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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script]です。管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『伊達日記』に振った番号がところどころずれていますが、お許しください。その内修正します。
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

(考察・雑記・雑談・感想の分類はフィーリングです…)

原文:

*1:宮城県図書館版『政宗記』によりながら『成実記』及び仙台叢書版によって校訂を加えられたもの

北海道の成実生誕450年関連イベント【追記あり】

能「摺上」上演

政宗の次は成実の生誕450年!ということで北海道伊達市にてイベントが行われるそうです。
何があるのかな〜と思いきや!能です!しかも「摺上」!! 成実がシテ(主人公)で合戦を語る能!!
語り部であり、伝える人である成実の生誕450年に相応しいイベントだと思います!!(≧∀≦)
7/22です!!(あ、私はなんの関係者でもありませんww)


これがチラシ?かな。画像が流れてきたので使ってもいいかと思って載せますが。

そのほかTwitterのアカウント、Facebookなども開始されました。情報など詳しいことそちらで流れると思います。
twitterアカウント
twitter.com
Facebookページ:
https://www.facebook.com/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%83%BD-%E6%91%BA%E4%B8%8A%E3%81%99%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%92-603208043359679/www.facebook.com

このさあ…キービジュアルが月(しかも満月)ってとこがなんかすごくわかる!たまらん!って感じしませんか…?(≧∀≦)ホントたまらん…なんだそのわかってる感…。
まえにもかきましたとおり、記念館(文化館?)の開始は来年になってしまったし、シンポジウムとか展覧会があるわけでもないから、摺上だけのために行く…というのに、行くか行くまいかだいぶ悩んだのですが、やっぱり行くことにしました!! せっかくの450年記念行事だし、摺上自体が行われることが本当にない演目であるということなので、ビッグウェーブに乗るぜ!!
なので、北海道在住の方や、行かれるフォロワーさん、現地でよろしくお願い致します〜(≧∀≦)

保子姫プロジェクト

成実生誕450年と関係あるのかどうか知りませんが(どちらかというと維新150年の方かな?)、フォロワーさんからこういったプロジェクトがあるのをお聞きしましたので紹介しておきます。
Top-PRINCESS YASUKO PROJECT
亘理伊達家に嫁いだ、伊達家最後のお姫様(伊達本家11代斉義の娘で、亘理伊達家14代当主邦実に嫁ぎ、其の娘豊子が亘理伊達家15代邦成に嫁ぎました)、保子姫ことプリンセス・ヤスコのドラマ化を目指そうというプロジェクトらしいです。
トップヘッダーのイラストがとても素敵〜(≧∀≦)
私はなにも関わっていませんが(笑)、亘理伊達家に関する話として紹介だけさせていただきます。

『伊達成実、南相馬に来る』@南相馬市博物館

三春でのめご姫イベントいいな〜、成実も歴史講座とか展示とかもやって欲しいよね!とぼやぼや話していたら、突然TLに流れた情報!
6/30から8/19まで、南相馬市博物館で開かれる特別展だそうです!
f:id:queyfuku:20180404203001p:plain
南相馬で!? 何故!って感じですが、野馬追絵巻や、鎧の修復などで出来た縁で開かれる模様です。
なんかそういうのっていいですよね〜。
行けるかどうかはさておき、とっても楽しみです!(でも行きたい!)
あとひとつくらい、大森とか亘理とかでなんかやってほしいですよね…!
上記の南相馬市博物館での詳細が発表されています。
www.city.minamisoma.lg.jp
9:00~16:45まで(入場は16時まで)

夏のテーマ展『亘理伊達家の資料~館蔵資料の公開~』@亘理町立郷土資料館

f:id:queyfuku:20180623235801p:plain
普段は見られない資料が公開されるそうです。おおこれはいかねばいけない…

その他

  • 6/22に成実の小説『龍の右目』を書かれた吉川永青さんのトークショーが亘理であったそうです。

『伊達日記』群書類従版・目次

『伊達日記』群書類従版・目次

解題

伊達日記(合戦部22 巻第390)第21輯

(群書解題第4巻 続群書類従完成会『伊達日記』解題(遠藤元男)より抜粋)

