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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『正宗公軍記』2-1:大崎義隆御家中叛逆を企て義隆公を抱へ置く事

『正宗公軍記』2-1:大崎義隆の家臣たちが反逆を企て、義隆公を留め置いたこと

原文

天正十四年丙戌、二本松・塩の松御弓箭落居の上、八月、米沢へ御帰陣なされ候所に、大崎義隆御家中、二つに割れ候て、正宗公へ申し寄り候。根本は其頃、大崎義隆に、近習の御小姓新田部刑部と申す者が、事の外出頭致し候。然る所に、如何様の表裏も候や、本の様にも召仕はれず。又相隔てられ候儀もこれなく候。其後、伊庭野総八郎と申す者、近く召仕はれ候に付いて、刑部、恐怖を持ち候。親類大き者故、其一類、何れも恐怖仕り候。然る間総八郎存じ候は、独者に候間、頼む所これなき由思案申し候て岩出山の城主氏家弾正を頼み力に仕たき由存じ、弾正所へ存分の通り頼み申し候へば、弾正合点仕り、以後相心得候由、誓約致し候。是に依って、新井田刑部親類の者共存じ候は、氏家弾正取持を以て、必らず迷惑仕るべく候。然れども、大崎・伊達契約にて、今程御間然なく候條、正宗公へ申寄せ御加勢を申請ひ、氏家弾正一党、惣八郎打果し、義隆も、御生害なさせ申すべき所存にて、其由、正宗公へ申上げ候へば、御合点なされ、何時なりとも、申上げ次第、御人数遣さるべき由、仰合され候。其頃迄、義隆に刑部は奉公仕り、名生の城に罷在り候。然る所に、氏家弾正、義隆に御異見申し候は、刑部故、一類の者共、逆心を企て、正宗公へ申寄り候間、刑部切腹仰付けられ候か。籠舎仰付けられ然るべき由申上げ候。義隆仰せられ候は、申す所尤もに思召され候へども、世悴より召仕はれ候者にて候間、其身の在所新井田へ送らせらるべき由仰せられ候。然るべからざる由、申上げ候へども、頻に仰せられ候間、是非に及ばず、弾正も罷在り候。義隆、刑部に仰せられ候は、其身一類共、逆心を企て候間、其身迄も口惜しく思召し候間、切腹仰付けらるべく候へども、世悴より召仕はれ候間、相助けられ候。新井田へ早々罷り越すべき由、仰付けられ候。刑部申上げ候は、御意忝く候へども、傍輩の者共、残なく某を憎み申し候間、御本丸を罷り出で候はば、御意を懸け候者の由申し候て、即ち討たれ申すべく候間、憚多き申事に候へども、只今迄召仕はれ候御芳恩に、中途迄召連れられ下され候はば、忝く存知奉るべき由、申上げ候に付いて、義隆尤に思召し、左様に候はば、伏見迄召連れ相放さるべく候間、御供仕り候へとて、馬二匹御庭へ引出され、一匹は義隆、一匹は刑部を御乗せ召連れられ候。刑部家中二三十人、究竟の者共、刑部をば差置き候て義隆の御馬の口を取り、御跡先に付、御供の衆、無用の由申し候へば、早や事を仕出し左右に見え候間、伏見迄御越し、早や、是より新井田へ参り候へと、仰せられ候へば、刑部は、一人も参るべしと存じ候所に、家中の者共、是非新井田迄召連れられ下さるべき由申し候。義隆、別儀あるまじき由、仰せられ候へども、是非御供申すべき由申し候て、異議を申す御供の衆も候はば、則ち義隆を討ち奉るべき景気に候の間、是非に及ばず、新井田迄御越し候所に、名生へも帰し申さず、新井田に留置き申し候。刑部一党の者共、狼塚の城主里見紀伊・谷地森の城主主膳・米沢肥前・米泉権右衛門・宮沢民部・高清水の城主石川越前・宮城の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正・百々の城主左京之丞・中の目兵庫・飯川大隅・黒沢治部、是は義隆小舅にて候。此者共を始め逆心を企て、正宗公へ頼入り、御威勢を以て、氏家一党伊庭惣八郎討果し、義隆にも生害なさせ申すべき所存にて候所に、存じの外、義隆を生捕り申し、新井田に差置き候間、何れも心替り、伊達を相捨て、義隆を守立て氏家・伊庭惣八郎を、退治仕るべき存分出来候て、彼の面々、義隆へ申上げ候は、刑部一類数多申合せ、義隆を取立て申すに於ては、累代の主君と申し、誰か疎意に存じ奉るべき。氏家弾正一人御退治なされ候へば、大崎中思召の如くなるべく候由、訴訟申上げ候。義隆御所存には、彼の者共、逆心を企て、伊達を賴入り候由、聞召し候時分は、氏家弾正一人御奉公を存寄り、御腹の御供仕るべき由申上げ候。弾正を御退治なさるべき儀には、之なき由思召し候へども、新井田に押留め訴訟申し候間、力に及ばず、尤もの由仰せられ候事。

語句・地名など

籠舎:牢屋にいれること
景気:様子、気配
狼塚:おいぬつか

現代語訳

天正14年、二本松・塩松の戦が落着したのち、8月政宗が米沢へお帰りになったところ、大崎義隆家中はふたつに分かれて、政宗に言ってきた。
もともとはその頃大崎義隆のもとに近習の小姓新田部刑部という者が、大変出世していた。しかし、どのような事情があったのか、元のように呼ばれることがなくなった。また、隔てられるようなこともなかった。その後、伊庭野惣八郎という者が近く呼ばれるようになって、刑部は恐怖を抱いた。親類が多い者であったので、その一同、みな恐怖を抱いた。その間、惣八郎は独り者なので、頼みにする人はいないかといって、岩出山の城主氏家弾正を頼み、力を貸してくれないかと思い、弾正のところへ思ったとおり頼み申し上げたところ、弾正は合意し、以後そうするように思って、誓いをした。
このため、新田部刑部の親類の者たちは氏家弾正が中を取り持つのであれば、必ず大変なことになる、と思った。しかし、大崎と伊達は誓約があり、今ほど距離がなかったので、政宗へいいより、加勢を頼み、氏家弾正の一味と惣八郎を討ち果たし、義隆も御殺しにならればいいと思い、そのことを政宗に申し上げた。すると政宗は合意し、何時であっても、いい次第、塀を送ると約束なされた。
その頃まで、刑部は義隆に奉公して、名生の城に居た。そうしているうちに、氏家弾正は義隆に意見し、「刑部のせいで親類の者たちが裏切りを企て、政宗に言い寄っているので、刑部に切腹を申し付けられることか、牢獄にいれることはできないか」と申し上げた。
義隆は「申すところは尤もに思うが、子どもの頃から召し使っているものであるので、その在所である新井田へ送るのはどうだろうか」と仰った。それではだめであると申し上げたが、頻りにそういわれるので、仕方なく、弾正もそうしていた。
義隆は、刑部に対し「おまえとその親類たちが裏切りを企てているというので、おまえのことまでも口惜しく思うので、切腹を命じたいけれども、幼少の頃より使えてくれた者なので、助けよう。新井田へ早くいくがいい」と仰った。
刑部は「お心は忝く思いますが、その者たちはみな私を憎んでいるので、本丸を出たならば、ご命令を受けた者が伝え、すぐに討たれることでしょう。なので、支障がおおくありますが、ただいままでお仕えした御恩の報いに、中途まで一緒にきてくだされば、かたじけなく思います」と申し上げた。義隆は尤もに思い、そうであるならば、伏見まで連れて行き、離してやるので、お伴せよといい、馬2匹を庭へ引き出し、1匹は義隆、1匹は刑部をのせ、連れられていった。
刑部の家臣2,30人の屈強の者太刀は刑部はさておいて、義隆の馬の口を取り、後をついていこうとしたので、供は入らないといったので、早くことを進めようと思ったので、伏見までやってきて、はや、これから新井田へ行けと仰ったところ、刑部はだれか来るだろうと思っていたところに、家中の者はぜひ新井田まで一緒に行くと行った。義隆は別に意図はないだろうと仰せになったが、是非お伴いたしますといい、異議を申し立てる供の者が居たら、すぐに義隆を討ち申し上げるようすだったので、仕方なく新井田までお越しになった。名生にも帰すことなく、新井田に留め置かれた。
刑部の味方の者どもは、狼塚の城主里見紀伊・谷地森の城主主膳・米沢肥前・米泉権右衛門・宮沢民部・高清水の城主石川越前・宮城の城主葛岡太郎左衛門、古川の城主弾正・百々の城主左京之丞・中の目兵庫・飯川大隅・義隆の小舅である黒沢治部などであった。
この者たちをはじめ裏切りを企て、政宗へ頼み、その威勢で氏家一党と伊庭野惣八郎を討ち果たし、義隆も殺そうと思っていたところに、想定外に、義隆を生け捕りにし、新井田にさしおくことになったので、みな心変わりし、伊達への誓いをステ、義隆を盛り立て、氏家と伊庭野惣八郎を退治しようと思いはじめ、これらの者たちは義隆に「刑部の一族多くが誓い、義隆をとりたてるので、累代の主といい、誰が軽視するものがいましょうか。氏家弾正1人を退治なされたならば、大崎家中は思われるとおりになります」と訴え申し上げた。
義隆は「彼の者たちが裏切りを企て、伊達を頼もうとしていることを聞いたときは、氏家弾正1人が仕えてくれていると思い詰め、切腹のお伴をするようにいっていた。弾正を斃すことについてはできない」とお思いになったが、新井田に押し込められ、訴えられたので、どうしようも出来ず、尤もであると仰った。

感想

大崎義隆の家中が二つに割れた諍いについて書いています。
男色のもつれとされていますが、それがおおごとになっていくようすが怖ろしいです。

『正宗公軍記』1-5:佐竹義重公・岩城常隆公・石川昭光公・白川義近公仰合され、須賀川へ御出馬、伊達一味の城を御攻め候事附右合戦に付伊達加勢遣され、観音堂に於て、茂庭左月を始め討死、成実手柄の事

『正宗公軍記』1-5:佐竹・岩城・石川・白川が須賀川へ出陣し、伊達の城を攻めたことと、観音堂での軍で茂庭左月らが討死したこと、成実が手柄をたてたこと

原文

霜月十日の頃、佐竹義重公・会津義広・岩城常隆・石川昭光公・白川義近仰合され、須賀川へ御出馬なされ、安積表伊達へ、御一味の城々へ御働なされ、中村と申す城御攻め、落城仕り候。右の通り、俄に小浜へ申来り候に付いて、正宗公、岩津野へ御出馬なされ、高倉へは、富塚近江・桑折摂津・伊藤肥前に、御旗本鉄砲三百挺差添へられ候。本宮の城へは、瀬上中務・中島伊勢・桜田右兵衛相籠られ候。玉の井の城へは、白石若狭相籠られ候。拙者事は、二本松籠城候間、八丁目抱の為め、渋川と申す城に差置かれ候が、小浜在陣申し候故、何れも不人数にて候間、早々参るべき由、御書下され候條、渋川に人数過半相残し候て、塩の松へ廻り、小浜へ参り候御所に、早や御出馬なされ候御跡に参り候。御留主に御人数差置かれず候間、成実人数を残し申すべき由、仰置かれ候に付いて、青木備前内馬場日向を始め、馬上三十騎程残し候て、岩津野へ参り、御目見仕り候へば、御意には、前田沢兵部も身を持替へ候て、会津へ一味致し候間、定めて明日は、高倉か本宮へ働かすべく候間、罷り返るべく候由、仰せられ候條、糖沢と申す所に、其夜は在陣申し候。彼の前田沢兵部と申し候は、本二本松奉公の者にて候間、義継切腹の砌、伊達へ御奉公仕り候所に、佐竹殿出陣に付いて、又替返り候。同月十六日、前田沢南の原に、敵、野陣懸けられ候ひし。高倉への働にこれあるべき由、申来るに付いて、正宗公、岩津野より本宮へ相移され候。本宮は、其頃は只今の町場は畑にて、人居もこれなく小川流候所に、外矢来にて、内町計り人居候。高倉へ働かすべき由、申すに付いて、助け候為めに、本宮の人数観音堂へ打上げ、見合次第に、高倉へ討入るべき様子にて、太田の原に備を立て候。我等も、高倉へ助け入るべくと存じ、高倉海道山下に備を相立て候。敵五千騎余にて、三筋に押通り候間、高倉に籠り候衆申され候ひしは、当、本宮、御人数に候間、爰計りの人数を出し、くひ止め候て、見申したき由申され候。又なるまじき由、申す衆も候へども、富塚近江・伊藤肥前申し候は、縦ひ押込まれ候とも、本宮へ通り候人数留り申すべく候はば、苦しからざる由両人申し、人数を出し申し候所に、其如く敵を押縮め候。然るに、岩城の衆入替り候て、押籠め候間、両小口へ追入れられ、味方二三十人討たれ申し候。敵の人数大勢故、前田沢より押し候人数は、観音堂より出で候衆と戦ひ候。又荒井を押し候人数は、成実との合戦両口にて候。合戦始まらざる前に、下郡山内記、我等場の向に、小高き山の所へ乗上り、見申し候へば、白石若狭・浜田伊豆・高野壱岐三人の指物見え候て、馬上六七騎・足軽百五十人計りにて、本宮の方へ高倉より参り候。其跡に一町程隔てて、大勢人数参り候。敵とは存ぜず、扨又、何者にて候と疑ひ候。去りながら、敵と味方との境の様に見え、其間一町余隔て候間、不審に存じ候て見候へば、其間にて鉄砲一つ打ち候の間、扨は敵味方の境の由存じ候て乗返し、山の上より敵是迄参り候。小旗をさせさせと呼び候の間、其時、小旗を差し候て相待ち候所へ、若狭・伊豆・壱岐三人共に、我等纏へ逃げ込み、直に御旗本へ罷り通られ候。観音堂より出で候人数、太田の原に備へ候の所に、敵大軍故、こたへ候事ならず、敗軍候て、観音堂を押下げられ、御旗本近く迄追ひ申し候。茂庭左月を始めとして百余人討たれ候。左月は験は取られず候。伊達元安・同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬之助・片倉小十郎を始めとして、歴々の衆相こたへ候故、大敗軍は之なく候。成実備は、味方は一人も続かず、左は大川にて七町余、敵の後になる。成実十八歳の時にて、何の見当も之なく候の所に、下郡山内記、我等に馬を乗懸け、馬の上より我等小旗を抜き、観音堂の衆、追崩され押切られ候間、早々退き候へと申し候て、小旗を歩の者に渡し候。成実存じ候は、相退き候ても討たるべく候間、爰にて討死仕るべき由存じ、引退かず候。然れば敵より白石若狭・高野壱岐・浜田伊豆三人を追立て候て、敵、山下迄参り候間、成実人数を放し懸け候へば、敵相退き候。爰に伊庭遠江とて、七十三に罷り成り大功の者候が、真先に乗入れ、敵両人に物討致し、一人内の者に、頭を取らせ、山の南さがり五町計り、橋詰迄敵を追下げ候所に、橋にて敵追返し、又味方、山へ追上げられ候所に、羽田右馬之助、敵味方の境を乗分け、崩れざる様に、馬を立返し立返し相退き候へば、鎗持一人進み出て、右馬之助馬を突き候所を、取返し取返し突き外し、前へ走り懸け候を、右馬之助、一太刀に物討仕り候。其者も家中の者に物討、其身の家中も一人討たれ、相退き候て、本合戦始め候所へ又追付かれ候。又夫より返し候て、鉄炮大将萱場源兵衛・牛坂左近両人、敵の真中を乗入れ、馬上二騎づつ物討仕り候へども、具足の上にて通らず候や、敵、退口になり、又本の橋迄追下げ候て、北下野、馬を立て候所へ、歩の者走り出て、下野馬を突き候間、下野も引退き候間、味方退口になり候。伊庭遠江、味方崩れざる様にと、殿を致し、取って返し取って返し余り味方に離れ候。甲を着け候へば、老後故目見えず候とて、其日はすつふりにて罷り出で候故、敵乗懸け頭を二太刀切り候。こらへ候事もならず、引退き候間、味方夫より又、本の所へ追付かれ候。左候へば、観音堂へも物別仕り候間、敵引上げ候條、成実も押添はず、人数を打廻し引上げ物別致し候。観音堂は誰々如何様に仕り候や、別筋に候の間存ぜず候。遠江は罷り帰り相果て候。不思議の天道を以て、一芝も取られず、観音堂同前に物別致し候。合戦の様子、細には記さず候。荒々書付け候。其後、観音堂へ敵備を上げ、高倉の海道川切に備を直し候間、一戦これあるべきかと存知じ候所に、正宗公、御備五六町隔り候故か、何事なく打上げ候。此方の御人数も、御無人数にて候故、押添はず候。彼の下郡山内記と申すものは、本輝宗公へ御奉公申し、相馬御弓矢の時分、鉄炮大将仰付けられ候。度々の覚を仕り候。其頃、御勘当にて、成実を頼み、まとひに居申し候。其日も味方遅れ候時は、馬を立返し立返し、味方の力になり、敵を押返し候時分も、最前に乗入れ、敵と両度物討仕り候。家中に首を取らせ類なきかせぎ仕り候。
同又三月*1十七日の晩、正宗公も岩津野へ引上げられ候。夜半頃に山路淡路を御使者にて、御自筆の御書下され候。御口上にも、今日の扱比類なく候。敵の後にて合戦致し敗軍仕らず候事、前代未聞の事に候。畢竟其方故、大勢の者共相助け候。定めて手負・死人数多これあるべく候。殊に明日、敵方より本宮へ近陣候由、聞かせられ候。誰々残されたく思召し候へども、誰々御見当余これなく候間、大儀乍ら本宮へ入申さるべく候。伊達上野も遣され候由、仰付けられ候。又淡路申し候は、今日の御合戦、味方の者何と仕り候や、引添ひ候て参り候事罷りならず、両人是非なく敵に紛れ罷越し候。敵方にて其様子は存ぜず。何れも相談には、明日本宮を近陣なされ、二本松籠城衆を差退けらるべき相談、具に承り候。日も暮れ候間、漸く敵陣を逃れ参り候由申上げ候に付いて、只今斯くの如く仰付けられ候。本宮に籠城せられるべく候間、其支度申すべき由、申し候へども、俄の事にて、心懸も罷り成らず、十八日の未明に、本宮城へ入り申し候。敵働き遅く候間、物見を越し候やと承り候へば、夜の内より付け置き候へば、夜の内より付け置き候由申し候。然れば火の手見え候間、陣移り候かと存じ候所に、物見早馬にて参り、佐竹・会津・岩城衆引退かれ、結句前田沢も引退き候由、申し候に付いて、前田沢へ人を越し見させ候へば、一人もこれなく引上げ候。正宗公本宮へ御出馬なされ、御仕置仰付けられ候所に、数多御前に居候所にて、浜田伊豆申し候は、昨日の合戦、中村八郎右衛門比類なく仕り候。八郎右衛門故、味方五十も六十も助かり候由申上げ候。其時、八郎右衛門、何とも御意もこれなきに、刀を抜き敵二十騎切り申し候由にて、岩打損指申し候を御覧なされ、御加増なさるべき由御意にて、塩の松に於いて知行下され候。若し又、此上にも敵働き候事、計り難き由御意にて、岩津野に両日御座なされ候へども、何事なく小浜へ御帰陣御越年なされ候。
天正十四年丙戌、渋川に拙者居候所へ、元日に二本松より、昼時分乗懸け候。私働き候て、先へ馬上一騎歩十人計り参り候て、陣場の末の水汲み候所へ乗懸け、水汲共を追廻し候。内より出会ひ合戦仕り候。二本松への海道に、柴立の小山候て、道一筋候所を追ひ候て、参り候所を、柴立の後に、馬上百騎計り足軽千余り差置き、押返され候間、道は申すに及ばず、川々へも追散され候。鹿田右衛門存じ候は、遊佐佐藤右衛門兼ねて聞及びたる者に候。仕様を見申すべき由、思ひ候て少し高き所へ、右衛門乗上げ見申し候所、佐藤右衛門近辺生の者にて、案内は存じ候間、各追ひ候筋より西の方へ引退き、敵追過ぎ参り候者を、田一枚の内にて、三人に物討致し、二人首を取り、夫より敵を追上げ候て、敵一人佐藤右衛門物討致し、右衛門居候所迄追付き候。右衛門も怺え兼ね相退き候由申上げ候。野路へ追入れられ候。志賀大炊左衛門真先へ乗入れ、四人に物討仕り候。羽田右馬之助助余所へ参り遅く懸付け、脇より乗入れ、五人に物討仕り、其所にて三十計り頭を取り、夫より敵の足並あしくなり候。八丁目より助け来り候者、只今の海道を、二本松へ押切り候様に、野地を越え候。合戦城は、二本柳*2より東にて候間、押切らるべき由存じ候て、二本松衆崩れ候間、追討致し候。鹿子田右衛門飯出井の細道に馬を立て、逃散り候もの押返し、物別を致させ候。さ候へば、はやはや日暮れ候て味方も引上げ、頭二百六十三取り、二日に小浜へ上げ申し候。鹿子田右衛門罷り帰り候て、佐藤右衛門事、馬迄達者にて、兼ねて聞及び候程の者に候と、物語の由後に承り候。同年二月、二本松に籠居り候蓑輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同下総・堀江越中、五人の者共相談仕り、正宗公へ申上げ候は、御味方仕り城を取らせ申すべく候間、蓑輪玄蕃屋敷へ、御人数入れらるべく候。地形も能く候間、御人数差越さるべく候由申上げ候て右の五人の人質を上げ候條、御人数を夜中に差越され候。四人の居り候所は、城下にて抱へらるべき所もこれなきに付いて、蓑輪玄蕃屋敷へ引退き候所に、その近所の者共、玄蕃屋敷へ計り入られ、人多く候て鎗を取廻すべき様もこれなく詰り候。又繰ヶ作と申す所、手替り候ものに候。急にこれなく候とも、落城計り難く候へども、繰ヶ作は堅固に持ち候て、玄蕃屋敷は、本城と繰ヶ作の間に候間、抱へ兼ね、明方に、城中より玄蕃屋敷を攻め候引退き候。小口詰り大勢本口計りならず候て、塀を押破り、険難の所より人に人が重り転び、男女ともに四五十人踏殺され引退き候。城中は堅固に抱へ候。
正宗公、少々御気色余快らず候に付いて、二本松への御働、相延び候て4月初になされ候。内々近陣なされたく思召し候へども、去年の如く、佐竹・会津・岩城より、安積へ御出馬に候はば、城を巻ほごし、安積へ御出でなさるべき事を、如何に思召され、北・南・東三方よりも五日に御攻めなされ候へども、内より一人も出でず。やらい懸などは、二三度候へば、城能く候條、御攻めなされ候も成り難く候て、小浜へ御引籠なされ候。然る所に、相馬義胤より御使者にて、実元煩ひ候へども、義胤御頼み候に付いて小浜へ参り、御無事御取扱に候。別して御たいもくもこれなく、二本松籠城相退き候様にと御取扱いにて、同年七年十六日、本丸計り自焼候て、会津へ引退かれ候。地下人は思々に相退き候。拙者に城請取り申すべき由仰付けられ候間、其日に罷り越し、本丸に仮屋を仕り、正宗公七月廿六日に、二本松へ御出で御覧なられ候て、其日帰らせられ候。塩の松は白石若狭拝領申し候。其中数多諸人へ御加増に下され候所も御座候。二本松は成実に下され候。先づ安積表御無事の分にて、往来候者、送を以て罷り通り候体に御座候。
同年霜月、清顕公頓死なされ候に付いて、正宗公福島まで出御、田村へは御使者を以て、仰せ届けられ、則ち帰城なされ候。

