫首を刎ん」と宣ふ。家康・政宗、三人衆へ相手に成ん、とおぼしければ、其事洩聞へ静かならず。其上石田治部少輔三成の、天下を望んで先家康と、四人衆の御仲を色々に拵へ隔て給ふ。其故家康の御屋敷は、伏見の向島右の城場におはすを、彼島へ押かける抔、様々の雑説共之有り。政宗も家康御屋敷へ御出、御内談の由なり。光成(三成)一人悪心見はれ、已に滅亡に及びけるを、佐竹義宣大坂の光成の御屋敷へおはして、同乗物にのせ給ひ伏見へ帰り、御身の屋敷に隠し給へば、大坂にては行方知れずに欠落なりとて、右の唱も静まりにける。斯て家康へ義宣より「光成を佐和山の居城へ、遣はし給はれ」と訴訟なれば、秀吉公恩深き身ながら、忽に其賞を忘れ御他界あると、即日より天下の兵乱を企て、天命にも背きければ、死罪流罪にも有ことなれば、今静謐の御世に若や義宣御敵ともなり給はば、且は天下の禍いかがとやおぼしけん。佐和山へとの御事にて、伏見より義宣、光成を大津の浦迄、相具して佐和山へ遣はし給ふは、頼もしき振舞哉と、時の人々申けり。されば、長尾景勝、戊戌(慶長三年)より慶長五の庚子の年まで三年の間、分領会津におはし、家康より上洛あれと宣ひければ、「秀吉公御残命の御時、五年の御暇にて此の如く」と宣ふ。是に付て家康より、御相手浮田中納言・加賀の利家・安芸毛利、彼三人へ其旨尋ね給へば、「左程の御暇は承はらず」と宣ふ。重て其品宣ひければ、「上洛有間敷」と云へり。故に景勝退治のため伏見の御留主居には、家康御内鳥居彦右衛門(元忠)へ其勢三千余預け御身は武州の江戸へ下り給ふ。斯て光成佐和山籠居の内、「日本国の大名・小名を語ひ、天下を覆へさん」と云謀ごと、「景勝へは楯をつかせ、景勝退治とあることにて、家康下向し給ふならば、光成一味の大名・小名切て出、伏見を平げ、其より武州へくつわ*2を並べ押て下る程ならば、家康会津へ向ふとも、などか引返さでは候べき、其ときは景勝・義宣跡を慕ひ、両口より押包んと」云、評定の究まりけるをば、家康公露も知給はで、景勝一味の私と計り心得下り給へり。去程に、家康方の奥州大名、政宗を始め最上義光・南部信濃守(利直)、各一合の衆申合せ給ふは、「家康公は関東より、政宗は奥州口より、義光は最上と会津の境なる板屋より」、と仰合、江戸を打立、長尾を取詰給ふべしと、各首に掛て下り給ふ。家康公も関東の小山迄、御馬をだされければ、上方へ凶賊起て伏見も籠城、大津には京極若狭(高次)御坐けるが是も籠城、扨家康方は皆此の如くなるに、剰へ伏見へ取掛攻ける程に、鳥居彦右衛門叶はずして自害也と聞へ、家康も先小山より江戸へ引返給ふ。故に政宗在城岩手山へも着給はで、名取の北目に在陣し給ひ、人数を催し同年(慶長五年)七月二十四日に、景勝領内刈田の白石へ押寄給ふ、城代は甘粕備後(景継)と云者なりしを、如何思はれけん、取詰給ふ少し前に備後をば会津へ引取、備後甥の登坂式部(勝乃)を入替けり。政宗其日の朝は、先惣構ひを働き、川を隔てて北向の山に陣取給ふ。かかりける処に、其跡四本の松にて輝宗生害の砌、(畠山)義継の家来にて役立てける鹿子田和泉が嫡男同右衛門常は勝れたる者にて、其頃景勝へ取付白石の城へ籠る。彼者城代式部に語りけるは、「身不肖と雖も政宗公は、恐れながらも親の敵にておはす。勿論政宗公よりも御敵也。冥加の為に御陣場の方へ向て給へ」とて申し請、地水色に白鱗の差物を、大将の陣場へ向て差上げければ、政宗「あれこそ鹿子田が差物なれ、いかさまにも心有て此方へ向けん、うき心ばかせかな、代々くせ者なり、如何にもして手柄次第に生捕べし、死罪をゆるして召仕はん」と宣ければ、諸軍心に掛けれども、二の丸へ突て散々に戦ひ、木戸口にて討死なり。されば、政宗其日は構を乗廻し、先町構より取とて人数を出されけるに、申の刻より取付、火を掛ければ、敵悉く敗北して本丸へ逃入、二三の曲輪破れにければ、城代より石川大和守昭光を頼み懇望に依て、「敵軍北方へ引除なば、出城させん」と宣ふ。頭立ける者は残なく降人となり、子孫未だ伊達の家にあり。然して落城の翌朝祝儀なりとて、諸軍兵を召出し、酒を賜はる。其時の狂歌に、
 甘粕がなりあがらんも道理なり軍に下戸の披官持ゆへ
斯て後信夫の福島・箆川辺より働くべしと趣き給へば、上方の謀叛に依て、家康公小山より御帰陣と聞き、関東より取詰べきと宣ふ処に、一身の働きはいかがあらん、御一左右を聞んとて、先相止み給ふ。然りと雖ども、景勝武州へ押て登る程ならば、跡より慕へ登すまじきと宣ひ、諸軍をば白石に差置、御身は本の北目へ引込、馬の息を休め給ふ。去程に、景勝上りも叶わぬ内、関ヶ原にて光成敗軍、家康大利を得給ふ。之に依て景勝も上り給ひ、降参ありて身代百五十万石*3を纔三十万石になり米沢へ移し給ふ。佐竹義宣同じうして関東佐竹に於いて百万石*4の身代十八万石になり、佐竹居城出羽の秋田へ移し給へり。惣じて光成方の大名・小名、其ときの浅深に従ひ、或は死罪、或は流罪に所せられ、天下は残る処なく安穏の御世と成て、家康公へ随ひ奉る。故に政宗も白石を攻落されける勧賞に、彼地拝領ありて其年は北目にて越年し給ひ候事。

