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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『名語集』9:刀脇差の鞘柄

『名語集』9:刀脇差の鞘柄(刀脇差の鞘と柄)

原文:

一、或時の御咄に、「男の命は刀・脇差なる間、鞘をよくして、ねたばをつけて、刃の抜けぬ様に、鞘止よくしてさせ。主の用にもたち、我が為にもなるなり。油断勿体なし。さいさい手討などする時も、常によければ少しも子細なし。常に念を入れ、よくしてさせども、其の時になれば、ここかしこにゆかしき事、あるものなり。常々ふだしなみならば、用に立ちおとるべし。惣別、若き者などの心持には、何時も一刀にて納むべきと思ふべからず。一刀打付け切れずば、叩き殺すべきと覚悟持つべし。又当世は見てよきはやり物とて、知りたるも知らぬも、柄をふとく長く、色々の糸巻にしてさす。皆、手に覚えぬ人まねなり。結句、若き者ども、昔様は柄細く革にて巻く、見苦しきと申すげに候。昔男は表にかまはず、朴の木柄をあざむき、樫の木柄を好む。革よりもよきとて、糸縄を好む。只、用にたてての所ばかり、物数寄あり。誠に当世嫌ふ革細柄にても、其の身の程は見事用立ち候が、革柄にましたる糸柄にても手柄さのみきかず。はやり物とても、手におぼえぬ人まねは如何。尤も糸柄にも、仕合よき者のさしたるをまねん。とかくかやうの道具は、人まねはせずして、面々の勝手次第が、ましなり。何事も覚えある古き物を手本に」と、御咄遊ばされ候事。

地名・語句など:

寝刃:切れ味の悪くなった刀→合わす
鞘止:
勿体なし:無駄にするには惜しい/畏れ多い/不都合である、もってのほかである
さいさい(再再):たびたび、何度も
子細:詳細/事情/込み入った訳/異議
ゆかし:心惹かれる/懐かしく感じる/好奇心がそそられる
ふだしなみ(不嗜み・無嗜み):普段の心がけが足りないこと
結句:とどのつまり、結局
げに(実に):本当に、まったく、実に
朴(榎):えのき、ホオノキ
欺く:騙す/馬鹿にする/非難する

現代語訳:

あるときはこのようなことを仰せになった。
「男の命は刀と脇差であるので、鞘をよく手入れし、切れ味の悪くなった刃を手入れし、刃の抜けないように鞘止めをちゃんとして、差せ。それが主の役にもたち、自分の為にもなる。油断するのはもってのほかである。たびたび手討ちなどをするときも、常に状態がよければ、少しも失敗することはない。常に念を入れ、状態をよくして差していても、そのときになればここかしこに気になることがあるものである。常日頃からきちんとしていなければ、役に立たないだろう。
とくに、若者の考えでは、いつも一刀で物事がすむだろうと思ってはいけない。はじめの一太刀で打ち付けて切れなかった場合は、叩き殺してやるという覚悟を持つべきである。
また、最近は見ていい流行り物として、剣術をわかっている者もわかっていない者も、柄を太く、長くして、色とりどりの糸巻きにして差している。これはみな、腕に覚えのない人のまねである。結局、若い者たちは、むかしの刀は柄が細く、革で巻いている。格好良くないと言うのだという。
昔は、男は表面上の格好良さなどを気にせず、榎の木の柄を嫌がり、樫の木でできた柄を好んだ。革よりもよいといって、糸縄を好んだ。それはただ、役に立つようにというところにだけこだわりがあった。
今嫌われている革の細い柄のことにしても、そのころは見事役にたっていたが、革柄に勝る糸柄であっても、手柄をそれほど聞かない。
流行り物であっても、腕に覚えのないが人まねをするのは如何なものであろうか。もっとも、糸柄でもきちんとしている者の差しているものを真似なさい。とにかくこのような道具に関しては人まねをせず、それぞれのちょうどよいように選んだ方がましである。なにごともきちんとした古い物を手本にしなさい」

感想・メモ:

政宗の武具に対する心得の話、続きです。
最近の若い者の流行りに眉をひそめ、真似ではなく自分の特徴と合う物を選びなさい、と言っています。
一太刀で無理なら叩き殺す気持ちで…ってところに戦国を感じますね…。こええ。

『名語集』8:脇差の下緒を帯にはさむ

『名語集』8:脇差の下緒を帯にはさむ(脇差の下緒を帯にはさむ)

原文:

一、常々御意遊ばされ候は、「脇差は、是非、下緒を帯にはさみたるがよきなり。昔より数多覚えの候が下緒はさまぬ故、鞘間々抜けて、怪我したる事、幾度もあり。鞘止よくして、下緒帯にはさむべし。常々は、小脇差・中脇差の外、さすべからず。大脇差は野山にてよし。とかく大脇差は、立廻りに戸柱に打ち当り候へば、第一、其の身も無骨に見えてあしし。尤も、何ぞ用の時も、脇差の長き短きに、武辺はなきなり。只、心を長く大きにもち、脇差は短くして、常に見てよき様にしたるがましなり。尤も刀も、身の恰好に過ぎたるも、覚えなくば無用か。面々、諸道具・著物は、其の身恰好、持物次第なり」と、御咄遊ばされ候事。

地名・語句など:

是非:どうあっても、なにとぞ、必ず/正しいことと正しくないこと
間々:時折、頻繁ではないが時折現れるさま
無骨/武骨:骨張ってゴツゴツしていること/洗練されていないこと/役に立たないこと/都合の悪いこと
尤も:なるほどその通りと思われること/ただし、そうはいうものの
武辺:戦で勇敢に戦うこと
面々:おのおの、めいめい/二人称の人代名詞、対等又は目下の多数の者に呼びかけるのに用いる

現代語訳:

つねづねお思いになっておられたことは、
「脇差はどうあっても下げ緒を帯にはさんでいるのがよい。昔からたくさんの身に覚えのある者が、下げ緒をはさまなかったがために鞘がときどき抜けて、怪我をしたこと何度もある。鞘止めをよくして、下げ緒を帯にはさみなさい。普段は、小脇差・中脇差以外はさすべきではない。大脇差は野山にでたときはよい。とにかく大脇差は立ち廻りしたときに戸や柱に打ってあたってしまったなら、一番にその身も役に立たないように見えて悪い。ただし、どんな用事のときも、脇差の長い短いに活躍できるかどうかは関係ない。
ただ、心を長く、大きくもち、脇差は短くもって、常に見てよいようにした方がいい。そうはいっても、刀も、身の恰好に過ぎたものも、武の心得がなければ、無用だろうか。
おのおの、武具や着物は、その人の格好と心の持ちよう次第である」
と、お話なさったのであった。

感想・メモ:

脇差の下げ緒を帯にさしておく、というとても具体的で、わりと細かい心得の話です。
常に臨戦態勢であれということと、武具を大事にする心を説いた、武将らしいリアリティのある項ですね。
手を切った人居たんでしょうね…。

『名語集』7:万事に気を付く

『名語集』7:万事に気を付く(すべてのことに気を付ける)

原文:

一、或時の御咄に、「人は只、高下共に、万事気を付くる事、第一なり。たとへば、主君の用事か自身の用にても、余所より宿にかへる時は、供の者一人もあらば、屋敷の前よりさきにつかはし、只今かへると言はせよ。供なくば、表に立ちて内にて聞き知る様に小咳をして、さて内へ入るべし。子細は、何としても召使ふ者は、其の主人留守の間は油断して、不行儀も色々様々多かるべし。音して入る時は、皆々油断なし。油断なければ、内に怪我なし。いかに身上軽き者なりとも、音なしに入りて、あしき事、度々見重なるときは如何。まづ一通りは、身の上叶はぬと聞えたる人、口にも免すべきが、あしき事重なる時は、曲事言はで叶ふまじき事なり。さある時は我が身迷惑ながらも、申付けずして叶わず。少しの事のかさなり、人を失はん事は、何より以て迷惑なり。我が身少しの心持にて、大きなる損出づるなり。かやうの品々は、あなたの咎にてなし。こなたのしかけに有るべき事なれば、手前の不覚悟にてあらずや。よくよく心持せよ」と、御咄遊ばされ候事。

地名・語句など:

怪我:そそう、過ち/負傷

現代語訳

あるとき、このようなことをお話になった。
「人は、身分の高い者も低い者も、すべてのことに気を付けることが一番重要である。たとえば主人の用事か、自分の用かであっても、外出先から宿に帰るときは、供の者がひとりいるならば、屋敷の前よりさきに遣わし、『ただいま帰る』と言わせなさい。供がないばあいは、表に立って、中でわかるように小さな咳をして、それから中へはいりなさい。
どうしてかというと、どうしても召使いたちは、主人が留守の間は油断して行儀の悪いこともいろいろ多いのだろう。音をさせて入るならば、みな油断することはない。油断がなければ、中で粗相することもない。
いかに身分の低い者であっても、音をさせずに入って、都合の悪いことを度々見てしまったときはどうすべきか。まず一通りは、首になっては困る者は口頭にて注意し、許すべきであるが、悪いことが重なるようであれば、口で注意をしなくてはいけない。少しの事が重なって、人を失うことは何よりも大変なことである。
自分の少しの心がけで、大きな損が生まれてしまう。このようなことは、相手の咎ではなく、こちらの心がけのせいであるので、自分の失敗でないことがあろうか。よくよく心がけよ」