語句・地名など

岩津野:岩角
天道:天の帝、運命、天の理
飯出井:飯土井?
繰ヶ作:栗か作
巻きほごす:(意味不明)
題目:条件

現代語訳

11月10日のころ、佐竹義重公・会津義広・岩城常隆・石川昭光公・白川義近申し合わせ、須賀川へ出陣し、安積方面の伊達に味方する城々へ戦をしかけ、中村という城を攻め、落城した。以上の知らせが急に小浜にきたので、政宗は岩角に移動され、高倉へは富塚近江・桑折摂津・伊藤肥前に、旗本鉄炮衆を300挺付き添えなされた。本宮の城へは瀬上中務・中島伊勢・桜田右兵衛が籠もることになった。玉の井の城には、白石若狭を詰めさせた。私は二本松が籠城していたので、八丁目の支配のため、渋川という城にいるよう指示がでたが、小浜に在陣していたため、どこも人数が少なかったので、すぐに来るようにと書状をいただいた。なので渋川に手勢を半分残して、塩松へまわり、小浜へ来たところ、已に出馬されていたので、後を追いかけた。留守のあいだに兵をあまり置かれなかったので、成実の兵を残すよう言い置かれていたので、青木備前・内馬場日向をはじめ、馬上のもの30騎ほどを残して、岩角へ行き、政宗と面会した。お聞きしたところ、前田沢兵部も寝返って会津へ味方したので、きっと明日は高倉か本宮へ戦闘が起こるであろうから、引き返すようにおっしゃった。なので糠沢というところにその日は在陣した。この前田沢兵部というのは、もともと二本松つかえていたものであるが、義継が切腹したときから伊達へ寝返ったところ、佐竹が出陣したというのを聞いて、また寝返った。
同11月16日、前田沢の南の原っぱに、敵は野陣をしいた。高倉への戦の準備であるだろうと政宗に言ったところ、政宗は岩角から本宮へお移りになった。本宮は、そのころは今は町になっているところが畑であったので、人もいないところで小川が流れていた。外には矢来が仕掛けられていたので、内の中だけに人がいた。高倉へ動かすべきであるといったところ、援軍のために本宮の兵を観音堂へ動かし、様子をみて、高倉へ討ち入ろうとしているようすだったので、太田原に兵をしいた。私も高倉へ援軍を送るべきであると思い、高倉街道の山の下に陣をしいた。敵は5000騎で、三筋に分かれて押し通ったので、高倉に籠城していた者たちは、本宮は人がすくなかったので、こちらから兵を出して、食い止めてみたいと申し上げた。またそれは無理だという者もいたが、富塚近江・伊藤肥前はたとえ押し込まれても、本宮へ通る兵を止めるたら、楽になると2人がいい、兵をだしたところ、そのように敵を押し込めた。すると、岩城の兵は入れ替わり、押し込めたので、両方の出口へ追い入れられ、味方から2,30人が討たれた。
敵の兵の数は多勢であったため、前田沢から出陣した兵は、観音堂から出てきた兵と戦いとなった。また荒井を攻めた兵は成実との戦いとなり、二つの入り口両方の戦となった。合戦が始まる前に、下郡山内記は私の陣場の向いにあった、小高い山の上へ登り、見たところ、白石若狭・浜田伊豆。高野壱岐の3人の旗指物が見えて、馬上6,7騎・足軽150人ばかりで、本宮の方へ高倉からやってきた。その後ろに1町ほどへだてて、たくさんの兵が来ていた。敵とは思わず、さてまた何者だろうと疑った。しかしながら、敵と味方との境のように見えたため、その間1町あまり隔てていたので、いぶかしく思い、見たところ、そのあいだで鉄炮ひとつ打ったところ、さては敵味方のさかいであると思い、乗って帰ってきて、山の上から敵のところまで来た。小旗をさせといってきたので、そのとき小旗をさしてまっていたところ、若狭・伊豆・3人がともに私の陣に逃げ込み、直接旗本衆のところへ通った。
観音堂から出た兵は、太田原に備えていたところ、敵が大軍であったので、堪えることが出来ずに、敗軍し、観音堂を攻められ、政宗の近習たちの近くまで追ってきた。茂庭左月をはじめとして、100人以上が打たれた。左月は頸は取られなかった。伊達元安斎元宗・同美濃・同上野・同彦九郎・原田左馬助・片倉小十郎をはじめとして、家中の主立った人々は必死に堪えたので、大きな敗軍はなかった。成実の陣は援軍ひあひとりも来ず、左は大川で、7町あまり敵の後ろになった。私成実は18歳の時で、ろくに判断できずにいたところ、下郡山内記は馬でやってきて、馬の上から私の小旗を抜き、観音堂の兵は追い崩され、押しきられたので、早く退くべきであると言って、小旗を徒歩の者に渡した。成実は、退いたとしても討たれるであろう。ここで討死しようと思い、退かなかった。
すると、敵から、白石若狭・高野壱岐・浜田伊豆3人を追いかけて、敵が山下までやってきたので、成実の兵を放ちかけたところ、敵は退いた。
ここに伊庭野遠江という、73になった軍功のある者が真っ先に乗り入れ、敵二人に取りかかり、うち一人の頸を配下のものにとらせ、山の南の下から5町あまり橋のところまで攻めて退かせたところ、橋のところで敵を追い返し、また味方が山へ老いアッげられた。そこへ羽田右馬助敵味方の境目を乗り分け、崩れなかったので、馬を立ち返し立ち返し、退いたので、槍持ちが一人進み出て、右馬助の馬を突いた。右馬助は取り返し取り返し突き外した前へ走りかかったところを、右馬助はひと太刀で切り落とした。その者も家臣の者に討たれ、向こうの家中も一人討たれ、退いたところ、戦を始めたところへまた追い付かれた。またそこから引き換えして、鉄炮大将の萱場源兵衛・牛坂左近の二人は敵の真ん中に乗り入れ、馬上の者を2騎ずつ斃そうとしたが、具足の上だったので、突き通すことはできなかったのだろうか。敵は退きはじめ、また元の橋まで追いかけて退かせた。北下野は馬で追いかけたところ、徒歩の者が走り出て、下野の馬を突いたので、下野も退き、味方も退きはじめた。伊庭野遠江、味方が崩れないようにと、殿をつとめ、行ったり来たりを々、味方から離れてしまった。冑を付けたら年取って居るので目が見えないというので、その日は兜をつけずに出陣していたので、敵は近くまでやってきて、頭をふた太刀切った。堪えることもできず、退こうとしたら、味方はそれからまた元のところへ追い付かれてしまった。なので、観音堂の戦いも決着付かずわかれ、敵が引き上げたので、成実も追いかけず、兵を集め、引き上げ物別れとなった。
観音堂はだれがどのようになったのか、別のところにいたので、わからなかった。伊庭野遠江は帰ってきて、そこで絶命した。
不思議な神の再拝によって、ひとつの隊もとられず、観音堂の戦と同じように、物別れとなった。合戦の様子は細かくは記さない。おおざっぱに書き付けた。
その後、観音堂へ敵を追い上げ、高倉の街道の川のほとりに陣を直したので、また一戦あるかと思っていたところ、5,6町離れていた政宗の兵は、何ごともなく退いた。こちらの兵の数も少なかったので、追いかけなかった。
この下郡山内記という者は、もともと輝宗へ仕えていて、相馬との合戦の際は鉄炮大将に任命され、たびたび報償をいただいていた。しかしそのときは勘気をこうむったため、成実をたより、成実の陣にいた。その日も味方が遅れたときは馬を何度も立ち返し、味方の力となり、敵を押し返すときも、真っ先に乗りかかり、敵と二度も取っ組み合った。家臣に頸を取らせ、比べる者のない軍功を上げた。
また同17日の晩、政宗も岩角へ引き上げられた。夜中ごろに山路淡路を使者にして、自筆の感状をくださった。「今日の戦い方は比べる者がいない。敵の後ろから戦をし、負けなかったことは前代未聞のことである。そのためあなたのおかげで大勢のものが助かった。怪我をしたもの・死者の数もきっと多くいるだろうが、とくに明日、敵方から本軍へ陣をひいたと聞いた。誰々を残されたいと思うけれども、誰がいいか見当もつかないので、大変だとは思うが、本宮へ入って欲しい。伊達上野も使わされた」と口上にて仰った。また淡路は今日の合戦、味方の者はどうなったか、付き添ってくる必要はなく、二人とも仕方なく敵にまぎれてやってきた。敵であるので、その様子はわからない。どちらも話していたのは、明日本宮に近く陣をしき、二本松に籠城している兵を退けられることについて詳しく話した。
日も暮れたので、ようやく敵陣を逃れてきたことを申し上げたところ、ただいま此様にご命令になった。本宮に籠城されるべきなので、その支度をすると言ったが、急のことであるので、心づもりもできず、18日の未明に、本宮の城へ入城した。敵の動きが遅いので、物見を寄越しただろうかと尋ねたところ、夜の内から付けていた。すると火の手が見えたので、陣を移したかと思ったところ、物見が早馬に乗ってやってきて、佐竹・会津・岩城の者たちは退却し、結局前田沢も退いたということを言ってきたので、前田沢へ人を送り、調べさせたが、ひとりもおらず引き上げた。政宗は本宮へお移りになり、仕置をなさったところ、多くの家臣がいたので、浜田伊豆は「昨日の合戦では、中村八郎右衛門が比べるもののない活躍をした。八郎右衛門のおかげで、味方は50も60も助かった」と申し上げた。そのとき八郎右衛門はご命令もなく刀を抜き敵を20騎ほど切り倒したせいで、岩を打ちそんじた刀をごらんになり、加増するべきであると命じられ、塩松に領地をいただいた。もしまた、この上も敵が戦をするかもしれないとお思いになったので岩角に2日間いらっしゃったのだが、何ごともなかったため小浜へ帰られ、年を越された。
天正14年、渋川の私のいるところで、元日に二本松から昼頃やってきた者がいた。私が働きかけるとまず馬上1騎、徒歩の者10人ほどがやってきて、陣場のはしの水くみ場へ乗り掛けて、水くみの者たちを追い返していた。城の中から兵をだし、合戦にあった。二本松への街道に、柴の小山があり道が一筋になったところを追いかけてきたところ、柴立のあとに、騎馬100騎ほど、足軽1000人あまりがおり、押し返された。道はいうに及ばず、川の方へも追い散らされた。鹿田右衛門は「遊佐佐藤右衛門は兼ねてから聞いていた者である。やり方を見るべきである」と思い、少し高いところへ右衛門は乗り上げ、見たところ、佐藤右衛門はこのあたりの生まれの者であったので、あたりのことをよく知っており、それぞれ追いかける道筋から西の方へ退き、敵が追いかけて通った者を、田んぼ一枚のなかで、3人に取り付き、2人の頸を取り、それから敵をおいあげ、敵1人を佐藤右衛門がとらえ、右衛門の居るところまで追い付いた。右衛門も堪えかねて、退いたと言った。野の中の道へ追い詰められた。
志賀大炊左衛門は真っ先に乗り入れ、4人に取りかかった。羽田右馬助は他を助けに行っていたので遅くかけつけ、脇から乗り入れて5人に取りかかり、その場所で30ほど頸を取り、そこから敵の足並みはわるくなった。八丁目からきた援軍は今の街道を、二本松へ押しきるように野の道を越えた。合戦城は二本松より東にあったので、押しきられるだろうと思い、二本松の兵が崩れたので、追かけて討った。鹿子田右衛門飯出井の細道に馬を立ち、逃げ散った者たちを押し返し、物別れした。
すると早々と日が暮れて味方も引き上げ、頸263取り、2日に小浜へ送り申し上げた。鹿子田右衛門は帰って、佐藤右衛門のことを馬の得意な者であると、かねてから聞いていたほどのものであると語っていたとあとで聞いた。

