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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『伊達日記』66:高玉と新地駒ヶ嶺攻略

『伊達日記』66:高玉と新地駒ヶ嶺攻略

原文

一片平助右衛門事切に付。米沢より大森へは十里に候へども。御足痛故日懸に罷り成らず。山中故御乗物も不自由に候間。四月廿二日に板屋迄御出。廿三日に大森へ御着成られ候。廿七日助右衛門。我等同心申大森へ参御目見申され候。御人数参候を御待。五月三日本宮へ御出馬。四日阿子嶋へ御働成られ。お城を召廻御覧成られ候。先外城を取ら為しめ成らるべき由にて町構え三の枢輪迄取ら為しめらる。御人数引き上げられ候所に。あこが嶋治部我等所へたのみ申され候は。外城を取り申され候間城を明渡申すべし。命を相助けられ候様にと申間その通り申上御前相澄。我等家中遠藤駿河と申者人質に指越惣人数を引上らる。我等人数計除口の路次に近相備御横目拾人計横合の為方々付置かれ。引除猪苗代へ罷越され候。荒井木工之丞と申者高玉太郎左衛門妹聟にて高玉にまかり有候へども。阿子嶋への御働競にて通路自由候故阿子嶋へ罷越候。阿子嶋治部少。太郎左衛門。木工之丞も二本松譜代に候。弥平は二本松嶺より我等扶持仕候。本傍輩故荒井を送り申候へば。木工之丞。弥平に申候は。我等命二つ持候而今日一つ治部少にくれ候へども。弱存分にて御侘言申罷帰候。明日高玉御責成らるべく候間。太郎左衛門に命くれ申すべく候。我等の手なみ明日見せ申すべしと申候。去迚武士の申様と誉申候。其夜は東の原に御野陣なられ。翌日五日高玉へ御働候。我等は先懸仕候へども。我等より先に高玉へ召懸られ南北を御覧成られ。我等に御意なされ候は。片平御奉公仕阿子嶋昨日取ら為しめられ候。北には敵此城迄に候間御責成られ。御隙明為しめられ御意に候間。我等は北の方へ打廻し備を相立。惣勢は南東に帰候。西の方山続に候間態御明成られ候。高玉太郎左衛門玉ノ井合戦の見切。志賀三郎に鉄砲にて脛を討たれ。其より陣場に候故。二三の枢輪にては馬にて乗懸。弱所へ言葉を懸下知仕候。二三の枢輪は破本丸計に成引込。女房子共二人迄害し。其身は表へ出門をひらき見長鑓にて 二三度付出候へども。早伊達勢本丸へ取入候間。家の内へ入付出。庭にて討たれ候。荒井木工之丞は我等の責口三の枢輪に居候が。付出候所へ羽田右馬助鑓を合。木工之丞は高き処に候間右馬助ほうあてに鼻をつき欠。耳の脇へつき出し候へども身にはあたらず候。右馬助は木工之丞左の脇を突候へども。鎧通らず候て鑓を中程よりつき折候。大勢責入候間木工之丞引込門を指。三の枢輪役所をはなれず打死仕候。宵の言の程の由いづれも申候。西の方は明候へども一人も欠落仕らず打死申候。朝日出時分より取付。八つさがりに落城仕。なで切に仰付られ候。太郎左衛門三歳の女子を乳人もらい候て抱出候を。則御中間衆乱妨者のようにうばい切殺候。彼乳人切られ候が□*1敷候哉。少切候を乳人ころび彼娘を下に敷臥。人数引上候て夜に入乳人起上り候。薄手に候間彼三歳女子を抱十五里程参候。高倉近江また姪に候故近江処へまいり扶けくれ候へと申候。近江も機遣申され小十郎所へ其通申され候へば。一度切ら為しめられ候者に候間扶け申すべく候。御穿鑿候はば御前の義我等にまかせ候へと申付られ。相扶候後は蒲生源左衛門家中の女房に成候由承候。其夜本宮へ御入馬に候。六日に大森へ御帰城候。然る所に常隆義胤仰合わされ。常隆小野へ御出馬候。義胤は田村の内岩井沢へ御出馬に候。田村警固として大條尾張。瀬上中務。桑折摂津守差置かれ候。然者相馬の抱新地駒か嶺を取ら為しめらるべく思し召され。にはかに刈田柴田伊具名所の御人数十七日に参るべき由仰付られ。田村へ先に遣され候。摂津守。尾張。中務は相馬へ召連られ候。小十郎。若狭。梁三人を入替られ候。五月十六日に大森を御立。其日金山へ御着成られ一日人数相待たれ。十八日に駒ヶ嶺地形を御覧候て外曲輪責破候。本丸は嶺高急に落城成りがたく候間御人数を打上られ候処。城主人を出し金山の城主中嶋伊勢を頼命御助候者城を渡し相除申度由申候。政宗公は御責ほろぼさるべき由御意候へば。各相除かれ然るべき由申上候に付。伊勢城の内へ入人質に渡引除城落居申候。其日は駒ヶ嶺近所に御野陣成られ。翌日新地へ御働候。駒ヶ嶺は新地より相馬の方に御座候さへ助成られず候。猶以て罷成。伊達元庵を頼入。城を明渡申すべく候間命を相助られ候様にと申上候に付而其儀任され候処に。人質も請取申さず候内城中より火事出候間。惣勢御下知もなく相懸り迷取散切殺無体に相破候に付。城主者面目を失廻国聖に罷成候翌日礒山表へ四理*2中の舟を御廻し。礒山に四理美濃御仮屋を申され。御膳を上終日御慰。其夜金山へ御帰。一日御逗留成られ。駒ヶ嶺は黒木備前に下され。新地は四理美濃守に下され。肥前跡丸森は高野壱岐守に下され。廿二日大森へ御帰候。