語句・地名など

聖護院(しょうごいん):京都左京区にある、天台宗寺門派三門席の一で、修験道の本山。
板屋(いたや):米沢市板谷
小山(おやま):下野国(栃木県)小山
申の刻:午後四時

現代語訳

慶長三年の六月、秀吉公の体調が悪化し、日を重ねさらに重くなられた。そのため諸大名衆を呼んで集め、「たとえ明日秀吉公が他界したとしても、若君である秀頼へ不忠を行ってはならない」との誓いを立てよとご命令になり、それぞれ血判を差し上げなさった。これを聖護院へお渡しになり、山へ納めよとおっしゃられたので、多くの山伏を引き連れて登山し、大峯山へお納めになった。そのあと、秀頼公は幼少でおられたので、徳川家康・宇喜多秀家・安芸の毛利輝元・加賀の前田利家・上杉景勝の五人で天下のことを相談して決めることにし、秀頼が十五歳になったら、直接支配させるようにせよとの遺言を残して、慶長三年八月十八日に秀吉は逝去なさった。秀吉公はその身を新八幡として祭らせよと遺言なさり、秀頼はその旨を奏聞したのだが、新八幡となることは叶わず、豊国の廟号を賜り、豊国大明神と成られた。
秀吉公がまだご存命であったとき、上杉(長尾)景勝が越後から会津へ国替えとなったのだけれども、それからほどなく秀吉が体調をくずしたので、国の仕置きもまだなく、上方に居た。そして本国への帰国の許しをもらったのだが、秀吉の体調が悪い間はまだ在京しており、逝去の後に帰国した。
そしてその頃、政宗の息女五郎八を家康がもらい、子息上総介忠輝へめあわせたいとして、今井宗薫を使いとして出した。もとから仲良くしていたニ家であったので、すべて首尾よく行くところを、宇喜多秀家・毛利輝元・前田利家がお聞きになり、「(五大老の残りの)四人の者をくわえずにして、家康と政宗だけの相談は、秀吉の遺言に逆らう私事である、今井宗薫の首を刎ねよう」と仰った。家康と政宗は三人衆と敵対するであろうとお思いになったので、その事は漏れ聞こえ、平穏でなくなった。
その上、石田三成が天下を望んで家康と残りの四人衆の中を隔てようといろいろと画策をなさった。そのため伏見向島の城場にあった家康の屋敷に押しかけるなど、様々の噂があった。政宗も家康の屋敷へお出かけになり、密談をした。
三成は一人悪事をなそうとする心が見え、すでに危機に陥っていたのを、佐竹義宣が大坂の三成の屋敷へ行き、乗り物に乗せて伏見へ帰り、自分の屋敷にお隠しになり、大坂では行方知れずになり逃げ出したとなって、このような噂も静まった。
そして義宣から家康へ「三成を佐和山の居城へ遣わしください」と訴えがあがったところ、秀吉公の恩深い身でありながら、いただいた褒美を忘れ、お亡くなりになったあとすぐに天下の兵乱を企てるというのは、天命に背き、死罪流罪にもなるべきことであるので、今平穏となった時代にもし義宣も敵となったならば、天下の禍がどうなると家康公はお思いになったのだろうか。佐和山へ帰らせてほしいということだったので、義宣が三成を伏見から大津の浦まで一緒について佐和山へお送りになさったことは力強い行動であると、当時の人々はいった。
さて、上杉景勝は慶長三年から慶長五年まで三年の間、在国会津におり、家康から「上洛あれ」と仰ったところ、「秀吉公ご存命のおり、五年間の暇をいただいたので、このようにしております」と返答した。これについて家康は宇喜多秀家・前田利家・毛利輝元に対し、お聞きしたところ、「そのような暇については聞いていない」とおっしゃった。重ねてそのことを仰ったところ、「上洛はしない」と返答があった。
ゆえに、景勝退治のため、伏見の留守居役として家康の譜代鳥居披小右衛門元忠へ三千名余りの兵を預け、ご自身は武蔵国の江戸へお下りなさった。このようにして、三成が佐和山に籠もっている間、「日本国の大名・小名と騙り、天下を覆そう」という謀りごとをなし、「景勝に家康に対してたてつかせ、家康が景勝退治として下向したなら、三成に味方する大名・小名が立って伏見を手に入れ、そこから武蔵国へ轡をならべてくだる予定なので、家康は会津へ向かうとしても、どうして引き返さずにいられるだろうか。そのときは景勝・義宣が後を追い、両方から押し包んで攻め入るだろう」といい、評定が極まっていたことを家康公は露もしりなさらず、景勝一味のみの行動であると思い、下向なさった。