同年2月、二本松に籠もっていた蓑輪玄蕃・氏家新兵衛・遊佐丹波・同下総・堀江越中の5人は相談をし、政宗項へ「寝返って、二本松城をお取りになられるようするので、蓑輪玄蕃屋敷へ兵を入れられるように。地形もよいので、兵をお寄越しになりように」と言ってきたので、この5人の人質を取った上で、兵を夜中に送られた。4人のいるところは、城下で人を隠せるような場所も無かったので、玄蕃の屋敷へ退いたところ、その近所に住んでいる者たちが玄蕃屋敷へ示し合わせて入り、人多くいて、槍を回すことも出来ないほど詰めていた。また繰ヶ作というところも、願える予定だった。急ではなくとも、落城は難しいと思われたが、繰ヶ作は堅く籠城し、玄蕃の屋敷は二本松の本城と繰ヶ作のあいだにあったので、守ることが難しく、明け方に城中から玄蕃屋敷を攻めたので、退いた。出口は詰まり、本来の門からでることが出来なかったので、塀を押し破り、険しいところに人と人が重なり転びあい、男女ともに4,50人が踏み殺され、退却した。城は固く守られていた。
政宗は少々調子が良くなかったので、二本松への攻めは延期になり、4月の初めになった。うちうちに近く陣をしきたいと思われていたが、去年のように佐竹・会津・岩城より、安積方面へ出陣してきたら、城をまきほごし、安積へ出陣するのはどうかと思われ、北・南・東三方からも5日にお攻めになったけれども、城内から1人も出てこなかった。やらいに攻めかかるのは2,3ど行ったが、城が良かったため、お攻めになるのも難しかったため、小浜へお戻りになった。
そうしているうちに、相馬義胤から使者があり、実元はそのとき病気であったのだが、義胤の頼みに際して小浜へ来て、無事に仲介なされた。特に条件もなく、二本松の籠城していた者たちが退くようにとのいうことだったので、同年7月16日、本丸のみ自ら妬いて、会津へ退却した。領民たちは思い思いに退いた。私に城の受け取りをするようご命令になったので、その日にやってきて、本丸に仮屋を作り、政宗項は7月26日に二本松へ来られ、様子をごらんになって、その日お帰りになった。塩松は白石若狭が拝領した。その中多くの者が加増を下されたのもあった。二本松は成実に下された。とりあえず安積方面はなにごともなくなり、往来する者送り状を持って通るようになった。
同じ年11月、田村清顕が急死なさったので、政宗は福島までお出でになり、田村へは使者を送り、言葉を届けられ、すぐにお城にお帰りになられた。

感想

人取橋合戦から、二本松城開城までの様子が書かれています。
ここでおもしろいのは、

渋川の小競り合いのとき、柴立のあとにいた敵の人数、
『正宗公軍記』『伊達日記』:騎馬100騎・足軽1000人
『政宗記』:騎馬200騎・足軽24,500人

渋川合戦で取って小浜へ送った頸の数
『正宗公軍記』『伊達日記』:263
『政宗記』:340余り

と数が変わっているところであります。
これはおそらく『政宗記』の時点で盛ったのだなと思われます。
また『正宗公軍記』『伊達日記』の時点では出てこない「人取橋」の名称が見られ、おそらくこの二つのときにはまだそう呼ばれていなかった名称が『政宗記』執筆までに定着していたのではないかと予想できます。

*1:13年か

*2:松カ

『正宗公軍記』1-4:二本松義継降参の事附輝宗御生害の事

『正宗公軍記』1-4:二本松の畠山義継の降参の事と、輝宗が殺されたこと

原文

九月廿六日、正宗公、小浜の城へ、御馬を移され候所に、二本松義継より、拙者親実元方へ、仰せられ候は、代々、伊達を頼入り候て、身上相立て候へども、近年、会津・佐竹・岩城より、田村へ御弓矢に候。我等も清顕公へ御恨の儀候て、佐竹の見方を仕り、度々御同陣致し候。併、跡々の御首尾を以て、輝宗公、相馬へ御弓矢の時分、両度御陣へ参り、御奉公仕り候間、身上別儀なく立て置かれ下され候様にと、御頼に付いて、親実元、右の通り、輝宗公へ申上げ候へば、御挨拶には、相馬へ弓矢の砌、御越も御覚なされ候。併、今度大内備前御退治の砌、小手森に於いて、両口の合戦に、一口は義継先手に候。又大場の内へ働き候砌も、二本松へ御働なさるべき由、仰せ払はれ候。然りと雖も、種々御侘言に付いて、左様に候はば、南は杉田川を限り、北は由井川切に揚げ渡され、中五箇村にて相立てらるべく候。其上、御息、人質に米沢へ差越さるべく候由、仰せられ候。重ねて義継御申越し候は、南なりとも北なりとも、一方召上げられ下され候様にと、御侘言候へども、罷りならず候に付いて、輝宗公御陣所宮森と申す所へ、十月六日に、不図懸入られ候。十月六日の晩、輝宗公、正宗公の御陣屋へ御出でなされ候て、御台所へ家老の衆召寄られ、義継御侘言の様子、御訴訟なされ候。拙者若輩に候へども、相加へられ候事は、此御使者、右親実元仕り候間、義継への御使を仕るべき由、輝宗公仰付けられ候。拙者申上げ候は、若輩にて万事十方なき体にて、斯様の大事の御使仰付けられ候儀、迷惑の由申上げ候へば、実元取扱の首尾に候の間、御使仕るべく候。御差引万事輝宗公なさるべき由、仰せられ候間、是非に及ばず、御意に任せ候。義継、拙者を以て御訴訟には、右の如く、北なりとも南なりとも、一方差添へられ下さるべく候様にと、御侘に候。罷り成らず候に付いて、左様に候はば、只今差置き候家中の者共を、本の知行を下され、召仕はれ下さるべく候。只今迄奉公仕り候者、乞食致させ候事、迷惑の由仰上げられ候へば、夫も罷りならず候に付いて、爰許へ伺候申上げ候。切腹を仕り候とも、御意を背くまじき由、覚悟仕り参り候間、何分にも御意次第の由、申上らるるに付いて、漸く相済み候。義継御申候は、身上相済み忝く存じ候條、御目見え申したき由、仰せられ候間、其通り申上げ候へば、尤も御参会なさるべき由御意にて、義継、拙者陣所へ、十月七日の八つ時分御出で、彼是時刻移り、蝋燭立て候て、会ひ御申し参りなされ、宮森へお帰なされ候。同八日早天に、義継より御使に預り候て、我等宮森へ参り候。輝宗公御裃を以て相済み候。此御礼をも申上度候。又見廻申度き所も、数多御座候間、相済み罷帰り、子供、米沢へ登らせ申す支度をも申度き由、仰せられ候間、輝宗公の御陣所へ、拙者、伺候致候所に、伊達上野、其外家老の衆、数多宮森へ参られ、二本松迄落居御目出たき由、輝宗公へ申上げ候。能き御次に候間、義継、拙者方へ仰せられ候趣申上げ候へば、早々御出で候様にと、御左右申すべき由、御意候條、其通申越し候へば、義継、輝宗公御陣所へ御出でなされ候。義継供の衆、高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務三人、御座敷へ召連れられ候。和泉参り候時、義継へ耳付に何をか申し候て、座敷へ直り候。輝宗公御下に拙者、上野も居候。何も御雑談も御座なく御立ち候所、御門送に御立ち候に、内にて御礼なさらず候。御左右には、御内の衆居申し候故、捕へ申す事もならず候や、表の庭迄御出で御礼なされ候所に、道一筋にて、両方竹唐垣にて、御脇通るべき様もこれなく、詰り候の所へ御出でなされ、拙者・上野両人も、御庭へ罷出で候へども、通り申すべき所これなく、御後に居申し候所に、義継、手を地に御つき、今度いろいろ御馳走過分に存じ候。左様に候へば、拙者に切腹仰つけらるべき由、承り候と仰せられ、輝宗公の御胸を、左の手にて捕へ、右にて脇差を御抜き候。兼ねて申合すと見え、義継供の衆、後近く居候者共七八人、輝宗公の御後へ廻り、上野・成実を打隔てて引立て出で候。腋を御先へ通るべき様もこれなく、門を立て候へと呼び候へども、左様にも致しあへず、急に出で候間、是非に及ばず、各各跡を慕ひ参り候。小浜より出で候衆は、武具を以て早打仕り候。宮森より御供申し候衆は、武具をも着申すべき隙もこれなく、多分すはだにて候。討果し申すべき由申す衆も之なく、呆れたる体にて、取巻き申し候て、十里計り高田と申す所迄御供申し候。正宗公は、御鷹野へ御出で、御留主にて候故、御*1野へ申し上げ候て御帰り候。二本松衆に、道具持は、半沢源内と申す者、月剣にて一人遊佐孫九郎と申し候もの弓持一人、其余は抜太刀にて、輝宗公義継取巻き参り候。然る所に、取巻き参り候内より鉄砲一つ打ち申し候。打ち果し申すべき由、申す者も之なく候へども、総ての者懸り候て、二本松衆五十人余相果て、輝宗公も御生害なされ候。正宗公も、其夜は、高田へ御出馬なされ候。各家老申上げ候は、先づ小浜へ御引籠もり、御吉日を以て、二本松へ御働然るべき由、申上げ候に付いて、十月九日未明に、小浜へ御帰なされ候。輝宗公御死骸、其夜、小浜へ御供申し、長井の資福寺にて御葬礼なり。遠藤山城、内馬場右衛門追腹仕り候。須田伯耆は、百里隔てて在所にて追腹仕り候。八日の晩、義継死骸、御尋なされ候。方々切放し候を、籐を以て連ね、小浜町の外に磔に御揚げ、数多番を附け申され候。義継抱の地本宮・玉の井・渋河、八日の晩に、二本松へ引退き候。米沢へ人質に差越さるべき由、御合され候国王殿と申す十二になられ候子息を、譜代の衆守り、義継従弟に、新庄弾正と申す者、兼ねて覚のものに候。彼の者、物主になり候て、籠城いたし候。
十月十五日に、二本松へ御働なされ候へども、内より出でず、堅固に相抱へ候間、何事なく打上げられ候。川を越え高田へ総人数を引き、陣を相懸け候。明日の御評議承るべき由存じ候て、拙者も高田へ参り候。其夜の陣場は、いほら田と申し候て、二本松より北、高田よりは各別の所なりければ、八丁目の抱に付けて、差置かれ候。成実人数、北へ上り候に付いて、城中より出で合戦仕り候。双方数多討死致し候。高田の衆も相返され候に付いて、城内より出で候人数、遠やらいまで押入れ、物別れ仕り候。十五日夜半時分より、大風吹き出で候て、明方より大雪降り、十六日より十八日迄、昼夜共に降り続き候の故、馬足叶はず、御働もならず、廿一日に小浜へ御引籠り、年中は御働きなるまじき由にて、境々の衆、残なく相返され候て、御休息なされ候。
翌年の七月まで、二本松の城相抱へ候。仔細は高玉阿児ケ島、会津奉公仕りて、深山伝いに二本松へ通路仕り候。内々、通路へ附城なりとも、なされたく思召し候へども、義広・義重・常隆御出馬を、御気遣を以てなされず候。其上、高き山にてみはへ通路を留むべきやうなく、人数をも越し候へども、罷り通らず候。人数もこれなき時は、見切り候て通り候間、米なども少々通り候ゆゑ、翌年七月まで、相抱へ候。

語句・地名など

早天:早朝
すはだ:甲冑をつけずに/はだかで

現代語訳

9月26日、政宗公が小浜の城へ移動なさったところ、二本松の畠山義継から、私の親実元のところへ「代々伊達を頼みにして、身上を立ててきたけれども、近年は会津・佐竹・岩城から田村へ戦を仕掛けていた。私も清顕に対し、恨みに思っていることがあり、佐竹の味方をし、度々陣を同じくしています。あわせて、後々の詳細をもちまして、輝宗公が相馬へ戦を仕掛けられたとき、二度陣へ参り、お仕えしたので、身上について変わらず置いてくださるようお願いできないでしょうか」と言ってきたので、実元はこの通り輝宗へ申上なさったところ、お返事として、相馬との戦の時、参陣したことも覚えている。それにくわえ、今回の大内定綱退治のとき、小手森において両方からの戦になったとき、片方は義継が先手であった。また大場の内へ戦闘を仕掛けたときも、二本松へ戦闘を仕掛けるべきことをお断りになった。しかし、さまざまな侘び言についてそのようにするのならば、南は杉田川を限り、北は由井川を境に献上し、その中の5ヶ村にて身上を立てるべし、また子息を人質として米沢へ寄越すようにと仰られた。再び義継が行ってきたのは、南でも北でも、一方召し上げくださるようにと侘び言を言ったが、それはならないという話について、輝宗が陣所としていた宮森城というところへ、10月6日、急に駈け入ってきた。
10月6日の晩、輝宗は政宗の陣屋へおこしになって、御台所へ家老衆をお呼びになり、義継の侘び言のようすを訴えなされた。私は若輩者だけれども、その話し合いに加わったのは、私の父実元がしていた使者であったので、義継への使いをしなさいと輝宗公が仰られたのであった。私は「若輩者なので、何ごともうまくできないので、このような大事な使いを承るのは、大変である」と言ったが、実元が取り扱っていたことであるので、使いをするようにとのことだった。責任はすべて輝宗がとるので、と仰られたので、仕方なく、お使いをすることになった。
義継は私を介して訴えてきたのは前述のように「北でも南でも、一方はどうかお許しください」という侘び言であった。それはならないということを告げると、そうであるならば、今使えている家中の者たちを、伊達家に知行を与えていただき、召し使ってくださらないでしょうか。今まで仕えてくれた者たちを乞食にするわけにはいけませんと言ったところ、それも無理であると言うことを言われ、私の所へやってきたのである。
切腹を申し付けられても、意志を変えることはないと覚悟して来たので、ご命令のことをどうにかしてくれないかと申し上げたので、ようやく事が済んだ。義継は身上について問題なく住んだので、輝宗に御目見得したいと言ったので、その通り輝宗に申し上げたところ、会った方が良いだろうという意志で、義継は私の陣所へ10月7日の八つ頃やってきて、かれこれ時間が過ぎ、ろうそくを立てて、会われになり、宮森へお帰りになった。同じく8日の早朝に、義継から使いがやってきて、私は宮森へ行った。
「輝宗公が裃で応対してくださった。この御礼も申し上げたく、また見廻りしたいところも多くあるので、いったん帰って、子どもを米沢へ送る支度をしたい」と言ったので、輝宗公の陣所へ私が伺候していたところに、伊達上野政景、そのほか家老の衆がたくさん宮森へ来られ、二本松のことまで決着がついたことは目出度いと、輝宗へ申し上げた。よき取次であったので、義継が私のところへ行ったきたことを申し上げたところ、早く来るようにと、いうようにとご命令になったので、そのとおりにお伝えしたところ、義継は輝宗公の陣所へお越しなさった。義継の供の衆は、高林内膳・鹿子田和泉・大槻中務3人を座敷へ連れてきていた。和泉が来たとき、義継に耳をつけ、何ごとかを言って、座敷へ座った。輝宗の下座に私と上野も居た。とくに雑談もなく、出発するというので、輝宗は門まで送ると立ち上がったので、内では御礼をしなかった。左右には身内衆がいたので、捕らえることもできなかったのか、表に庭までお出になって礼をなされたところに、道一筋に、両方が竹の垣になっており、脇を通ることもできず、つまっているところへお出になり、私と上野ふたりも、お庭へ出たけれども、通るところがなく、後ろに居た。義継は手を地につけ、「此度いろいろ尽力いただいたこと、身に過ぎたことだと思います。そのように言えば、私に切腹をご命令になるとのことをお聞きしました」と言って、輝宗の旨を左の手で捕らえ、右の手で脇差を抜いた。もとから言い合わせていたと思われ、義継の供の者は後ろ近くに7,8人輝宗の後ろへまわり、上野・成実をへだてて引き立てて出ていった。脇を通って先へ行くこともできず、門を閉めよと読んだが、そのようにもできず、急に出発したので、仕方なく、それぞれあとを慕って追いかけた。小浜より出てきた者は武具を持っており、すばやく出立することが出来た。宮森から着いてきた者は、武具さえ着る時間もなく、ほとんどが甲冑を着けていなかった。討ち果たしもうしあげるべきという者もおらず、呆然として取り巻いて、10里ほど高田というところまで音もした。
政宗は鷹野へお出になって留守だったので、鷹野へ連絡したところ、お帰りになった。二本松衆のうち、武器を持っていたのは、半沢源内という者で月剣でひとり遊佐孫九郎という者が弓を1人持っており、残りは太刀を抜いて輝宗公と義継を取り巻いていた。そうしているうちに廻りを取りまいていた中から、鉄炮が一度打たれた。討ち果たすべきであると言う者はいなかったが、すべての人が戦闘に加わり、二本松衆を50人あまりが死に果て、輝宗も命を落とされた。政宗も、その夜は高田へお越しになった。それぞれ家老はまず小浜へ引き上げ、良い日を選んで二本松へ攻めかけるべきであると申し上げたので、10月9日未明に小浜にお帰りになった。
輝宗の遺骸はその夜小浜へお連れいたし、長井の資福寺にて葬礼を行った。遠藤山城・内馬場右衛門が追い腹を遂げた。須田伯耆は100里隔てた在所で追い腹をした。8日の晩、義継の遺骸についてお尋ねになり、あちこち切り離した遺体を籐を使ってつなげ、小浜の町の外に磔にし、さまざまな当番をお付けになった。義継が治めていた本宮・玉の井・渋川の者は8日の晩に二本松へ引き上げた。米沢へ人質に連れてこられる予定であった国王どのという12になる子息を譜代の衆は守り、義継の従弟新庄弾正という、頭の良い者がおり、この者が代表となって籠城した。
10月15日に二本松へ戦闘を仕掛けなさったが、人が内から出てこず、堅く籠城していたので、何もなく切り上げた。川を越え、高田へ総勢を置き、陣をかけた。明日の評議が行われることを聞いて、私も高田へ行った。その夜の陣場はいほら田(伊保田)といって二本松より北、高田とは別々のところであるが、八丁目の領内だったので、差し置かれた。
成実の手勢は北へ上ったのを契機に、城内より兵が出てきて合戦となった。双方多くの死者をだした。高田の衆も返されたので、城内からでてきた兵は遠やらいまで押し入り、物別れとなった。15日真夜中から大風が吹いてきて、明け方から大雪が降り、16日から18日まで、一日中雪が降り積もったため、馬で動くことも出来ず、攻めかかることも出来ず、21日に小浜へ引き籠もり、年内は戦闘がないだろうということで、境目の宗は残らず返されて、政宗はお休みになった。
翌年の7月まで、二本松の城は籠城していた。詳細は高玉・阿久ケ島・会津の方へ奉公し、深山づたいに二本松へ通る道があった。うちうち通路を付けて城を攻めようとも思われたが、蘆名義広・佐竹義重・岩城常隆が出陣してくるのを心配して実行されなかった。そのうえ、高い山であったので上から見られ、通路を止めることができず、兵を送ったが、通ることはできなかった。兵も足りないときは見切れて通ることができたので、米なども通ったので、翌年7月まで籠城したのだった。