語句・地名など

現代語訳

片平助右衛門親綱の手切れに際して、米沢から大森へは10里の距離であったが、政宗公は骨折した足が痛むので一日で駆けることはできなかった。山の中であるので、駕籠も自由に動くことはできないため、4月22日に板屋峠まで出られ、23日に大森にお着きなさった。27日助右衛門親綱を私が連れていき、大森へ来て御目見得なさった。
政宗公は手勢が集まってくるのをお待ちになり、5月3日本宮へ出馬なさった。4日阿久ケ島へお働きになられ、城をお回りになり、御覧になられた。まず外城を取らせるべきだと思われ、町構えの3の曲輪までを取らせた。手勢を引上なさったところに、阿久ケ島治部が私成実のところへ頼ってきて「外城を取られたので、城を明け渡します、命をお助けくださいますよう」と言うので、その通り申し上げ、それは解決した。
私の家中の遠藤駿河という者を人質に送り、総勢を引き上げた。私の手勢だけが退き口の路次に近く、備えを置いており、横目付が10人ほど目付のために、あちこちに付け置かれ、退出して猪苗代へ言った。
荒井杢之丞という、高玉太郎左衛門の妹婿で、高玉にいた者がいたのだが、阿久ケ島のへの攻撃の競い合いのため、通り道が自由であったため、阿久ケ島へやってきた。阿久ケ島治部少輔・高玉太郎左衛門・荒井杢之丞も二本松に代々仕えていた者である。弥平は二本松の支配から、私に仕える様になった。もともと同僚であったため、荒井杢之丞を送ったところ、杢之允が弥平に語ったのは、「私は命二つを持っている。今、一つは治部少に与えるけれども、弱い思いなので、大変申し訳なく思い、帰る。明日高玉をお攻めになられるでしょうから、太郎左衛門に命をくれてやります。私の手並みを明日お見せいたします」と言った。なんとも武士の言いようであると褒めた。
その夜は東の原に野陣をひかれ、翌日5日高玉をお攻めになられた。私は先陣を仰せつかったけれども、私より先に高玉へ攻めかかられ、南北を御覧になられ、私におっしゃったのは「片平が使えていた阿久ケ島は昨日落とした。北の的はこの城までしかいないので、攻め、城を開けさせよう」と仰ったので、私は北の方へ回り、備えをした。総軍は南東に帰った。西の山が続いているので、わざわざ開けなさった。高玉太郎左衛門は玉ノ井合戦のとき、志賀三郎に鉄砲で脛を打たれ、それから陣場にいたので、2,3の曲輪の中では馬で乗り掛け、手薄な所へは言葉をかけ、下知していた。2,3の曲輪は破られ、本丸だけになり、中に引き込んだ。女房と子ども二人を殺害し、本人は表へ出、門を開いて外を見、長槍で2,3度突き出したのだけれども、早々に伊達勢が本丸へ取り入ったので、家の内側へ入り、突き出し、庭で討たれた。
荒井杢之丞は私の攻め口であった3の曲輪にいたが、突き出したところへ、羽田右馬助が鑓を合わせた。杢之丞は高いところにいたので、右馬助の頬当てに鼻をつきかけ、耳の脇へ突き出したけれども、身には当たらなかった。右馬助は杢之丞の左の脇を突いたが、鎧を通すことはできなくて、鑓が中ほどから折れてしまった。たくさんの人が攻め入ったので、杢之丞は引き込み、門を指した。3の曲輪の大事な場所を離れず討ち死にした。夕方の言葉のようなことをいずれも言っていた。西の方は明るくなっていたが、一人も残らず討ち死にした。朝日が出るころから城に取り付いて、八つさがりに落城した。撫で切りにするようにご命令になった。