すると、家康方についた奥州大名たち、政宗をはじめ最上義光・南部利直、それぞれ集まった衆は「家康公は関東より、政宗は奥州口より、義光は最上と会津の境である板屋より攻め入ろう」と申し合わせなさって、江戸を出発し、上杉を攻めようとそれぞれ決意して下りなさった。家康公も関東の小山まで出馬なさったところ、上方で三成の謀叛が起こり、伏見も籠城、大津には京極若狭高次がいたが、それも籠城した。
さて家康方はみなこのようであったところ、さらに三成方が伏見に攻め入ったときに鳥居彦右衛門元忠は防ぐことが叶わず自害をしたと聞こえてきて、家康も小山から江戸へ引き返しなさった。そのため、政宗は在城である岩手山へも着くことができず、名取の北目に在陣なさり、人数を集め、慶長五年七月二十四日に上杉領刈田の白石城へ押し寄せなさった。城代は甘粕備後景継という者だったのだが、何をおもったのか、攻める少し前に備後を会津へ引き上げ、備後の甥の登坂式部勝乃を入れ替えた。
政宗はその日の朝はまず全軍を動かし、川を隔てて北向かいの山に陣取りなさった。そうこうしているときに、かつて塩松にて輝宗が殺された際、畠山善継の家来であった鹿子田和泉の嫡男右衛門という優れた者があったのだが、そのころ景勝へ寝返り、白石の城へ籠もった。この者が城代の式部に語ったのは、「私は取るにたらないものでありますが、政宗公はおそれながらも親の敵であります。勿論政宗公としても敵であります。神仏のご加護の為に陣場の方への軍に置いて下さい」といって許可をもらい、水色地に白鱗の入った差物を大将の陣場に向かってさしあげたところ、政宗は「あれは鹿子田の差物である。どのような心持ちでこちらへ向けたのであろう。浮ついた心はかすかであろう。代々曲者である。手柄は望みどおりにするのでどうにでもして生け捕れ。死罪を許して召し使わせたい」と仰ったので、兵はみなそのように心がけたのだけれども、二の丸へ突撃してちりぢりになって戦ったところ、鹿子田右衛門は木戸口にて討ち死にした。
政宗はその日は砦を乗り回し、まず町構から先取しようと兵を出されたところ、申の刻(午後四時)より攻め初め、火をかけたところ、敵はことごとく敗北して本丸へ逃げ入り、二の丸三の丸がやぶれたので、城代から石川大和守昭光を頼りに、降伏を願い出てきたので、「上杉軍が北方へにげのびるのであれば、城を出ることを緩そう」と仰った。生きている者は残り無く降伏し、その子孫は未だ伊達家に仕えている。こうして落城の翌朝、祝儀として諸軍の兵を召し出して、酒を下された。
そのときに歌われた狂歌に
 甘粕がなりあがらんも道理なり 戦に下戸の披官持ゆへ
というものがある。
こうしてのち、信夫の福島・簗川あたりより攻めようと思っていたところ、上方の謀叛が起きたため、家康公が小山からお帰りなさると聞き、関東から攻めるべきと仰るところに、一味の動きはどうであろうかと安否を聞こうとしてまず軍をお止めになさった。しかし、景勝が武蔵国へ攻め入ろうと登るのであれば、後ろから追って登らせまいと仰り、諸軍を白石に置き、政宗自身は元の北目城へ戻り、馬を休ませなさった。
そうこうして、景勝は登ることができずにいる間に、関ヶ原で三成軍が破れ、家康が大勝したことが聞こえてきた。このため景勝も上洛し、家康に降参して身代を百五十万石(正しくは百二十万石)をわずか三十万石とされ米沢へ移された。佐竹義宣もまた同じように関東において百万石(正しくは八十万石)をいただいていたのが、十八万石となり、居城を出羽の秋田へ移されなさった。三成方についた大名・小名はそのときの関わりの深い浅いに従って、皆あるいは死罪、あるいは流罪に処せられ、天下はすべて安穏の時代となって、家康公へ従い申し上げる事となった。故に政宗も白石城を攻め落とした褒美としてその地を拝領し、その年は北目にて年を越されたのである。