感想

畠山義継による輝宗傷害事件のその発端から結末までの詳細が書かれています。成実は義継との取次の仕事を任され、一度は辞退しますが、輝宗に説得され、取次を引き受けています。何度も義継とやりとりし、事件が起こった日も、留守政景とともに輝宗のそばにいます。
その様子は実際そばで見ていた臨場感を感じさせます。
政宗は昼は小浜近辺の鷹野へ行っていたこと、夜は高田にいて輝宗を弔ったことが書かれていますが、発砲された瞬間にいたかどうかははっきりとはわかりません。このあたり、いろいろ説がありますが、興味深いです。
政宗が語ったものを記した『木村宇右衛門覚書』では政宗は追い付いたことになっています。

*1:鷹の一字脱カ

『正宗公軍記』1-3:青木修理御味方仕り、塩の松、御手に入り候事

『正宗公軍記』1-3:青木修理が味方になり、塩松が手に入ったこと

原文

天正十三乙酉七月初に、米沢へ、拙者、使を上げ候て、猪苗代の儀、相違仕り候て迷惑に存候。会津に御敵は御座なく候間、大内備前を御退治なされ然るべく候。御尤に思召され候はば、備前家中の内、迷惑致候者、御奉公仕候様に、一両人も申合すべく候。如何之あるべき由申上候へば、御意には、会津に御敵は之なく、御馬を収められ候事、口惜く思召され候。此上は、塩の松へ御出馬と思召され候。尤も御忠節仕り候者、遣すべき由、猶以て然るべき儀に候の間、早々才覚申すべき由、仰下され候間、元来、塩の松より罷り出で候大内蔵人・石井源四郎と申す者御座候。此両人に申付け、刈松田の城主青木修理と申す者の所へ、申遣し候へば、尤も御味方仕るべき由、合点致し候て、知行など望み申候故、御判形相調へ差越し候。大内備前、田村境の城主よりは、久しく人質取り申され候。正宗公御意に背き候ては、塩の松中残なく、城主共より証人取り申候。彼の青木修理も、十六に罷成候弟新太郎と申す者は、頃日の青木掃部の事にて候。五歳に罷成候子供を差添へ、両人小浜へ証人に相渡し申候。修理存じ候様には、米沢御奉公仕候へば、彼の人質相捨て候事、迷惑に存候。証人替へ申したく存候て、大内備前家老の子中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉と申す者三人へ、状を越し、只今追鳥の時分に候間、慰に罷越し然るべき由申遣す。何れも若き者共故、以後の分別も之なく、八月五日の晩、刈松田へ罷越し、六日の朝追鳥を仕り、帷子十四五取り、料理候て、夜半時分まで大酒を仕り候所に、青木修理申す事には、何れも御酒に酔ひ候の間、過もあぶなく候。刀・脇差を渡し候へと申し候へば、三人の者共、少しも苦しからざる由申候へども、修理は底意御座なく*1候。殊に下戸にて、御酒は給べずと、無理に脇差・刀を取り、長持へ入れ、三人の者沈酔致し、臥し候て、覚えず夜を明し候。修理は、内証へ家中十人計り呼び、具足を着せ、三人臥し候所へ押懸け、起し候て、修理申す分には、大内備前殿への恨の儀候て、逆心仕り、米沢へ御奉公申候。御存じの如く、弟新太郎並びに子供、小浜に人質に置き申候間、証人替に申したく候。命の儀は、御気遣あるまじく候由、申理り候。三人の者共、相果てたき由、申上候へども、刀・脇差を取られ、仕るべき様之なく、絆を打たれ刈松田に居り候。其日に修理、小浜に向つて、火の手を揚げ手切仕候て、我等処へ註進申候の間、則ち米沢へ飛脚を以て申上げ候。御出馬迄*2は遅き由、御意なされ、小梁川泥蟠・白石若狭・原田左馬之助・浜田伊豆差越され候條、我等右四人の衆、同心致し罷越し、刈松田近所飯野に在陣致し、我等はたつこ山と申す所に在陣仕り候。正宗公、十二日に福島に御出馬なされ候。青木修理に、成実使を差添へ、福島へ上げ申候て、則ち御目見仕らせ候所に、今度御忠節の儀、御大慶の由にて、御腰物下され候。其上、塩の松の絵図を仕上げ申すべき由仰付けられ、昼書を宿へ差越され候に付いて、大方、書立て上げ申候へば、絵図を御披見なされ、刈松田近所より、御働なさるべき由、思召され候所に、田村より御手を越され、今度は清顕公と御同陣なさるべく候由、仰合され候間、小手森へ御働なさるべき由、仰せられ候間、川俣へ御馬を移され、御働前に、清顕公へ蕨平と申す所にて、御対面なされ候。小手森へ廿三日に御働なさるべく候由、仰合され候へども、大雨にて相延べ、廿四日に小手森へ御働き候所に、小浜の火勢、会津・仙道・二本松の人数、小手森近所迄助け来る。小手森へは、大内備前自身に籠り、城中堅固に見え候。近々と相働かれ候へども、内より一人も出でず、城中多人数に見え候間、此方よりなされ*3懸るべき様も御座なく、押上げられ候所、後陣の衆へ、内より人数を出し、合戦仕懸け候間、総人数打返され合戦御座候。会津助の勢も打上げ、城中より申合すと見え、両口より合戦仕懸け、助の衆は二本松先手にて候。田村衆は東より、伊達衆は北より働き候。其間に大山候て、田村衆は合戦に用立たず候。然る所に、正宗公、御不断鉄砲五百挺程召連れられ、東の山添より押切り候様に、横合に御懸りなされ候間、城中より出づる人数敗北候故、矢来口へ押入り、頭五十余討たれ候。多くも討たせらるべく候へども、小口へ入らず、南へ逃げ候列*4は、二本松衆との合戦候間、追過候へば、助の衆押切られ候條、追留め候て少々討たせられ候。大内は其夜に小浜へ帰る。其夜は五里ほど引上げられ、御野陣なされ候。夜懸も之あるべきかと、辻々芝見を差置かれ候へども、何事なく候。廿五日に押詰め御働きなされ候へども、城中より一人も出合はず。会津衆も助け来り候へども、なる*5くきと申す所に相備へ、下へは打下げず、通路は城中へ候へども、人数たる人は参らず候。其日は何事もなされず打上げられ候。又野陣へ少し御寄り候。左様に候へども、田村衆と出会ひ候事ならず候。六日又、御働きなされ候へども、内より出でず候間、内の様子御覧なされ候為めに、鉄砲御懸け然るべき由、片倉小十郎申上げ候に付いて、七八百挺程、内の横追へ御懸りなされ候へども、城中堅固に持ち候間打上げられ、又御野陣へ少し御寄りなされ候。拙者申上候は、明日は南の竹屋敷へ越し、通路を留め申すべき由、総陣へ相告げられ然るべき由、申上候へば、御意には、左様に候はば、助の人数打下げ妨ぐべき由、思召され候。左様に候はば、城中よりも出づべく候間、両口の合戦は、如何たるべき由仰せられ候。又申上候は、左様に候とも苦しからず候。竹屋敷へ、陣を移し候へば、田村衆も出会ひ候間、城中より定めて私陣所へ懸り申すべき條、田村衆も拙者に相任せらるべく候。助の人数とは、総御人数を以て、御合戦なさるべく候。両口の御合戦に候とも、御気遣之あるまじく候。其上、助の衆打上げ候地形も切所に候間、合戦仕りにくく之あるべく候。一昨日も城中へ押込まれ候二本松衆の合戦、強く仕懸申さるべく候へども、御気遣か引上げ申され候う由、申上候へば、原田休雪申候は、陣を越し候事、返す返す御無用に候。御戦は御大事にて候間、日数を以て、後には左様然るべき由申候。半分は成実を御越させ然るべき由申し候。又休雪申し候を、尤のよし申す衆も候て、落居仕らず其日は打上げられ候。翌日廿七日、昨日竹屋敷へ陣を移し、通路を切り申すべき由申上げ候所、半分は然るべき由申上げ候へども落居仕らず候。余り悪しき道には之なく候條、御意を請けず候へども、未明に竹屋敷へ陣を越し申候に付いて、伊達上野、拙者陣所へ引続き陣を移し、総陣を相詰べきの由仰付けられ、陣具を持運び候。総御人数は、常々御働の如く、備を取り候て、夫兵は野陣を相懸け候。然る所に、内より敵一人罷り出て候て、成実陣所へ、小旗を振り招き候間、人を越し尋ね候へば、我等家中に、遠藤下野に会ひ申したき由申候。斯様に申候者、石川勘解由にて候。兼ねて懇切の者に御座候間、下野を遣し会はせ申候の所に、勘解由申す事には、此城に小野主水・荒井半内を始めとして、大内備前近く奉公仕り候者共、数多籠り申候。通路を切られ候上は、落城程あるまじく候間、御侘言申し、城を相渡し、小浜へ相退きたく候間、拙者を頼み申すの由、申すに付いて、御前へ使を上げ申候て、斯様御訴訟申候。召出さるべく候哉と申上候所、御弓矢の渉参り候様にと、思召され候間、御退をなさるべく候。去ながら城中の者共、小浜へは遣さるまじく候。伊達の内へ罷退かるべき由、御意に候の間、石川勘解由を呼出し、御意の通り、申候へば、又勘解由罷出で、城中の者共申候は、伊達へ罷越し候事、命乞にて候。大内備前切腹も、程あるまじく候間、腹の供を仕りたく存候て、御訴訟申し候間、去り迚は我等前之あるべく候。右申上候如く小浜へ遣され下さるべき由、申候に付いて、其通り、申上候へば、右の通り、仰出され、小浜へは差越さるまじく候。伊達の内へ引退き申すべき由、御意なされ候。其時遠藤下野、門二重内まで罷越し、其様子申断り候所に、御前より又御使を下され、城中の者共にこわき事をなされず候故、申したき事を申候の條、御攻めなさるべく候。若し本丸まで御取詰なされ候はば、其時は異儀なく、伊達へも引退き申すべく候間、総手へも仰付けられ候由、御意に候間是非に及ばず、城へ取付け候。下野は漸々内より罷出で候。我等手前より早や火を付け候故、山城にて則ち吹上げ、方々へ吹付け候。其外押籠め申候所に、何方にても火を付け候故、存じの外、内の者共、役所を離る。未の刻より御攻め、申の刻に本丸落城申し候。撫切と仰出され、方々へ御横目を差置かれ、男は申すに及ばず、女房・牛馬に至る迄切捨て、日暮れ候て引離れ候。味方に紛れ生き候者は如何、敵と見え候者、一人も残らず打果され候。其夜、新城・木こり山、敵地に御座候。両城共、自焼仕り引退き候。廿八日未明に仰出され候は、木こり山へ相移らるべきの由、御触御座候間、各陣場取に参り候。我等も家中四五騎先へ越し候所へに、馬上一騎、敵方より参り候て招き候間、成実家中の者、乗向ひ尋ね候へば、服部源内と申し候て、我等もと、扶持仕り候者にて、塩の松へ本意仕り候者に候。築館の城を引退き候間、早々追駈け申すべき由、申すに付いて、早早引退く。から城へ乗入り、其由申上げ候へば、築館へ御馬を移され、御休息なされ候。築館に御逗留の内、青木修理抱へ置き候右三人の者共の儀、小浜へ内通申すに付いて、大内備前も、修理弟と子供相返し候事、無念に存じ候へども、家老の者共の子供を相捨て候事ならず候て、日限を申合せ、小瀬川と申す所へ、双方より罷出で、御横目を申請け、弟新太郎と子供を請取り、九郎四郎と新八郎・次郎吉取替へ候て、帰り申候。
斯様に、塩の松は御弓矢に候へども、八丁目親実元居り申し候二本松境は、手切之なく候。其仔細は、右に書付け候通り、二本松・塩の松は、弓矢の強き所へ身上を持ち、相立ち候に付いて、義継、大内備前に加勢なされ候へども、伊達の弓矢つのり候はば、伊達へ御侘申上ぐべき分別と相見え候。又親実元分別には、会津・仙道の衆、塩の松へ相助け候。田村は敵に候の間、二本松領計りを通り候間、義継に疑心申す様にと、思案候て境を静め申候。其存分、正宗公へは申遣され候へども、我等は若輩の間、聞かせ申されず候。此境、手切れ候はば、弥々以て強くなるべく候間申上げ、手切仕るまじく候由、拙者両度迄折紙を致させ、八丁目二本松境無事に仕られ候。
清顕公より仰せられ候は、小浜には助の衆、多人数に候。其上、塩の松の者共、方方より引退き候て、小浜へ集り候間、御働なされ候とも、御敵はあるまじく候條、田村へ御廻りなされ、備前抱の小城共、御取なされ然るべき由、仰遣され候に付いて、築館を九月廿二日に御立にて、黒籠と申す城、田村御抱に候の間、それへ御馬を移され、廿三日には御休息なされ候。小浜に替の衆候て、人数を引籠め申すべき由、片倉小十郎を以て申上げ候に付いて、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎四人は築館に相残され、小浜を取り申すべき由、仰付けられ候。
黒籠より廿四日におうばの内と申す城へ、御働きなされ候。彼の地へ二本松衆助入り候。少々内より人数を出し、合戦候へども、強くもなされず候故、物別仕り候て、其日は何事も之なく、黒籠へ打上げられ候。築館に差置かれ候四人の衆も、小瀬川と申す所へ働く所に、正宗公御働遅く候て、片倉小十郎、其砌無人数にて、手勢二百計りを以て、無兵儀に小浜近所迄参り候所に、小浜の人数押立て、小瀬川迄五里計り追懸け候。四手の衆川を越え合戦仕り候。小浜衆は五六百騎も参り候へども、正宗公御気遣を存じ候て、早く打上げ候。此方の衆は、無人数にて候間押添はず、双方へ首十計りづつ取り申し候。
廿五日に、岩津野へ御働きなされ候。地形を打廻り御覧なされ、近陣に御攻めなされ候て、彼の城を取らせられ候へば、二本松の通路不自由に罷成り候間、明日相移らるべきに極り、又黒籠へ打帰られ候。
小浜に於て助の衆相談には、岩津野を取られ候はば、引退き候事なるまじき由申す。会津衆、大内備前へ異見申し候は、今日正宗公、岩津野を打廻り御覧なされ候。彼の城を取らせらるべき由思召され候と相見え候。取られ候はば、何れも引退き候事罷り成るまじく候間、今夜引退き然るべく候。会津に於て松本図書之助跡、明地にて候間、之を下され、会津に宿老になされ候條、申上ぐべく候條、罷り退くべき由、頻に異見致す。其使には、中目式部・平田尾張両人を以て、催促申すに付いて、大内備前も、通路大事に存じ候て、抱の城共残なく其夜二本松へ引退き、塩の松の分は落居仕り候。

語句・地名など

一両人:ひとりかふたり
才覚:工作・うまくやる
刈松田:かりまた(飯野町飯野)
過:あやまち、しそこない
底意:心の底、心中
矢来口:矢来をしかけた出口
小口:城の出入り口
辻々:あちこち
芝見:忍び物見
落居:決定・落ち着くこと、落着
おうばの内:大波内
岩津野:岩角