太郎左衛門三歳の女児を乳母がもらって抱いて逃げ出したところを、すぐに中間衆が乱暴者のように奪い、斬り殺した。この乳母は切られたが、騒がしかったからであろうか、少し切ったところ、乳母は転び、この娘を下に敷き、伏せた。軍勢はひきあげて、夜になり、乳母は立ち上がり、傷が浅かったので、この三歳の女児を抱え、15里程を行った。高倉近江のまた姪に当たるため、近江のところへ来て、助けてくれと言った。高倉近江も気を遣い、片倉小十郎景綱のところへその通り伝えたところ「一度斬られた者であるから、助けるのがいいだろう。もし政宗にいろいろ問われたなら、私に任せなさい」と言った。助けられた後は、蒲生源左衛門の家中の女房になったということを聞いた。
政宗公はその夜本宮へお入りになり、6日に大森へお帰りになった。そうしているところに岩城常隆・相馬義胤が言い合わせて、岩城常隆は小野へ出陣なさり、相馬義胤は田村の領内である岩井沢へ出陣なさった。
田村の警固として、大條尾張・瀬上中務・桑折摂津守を差し置かれていた。なので、相馬領である新地駒ヶ嶺を取らせようとお思いに成り、急に刈田・柴田・伊具名所の軍勢に17日に集まるようご命令され、田村へ先にお遣わしになった。桑折摂津守・大條尾張・瀬上中務は相馬へ連れられた。片倉景綱・白石若狭・小梁川3人を入れ替えに入れられた。5月16日に大森を出発され、その日金山へお着きになられ、1日軍勢が集まるのをお待ちになり、18日に駒ヶ嶺の地形を御覧になって、外曲輪を攻め、お破りになった。本丸は嶺が高く、すぐには落城させることが難しかったので、軍勢を引き上げたところ、城主は人を出し、金山の城主である中島伊勢をタノミ、命を助け下さるなら、城を明け渡したいと言ってきた。政宗公は攻め滅ぼそうと思っていらっしゃったので、それぞれ逃げ出すよう申し上げたので、伊勢は城の中に入り、人質に渡して、城は落ちた。
その日は駒ヶ嶺ちかいところに野陣をされ、翌日新地へ攻めかけた。
駒ヶ嶺は新地より相馬に近いところにあるのにも関わらず、助けは来なかった。しかしそれでも落城しなかったので、伊達元安斎元宗を頼み、城を明け渡すなら命を助けてくださいますようにと申し上げたので、そのようにしたところ、人質も受けることなく、城のうちから火事が出たため、総勢はご命令もなく取りかかり、迷い取り、迷い取り散り切り殺し、ないがしろにされて落城した。
城主は面目を失い、その後廻国聖になった。
翌日政宗は礒山表へ亘理家中の船を出し、礒山に亘理美濃は仮屋を作り、御膳を作り、1日中お楽しみになった。その夜金山へお帰りになり、1日逗留なされたあと、駒ヶ嶺は黒木備前に、新地は亘理美濃守に、肥前のあとの丸森は高野壱岐守に下され、22日大森へお帰りになられた。

感想

高玉と新地駒ヶ嶺攻略についての記事です。片倉景綱が女児を助けた話がおもしろいです。
また、新地駒ヶ嶺を落としたあと、亘理美濃重宗の饗応により、船を出したり、仮屋で御飯を食べたりして、楽しんだことが書かれています。
荒井杢之丞などの戦の勇壮な記述とともに、のんびりした記述もあり、おもしろい一章です。
高玉合戦で片倉景綱に命を救われた女児は、『政宗記』では蒲生氏郷家臣の源左衛門郷成の次男源兵衛郷伊舎の妻女になり、子どもが二人生まれたと詳細が書かれています。
しかし、『治家記録』によると、「男子といわず、女子であるといって片倉小十郎に相談した。異議がないといわれたので養育した。幼名四郎、後に新左衛門と称した」とあります。男児だったのか女児だったのかよくわかりませんが、成実は女児であった話を聞いていたのでしょう。
こういう挿話がおもしろいところです。

小十郎が子どもを助けた話の詳細はこちら↓
sd-script.hateblo.jp

また、面目をなくした城主が廻国聖になったということを書いているのも、興味深い点です。

*1:門構えに市/さわぐ

*2:亘理