感想・メモ:

日々心を配れという教訓の項です。
日々気を付けて…というからには、色々なことに気を配れということかと思いきや、油断して気がゆるみがちな下働きの者たちを即罰するのではなく、それらが働きやすいよう気を付けてすごせという話で、人をどう扱うかという話になっています。政宗は愚鈍な者・不心得な者がいたとしても、その人の性質を見極め、うまく使ってこそいい主人であると思っていたような感じがありますね。

『名語集』6:常に手を清む

『名語集』6:常に手を清む(常に手を綺麗にしておく)

原文:

一、或時の御咄に、「奉公人は、上下共に手を清むるという心持、肝要なり。近き事にいはば、不断召使ふ小姓ども、我が前へ出づる時、手を清めて出づれば、髭を抜け、髪をなでよ、刀を持てといふに、あやぶまず、心安く用をたすべし。手水をつかはず出で候はば、行き当たるべし。たとへば、手をきよめず、用を勤むるならば、気遣いおほかるべし。何事によらず、是は万事にわたる儀なり。手をきよむる如くに、常に心掛よくせば、何事も行き当たる事あるまじく候。諸人に此の心持、たえず持たせたきもの」と、御咄遊ばされ候事。

地名・語句など:

心持:心の持ち方、心がけ、気立て/気持ち
肝要:重要なこと
行き当たる:問題にぶつかる/ものごとが処理できなくて困る

現代語訳:

あるとき、以下のようなことをお話なされた。
「奉公人は身分の高い者も低い者も、手を清めるという心がけが重要である。身近な例を挙げると、常日頃召し使っている小姓たちが私の前に来るとき、手を清めて出てきたならば、髭を抜け、髪をなでよ、刀を持てと私が言ったときに、危うい目に遭わず、安心して用をこなすことができる。手水鉢で手を洗わず出てきたとしたら、きちんと勤めが果たせず、困ることになる。
たとえば、手を清めずにいいつかったことをやろうとすると、心配事がおおくなるだろう。どんなことであっても、これはすべてにかかわることである。手を清めるように、常に心がけをよくしていれば、何事も困ることなく過ごせることだろう。皆にこの心がけは常に持たせたいものである」

感想・メモ:

手をきちんと洗え!な心がけを説いた章です。
わざわざこういうってことは、手をきちんと洗わない人結構いたってことなんでしょうか(笑)。
まあ最終的には何事も前以て、いつ何があっても備えるようにという心構えの話になっていますが。
コロナでも言われていますが、感染症対策もあるのかも?

『名語集』5:身なりを慎む

『名語集』5:身なりを慎む(身なりを慎む)

原文:

一、或時の御咄に、「常世とて、老若共に、髪ふたふたとだてに結ひ、帯を引き下げて、身にもあはぬ裄を長く、袴をはねさせ、直刀差し、滑り道をも反りて歩く。これ一つとして羨む所なし。先づ、年寄りたる者は年に似合はぬとおもへば、何とよき人もあさくなるなり。若き者は猶以てあさき事。ましてあしき人は、高下共に其の身生れつきの姿にて、嗜みたるこそ、一入見られたる者なり。惣別人は、髪を結ひ、大小をさし、小者をつれ、馬に乗りたるは、皆よき人をまねたき願ひなるに、よき人が徒若党のまねをするは、先づさかさまなり。侍の公儀所といふは、いかやうなるあしき物にても、よく襟を重ね、裄丈身に恰好して、帯高々と引きしめ、上下著るとも、其所ちがはぬ様に著べし。尤も、髪も一日くつろがぬ様に、引きしめて結ひたる物、見物なり。いはんや、身近う使ふ者などは、不断結構なるものばかりはならぬなり。何なりとも、似合はしき物を、ぬしと物数寄して、襟元よく著たるは、見ても気味よし。其の身もきよからん。物数寄の心、少しづつも無きは、穢き心なり。日に幾度も、髪のそそけをなほし、襟元をなほして、奉公する者は、心も知れて頼もしきなり。小袖上下までも、其の所みだりにむざと著たる者見て、よきなりといひがたし。唯、侍は生れ付のすがたにて、心をかぶかせたるが本意なり。身にあはぬ事する人は、心も知れて、遊女の夫にはよからん。侍の道はなし。生れ付かぬ姿に、何ととり付けても、よきとは申しがたし。たとへば鼻なしにつくり鼻付けて、見よからんや。其のままにてこそ一入なれ。さだめて、我が家中を東者とて、世上にては笑うべきが、こなたは笑はれても、まねぬがよし」と御咄遊ばされ候事。