現代語訳

天正13年7月の初めに、私は米沢へ使いを遣わし、猪苗代のことで行き違いがあり、大変困っている。会津に敵は居ないので、大内備前定綱を退治されるべきである。尤もだと思われるのであれば、定綱の家臣の中で、迷惑している者が寝返りをするようひとりふたりと言い合わせるべきである。如何しましょうかと申し上げたところ、政宗は「会津に敵はおらず、戦が終わってしまったことは口惜しく思う。この上は、塩松へ出馬しようと思っている。寝返りをする者は使わすように、それでもそうであるべきことであるので、早いうちに工作するべきである」と仰った。
もともと、塩松からきた大内蔵人・石井源四郎という者がいた。この二人に言いつけ、刈松田の城主である青木修理という者のところへ使わしたところ、寝返って味方になりたいということを同意し、知行のことなどを願い出ていたので、政宗に書状を調えてもらい、送った。
大内定綱は、田村領との境を治める城主から、長い間人質を取っていた。政宗の意思に逆らってからは、塩松領のすべてから城主たちから人質を取っていた。
かの青木修理には16になる弟新太郎という者がおり、それは現在の青木掃部の事である。5歳になった子どもをそえて、二人を小浜へ人質として渡していた。修理は「米沢の政宗に仕えることになれば、この人質たちが殺されるのは、大変困ることになる。人質の交換をしたい」と思い、大内定綱の家臣の子である中沢九郎四郎・大内新八郎・大河内次郎吉という三人へ、手紙を送り、いまは追い鳥狩りの季節であるので、気晴らしにお越しになればよいと言ってよこした。いずれも若く、分別のない者たちであった。8月5日の晩、刈松田へやってきて、6日の朝追い鳥狩りをし、雉子14,5匹を取り、料理して、真夜中まで大酒を飲んでいたところ、青木修理は「お酒に酔っていらっしゃるので、なにか過ちがあっては危ない。刀と脇差をお渡しください」と行った。すると3人はみな大丈夫であると行ったが、修理は心の中で考えがあった。とくに私は下戸なので、お酒は飲めませんと無理に脇差と刀を取り、長持ちにいれた。3人は酷く酔って眠り、臥したまま、目覚めることなく夜を明かした。
修理は内密に家臣を10人ほど呼び、鎧を着せて、3人が寝ているところへ押しかけ、起こして、修理は「大内定綱どのへの恨みがあって、裏切り、米沢の政宗へ使えることにした。知っているように、弟新太郎と子どもが小浜に人質として捕らえられているので、人質交換したい。命のことは心配することはない」と言った。
3人はここで死にたいと言ったが、刀と脇差を取られ、できることがなく、つなぎ止められて刈松田に留め置かれた。その日に修理は小浜にむかって火の手をあげ、戦闘体勢に入り、私の所へ連絡してきたので、すぐに米沢へ飛脚で政宗に申し上げた。
御自身の出陣は遅くなるとお思いになり、小梁川泥蟠斎・白石若狭・原田左馬助・浜田伊豆を寄越されたので、私はこの4人の者たちと一緒に行動し、刈松田の近くの飯野というところに在陣し、私は竜子山というところに在陣した。
政宗は12日に福島に出陣なさった。青木修理に私の家臣を付き添わせて、福島へ連れていき、すぐに御目見得させたところ、今回の寝返りのことを大変お喜びになって、刀を下された。そのうえ、塩松の地図を作るように仰り、昼に書状を宿へよこされたので、だいたいのところ書き上がっていたので、絵図をごらんになり、刈松田近所から、戦闘を仕掛けるこよう思われた。
そこへ、田村から書状がきて、今度は田村清顕とともに陣をひくよう仰られたので、小手森へ出陣するべきであると仰られた。川俣へ行かれ、出陣前に、清顕と蕨平というところで対面なさった。小手森へ23日に戦闘を仕掛けるよう仰れたけれど、大雨だったので延期し、24日に小手森をお攻めになったところ、小浜の加勢・会津・仙道・二本松の勢が小手森近くまで助けにいた。小手森には大内備前が籠城しており、城の守りは堅固に見えた。そばへ寄られが、中からは1人も出てこなかった。籠城兵はたくさん居るように見えたので、こちらから取りかかる様子もなく、攻め上げたところ、後陣の者の所へ中から手勢を出し、合戦を仕掛けたので、総勢を返され、合戦となった。会津からの援軍もやってきて、城の中と言い合わせているようであり、両口から合戦をしかけ、援軍は二本松衆が先陣であった。田村勢は東から、伊達勢は北から攻めた。その間に大きな山があって、田村勢は合戦の訳には立たなかった。
そうしているところに、政宗は不断鉄砲衆を500挺ほど連れて、東の山のそばから押しきったところ、横合わせにとりかかったので、城からでてきた勢は敗北したので、矢来口へ押し入り、大将50人あまりが打たれた。もっと討ちとるよう思われたが、城の入り口へは入らず、南へ逃げた者は二本松衆との合戦となったので、追いかけたところ、援軍は押しきられたので、追うのを止めて少々討たれた。大内定綱はその夜に小浜城へ帰った。
その夜は5里ほど引上、野宿の陣をひかれた。夜討ちもあるだろうかとあちこちの辻に見張りの忍びを置かれたけれども、何ごともなかった。
25日に、押して詰めかけ、戦闘を起こしたけれども、城中からは1人も出てこなかった。会津勢も助けに来たけれどもなるくきというところに陣を引き、下へは下がってこなかった。通路は城の中へ続いていたが、戦うべき人はこなかった。その日はなにごともせず引き上げた。また野陣へ少しちかよりなさったが、田村勢と出会うことはなかった。
6日(26日)にまた戦闘をしかけなさったが、城の中からはだれも出てこなかったので、中の様子をごらんになるために、鉄炮をしかけましょうと片倉小十郎景綱が申し上げたので、7,800挺ほど、中の横側へかかりなさったが、城は堅く守られていたので、途中でおやめになり、また野陣に少し近寄りなさった。
私は「明日は南の竹屋敷へ移り、通路を止めるべきであるとすべての陣へつげるべきである」といったのだが、政宗はそのようにしたら、援軍の手勢を防ぐであろうと思われた。そうであれば、城中からも軍勢が出てくるだろうから、両方の入り口での合戦はどうだろうかと思われた。
また私は「そのようになっても大丈夫です。竹屋敷へ陣を移したなら、田村勢とも合流でき、城からきっと私の陣所へ攻めかかるだろうから、田村勢も私に任せてくださいますよう。援軍とは総勢で合戦をすべきである。二箇所での合戦になったとしても、心配することはなにもない。そのうえ、援軍が退却する地形も難所であるので、合戦をするのには難しいと思われる。一昨日も城中へ押し込まれた二本松勢との合戦を強く仕掛けるべきですが、護身@愛ならば引上なさったらいい」と申し上げると、原田休雪斎は「陣を移すことは何度もいうが不要である。合戦はおおごとであるので、日にちをかけて、そのようになるのを待つべき」と言った。半分は成実を寄越させるべきだといい、また休雪斎のいうことが尤もだという者もいて、決まることはなくその日は打ちきった。
翌27日、昨日竹屋敷へ陣を移し、敵のとおるところを切るべきであると申し上げたので、半分はそうすべきであると申し上げたが、議論の決着はつかなかった。あまり分の悪いようになるとは思わなかったので、ご命令はなかったが、未明に竹屋敷へ陣を移したことについて、伊達上野政景は私の陣所に続いて陣を移した。政宗はすべての陣を詰めるべきであると仰せになって戦道具を持ちはこんだ。総勢はいつもの戦闘のように、備えを取って、兵は野陣をしかけた。
そうしているうちに、うちから敵が1人でてきて、成実の陣所へ小旗を振りながら招いてきたので、人を送り、聞いたところ、私の家臣の遠藤下野に会いたいと行ってきた。こう言ったのは石川勘解由であり、以前から親しくしていた者だったので、遠藤下野を送ったところ、勘解由は「この城には小野主水・荒井半内をはじめとして、大内定綱の近くに仕えている者たちが多く籠城している。通路を切られたからには、ほどなく落城するだろうから、懇願し、城をお渡しして、小浜へ引き上げたい」と私を頼ってきたと言うので、政宗の御前に使いを送り、その旨を申し上げた。お呼びになりますかかと申し上げたところ、戦に死傷がでてはいけないと思われたので、止められた。しかしながら、城の中の者たちを小浜に使わすのはできなかった。伊達の内に退くべきであると思われたので、石川勘解由を呼び出し、ご命令の通り言ったところ、また勘解由はやってきて、城内の者たちは「伊達へ行くのは命乞いです。大内定綱が切腹するのももうすぐでしょうから、切腹のお伴をしたいと思い、お願い申しているが、そのために私は御前におります」と言っていると申し上げたところ、そのように仰り、小浜へは退却させず、伊達の領内へ引き上げるようご命令になった。
そのとき遠藤下野は門の二重の内までやってきて、そのようすをいって断ったところに、政宗の御前からまた使いをくだされ、城の者たちに強く攻め上げなかったので、言いたいことを言ったため、お攻めになるべきで、もし本丸まで攻めたなら、そのときは異議なく伊達に引き上げるので、すべての勢に言われ、ご命令になったので、仕方なく城へ攻め上げた。
下野はようやく城からでてきて、私たちのところから早々と火を付けたが、山城であったので直ぐに吹き上げ、あちこちへ火が移った。そのほか押し込めていたところへすべての出口から火を付けたので、思った以上に中の者たちは任せられたところから離れた。未の刻から攻めて、申の刻に本丸が落城した。
撫で切りをせよと仰せになり、あちこちへ見張りを付け、男はもちろん、女房・牛馬に至るまで切り捨て、日が暮れて離れた。味方に紛れて生きていた者はどうなったか、敵と思える者は1人も残らず討ち果たされた。その夜、新城・樵山は敵地であったが、二つの城とも自ら火を放ち、退いた。
28日未明に「樵山へ移るべきである」とご命令になったので、それぞれ陣場とりを大古なった。私も家来が4,5騎先へ行ったところ、馬に乗った大将が1人敵方よりきて、招くので、私の家臣が向かっていき御尋ねたところ、かれは服部源内といい、私のところで仕えていた者で、塩松へ寝返ったものであった。築館の城から退いたので、早々と追いかけるべきであるといって、早々と退いた。からの城へ乗り込んで、そのことを申し上げたところ、政宗は築館へお移りになり、お休みになった。
築館に逗留なさっている間に、青木修理が捕まえていた前述の3人の者たちのこと、小浜へ申し渡したところ、大内定綱も修理弟と子どもを返すこと、大変無念と思うが、家老たちの子息を棄てることはできないといい、日にちを決め、小瀬皮というところで双方からやってきて、政宗の見張りをつけ、青木新太郎と子どもを受け取り、九郎四郎と新八郎を取り替えて帰った。
このように、塩松とは戦をしていたが、八丁目の実元がいた二本松の境は戦闘にはなっていなかった。その詳細は、書き付けたとおり、二本松・塩松は戦の強いところにすりより、成り立っていたので、畠山義継は、大内定綱に加勢していたが、伊達の勢いがあがってきたので、伊達を頼るのがよいとおもったのだろう。また、私の親の実元が健在であった頃には、会津・仙道の衆は、塩松を助けていた。田村は敵であったので、二本松領ばかりを通るので、義継に疑心を抱かせると、考えて、境界をおさめていた。そのことを、政宗へは伝えていたが、私は若輩であったので、聞かされていなかった。この境界が戦闘状態に陥れば、ますます強くなるだろうと申上、手切をするべきではないと私に二度も書状をださせ、八丁目と二本松の境は無事であった。
清顕が「小浜には援軍が多く居る。そのうえ塩松の者はあちこちから退いて、小浜に集まっているので、もし戦闘をしかけても、敵ではない。田村へお回りになって、大内定綱が抱えていた小城どもをとられるべきである」と仰せになったので、築館を9月22日に出立され、黒籠という、田村支配下の城があったので、そちらへ移動し、23日はそこでお休みになった。小浜の敵に、伊達勢を引き入れようとしている者が居ると片倉小十郎景綱を介して申し上げたところ、成実と白石若狭・桜田右兵衛・小十郎4人は築館に残され、小浜を落とすようにとご命令になった。
黒籠より24日に大波内という城へ戦闘を仕掛けられた。彼の地に二本松衆が援軍に入っていた。内から手勢を出し、合戦となったが、あまり強く攻めなかったので、物別れになった。その日は何ごともなく、黒籠へ引き上げられた。築館に差し置かれた4人の衆も、小瀬川というところへ攻めたところ、政宗の進軍が遅かったので、片倉景綱、その頃あまり兵がいなかったので、手勢200ばかりを連れて、指示なく小浜の近所まできたところに、小浜の勢がやってきて、小瀬川まで5里ほど追いかけた。4人の衆は川を越えて合戦をした。小浜衆は5、600騎も来たが、政宗が来ることを心配して、早く引き上げた。この衆は少なかったので、襲うことなく、双方とも頸10程度取っただけだった。
25日に、岩角へ攻めかけられた。地形を見廻りごらんになって、近くに陣を引きお攻めになって、この城をお取りになったので、二本松勢の通路は不自由になったので、明日移ることにし、また黒籠へお戻りになった。
小浜では援軍の衆は「岩角を取られたならば、退くことは出来ないだろう」と相談していた。会津衆は大内備前に「今日正宗が岩角を廻り、見ていたそうだ。彼の城をとらせようと思っているようだ。もし城が取られたら、みな引き上げることが難しくなるので、今夜退くべきである」と相談していた。会津の中で、松本図書之助のあとが、空いているので、会津の宿老にさせてやるので、退くべきだとしきりに意見した。
中目式部・平田尾張の2人を介して催促してきたので、大内定綱は通路のことを大事であると思って、抱えていた城に詰めていた者たちをみなその夜二本松へ退かせ、塩松の件は落着したのである。

感想

話の流れはだいたいのところ『政宗記』と同じですが、ひとつの記事が大変長くなっています。
4,5記事、つまりほぼ一章分をひとつにしているような感じです。
そして一人称に「拙者」「我等」を使っているところも『政宗記』『伊達日記』系にはないところです。
少しおもしろいのは、小手森城の城攻めのところ、『政宗記』では午の刻から酉の刻なのに対し、『正宗公軍記』『成実記』では未の刻から申の刻となっています。
『成実記』が覚書で、『政宗記』が最終形態だとすると、『政宗記』プロトタイプであろう『正宗公軍記』はそのままで、『政宗記』のときにちょっと盛ったのでしょうか?(笑)
よく死者の数が話題になる小手森の撫で切りですが、成実の記事では数が出てきません。

*1:これありカ

*2:待てカ

*3:取りカ

*4:者カ

*5:がカ

湯浅常山『常山紀談』政宗関係記事

『常山紀談』とは

江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文25巻、拾遺4巻、それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」1巻よりなっている。著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『常山紀談』は江戸中期に成立した逸話集で、名将言行録のもとになっている部分も多々あるようです。有名武将の有名な逸話はこれ発信みたいなものも多いです。
現代語訳はいろいろなところで見られるので、政宗関係の原文のみあげておきます。
『名将言行録』同様、政宗言行録系に載っていないこと、特に政宗の情けない逸話なども載っておりまして(笑)、おもしろいです。

原文

「伊達家の士卒異風出陣の事」

朝鮮を伐るる時、関東の諸将も兵を出さる。伊達政宗は遠国たる故に、騎兵三十騎鉄炮百挺鎗百本と軍配を定められけるに千計の士卒を引具し、天正十九年正月八日岩出山を打立、二月十三日京に著く。小西加藤は先陣たり。岐阜中納言秀信を始として関東の諸将師を出さる。其道は聚楽より戻橋を大宮に押通る。政宗の旗三十本紺地に金の丸付たる具足著て、弓鉄炮の者も同じ出立に銀ののし付の刀脇差、金のとがり笠をかぶり、馬上三十人黒ほろに金の半月の出し豹の皮、又は孔雀の尾、熊の皮いろいろの馬甲かけ、金ののし付の刀脇差あたりもかがやく計なる。仲にも遠藤文七郎、原田左馬介ははき添に木太刀を一丈計に作り帯たりしが、鞘尻のさがりければ、金具を真中に設けて糸を結び肩にかけて馬に乗たりけり。見物の群衆政宗の軍兵押通る時目を驚かす出立なれば、一同にをめきとよめきけるとぞ。
 明の援兵朝鮮に来り、平壌に有て練光亭より日本の兵を望みしに、江上に往来する者大剣を荷ふ。日光下り射て電の如し。是は真の剣にあらず。白蝋を沃ぎたる物なりといふ事、懲毖録にしるせしは、伊達家の二士の木剣の事にや。

「氏郷伊達家の刺客を免されし事」

伊達政宗、蒲生氏郷の威に壓るる事を心中に深く憤りて、氏郷を殺すべき事を思案して、数代家に仕へし者の子に、清十郎といへる十六歳に成ける者、容貌勝れて艶なりしに、密にたくめる事を語り聞せ、田丸中務少輔が児小姓にだして奉公させられけり。田丸は氏郷と姻家の親しみあれば、来られん時便を伺ひて刺殺せ、との事なり。清十郎が父の方へ遣はしける書を関所にて改め見しより事起りて、其謀の泄たりしかば、清十郎を獄に押入、此事を秀吉に告るといへども、秀吉遠く慮りて強て伊達家と和平せさせられぬ。氏郷、清十郎を呼出し、吾過ちて罪なき義士を獄に入れ辱を与へたるよ。其君の為に命を捨て忠をいたす、賞するに余り有り。とくとく伊達家に帰るべし、と礼儀正しくもてなして帰されけり。
 記せし書に清十郎が姓をもらしぬ。をしき事なり。

「黒塚の歌の事」

(前略)〜又安立郡に川あり、向うに黒塚あり。安立は氏郷の領地なりしに、黒塚は伊達政宗の領地なりとて争のありしに、氏郷、平道盛の歌に、
 みちのくの安立が原の黒塚におにこもれりといふはまことか
とよめる事有り。いかに、と申されしに、聞く人、黒塚は安立が原に属したる事分明なり、とて政宗争ひをやめてけり。

「伊達政宗膽気相馬の城下に宿せられし事」

同じ時、伊達左京大夫政宗は急ぎ本国に帰り、からめ手より攻め入るべきよし仰せを承り、大坂を打つ立ち夜を日につぎて馳下る。白川より白石まで皆かたきの中なれば道ふさがりぬ。常陸国を廻りて岩城相馬にさしかかって国に帰らんとするに、相馬また累代の仇なり。然るに政宗僅に五十騎ばかり引具して常州を経、岩城と相馬の境に到り、先相馬が許に使をたて、此の度徳川殿上杉を征伐し給ふにより、政宗からめ手より向ふべきよしの仰せを承りぬ。路既に塞り候ひしほどに、やうやう此の地に馳著ぬ。あまりにはやめて道をうちしゆえ疲れ候。願はくは城下に旅館をたまはらばや。馬の足休めて明日国に帰り入らんと存ず、といはせたり。相馬長門守義胤これを聞き、あつぱれ運の尽たる事ぞかし。さらぬだに伊達は相馬が年比のかたきなり。ましてや味方討ん一方の大将承りたるといふものを、いでいで今宵一夜打して、案内知ぬ奴原を一人も残らず討取て年比の仇に報い、又今度の賞にも預らばや、とてやがて民家をしつらひて迎へ入れ、人々集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛といふ者、はるかの末座に候ひけるが進み出、末座の異見恐入って候へども、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず。抑窮鳥懐に入る時は、猟者もこれを殺さずとこそ申候へ。政宗ほどの大将年来の恨をすてて君を頼みて来りしを、たばかりてやみやみと討れん事勇者の本意にあらず。長き弓矢の瑕瑾ならずや。又彼が国境駒が峯に至らんに行程僅に三里、けふ日未だ未の時にさがらず。政宗が国に入らんとだに思はば日夕ならざるには至るべし。それに僅の勢にて止る事深き慮なからざらんや。只此の度はよきに警固して国に返し、重ねて戦ひに臨ん日、勝敗を天運にまかせらるべきにや、と申ければ、一座の人々此の議に同じ、兵糧秣わら塩魚に至るまでつみ置、かぶりを焼て夜廻りす。義胤が士ども、政宗あまりにしづまりかへりたる体こそ心にくけれ。いざ試ん、とて夜ふけて後、馬二匹とりはなち、人々走りちりて以の外にさわぎののしる。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打かけ、左の手に刀を提て立出、相馬殿の御ン人や候、といふ。是に候、とて行向へば、物音高く候。政宗が下人原狼藉候はんには、よくしづめて給はり候へ、とて又内にぞ入たりける。夜明れども立ちもやらず。巳の時ばかりに成て、義胤の許に使して一礼し、さてしづめて馬を打って行く。ひそかに人を付て窺はしむるに、かの国の境駒が峯のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如くみちみちて出むかへぬ。かくて関が原の事終りて、相馬すでに上杉に心合せたれば亡ぶべきに極る。政宗訴へ申されしは、相馬は年比政宗がかたきなり。石田、上杉に与したるが一定ならんには、政宗彼が為に討たるべし。然るに君の仰せ承りて馳下るよしを聞て、深き恨をわすれ新恩を施しき。彼が逆謀に非るの証に候はずや。又累代の弓矢の家永く断ん事不便の至りなり、と度々なげき申されしかば、後には本領を相馬に賜はりけるとぞ聞えし。