感想

慶長三年の六月の秀吉の体調悪化から始まるこの章は、政宗息女いろはと家康子息忠輝との婚約を経て、五大老で行われるはずの政治を家康が専横し始め、それに対し三成・上杉らが反発し、上杉退治、そして慶長五年の関ヶ原合戦につながっていく様子、その結末までを記しています。
家康は政宗の息女いろはと忠輝の婚姻だけでなく、この間の時期に福島家・蜂須賀家・加藤家・黒田家との婚約をすませ、徐々に政権が豊臣から徳川へ移っていくのがわかります。
『伊達日記』でいうと、
112:秀吉の逝去/113:いろは姫の婚約と石田三成の挙兵/114:奥州の大名たちの動き/115:政宗の白石攻め
に該当する記事です。
『伊達日記』をはじめとする『成実記』系統では成実が書いたとされるのは以上とされ、残りの記事は他の人が書いたようにかかれているものもあります。

この章の後半、日付は明確にはわかっていませんが、慶長五年七月の白石城攻めに際して成実は相模国から帰参し、赦されてしばらく石川昭光の一隊に加わったとされています(『治家記録』)。
鹿子田の戦いぶりに対する政宗の賞賛や戦中に詠んだ狂歌など、いったんは政宗から離れた感のあった記述の視点がまた政宗に近寄ったポジションに戻っているのがここでわかります。
このあと『政宗記』の記述は編年的時系列ではなく(一部そういった記述もまじりますが)、政宗顕彰を主な目的とする「政宗言行録」的記述が主になっていきます。

*1:史料集版ママ。仙台叢書版によると「六月」とあるので、「六月」の誤記と思われる

*2:馬偏に鑣のつくり

*3:正しくは百二十万石

*4:正しくは八十万石