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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』

『政宗記』11-2:公方家光公御茶上給事/11-3:御能事

『政宗記』11-2:将軍家光公へ、政宗がお茶を上げなされた事/11-3:能のこと (目次と実際の分け方が違い、また同日のことであるので、両方一緒に紹介いたします) 原文 去ば寛永十二年乙亥正月二十八日に、江戸御二の丸の御数寄屋に於いて朝の御会席、 御…

『政宗記』11-1:政宗物僻事

『政宗記』11-1:政宗の物数寄について 原文 去ば常々物僻にて御坐す、爾程に数寄道をも、日来心掛給へり。其故に先茶湯の道具より申せば、碾茶壺、肩衝・桶口肩衝・侘助肩衝・紹鷗文琳・壺物・大海・利休物相、茶入れの名物此のごとく。扨虚堂墨跡、是は大…

『政宗記』11-5:政宗下国事

『政宗記』11-5:政宗が領国にいるときのこと 原文 同年(寛永十二年)の六月二十日に、御暇にて江戸より下り給ふ。然るに、領中白石川の水上小原と云処に鮎盛りなれば、在城国分の若林へは着給はで、信夫の桑折より直に小坂と云処を打越、右の小原へ着給ふ…

『政宗記』12-4:葬礼次第附七仏事

『政宗記』12-4:葬礼次第と七仏事 原文 葬礼場は、八幡宮の後北山の下、覚範寺よりも七・八町西にて、今度葬礼の道に横の広さ十二間、四寸角を赤くして両方へ柵を振、其中へ薦を敷、其上に木綿、扨四門の内より木綿の上に白練敷り。柵の外は広さ二間余りに…

『政宗記』12-3:二世の供申出事附逝去

『政宗記』12-3:殉死の願い出と逝去 原文 同(寛永十三年五月)二十二日に、二世の供と申す者ども何れも書付を差上ければ、披見有て顔に押当、「扨惜者ども哉。ヶ程の者を此世の事に役立てなば、一方の堅めにもなどかならでは候べき、或若年或盛んなる者ど…

『政宗記』12-2:療治附将軍出御事

『政宗記』12-2:病気の治療と、将軍家光お成りについて 原文 去程に、五月二日の卯の刻より、半井驢庵法印療治し給ふ。爾と雖も、段々日を重ね疲労し給ひて、食も一円進まず、腹も張出以ての外なる病体なり。故に御懇衆は申に及ばず、日々夜々の上使なるを…

『政宗記』11-6:鹿猟事

『政宗記』11-6:鹿猟のこと原文: 同(寛永)十三年丙子正月十九日に若林を立、三日路先の十五浜といふ島へ出給ひ、鹿猟をし給ふ。去程に、道中も爰彼処、様々の遊山のみにて通給へり、其頃南次郎吉・加藤十三郎といふ寵愛の小姓、彼等二人を始め、何れも小…

『政宗記』9-3:向島御建立の事

『政宗記』9-3:向島の伏見城建立のこと 原文 慶長元年丙申の二月より、太閤秀吉、伏見の向島に城を構へ、御本城より橋を渡し、往来ありて御慰所と取立給ひ、御普請過半出ける処に、頃は閏七月十二日の夜半許に、大地震夥しうして、天守を始め御殿共をゆり崩…

『政宗記』3-4:大越紀伊守出入事

『政宗記』3-4:「大越紀伊守出入りのこと」 原文: されば其頃田村家中に、大越紀伊守とて田村一門、扨相馬義胤へも親類にて、家に従ひ、大身なり。彼人相馬へ心を合せ、田村を義胤に取せんとす。其外田村家中に相馬よりの浪人ども、少々城を持ける程の歴々…

『政宗記』3-3:田村清顕頓死、附政宗北の方へ不和の事

『政宗記』3-3:「田村清顕の頓死、政宗と北の方の不和のこと」 原文: 同十一月、田村清顕頓死し給ふ。是に依て政宗米沢より信夫の福島に出られ、田村へは使者を遣はし、則ち帰り給ふ。されば清顕には嗣子なかりければ、残命の内より、末には田村をば政宗に…

『政宗記』3-2:二本松内通附政宗病気並出城之事

『政宗記』3-2:「二本松の内通、政宗の病気、そして小浜を出たこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11巻』も参考にした) 同十四年丙戌二月、二本松籠城より三野輪*1玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同名下総・堀江…

『政宗記』3-1:安達郡渋川戦之事

『政宗記』3-1:「安達郡渋川での戦のこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11巻』も参考にした) 天正十三年乙酉十月より同十四年丙戌七月二本松籠城に付て、八丁の目用心の為、成実其年十八歳のとき、渋川の要害…

『政宗記』2-4:本宮戦附人取橋合戦

『政宗記』2-4:本宮の戦と人取橋の合戦 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967を主にし、『仙台叢書11』も参考にしました) 去程に佐竹・岩城・会津・仙道の大将衆、日来大内に引合、伊達へ楯を突せ給ふといへども、政宗の鋒には相叶はず、大…