「伊達上杉陸奥国松川合戦の事」

慶長六年四月、伊達政宗奥州景勝の地を斬取んと、百姓を間者にしておこたりを伺れたり。松川は阿武隈川の枝川にて、伊達領の境なれば、本條出羽守、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸、栗生美濃、岡野左内、五千計にて守りけり。政宗は国見峠を踰、信夫郡より瀬の上の川を渉り、五千の兵にて梁川の城を押へ、松川をさして押し寄する。物聞ども斯と告れば、本條出羽、城を出、川を渡してや戦ふ、川を前にして半途をや打ん、といふ処に、松木内匠、敵不意の利を謀て押寄せ候に、味方川を渡りて待ちかけなば、政宗思ひしにたがひて必ず引退くべきなり。川を渉らんこそよかりなめ、といふに、栗生同心せず。此の川中窪にて極めて渡す事たやすからず。政宗わたらんところを半途を打つに利あらん。岡野、いやいや敵大軍なり。爰に待んは敵を恐るるに似たり。勇士の志にあらず。とく川を渡して待設せん、と云ふ。栗生、孫子に少を以て衆に合ふこれを北と曰ふといふことあり。小勢にて無謀の軍せんは、大敵の擒とならんは必定なり、といふ処に、甘糟備後、杉原常陸もはせ来り、まづ物見を出せ、とて、猪俣主膳、本庄段右衛門、井筒小隼人、乗行きて馳帰る。猪俣は、政宗川を渉らじ、といふ。二人は政宗川を渡さん事半時計もやあらん、といふ。子細を問に、猪俣、敵馬の沓を取ず障泥をはづさず。羽壺を常の如く附けたり、といふ。井筒、本庄が云、我等見し所も同く候。されども政宗いまだ来らず。其の間五六町計もや候らん。政宗川際い押寄せて其の支度せんに、何の時刻を移すべき。且小荷駄を遠く引退たれば、戦ひを持ちたる敵なり。政宗二万の軍兵を帥て寄来り、空しく引返すやうや候、といふ。さらば川端二町計置て陣を整へて敵を待ん、といふ所に、岡野は切支丹を信ずる人なるが、南蛮人の贈りける角栄螺といふ冑を著、真先かけて川を打渉す。栗生、甘糟、川を渡るべからず、と下知すれども、布施次郎左衛門、北川図書、小田切所左衛門等二十騎計、真しぐらに川に乗入り打渡す。宇佐美民部鎗を横たへ、残る兵をば押しとめてけり。かかれば政宗押来り、先陣片倉小十郎透間もなく切ってかかる。岡野四百計真丸になりて鎗を打ち入れ、面もふらずをめきさけんで戦ひけれども、大軍に取かこまれ、左内僅に打ちなされ、切りぬけて引退く。北川馬の首を立直し小田切に向て、唯今討死せん。会津に残し候十四なる吾子をたのみ申すよ。是をかたみに送りてたまはり候へ、とて猩々皮の羽折を脱で小田切に渡しければ、小田切、若万死に一生を得候ならばたしかに送り候べし、とて羽折を腰にはさみけり。北川、今は思ひ置く事なし、とて追ひくる敵の中にかけ入て切死にしたりけり。是をはじめとして帰し合せ、火を散して戦ひけるが、討たるる者多し。政宗勇み進んで追かけられしに、岡野猩々皮の羽折著て鹿毛なる馬に乗り、支へ戦ひけるを、政宗、馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野ふり顧て、政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切り付け、かへす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ、岡野すかさず右の膝口に切付けたり。政宗の馬飛退てければ、岡野、政宗の物具以ての外見苦しかりし故、大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきに、とて大に悔みけるとなり。岡野は川へ乗入たるに、政宗、又十騎計にて追かけ来り、きたなし返せ、と呼はりければ、岡野ふりかえりて、眼の明きたる剛の者は多勢の中へかへさぬものぞ、といひて岸に馬を乗上たり。宇佐美兵左衛門十六歳、松川の向ひの岸にて危く見えしかば、父の民部馬を川に打ち入れたり。栗生、いかに先には川を渉る者を止められしが、何事に渡され候や。名将の宇佐美駿河守の子息にはいかに、と問ふ。民部、謀も心より出候。あれ見られよ。一子の兵左衛門向の岸にてはやううたれぬべく見ゆれば、心の乱れたるぞや、といひも終らず川を渉り、打連て引返す。栗生は陣を整へて待かけたれば、片倉が軍兵を追崩し川に追ひたす。されども大軍見る内に重り攻め寄せしかば、上杉勢は福島をさして引退く。福島に至て行程いなか道十八里なりといへり。政宗、いづくまでもあますな、と馬煙を立てて追かけしかば、物具を道に捨る事数を知らず。息きれて行倒れたる者もあり。持鎗の長き柄はもち堪がたくて、多くは捨けるとぞ。青木新兵衛、永井善左衛門を始として、大剛の者ども馬を返しては追ちらし、とって返しては突はらひ後殿しけり。青木は小丈なる馬に乗、柄の短き鎗なりし故、殊に乗さがり幾度となく支え戦ひけり。甘糟備後は上杉家にて勝れし勇将なるが、白石の城を守りしに、会津に行きたりし跡にて、登坂逆心して白石を敵に取られし事を口惜く思ひしかば、今日とりわきて引さがり、取てかへして追退け、勇気をあらはしけり。福島の城下の川を渡る時、政宗の兵弥追詰て、われ先にと川に打入れたるが、永井を後より三刀切る。永井度々の軍に戦ひ疲れ、大軍打渡す川音にまぎれ此れをしらず。青木は鳥毛の棒の出しにて黒きほろかけたるが、乗寄て敵を追払ひ、川岸に打ちあがりて永井に斯といへば、驚きて従者に見すれば、ほろに三刀、鞍にも刀の痕あり。永井、けふは助けられし、とて一礼をぞ述たりける。小田切も敵に取囲れ、あはや討たれぬと見えしを、青木又かけ寄せて敵を追ひ払ふ。岡野は旗おし立て静に福島の城に入、甘糟、栗生も引入りければ、政宗やがて押寄たるに、殿の兵ども、柵をこえて城に入たりしに、青木は柵を越かねて只一騎ひかへ居たる所に、政宗馬を駈寄たり。青木十文字の鎗にて政宗の冑の立物三日月を突折しかば、政宗馬に諸鐙を合せてかけ通られぬ。青木後に政宗と聞て、今一と鎗にて突殺すべきに、口惜き事よ、とぞいひける。斯るところに梁川の城より須田大炊助長義討って出、政宗の兵阿武隈川を前に陣しけるが、此の川奥州第一の大河なれども、須田はよく地の利をしり、兵を二陣にわかち、須田は川上に打上りけるを見て、政宗の兵二ツに分れて防がんと色めく所を、一文字に渡して斬かかる。敵敗北しければ物具を始め多く分捕にせし中にも、伊達家に伝へし幕を、須田宇平次、中村仙右衛門奪取てけり。須田今年二十三、これより武名殊に世に高く聞えけり。政宗は松川にて、後に敵出たりと聞き引退く処を、本庄越前又かけ出て川を渡し追かけければ、政宗敗北し、信夫山に掛りて引き退く時、景勝後巻に打出て紺地に日の丸の旗山の上に見えしかば、政宗とる物もとりあへず仙台に引返されけり。後に政宗使を以て、攻取たる白石の城を幕と取換ん、と云送られしかば、景勝聞て、白石の城は鋒にて攻とられ候。幕も亦吾士卒の骨折て取得候へば、重て幕をも鋒にて取返されよ、と答えへられし後、小城一ツ攻落されしは恥にあらず。昔より名将も城を敵に攻落とされし事なきにあらず。武具を取られし事は弓矢とる身の大なる恥なれば、政宗我をたばかりて斯云しなり、と笑はれけり。台徳院伝上杉の館に御ン出有りし時、かの九曜の幕法華経の幕を厩にうたれしとぞ。其の後政宗、岡野に逢たりし時、松川の軍の有様語り出して、汝を斬つるはわすれじ物を、といはれしかば、岡野、大将の刀の跡と存候て、金糸にて縫あはせ、家の宝とせんと存るよしいひて、羽折を政宗に見せければ、政宗悦ばる。其の時岡野、冑のしころを吹返しかけてなぐり切にしたりき、と申しければ、政宗色を変じ、物語を止られしとかや。

「大坂夏御陣真田左衛門佐幸村勇戦の事」

大坂夏御陣、五月五日のあさ真田左衛門佐幸村が物見馳帰りて、旗三四十本、人衆二三萬計国府越より此方へ越来り候、と告。是伊達陸奥守政宗の軍勢なり。真田が士卒、すはや此陣を押出し給ふか、と勇む気色なり。されども障子に靠、片膝を立て居たりしが、静に答て、左あらん、と計にて他に言ばを出さず。午の刻ばかりまた物見馳来り、今朝のとは旗色かはり候が二三本見え、人数二万計、松かげ故不分明候が、龍田越を押下候、と告。是松平上総守忠輝なり。幸村虚見眠して居けるが目を開き、よしよし如何程もこさせよ。一所に集て討とらば心地よからんものを、とて是に取合ぬ有さまなりければ、皆早りたる心も悄静りぬ。是大敵を恐れしめず、味方を騒がしめざるとのことなるべし。夕炊然てのち、此備所は戦ふに便なし。いざ敵近く寄らん、とて一万五千余正奇を乱さず、前後を混じらず、■*1歩次第をととのへ押出せば、敵仮令十倍なりとも恐るるにたらずと思はれける。其夜道明寺表に陣をとり、明れば六日の早旦野村辺に至り、渡辺内蔵助糺は幸村に先達て、水野日向守とたたかふ。糺は勝茂を切靡ること五六十歩、勝成又守返して糺を衝退る。互に刀闘三度に及で糺は深手を蒙り、脇に備を引取、そなへを立直し、幸村へ使を以て、只今の迫合に疵を蒙候故、御人数駈引の妨と存脇に引取候。且横を討んとする勢を見せ候へば、味方の一助たらんか、と申遣す。幸村、御働目を驚候。是より我等受取候、と答ふ。備を進むれば政宗の多勢蒐りきたる。野の地形、前後は岡にて上平なり。中間十町ばかりひきくして、道左右田疇に連れり。幸村已に兵を前んとするとき、令を下して冑を著せず、鑓を取せず、馬の傍にひき添せて、下知せんときを待せたり。敵合十町計になりければ、幸村使番を以て、冑を著せよ、と云。爰に於て皆持せ置たる冑を取て打著、忍の緒をしめたりければ、勇勢新に加り、兵気ますます盛なり。敵合已に一町計にならんと思ふとき、幸村又使番を以て、鑓を取れ、といふ。諸士手手に鑓を取て穂先を敵方に差向たれば、面々いかなる堅陣剛敵なりとも打碎かん、と別に魂を入たるがごとし。此とき幸村が先手半過、岡の上に押上たる処に、政宗の騎馬鉄炮八百挺を、先手より一二町も前で一同に打立けるに、鉛子の飛は霰のごとく、火薬光電に似たり。煙は忽雲霞となりて丈尺の間も見えわかず。幸村先手の士混々と打斃されて、死傷するもの多かりしかども、一足も退心のなかりしが、冑を著鑓を取たる気勢の壮なるが故なり。幸村煙の中より、先手に爰をこらへよ、大事の場ぞ。片足も引ば全く没べしと下知する声耳に徹し、鑓の柄をにぎり、平伏になりてこたへたり。幸村下知して、炮声の絶間に十四五間ほどづつ走行居敷、炮声の絶間にまた斯くのごとくす。このとき、幸村が鑓さきより一尺進みたるものあらば、今日第一の功とせん、と言しに、一人も此先に出るものなし。政宗の騎馬鉄炮といふは、伊達家の士の二男三男、壮力のものを択て、本より仙台は馬所なり、駿足を勝りのせ、奥州にて所々の戦に馬上より鉄炮一放と定て打するに、中らぬ玉は希なり。打立られて備乱るる処を、煙の下より直に乗込で駈散すに、馬蹄に蹂躙せられて、敵敗潰せずと云ことなし。此とき騎馬鉄炮の士馬を入んと駈寄けれども、幸村の先鋒近々と備へて折敷たりと見て漂ふ所に、煙も稍薄くなれば、幸村此しほ合をや計けん、大音上再拝を振て、蒐れ、と言ふ。言の下よりみな起立て直に突かかり、政宗の先手七八町追崩せり。水野日向宗勝成、政宗をすすんで復戦はしむ。政宗、我軍労れたり。戦今日に限るべからず、とて従はず。勝成また忠輝を勇けれども果たさず。勝成は小勢なれば独たたかふこと能はずして止ぬ。幸村未の刻迄合戦を待居たりしが、夫より繰引に引とれり。其体粛然として追討こと能はず、慕はば却って彼為に挫らるべし。東軍の諸隊見るもの感賞せり。

*1:馬偏に歩く

『名将言行録』「伊達政宗」

『名将言行録』とは

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)は、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月をかけて完成させた。
全70巻と補遺からなり、主に武田信玄、上杉謙信、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、伊達政宗、徳川家康などの天下を競った戦国大名から、森長可といった安土桃山時代の戦国武将、江戸時代の譜代大名で老中を務めた戸田忠昌、赤穂浪士の討ち入りを指揮した大石良雄など、多くの時代の人物について、その人物の言行、逸話を記録している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『名将言行録』は江戸時代末期に書かれたものですが、多くの時代の人物について言行・逸話を残しております。戦国時代の項については時代が離れていることもあって、史実とは考えがたい記述も多数ありますが、江戸時代中に普及していた武将たちの逸話がどのようなものであったかを理解するのに役立つ本です。
政宗言行録系に載っていない逸話・相違がある記述などもありますので、比べてみるのもよいかと思い、原文だけ上げておきます。
当然ですが、江戸初期人である成実や政宗とは語彙が違いまして、結構文字打ちに苦労しました(笑)。

原文

底本は岩波文庫版(第3巻153p~181p)を使用

岡谷繁実『名将言行録』「伊達政宗」

 左京大夫輝宗の子、陸奥守に任ず。後従三位権中納言と為り、仙台城に住し、六十四万石を領す。寛永十三年五月二十四日薨、年七十。

 政宗、幼名梵天丸と曰ふ、五歳の時城下の寺に参詣し、仏壇の不動を見て、近臣に、是は何たるものぞと最も猛々敷姿なりと問ふ。近臣、是は不動明王と申て、面は猛々敷座ませども、慈悲深くして衆生を救はせ給ふと答ふ。政宗聞て、偖は武将たるべき者の心得と成るものなりと言はれけり。聞く者是を奇成りとす。八九歳小学に入り、礼楽を学び、詩を誦し、射御を習ふ、一を聞て十を知る、才能人に過ぐ。然れども性寛仁人に対し羞色あり、近臣、或は其将器にあらざるを誹る者あり。独り片倉景綱其英姿不凡を歎ず。後皆景綱の鑑識に服すと云ふ。

 天正十五年、長井の鮎貝太郎、政宗に反く。政宗之を討んとす。老臣等皆曰く、最上より定めて援兵来り候べし、其上御家中に鮎貝の外に、又最上へ内通致し居る者も之あるやに承はりたる間、御探索ありて、御人数御手配の上、御出馬然るべくと。政宗曰く、各申所尤もなれども、左様の延引も時に依ることなり。今火急の節なり。軍は不意を挫くを以て勝利を得ることあり。又物は定まりて、定まらぬものなり。最上より加勢必定と思ふことも、品により其期延ることもあらんか、又加勢あるとも、小勢の折りか、又取掛らん抔評議の内に、急に押散らさんこと第一なり、延引して敵の謀成就しての後は六ヶ敷からん、且つ家中に鮎貝が外に敵に通ずる者あるべきや、と各推量なれども、知らぬ行末計らんよりは、指当ることを為さんには如かじ、目前の鮎貝を差置、事広まり、爰彼所に謀叛の者起らば、一同に退治せんこと難かるべし、時を移さず行ふは、勇将の本望なり、早や打立つべしと触出し、出馬せしにより、家中追々一騎駈の如く駈付け打寄せけれども、最上よりの加勢一人も来らず、鮎貝一人にて敵対すべき様なく、取るものも取りあへず最上へ引退きしに付長井中無事に治め、仕置して帰陣せり。人皆其神速の工夫に感ぜり。

 十七年、須賀川の役、敵将二人善く戦ふ、向ふ所披靡す。政宗遙に之を見て曰く、壮士なり。其一人は二十許り、その一人三十余歳なるべし、田村月斎、橋本刑部をして生擒せしめ、其年を問ふ。大浪新四郎二十一、遠藤武蔵三十五、果して其言の如し。人其故を問ふ。政宗曰く、一人は勇を恃み、難夷を択ばず、弱冠の所為なり、一人は強を避け、弱を駆り、進退度を失はず¥、壮年にあらざれば爰に至らずと。

 政宗、既に会津を亡し、疆土広大になりぬれば、老臣、宿将等相議して、政宗に向ひ、古と違ひ、今は御手も広く、諸大将参会申され候上、他家よりも使者多く候に、御城小さく、殊に粗末にて剰へ御城下も狭く候間、御普請ありて御城下をも、御開きありて然るべし、今の通りにては第一御外聞も如何に候と言ふ。政宗聞て、何れも異見の所は尤もなれども、政宗は城普請に心を費さんとは思はず。城抔に年を入るるは、小身なる侍が、彼方此方申合はせ、敵寄せば助勢賜はり候へ抔、互に言合はする者は、成程堅固に普請致すが能きなり。予が心は、昔より近国の大将を頼み、助を得て国を持怺えんとは思はず、敵押寄せ来らば、境目に於て尋常に合戦して打果すか、様子悪くは引退き、敵を領分に引入れ、家中の者共に申合はせ精入れて有無の合戦を遂げ、敵を挫くか、左なくば討死して滅亡と兼ねて究め居るなり。籠城して敵に取籠られ、数月を送るとも、家中騒立ち助くべき隣国もなくば、空く城にて餓死すべしと。況や、其許等申如く手も広く、軍勢も昔に十倍せり、近国に於て恐らくは、我領分へ手出すべき人は覚えず。予、又此城を取り立て迂闊々々として、爰に居住を定めんとは思はず、来春に至らば、諸軍を率ゐ、向ふ所を敵とし、従ふ所を味方として、関東に旗を立て、新に土地を開かんとす。故に予が心を費すは、軍旅の掟、軍用の費、諸将の忠功を賞し、不忠不義の誡何れも道に当らんことを、朝夕之を思ふなり。第一諸士述懐し恨みを含むことのなき様にと思ふ計りなり、古き家々の破るるを見るに、家中に恨を含む者ありて、主君に背き、敵に内通し、夫より家中騒立ち、終に身を亡せし者少なからず。禍は内より起りて、外より来らず、他家の者来りて此城郭の粗末なるを謗り笑ふべきことは、予も恥しけれども、国の為めには替え難き恥なり、予が手の広がるに従ひ、各も少しながらも、領地加増を取て、妻子をも育むは、各精を出して、我に奉公する蔭を以ての故なり。古歌に『人は堀、人は石垣、人は城、情けは味方、怨は大敵』とあり。誠なりと言て、笑はれけり。諸臣、何れも歎服して退けり。