語句・地名など:

常世:永遠にかわらないこと、いつまでも続いているもの/死後の国
ふたふた:扇や鳥が羽ばたいたりしたときに立てる音やそのさま/ばたばた
裄:着物の、背縫いから袖口からの長さ
直刀:真っ直ぐで反りのない刀
猶:まだ、やはり元の通り
あさし:深さがない/程度が軽い、充分でない/思考などが単純で表面的である
高下:身分の高いことと低いこと/すぐれていることと劣っていること
一入:ひときわ、いっそう
惣別:すべてのもの、あらゆること/おおまかなことと細かなこと、まとめることと、分けること
徒若党:徒歩で仕える侍。主君に徒歩で供奉する、中間小者より上位の下級武士
公儀:おおやけごと/朝廷/将軍/世間
見物:見て素晴らしいと感じるもの、見るに値するもの
不断:物事が絶えないこと/いつもおなじようであること、日常
結構:組み立てて作り上げること/意図/支度/実現すること
そそけ:ほつれ、ほつれた髪
むざと(むさと):うっかりと、かるはずみに/むやみに、やたらに/ちゃんとしていないようす
本意(ほい・ほんい):本心/まことの意味/あるべきさま、相応しいありかた
世上:世の中、世間/あたり一面

現代語訳:

あるとき、このようにお話されたことがあった。
「いつものことだが、老いた者も若い者も、髪をばさばさと派手な風に結い、帯を引き下げて、身に合わない裄を長くし、袴をはねさせ、真っ直ぐな刀をさし、滑るような道でも背を反らして歩くようなような者がいる。これはひとつとしてよいなあと憧れるところがない。
まず、年を取っている者は、年に似合わないと思えば、なんと心ばえのよい者であっても、底が浅く感じられる。若い者はそれ以上に底が浅く感じられる。まして悪い人は身分の低い者も高い者も、生まれつきの姿でいることこそ、ひとかどに見てもらえる者である。
総じて人は、髪を結い、大小を差し、小者をつれ、馬に乗っていることは、みんなよき人を真似たいという願いであるので、よき人が若い徒武者の真似をするのは、そもそも逆なのである。
侍の公的な姿というのは、どのような身分の低い者であっても、しっかりと襟を重ね、裄の丈などを身に合わせて、帯をたかだかと引き締め、裃を着るときも、そこのところを間違わぬように着るべきである。なるほど、髪も一日中くずれないように、引き締めて結っているのは、見ていてすばらしい。常日頃よく使う者などは常日頃から見事にしている者ばかりにはならない。どんなものであっても、似合うだろう物をしっかりと選んで、襟元もきっちりとして着ているのは、見ていても気持ちが良い。その身も清潔であるだろう。物を見定める力が少しもないのは、品がない。
日に何度も髪のほつれを直し、襟元を直して仕える者は、その性格も知ることができて、頼もしい。小袖・裃までもきっちりとせず、だらしなく着ているものを見ると、よいとは言いにくい。
ただ、侍は生まれつき、心を傾かせているのがあるべき姿である。身に合わないことをする人は、その性格もしれて、遊女の夫には良いだろうが、侍として生きるのには相応しくないだろう。生まれつきではない身に、何をとりつけても、よいとは言いにくい。
たとえば、鼻のない者につくり鼻をつけても見栄えがいいということはない。そのままでいることかいっそう良いのである。
よく、私の家臣たちを「あずまもの」として世間では笑っている者がいるようだが、おまえたちは笑われても、真似をしない方が良い」

感想・メモ:

政宗が、奇抜な格好をする人を批判している章です。
帯をゆるませたり袴をはねさせたりというのはいまでいうところの腰ばきみたいなものでしょうか。そういう若者の格好はみっともないと言っています。
武士は生まれながらにして武士であるのだから、きちんとしていればそれだけでいいと政宗は思っていたようです。
ここで「伊達な」という形容詞が出てきます。
よく俗説には政宗の言動以降、「伊達」が派手な・格好のいい等といった肯定的な意味に使われるようになった…といわれていますが、実際はそうでなかったことがよくわかります。「伊達な」がいい意味になって使われるようになるのは江戸時代になってからでしょう。
また興味深いのは、仙台藩の藩士に対して、「東者」と馬鹿にする人がいたということです。田舎者に都会の人が厳しいのは昔から変わらないようです。

感想『仙台藩の武家屋敷と政治空間』

岩田書院さんのDMを見て、今年の2月にこんな本が出ていたのを知り、購入しました。

いや〜〜これはすごい。おもしろい本です。私みたいな素人でもおもしろくて一気に読んでしまいました。
目次は以下の通り(岩田書院のページから転載)。

序 章 仙台藩の武家屋敷と政治空間 -武士の「居場所」への注目- 野本禎司 藤方博之
第一部 城下武家屋敷の利用実態
 第一章 仙台城跡川内地区の土地利用の変遷 菅野 智則
 第二章 考古資料からみた仙台城下の武家屋敷地区 菅野智則 柴田恵子
 第三章 仙台藩重臣層の武家屋敷の変遷と利用 野本 禎司
 第四章 法令からみる仙台城下の武家屋敷 藤方 博之
 第五章 明治初年における仙台城下の武家地 -小三区の払い下げ出願を事例として- 荒武賢一朗
第二部 仙台藩の政治空間と「家」
 第六章 伊達政宗当主期の意思伝達と家臣 -茂庭綱元関係文書の検討を通じて- 黒田 風花
 第七章 近世前期仙台城二の丸中奥の構成員とその処遇 清水翔太郎
 第八章 仙台藩宿老の役割 -後藤家文書を中心に- 野本 禎司
 第九章 登米伊達家「御家政方一件」における家臣団の動向 藤方 博之
 第十章 給人家中(陪臣)の足跡 -岩沼古内氏・中畑家の事例から- 荒武賢一朗

個人的に興味深いと思ったところ、各章ごとに。

一章
仙台藩では町奉行所は設置されず、就任者の自宅がそのまま役所になった(公私未分離)/家作も家臣には帰属しておらず、屋敷を明け渡す際には建具や敷物に至るまで置いていく必要があった/妾の処遇は実子との関係に規定される側面が多く、忠宗在世中は二の丸中奥で生活したが、当主没後は子の「家」で生活し、その「家」の構成員として処遇された/青葉山一帯は最上古道を通じて広瀬川を越えて東方に通じる街道が位置していた/二の丸造営以前には四男宗泰の屋敷があったという伝承あり。元和6年以後は伝宗泰屋敷の北側にいろはの居館である西屋敷が造られる/寛永15年に宗泰の屋敷跡に二の丸造営されいろは死後西屋敷には蔵や作業所など二の丸に附属する実務的な施設が置かれる。元禄年間、西屋敷敷地は二の丸に取り込まれる/西屋敷には池のある庭園あり

二章
片倉家のような明らかな上級家臣の武家屋敷内にも掘立柱建物が存在していた/道路に面した門や塀に関しては瓦葺きの部分があり、それ以外は柿葺きなどの板葺きであると考えられる/埋土出土遺物は19世紀前半代を中心とする。磁器は肥前産を中心に瀬戸産などが認められる/陶器は大堀相馬・相馬系・東北系の産地のものが主体/動植物遺存体はヒラメ・カレイなどの骨、サンショウ・クルミ類・クリ・ウメ・モモなどの食用栽培植物のほか、薬用のものとして利用されたアンズ・スモモ・カボチャの種子、ノブドウの種子が大量に出土/明治維新後に直ちに全ての武家屋敷の建物が撤去されたわけではないこと、明治9年には屋敷建物が残っていた/明治15年には陸軍省用地となり、建物が存在してなかったと思われる/武家屋敷地区の発掘調査では池跡をしばしば確認できる