『政宗記』2-2:四本松手に入給事

『政宗記』2-2:「四本松を手に入れられたこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』) 同九月二十五日に、政宗四本の松の郡岩角と云処へ働き、地形を見廻し、近陣有べく候乎、亦攻め給ふべき乎、如何様にも此城を取る程…

『政宗記』2-1:二本松八丁目境和睦之事

『政宗記』2-1:「二本松と八丁目の境界の和睦のこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』) 去る程に四本の松*1へは軍あれども、二本松と八丁目とは無事にて候。其子細は右にも申す。四本の松・二本松は、佐竹・会津・…

『政宗記』1-5:小手森落城附青木修理証人替の事

『政宗記』1-5:「小手森落城と、青木修理の人質交換のこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』) 明ける程に、昨日申す竹屋敷へ陣場を移し候こと何れも嫌ひになるに、夫れに又政宗へも窺はずして移しけるは気遣なれど…

『政宗記』1-4:青木修理忠節事

『政宗記』1-4:「青木修理の忠節のこと」 原文: (小林清治『伊達史料集上』人物往来社/1967・『仙台叢書11巻』を参考に) 同七月*1、成実米沢に使者を以て申けるは「今度猪苗代弾正親子の間と罷成、申合の忠節、存の外なる違変、某式迄本意なき事、次に…

『政宗記』1-3:二本松気遣給事、附猪苗代武略事

『政宗記』1-3:「二本松へ気遣なさること、猪苗代への計略のこと」 原文: (伊達史料集上より。語句は大体そのままですが、漢文の部分は古文体に) 抑会津へは手切なれども、会津一味の二本松とは、手切もなく未無事也。其謂を如何と申すに、其頃成実親実…

『政宗記』10-3:詩歌附狂歌事

『政宗記』10-3:政宗の詩歌と狂歌のこと 原文: (数字は私が見やすいよう付記したもの、【】は歌題を示すもの(これも付記)原文には綱元や他相伴衆の歌も載っていますが、政宗のもののみ掲載) 1 寛永二年乙丑二月十七日仙台城に於いて詩歌の会、春日江上…

『政宗記』10-2:政宗一代行事

『政宗記』10-2:政宗の日課 原文: 去程に、常々奥方抔のことをば争か存知候べき、縦令ば表なりとも我と見ざること多かりけれ。それは奥表ともに能ことも悪きことも家に隠れなき故に、見聞のこと粗爰に記し畢ぬ。先朝起給ふに床の上にて、髪を自身に一束に…

『政宗記』10-1:成実所振舞申事

『政宗記』10-1:「成実の屋敷で饗応申し上げたこと」 原文: されば、寛永の初め*1より政宗宮城の国分仙台近所に、屋敷を三町四方に取立、惣構に弘さ三十間の堀を掘り、二丈余尺の土手を築、彼地若林と名付、仙台より移し給ふ。去程に、諸士は云うに及ばず…

『政宗記』1-2:大内に暇給事

『政宗記』1-2:大内に暇給ふ事 原文: (伊達史料集上より。送り仮名など自分が読みやすいように付け加えています。例:依て→依りて、など。原文そのままではありません) 同正月(天正十三年)政宗十八歳の年、大内申しけるは、「今程雪深くして屋敷の普請…

『政宗記』1-1:大内備前伊達被留事

『政宗記』1-1:大内備前伊達に留めらるること 原文: (伊達史料集上より。送り仮名など自分が読みやすいように付け加えています。例:依て→依りて、など。原文そのままではありません) されば其の頃、奥羽にて佐竹・白川(白河)・須賀川(二階堂)・石川…

『政宗記』12-1:病気の事

『政宗記』12-1:病気之事原文: 同21日に白石を立給ひ、一両日相過道中より異例の心地出給ふ。然りといえども、大相国家康公二十一ヶ年の御年忌、其年に相当り、公方家光公日光山の堂々とも御建立に仍て、政宗道中より直に日光へ、同二十五日に社参なれば、…

『政宗記』11-7:江戸へ御立給事

『政宗記』11-7:江戸え御立給事 原文: 同*1二、三月より、或遊山*2或何ぞに寄ず、ややもすれば「来る春は、何としても下り難し、在府の慰も是迄ならん」と宣ひけるが、程なく卯月*3になりければ、「其月廿日に立給ふべき」と宣ふ。かかりけるに、政宗常々…

政宗作原田宗時追悼歌の表記について

はぎ様とTwitterにて、『政宗記』と『治家記録』で、原田宗時追悼歌の表記が微妙に違う?という話になりました。はじめ気づいたのが三首目の「馴れにし友」(『治家記録』及びそれを参考にした書物。『政宗の文芸』とか他の歌関連の本)「馴れにし夢」(『政…

『政宗記』目次

『政宗記』目次 (各記事内の「数字○-数字△」という表記はわかりやすさのために書いただけで、原文にはありません。○巻の△番目の記事というだけです)解題(小林清治)巻一: 大内備前伊達被留事 大内暇給事 二本松気遣給事、附猪苗代武略事 青木修理忠節事 …