 小田原の役、政宗間行して小田原に至り、底倉に屛居す。秀吉、人をして遅参のことを詰問せらる。政宗一々に陳謝し、以て命を待居りし時、千利休が秀吉の供して下り居りしに就て、茶の湯を稽古せり。秀吉聞て、政宗は遠国田舎の住居にて、夷狄の風に墜ち、無道の者と聞き及びし所、聞きしに事替り、万事心の付きたる仕方、鄙の都人と言はんものぞと、褒称せられけり。

 此役終らば、秀吉会津発向に付、先達て小田原表より、出勢之あり、諸大名宇都宮近辺へ着陣あると均しく、政宗領分へ物聞、目付等を差遣はしけるに、一段と物静にして、出勢籠城の支度箇間敷こととては少も之なくに付、諸陣共に不審を相立しとなり。然る所秀吉、宇都宮の城へ着陣ありければ、政宗、家老の片倉小十郎景綱、只一人召連れ手廻り人少にて、宇都宮へ至り、城下を隔てたる禅院に止宿し、大谷吉隆方へ、景綱を使者として申送りけるは、先日は初て御意を得、品々御取持に預り候段、過分の至りに候、其節申述候通り我等儀公儀軽しめ申すと之あるにては之なく候へ共、一向の田舎育にて、事の辨なく、奥州辺の国風に任せ、私小兵を動し候段、今更恐入、後悔仕る外之なく候、去るに依て、蘆名領の義は申すに及ばず、本領米沢の城地ともに、今度差上申候間、宜御沙汰あられ、伊達の名跡相続の義に於ては、偏に其元の御取持に預り申度候、此段前以て御意を得べく候へ共、道中より病気、之に依り其義に能はず、先づ小十郎を以て申入候となり。景綱は、其口上を申終て後、封印したる箱二つを持出づ。一つの箱の封を切り、是は蘆名旧領の絵図目録帳面にて候とて、吉隆へ渡し、又箱一つ是は政宗、先祖より伝へたる米沢領絵図目録にて候と申し、封を切らんと致したるを、吉隆見て之を押え、其箱の義は先づ封印の儘にて、我等預かり置き申べくと之あり留置き、政宗へは、景綱を以つて御申越の趣、逐一承届け候、是より申承はるべく候、病気保養油断あられ間敷旨、返答に及び候となり、右の如く、政宗、降人となり、宇都宮へ参陣のこと、奥州筋所々へ聞え渡りたるに付、出羽、奥州にあるとあらゆる大小の武士ども、大に驚き、我も我もと宇都宮へ出勢致し、或は名代を以て音信物を送て、秀吉の機嫌を相伺ふ如く罷成りたるに付、秀吉は前後宇都宮城に逗留致されながら、奥羽両国悉く、手に入り申されしとなり。其後吉隆方より秀吉公御対面之あるに付、片倉を召連れ明早天登城致さるべくとのことに付、翌日に至り、政宗出仕の所、秀吉対面あり、其上岡江雪相伴にて、政宗、景綱へ料理賜はり、茶抔も相済み候、已後又秀吉前へ政宗を呼出され、吉隆、件の箱を持出、政宗前に差置く。秀吉申されけるは、蘆名旧領の地は召上げ候、其方持参り候、本領米沢の義も今度差上ぐると雖も、手前心入を以て返し与へ候條、相替はらず領地尤もなり、我等も追付帰京候條、早早帰り然るべきとて、首尾能く暇を賜はりたるに付、政宗其箱を押戴き、一礼を述尋ねければ、景綱曰く、黒川を始め、其外の城々の義も、悉く明け候て、城番の侍足軽、少々居残候までの義に候間、明日にも差上ぐべくと申たり。政宗は申すに及ばず、景綱も只尋常の者にては之なしと、其頃取沙汰せしとなり。

 十九年、葛西大崎一揆起る。蒲生氏郷討て之を平ぐ。政宗、右一揆の棟梁たりとの聞えあるにより、秀吉怒り、政宗の敵に交通せし書牒を以て、政宗を詰問せられしに、政宗陳して曰く、箇様の無実あるべきことを計り、某が判形の鶺鴒に心印を付け置きしが、謀書の判には、其印なし。其印と申は鶺鴒の眼を針にて突て瞳と成したり。此頃人の方へ遣はしたる書牒と引合はせ、御覧あるべしとの趣なり。然れども、氏郷より分明の注進あるにより、秀吉、政宗に上京あるべしとのことなり。此時政宗、金銀の上箔にて包みたる磔柱を行列の先に立て上京せり。是は政宗程の者が磔に掛らんに、並々の様にては口惜きとの用意なり。折節、秀吉、伏見の城を築き、其役を見て居られしが、政宗上り来るを聞き、是へ来るべしと言はる。政宗猶予せる気色もなく、秀吉の前に出ければ、秀吉、杖取直して、政宗の頭に押当て、其元上京せざるに於ては、斯の如くすべしと思へども、時刻移さず馳上りし上は、宥免するなりと言はれけり。

 文禄四年、関白秀次謀叛の聞えありし時、政宗も之に与みせしとの説あり。秀吉怒り、政宗の封を伊予に移す。政宗、伊達上野外一人を以て、徳川家康へ斯の如く仰付られたり。伊達家の浮沈此時に極りぬ。賢慮を仰ぎ奉るより外なしと請ふ。家康聞て両使に茶飯等を賜る。暫くありて、両使暇を告げ政宗嘸ぞ待遠に存候はん、疾く罷帰り御返事を申聞かせ度と存ずると申せば、家康大声にて己々が主の越前と曰ふ男は、当りは強き様に見ゆるが、腰の抜けたる男にて、後の弱き故に、左様には狼狽の付くことなり。四国へ行て魚の餌に成るがましか、爰にて死したるがましか能く分別あるべしと言へと、重ねて秀吉より催促の有る時の返事の様を、細々と示教ありて、両使は罷出る。追付家康、秀吉の所に至らる。又た秀吉より政宗へ使にて、昨日の請如何、早々予州へ下るべしとのことなり。此使政宗宿所へ参り見るに、門前に弓、鉄炮、鎗、長刀を帯したる者ひしと並居て、只々打出ん有様なり。御使あると聞て政宗は無刀にて出迎ひて、座に請じて、御使の旨を聞て涙をはらはらと流して申けるは、上様の御威勢程世に有り難きことは侍らず、人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙る程の不幸はなく候、今日こそ存なして候へ。某に於ては仮令此御不審を蒙りて首を刎られ候ても、異儀に及ぶべきや、況や国郡を下し賜はりて、所を替ふるとの義、何の子細か候うべき、なれども譜第の家僕等、何れも訴申候、何條数十代の御領を離れて、他国へ流浪することやあるべき、速に是にて腹を切られ、我々も一人も生きて所を去り渡すべき所存はあらずと申切て、平らに自害を勧め申に付、色々に理を尽し申聞かせ候へ共、家臣等一向に同心仕らず、各々御覧の通り、狼藉の至りなる様にて候、去れば偏に当時御勘当の身に罷成候へば、数十代の家人さへ、下知を用ひず忽諸に仕候こと、是非に及ばず候と述ぶ。其使罷帰りて、此旨を申せば、家康如何にも左様にこそ承り候へ、政宗一人の義に於ては、上意を違背候て、旧領を去り渡し奉らざるに於ては、某に仰付られ候はば、即時に彼旅宿へ押寄せ、踏み潰し候に、何の事か候べき。此度此所へ供仕りたる、千に足らざる小勢にてさへ、家臣ども左様の存切候へば、旧国に残り留りたる郎従等、国を退くべきことには得こそ申間敷候へ、彼郎従を追払ひ給ふべき賢慮さへ御座候はば、政宗に於ては某に仰付らるべきものか、然りと雖も、累代の所領を没収し給はらんこと、彼の郎従の愁訴仕候所も、不便に存奉り候へば、枉て此度は、御赦免もあるべきものかと申されしかば、秀吉、兎も角も家康が計らひ給ふに若くは候はじとありければ、国替のこと沙汰なくして、其事止み、其後勘当も免されしとぞ。

 秀吉、大なる猿を飼ひ、諸大名登城の時通る辺に繋置く。猿歯をむき飛掛りし時、諸人狼狽する体を、秀吉透見せられけり。政宗之を聞き、病と称し登城せず。猿引を百方手にいれ、密に猿を借り玄関に繋置き、政宗通りければ、猿歯をむき飛び掛らんとす。政宗策を以てしたたかに打すくめたり。斯く度々しければ、彼猿後には政宗を見て屏息す。斯の如く仕込み、猿を返せり。偖登城しければ、秀吉右の事は知らず、政宗様子如何と透見せられければ、政宗玄関を上る時、猿飛び掛らんとせしに、政宗はつたと睨みければ、彼猿萎縮して退きたり。秀吉、之を見て曲せ者めが、又先へ廻りたると言て、笑われしとぞ。

 秀吉、嘗て舟遊に出づ。政宗にも供すべきとのことなりけるに、遅参して、舟の出たる跡を来りけり。之に依り、馬引寄せ打乗て、只一騎舟に目を掛け、住吉の方へ乗行きけるに、秀吉見て、大方政宗なるべしと言はる。舟住吉にも着られず、又漕戻さるるに依て、政宗も又乗返し、着船せられし所に参りければ、秀吉只今の馬は政宗にてありつるか、武者振見事なり、定めて草臥たるべしとありて饅頭の入たる折を賜はりける。政宗頂戴して折を傾け、我着物の前を広げ、饅頭を移し、入れ包みて立退き、我内の者を呼び寄せて、上様より拝領申たるぞ、汝等も有難く存じ頂戴せよと言て、残らず与へたり。何れも其厚志に感ぜり。

 会津の役、政宗急ぎ本国に帰り、搦手より攻入るべき由の命を受け、大阪を打立ち、夜を日に継て馳下る。白川より白石に至りて、皆敵の中なれば、道塞りぬ。常陸を廻はりて岩城相馬を経て、国に帰らんとするに、相馬又累代の仇なり。然るに、政宗僅五十騎計り引具して常陸を経、岩城と相馬への境に至り、先づ相馬が許に使者を立て、此度徳川殿上杉を攻め給ふにより、政宗搦手に向ふべき由の仰を承はりけれども、路既に塞りし程に、漸漸此地に馳着きぬ。余りに早めて道を打し故、疲れ候、願くは城下に旅館を賜らばや、馬の足を休めて、明日国に帰り入らんと存ずると言はせたり。長門守義胤是を聞き、天晴運の尽きたることぞかし、去らぬだに、伊達は相馬が年頃の敵なり。況や味方を撃たんとて、一方の大将承はりたると言ふ者を、いで一と夜討して案内知らぬ奴原を一人も残らず討取て、年頃の仇に報い、又今度の賞にも預らばやとて、頓て仮家を出来迎入れ、人々を集めて夜討の評定したりけり。爰に水谷三郎兵衛進み出、末座の異見恐入て候へ共、既に詮議の座に連りて候へば、所存を残すべきにあらず、抑抑窮烏懷に入る時は、猟師も之を殺さずとこそ申候へ、政宗ほどの大将、年来の恨を捨てて君を頼み来りしを誑り、やみやみと撃んこと勇者の本意にあらず、長き弓箭の瑕瑾ならずや、又彼が国境駒ヶ峰に至らんに、行程僅に三里、今日、日未だ未の時に下らず、政宗が国に入らんとだに思はば、日夕ならざるに至るべし。夫に僅の勢にて止まること、深き慮なからんや、只此度は能きに、警固して国に返し、重ねて戦に臨ん日、勝敗を天運に任せらるべきやと申ければ、一座の人々皆此議に同じ、兵糧秣藁塩魚に至るまで、積置き、篝を焼て夜廻はりす。義胤が士共、政宗余りに静まり返りたる体こそ、心悪けれ、いざ試みんとて、夜深て後馬二匹取放ち、人々走散りて、以の外に騒罵る。政宗小童一人に燭持たせ、白き小袖を上に打掛け、左の手に刀を提げ立出、相馬殿の御人や候と言ふ。是に候とて行向へば、物音高く候、政宗が下人原狼藉候はんには、能く静めて賜はり候へとて、又内にぞ入りたりける。夜明れども、立も遣らず巳の刻計りになりて、義胤の許に使して一礼し、偖静に馬を打て行く、密に人を付て窺はしむるに、彼国の境駒ヶ峰のあなたに、伊達家の軍兵雲霞の如く、充々て出向ひぬ。斯くて関ヶ原の軍終て、相馬既に上杉に心合はせたれば亡ぶべきに極る。政宗訴申されしは、相馬は年頃政宗が敵なり、石田、上杉に与したるが、一定ならんには、政宗彼が為めに撃るべし。然るに君の仰承はりて馳下る由を聞て、深き恨を忘れ、新恩を施しき。彼が逆謀にあらざるの証に候はずや、又累代の弓箭の家、永く断んこと不便の至りと、度々嘆き申せしかば、本領を相馬に賜はりてけり。

 大阪冬役、政宗馬上にて城を巡見せし時、銃丸飛び来るに、覚えず、身を引きしを無念に思ひ、夫より歩行立になり、城の際へ行き堀を眺め入て銃丸繁く来る所に暫らく居て退けり。

 此役、和睦になりて諸大名皆閑暇なり。之に依り陣中出合咄に、何れの方にても景物の香合はせあり、其所に政宗参られければ幸なり、香御嗅あれとて勝負せり、何れも鞍泥障弓箭抔を景物に出すに、政宗は腰に付けたる瓢箪を出す。何れも笑き景物とて取る者なし。亭主の家来之を取て事済みぬ。偖政宗帰る時、乗来りし馬飾の儘にて、瓢箪から駒が出しなりとて、瓢箪取りし者に与へられたり。初め奥州の大将の景物とて笑ひし者、此時に至り羨みしとぞ。

 大阪夏役、陣触の時、政宗嘉例とて、仙台より七里出で宿す。其所へ行着く時分、火事出来たり。政宗日頃の山臥出立にて、貝を吹かせて、鬨の聲を揚げよとて、揚げさせ、目出度ことなり、我往前に火の手が揚りたりとて、機嫌能く、其次の在所に宿せりとぞ。

 夏役、大和口の大将は徳川上総介忠輝なりしに、臆して戦場をも見ず、政宗も先陣にて、其機を察せしにや、誰にても逆心の者あらんには、追掛け擊取り申べくと言ふ。聞く人早き見様なりと誉めり。其故は忠輝には、政宗の聟なりしかども、此時の様子を疑ひ、其跡に付くことを嫌ひてのことなりとぞ。

 此役、政宗手にて味方の神保を打亡したりとのことにて、咎めらる。政宗曰く、如何にも打取りたり。仔細は向より来る者は、敵の外にはあるまじと存じ、打取れと下知仕りたり、箇様の大軍には敵味方見分けられずと申ししとぞ。

 此役、政宗、家康に向ひ、今度の大軍の内に逆意の者之なく、御手柄結構なることなりと申す。家康此様なる勝軍の時は、敵は死にたれば、逆意の者も知れぬものなり、あるまじと思はれずとなり。政宗、如何にも上意の如くに候、我等抔の家来の内にも、若し逆心の者も之あるべく候へ共、御勝軍故、敵に口かなければ知れぬこともあるべく候、と答え申ししとぞ。

 此役、政宗、奈良に於て、足軽頭を集め、鳥銃を放たするに、加藤太が組下三百人計り放さず、政宗之を見て糺明あれば、道中にて火を持てば、火縄の弊あり、薬を足軽に預れば、路に溢れて、多く廃る故に、倹約を考へ、両品共に包みて小荷駄に付て跡より来る故、不図期に後れしと言ふ。政宗大いに怒り只吝嗇を本として、職分を忘るるは士の道にあらず、以後懲悪の為なりと言て、直ぐに斬て衆人に侚へり。

 耶蘇教盛りに天下に行はる。政宗、南蛮を征し、其根を抜んと欲し、向井将監忠勝に依り、幕府より篙師十人を借受け、支倉六右衛門、松本忠作、西九郎、田中太郎右衛門等を呂宋に遣はし、其形勢を窺視せしむ。支倉等年を経て呂宋王の書及び、奇貨珍宝を斎らして返る。且つ曰く、南蛮風俗柔脆なり。之を征せんには腐朽を挫くが如くならんと言ふ。政宗其志を成さんと欲す。時に耶蘇を禁ずるの令甚だ厳にして、政宗其志を遂ぐることを得ずして止めり。

 加藤清正、嘗て曰く、政宗、上方より、団助と曰ふ遊女を呼下だし、歌舞妓を興行したるが、内府の気色に相応したると側に聞きたり。其故は石田等が乱を事故なく平げられ、既に六十余州掌の内に入られたることなれば、政宗如き国持を始め、太刀も入らぬ太平の世と思ひ歌舞遊興のみにて、日月を暮せば、心元なきことなしと思はるるが故なりとて、殊の外称誉し、頓て清正にも歌舞妓を催せりとぞ。