三章
片平地区は家格の高い門閥層の居住地であり、川内地区は四代藩主綱村の親政に伴い奉行職などの重職や側近就任者が居住する地域となっていた/役職に就任すると中心部に転居、解任されると縁辺部に転居する/例外として「重臣層」であるのに川内地区に居住していない者もある(石母田・茂庭・古内・遠藤)/茂庭と遠藤は江戸時代当初から屋敷替えを一度もせず、片平地区の同じ地区に屋敷を構え続けた。片平地区において同じ場所に屋敷を構え続けた家は、他には基本的に藩政に関与しない一門衆しかおらず、両名は特別な存在であったと言える/当主が留守であっても必要が生じれば屋敷替えが進められた(その後奉行職に)/後藤家の屋敷門は仙台城下では有名で、「後藤の玄関、安房の門」と言われ、「決して其構造を同ふしたるものなかりし、それ故二千石の禄には似合はしからざる玄関なりといひはやされたるなり、実に仙台第一の名物玄関として其名は世に聞こえし」(仙台風俗志)/屋敷内で日常的に武術訓練をすることができる馬場などが設置されていた/下屋敷を持つ者もおり、下屋敷への出御あり(鷹狩を終えて立ち寄る場所である「仕廻場」として機能)

四章
禄高に合わせて屋敷交換がなされた(届出制)/所持している屋敷に住まず貸屋敷にすることはたとえ親兄弟であっても不可としている

五章
明治の払い下げなどについて

六章
茂庭綱元は仙台における留守居として、政宗不在の仙台で領内統治の任にあたった。綱元は奉行衆よりも上位の席次で、権限も上であり、奉行衆が藩政の中心となるのは、綱元が藩政から離れた後と考えられている/天正期は白石宗実と政宗への取次・奏者を務める/従属国衆や一門が指南として、外様国衆などからの連絡の窓口となり、当主に近い家臣が子指南として、指南から当主への連絡を仲介する。実元と二本松畠山氏と指南関係にあったと指摘されている/朝鮮出兵後金山の管理を命じられる/種を伴って伏見へ出奔/大條実頼・湯村親元(親元と綱元が仙台留守居である可能性)/慶長7年景綱の白石、成実の亘理への移城を命じた際の命令を奉じる立場/処分の統括を担うのは綱元であり、実行するのが「奉行衆」、政宗への申次・奏者をつとめるのが山岡重長、という役割分担/元和4年高野山に登り、下山後は了庵と号する。元和4年以降に藩政の表舞台から退き、奉行が藩政の中心となる?/仕官や知行地の加増、家格上昇の希望が綱元を通じて政宗に伝えられることがあったのでは?/綱元は家臣の知行地などについての要望を政宗に伝える役割を政宗から期待されていたと考えられる/綱元が政宗の意思決定に影響を与える機会があったのでは?/宗綱・宗清・宗泰・宗高と綱元/「鷹ノ事御功者」「鳥之法度」鷹場の管理を監督する立場/秀宗が他の家臣を通じて政宗に頼んだことが断られたとき、綱元を通じて再度頼む=ほかの家臣とは異なる返事を得られると期待?

七章
側室は御一門格とされる(5代吉村から)/忠宗庶出子はすべて仙台生まれ。「隠し物」に近い存在である庶出子/政宗時代にはない嫡出子と庶出子との間の格差/綱宗の嫡出子扱い/初入部時の仙台城着城に際しては、一門・一家・一族の家臣が名取川まで綱宗を迎えに出たが、綱宗の兄弟はいずれも仙台城下に近い笊籬川までとされた/綱宗が庶出の兄弟との血縁的なつながりを重んじていた様子/「御袋様」

八章
宿老の就任者は着座のうち一番座に位置する遠藤家・但木家・後藤家の三家/仙台藩では病気になった際は回復するまで20日おきに病気届を出し続けることになっていた(宿老を通して)/家を継ぐと同時に、幼年である場合は元服してから宿老に命じられた/正月の行事を司る

九章
登米伊達家内部の対立について/白石三弥

十章
古内家中中畑左家について(在郷陪臣論)



いやあ…これは綱元好きは必読ですよ…!! 六章!!!! 政宗との関係とその特別な立場をはじめから最後まで…!!
あと個人的に気になったのは、三章の中にある、寛文9・10年の地図から見た伊達屋敷の居住者変遷の表で、片倉屋敷の隣が伊達土佐になってて、あれ?安房邸じゃなかった?と思ったら、土佐ってことはあれか。安房の子の土佐か。2代目宗成が死んだのが寛文10年だから、この土佐は3代目基実ということでいいのかな。
それと伊達安房家(亘理伊達家)好きの私としては、後藤家の話ででてきた「後藤の玄関、安房の門」てとこなんですが、『仙台風俗志』見ないといけないとは思いますが、(めちゃめちゃすごい)後藤の玄関と比べられるほど安房家の門がすごかったってことでいいんですよね?? 風俗志読みます!!(笑)