 元和の初、将軍鷹場近辺にて、政宗にも鷹場を賜はりしが、或時政宗、将軍の鷹場へ密に入りて鳥三つ四つ合わせ、鶴を取りたる所へ、家康は引違て余多の人を召具し、鷹使ひながら参られしを、政宗周章狼狽、鷹も鳥も取隠くし、漸漸と遁去り、竹藪の陰に潜まり居る間、家康は馬を急がせ過られけり。其後登城の時、家康、先日は其元の鷹場へ鳥を盗みに入り込みたる所を、其方に見付けられ、はうはうに逃んとせしに、其方竹藪の陰に踞まり居たれば、態ざと見ぬふりしたると思ひ、息を限りと逃たりと言はれければ、政宗承はりて、左様のことに候べしや、某も其日は御鷹場へ盗み狩りに参りしに、御成の様子を見て、息をこらし隠くれ居たりと申ければ、家康大に笑はれ、其時互に斯くと知らば、逃ながらも、少しは息を休むべきものを、双方咎人なれば殊の外周章たりと、家康も、政宗も聲を発して笑ければ、伺公の輩も、皆々腹を抱たりとぞ。

 七年正月、政宗江戸の邸災に罹る。政宗、改築せんとす。諸老臣諫めて曰く、近歳の軍費少なからず、然るに、又土木のこと起る。若し一朝事あらば、如何せらるべしと。政宗曰く、是よりは四海無事なり、若し事あらば、幕府に請て其軍費を弁ぜん、或は敵を打ち、糧に敵に拠るに何のことかあらんとて、笑われけり。

 寛永四年二月、加藤嘉明会津に封ぜらる。是日政宗、殿中にて嘉明が子、明成に行き逢いしかば、足下父子に会津の地預け給ひたると承はる。会津は全く陸奥の鎮衛の地なれば、此老耄を能く防げとの御事なりや、足下父子の為に、容易は防ぎ留められまじと言て、大声を発して笑たり。明成、其聲の下より、老黄門、若し今の禄に倍して百二十万石をも領し給はば、今にても取掛け申すべきをと申けりとぞ。

 十二年正月、家光、政宗の邸に臨む。政宗には今日の亭主故、家光一と役と言はれしかば、畏り候とて、観世左吉に太鼓を持たせ、其跡に引続き、舞台に出て、役者と同く御前に向ひ拝せしかば、家光、大声にて誉めらる。階上階下に並居たる大小名も、均く声を揚げて褒めたり。政宗は暫らくの間、只座して小刀を抜き、爪を取りながら、観世左吉と物語りして居たるを見られ、前後箇様の役者は有間敷とのことにて、早や太鼓太鼓と言はれければ頓て太鼓を打始め、静に打すまし、果てて桴をからりと舞台へ投棄て、其儘仕手と脇師の間を会釈もなく押通り御前へ参り、ぬかづきしかば、偖々気味の能き役者よとて、人々褒めあえり。其時家光、偖も偖も聞及びたるよりも膽を潰したり。今より能き役者を見付け、大慶之に過ぎずとて、からからと笑はる。政宗拝謝して、先刻も太鼓の役にひたもの御意を伺ひ候、政宗ながら能くも仕り候様に覚候と申上げしに、役義終りて、早々舞台を下り、爰に出たる挙動感に堪ぬと言はれ、其後は打解けられたる物語にて、頻りに盃を重ねられ、何れも腹を抱て笑つぼに入られしとなり。又兼ねては御座の辺りさばかり抔盤狼藉として、山海珍羞を所狭く積み重ぬることなるべしと思ひしに、左もなく作り花付けし洲浜様の物二つ計りのみにて、最と手軽きこと是れと云、彼れと云、去りとは諸人感じ入りしとなり。

 政宗、嘗て江戸城にて酒井忠勝に行き逢ひ、讃岐守殿、相撲一番参ろうと言ふ。忠勝聞て、公用ありて只今御前を退きたり。重ねてのことに仕らんと辞退せしかど、政宗承引せず、忽ち組付ぬ。諸大名列座にて、政宗、忠勝の相撲なれば、晴れごとなり、時に井伊直孝進み出て、若州負け給ひては、御譜第の名折ならん、我等関相撲に出、陸奥守殿を投げ申さんに、手間は取るべからずと申けるが、忠勝は力量ある人なれば、政宗を大腰に掛けて投られける。政宗むくと起上り、御辺は思ひの外相撲功者哉、と言て誉めたり。又或時政宗、忠勝方に茶の客に行き、利休の茶杓を見、繰返し見て、此茶杓は埒もなき者なりと言てへし折られたり。忠勝も驚きしかども、戯の体にて、事済みたる。政宗帰邸の後、先刻は御茶賜はり忝き仕合に候、興に乗じ粗忽の義致し候、右代りに茶杓進上申とて、紹鴎の茶杓を贈られけり。

 政宗、名物の茶碗を見るとて、取落さんとせし時、心を動かせしかば、名器と言ひながら、無念のことなり。政宗一生驚くことなかりしに、此茶碗の価千貫目と曰ふに、心を奪はれて驚きたるは、口惜とありて其茶碗を庭石に打付け、微塵に碎き捨られたり。

 政宗、江戸城大広間の溜の間に在りし時、徳川頼房の臣、鈴木石見と曰ふ者、頼房の刀を持して、其座に在り。目を放たず政宗を見居る故政宗、不審に思ひ、石見に向ひ、其方我等に目を放さず見られ候、如何様のことに左程見られ候や、其方は何者ぞと問ければ、石見、我等事は聞きも及ばれ候べし、水戸殿の内に、鈴木石見とて隠れなき者にて候、御自分のこと、音には聞きしかど、見ることは今が始めなり。然れば、水戸は奥州の御先手にて、奥州に逆心をすべき者は、御自分より外になし。之に依て御自分の顔を能く見覚置き、若し逆心あらば、其方御首を取るべき為めに斯の如く見申候、水戸の内にて其方御首を取るべき者は、拙者ならではなしと答ければ、政宗大に感じ、我ならで奥州にて逆心者はなきと見られ候は、如何にも能き目利にて候と申され、偖何つ何日に参らるべしとて、則ち頼房にも、断わり申て、私邸に招き、自身給仕をして、殊の外、馳走し、終日顔を見せられしとぞ。

 政宗、内藤左馬助政長が方に招請にて往きし時、兼松又四郎も参りたり。政宗兼松が側を通るとて、袴の裾、兼松が膝を引けるに、怒て扇子にて政宗の袴の腰を打つ。人々打寄り色々取扱ひ、政宗に趣意なき上はとて、和睦の盃に成たり。其時政宗いで肴申さんとて、曾我を舞はれける。打て腹だに得るならば、打てや打てや犬坊と舞はれしとぞ。一座の人々、流石政宗なりと言あへり。

 政宗少しの病にても必薬を服し。或日物語に病気抔少しとて油断すること不覚悟なり、物事小事より大事は発るものなり、油断すべからずと言はれけり。

 政宗曰く、惣て武士は仕合はせ能き時は、領中家屋敷に至るまで、事の欠ざる様なれば宜し、何事にてもあれ、仕合はせ悪きことか、又国替屋敷替抔あらんには、陰々までも塵を置かぬ様に掃除し、家作を致し、領中の沙汰をも、弥弥言付け破れたる所は塗直して去るべし。夫は跡の批判を遁れん為めなり。武士の名を惜まぬは沙汰の限なり、父子兄弟の中にても、時移り代替る時は、他人よりも猶恥ヶ敷ものなりと。

 家光嗣ぎ立、年尚少なり、人皆徳川頼宣の異心あらんことを疑ふ。是に於て、政宗大臣巨室の者に命じ、其養士の多寡を算せしむ。蓋し用ふる所あらんとすればなり。一日頼宣を訪ひ、将に帰らんとする時、頼宣玄関まで送られしに、広間所々、座敷々々に家中の歴々伺公せしを見て、偖も偖も御家中衆に目を驚かしたり。是程の御人数を持たせらるれば、仮令如何様の大国へ御取掛けあるとも、御勝利疑ひ有間敷なり。然し万々一幕府へ御等閑の義之あるに於ては、箇様申年寄日頃国元に秘蔵仕置たる郎等共を召連れ、真先掛て、紀州へ押寄せ参るべくの間、左様御心得候へと言て、大に笑て去れり。此事府下に伝播し、疑ふ者皆釈けり。家光之を聞て、甚だ其志を称せり。

 政宗、少より老に至り、未だ嘗て横臥するを見ず、希に柱に靠り仮寝することあり、片時を空く過ごさず、常に手に巻を釈てず、性、強識、外臣商売と雖も、一見の後姓名風芥必ず失忘せず、政宗詩歌を好み、常に騒筵を設け、詞客を招く、僧虎渓、林信春などと唱酬せり。

 政宗嘗て江戸に赴く、千手を過ぐ。将軍家光、千手に狩りす。従者政宗に謂て曰く、今日将軍遊猟すと、請ふ疾く馳て其未だ至らざるに及ばんと。聴かず、故らに徐々として過ぐ。家光方に鷹を臂にし𨻫間に立ち、従臣未だに来り属せず、時に政宗輿に在り、見ざるまねして過ぐ。後ち家光に謁す。家光曰く、日者吾鷹を千手に放つ、卿何為知らざるまねして過ぐ、対て曰く、臣千手を過ぐる時、唯一男子、鷹を臂にするを見る。未だ嘗て、殿下を見ざるなり。家光曰く、是乃ち吾なり。政宗、偽り驚き、謝す。因て諫めて曰く、公、天下の重を任ぜられ、遊猟を好み給ひて、数々軽出し給ひ、警衛を須ひられず、臣恐くは一旦不測の変あらんことを、公の為めに之を危ぶむと。家光之を嘉納せり。

 政宗、老臣某と書院の作事出来して掃除する時、見物に出でしに、掃除人共椽下の塵を掃出すに、政宗立て居らるる故に、恐れて敢果取らず、某聲を掛けて念入れて掃くべし、何事も人の見ぬ所とて、粗略にするは悪きことなり、人の目の届かぬ所程、念入ること誠の奉公なれと言へり。其後、政宗、某を呼び、其方事国政を任せ置く所に、彼下賤なる者にも、人の見ぬ所程、念を入れよ抔言ふは、軽々敷ことなる、何事も政事の響きになることは明かならず、闇からぬこそ善けれと言はれければ、某大に感歎して、過を謝しけり。

 政宗恩顧の町人若狭に在り、佐渡屋某と曰ふ。或時政宗の許へ茶道、陸阿弥取次にて家隆の真蹟名歌百首の巻物を献ぜり。政宗甚だ重宝し、諸大名にも馳走に出さる。偖陸阿弥へ言はれけるは、斯の如き宜き道具は、何方にもあるべからず、右佐渡屋へは過分の礼謝あるべきとのことなり。陸阿弥誠に勝れたる御道具なり、佐渡屋は質物を取り候故、色々右の外にも宜き品を所持仕り居る由承はり候と申ければ、政宗大に驚き、今までは嘗て知らざることなり、価を以て買取りたるか、または持伝へたるを呉れたると思ひけるに、質物に取りたるとあれば、少し心掛りなり、汝より書簡を以て、右の巻物買主の名知れ居りしや、佐渡屋へ尋ぬべしと言はる。乃ち佐渡屋へ申し遣はしければ、若狭浪人今川求馬、近年困窮に及び、質物に入れ候ひしを、年限立し故、手に入りしを直ぐに奉りたる由なり。政宗、早速飛脚を以て金五両相副へ、今川求馬を尋ね差戻されけり。佐渡屋は如何なることにやありけんと迷惑しけれども、詮方なく陸阿弥まで密に尋ねければ、少しも心に挟むべからず、其方志は請け入れ給ひぬ。御道具になりて後、求馬には返されたる由申越す。斯くて後、諸大名の中にて、右の百首の物語出づれば、政宗、最初爾々の由にて手に入れ候へども、質物に取りたる物の由承りけるまま、我心に掛り、右の道具困窮にて質物に入れし者は、嘸々手放しては叶はぬ義理合もあるべきことなりと押返し承はり候へば、今川求馬と申浪人の家珍の由に付、不便に存じ、金子少し相副へ、差返したる由言はれければ、一座の人々大に感ぜられける。其後政宗へ礼謝お為め、求馬若狭より下りければ、逢はれて、念頃に挨拶あり、滞留中の料に二十人扶持を賜はる。此今川、南蛮流の外科を覚居たり。其上学力もありて、用に立つべき者なれば仕ふ間敷や否を問はしめけるに、固より恩に感ずることなれば、大に喜びて仕へけり。後勤労積みて足軽大将に経上りたり。政宗不思議の思慮にて、能き人を得られたりと、人皆言あへり。

 政宗、一日侍臣に語て曰く、小田原陣の時、某兎角小田原へ上り、太閤へ帰服せんと言ふ。家老共何んの御気遣かあらん、そこそこへ人数を出だして守り防がば、太閤を容易く寄せさせ間敷と言ふ。否々太閤は只者にてなし、降参の志を見せんとて打立つ、然らば多勢にて然るべくと言つれども、僅に十騎計にて、早速上り酒匂に一宿し、供の者を大方残し置き、金襴の具足羽織を着し、太閤の御前近く出たり。取次は富田左近なり、左近腰の物を是へ給はれと言ふ。何ぞ侍に刀脇差を脱けとはとて聞入れずして進む。太閤は床几に腰掛けておはせしが、某を遙に見て、伊達殿上られたるか、是へとなり。其時其儘刀脇差を傍へ投棄て往く。太閤否苦しからずとて、某が手を御取り、偖も奇特に参られたりとて、指当る咄抔ありて、奥州の事心元なし、早く帰られよとて、暇を賜はる。忝しとて早速酒匂へ帰て、帰国せしなり、是一つ。秀次公御生害の時、某を太閤御疑ありしに、十騎計りにて上る枚方へ石田、富田、施薬院三人御使にて来り、其方は秀次公と別て親しきこと隠れなきに依て、委細を尋ねよとの御事なりと言ふ。某申は、如何にも秀次公と親しきなり、太閤の御発明にて、御目鑑違たる故か、箇様成らせらるる秀次公に、天下を御譲り関白までに任ぜられたれば、吾等が片目にて見損じたるは道理と存ずる。其上万事を秀次公へ仰付られて、御隠居とあるからはと存て、折角秀次公へ取入りたり。若し之を咎め思召さば、是非なきなり、私が頸を刎られよ、本望なりと言ふ。施薬院、左様には申上られまじ、何にとぞにべもあらんやと言ふ。某施薬院をはたと睨み、其方は病人のことこそ功者にてあらん、武士道のことは知るまじ、有の儘に申上げよと言ふ。其故三人共に返りしが、翌日富田左近方より、明日山里にて御茶下さるべきとの御意と申越に付、只二騎召連れ、大阪へ行く。左近方より案内者とて侍一人来るを連れて城中へ行く。案内者何れへか行て見えず、只一人森の中に在り、定めて爰にて打殺さんとなるべし、それも儘よと思うてありしに、茶童の様なる者来りて、刀脇差を所望す、なんの侍に刀脇差をおこせとはとて、聞入れぬ体にて居たる所に、太閤来り給ひ、和尚出られたるかとて、殊の外御機嫌なり、そこにて刀脇差を投棄てて御傍へよりて、直ぐに御供致す、御茶賜はりて後、奥州の事心元なしと暇を賜ふ、是二つ。家光公へ御茶を上ぐべしと仰付られし時、御勝手へ佐久間将監御茶入の箱に入りたるを持参して、是を政宗に下さるの間、之にて御茶上ぐべくとの御意と言ふ。某先づ能く候とて、将監方へ押戻どす、将監再三言へども、弥弥受けず、此由を将監言上す。家光公尤もなり、そこに置けと御意成されたる由なり。後御直に御袂の内より木葉猿と曰ふ御茶入を出だし賜はる。其御手より直に拝領して、偖々忝き御事なりとて、謹みて頂戴し、先刻将監御意の由にて、何やらん持参仕りたれども、御道具を御台所の畳の上にて拝領せんは、恐多くて、先づ頂戴致さずありしと申上る。家光公、殊の外御感の体なりし、是三つ。吾等あなたこなたにて少々功ありしことども、人口にありと雖も、左程のことと思へず、右の三つは大事の場にてありしに、某所存を究めて思ふ儘に致し、利を得たり。惣じて大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが善しと言はれけり。

 寛永の頃、幕府にて、政宗は歴世の宿将なればとて、優待並々ならず、恩遇頻りにて、屡々召されて茶を賜はり、又は酒宴に預りけるが、政宗は老年に似合はしからざる大脇差を好みけるが、家光の前にては、何つも其脇差を脱して進みけるを見られ老年のこと故、苦しからねば、此後は脇差を帯したる儘進むべし、汝は如何様なる心あるやらん、知らねども、予は政宗のこと少しも、気遣には思はず、脇差差して出でずば、盃をば遣らず、と戯られしかば、政宗、感涙を止めあへず、是まで御両代の間、政宗、不肖ながら身命を抛て汗馬の労を致せしことは、身に覚あれど、今の上様には、何にもさせる忠勤箇間敷こと少しも申上げず。然るを御代々の御余恩と、老臣が残喘の衰態を愍ませ給ひ、斯くまで有り難き御恩遇を蒙ること、死すとも忘るべからずとて、其日は殊更大に酩酊し、前後も知らず御前にて鼾かきて熟睡したる間、側に脱置きし彼大脇差を近習の輩密に抜きて見れば、中身を木刀にて造りありしとぞ。

 征韓の役、政宗一梅を載せて帰り、之を後園に栽ゑ詩を賦し、其事を、紀す。『絶海行軍帰国日。鐵衣袖裏□*1芳芽。風流千古余清操。幾歳閑看異域花』又醉余口号。『馬上少年過。世平白髪多。残躯天所許。不楽復如何。』

 政宗、狀貌魁偉、人となり胆略あり、弓馬の道に長ぜしのみならず、又敷島の道にも長ぜり。年内立春と云題、『年の内に、今日立つ春の、しるしとて、軒端に近き、鶯の声。』又八月十五夜松島にて、『心なき、身にだに月を、松島や、秋の最中の、夕暮の空。』又武蔵野月、『出るより、入る山の端は、いづくぞと、月にとはまし、武蔵野の原。』題又知らず、『山深み、中々友と、なりにけり、小夜深け方の、ふくろふの声。』又関の雪、『ささずとも、誰かは越えん、逢坂の、関の戸埋む、夜半の白雪、』後水尾法皇、集外歌仙を撰み給ひし時、此の関の戸の歌を入れさせ給ひしとぞ。

*1:つつむ