戦国時代後期の伊達氏を中心とした戦記物。三巻。
【書名】作者の名をとって「伊達成実記」とも「伊達成実日記」ともいっている。仙台叢書所収本では「成実記」としている。「伊達日記」の書名も「伊達成実日記」の略と考えてよいであろう。また、群書類従合戦部所収本には、副題として成実公御作「仙道御弓矢之巻」としてあげているが、これはその内容からつけられた書名である。
さらに、高柳光寿氏によれば、「伊達成実日記」を「政宗軍記」ともいったというから、これも内容からつけられたものである。
【作者】伊達政宗の家臣の伊達成実である。(略)
【成立】(略)成立年代は慶長五年十月からほどない頃であるとみられる。作者伊達成実が政宗の武将として、各地に転戦した自己の体験と見聞にもとづいて候文体で筆録した典型的な戦記物である。
【内容】(略)仙道(中通り)における争覇が中心となっている。文章は誇張におちいらず、感情に流れず、事実に即して簡潔に叙述されていて、江戸時代初期における武士の筆録としての戦記物として、特徴あるものとなっている。とくに天正十年(1582)代の芦名氏関係の記事が詳細であり、伊達氏の中枢に位置していた当事者の筆録であり、またその著作年代もその事件からあまり年月をへだてていないものであるから、その史料価値は非常に高いことが知られる。戦国時代の東北地方の政治情勢を究明することのできる根本史料の一つであり、群書類従合戦部所収の「芦名家記」や「蒲生氏郷記」と併用することが必要である。

(伊達日記は一つ書き候文体のため、タイトルはなし。番号・タイトルは当サイトで便宜上つけたものです)

目次

  • 1:政宗の家督相続、大内定綱の反逆、檜原への出陣
  • 2:二本松との境の状況
  • 3:猪苗代盛国への内応条件
  • 4:猪苗代盛国の内応の結果
  • 5:天正13年7月、青木修理の内応
  • 6:8月27日〜29日の出来事
  • 7:青木修理の証人替え
  • 8:二本松境について実元への誓紙
  • 9:政宗黒かこへ
  • 10:9月24日攻撃
  • 11:四人の移動
  • 12:9月25日岩津野への移動
  • 13:小浜自焼
  • 14:政宗小浜城へ
  • 15:粟之巣事変

以下続く

忠宗の心配-成実晩年の容態について-

義山公治家記録の成実の隠居・死の記事を読んでいて、そういえば亘理伊達家史料集に忠宗からの優しい手紙がいくつかあったな、と思いだし、改めてきちんと訳しながら読んでみました。
これがとっても優しい文言にあふれてて素晴らしいのです。
時系列を追って見ますと…。
(注:原文は漢文候文です。読み下し文はぼんやりとやっていますので古文文法の間違い有るかと。あと意味とれてないところ強引に読んでますので間違ってたらすみません)

1644正保1年:77

4/26:成実の体調について、奉行たちの間で通達あり。『治家記録』

茂庭周防、古内主膳より、石母田大膳、中嶋監物、片倉小十郎、津田近江、奥山大学方へ遣わす御用の書状あり。其略に云く、安房守殿御病体紙面の通り具に披露す。熊田次兵衛一昨日上着し、様子具に聞かせらる。快庵玄休松庵よりの書状返答すべしと云えども、次兵衛様子申上げらるに付て、其儀に及ばず

茂庭周防・古内主膳から、重臣達へ使わした書状があり、その中で成実の病気についての記述があり、こまかく知らせたとあります。熊田次兵衛という家臣がおととい江戸に着き、成実の様子をいちいち報告し、その報告を以て医師たちからの報告に代えたと。

1645正保2年:78

正保2年6月21日 忠宗→成実書状(亘理伊達家史料112)

飛脚を以て申し候。御煩の由、千万御心元なく候、時分柄一入養生御油断有間敷候。此中の長雨に、爰元も諸人煩申候。吉事追って申し承るべく候。

遠路の義に候へば、一入心もとなく候、養生専一に存じ候、以上。

【現代語訳】
飛脚を利用して申し上げます。ご病気のこと大変不安であることでしょう。この季節のことですから、よりいっそう養生に注意を怠ることないようお願いします。このあたりの長雨に、私の所にいる者たちもみな病気になっております。よいことは追って申し上げます。

遠くへ行く用事のことですが遠く離れているので*1、余計に心配です。養生だけに専念して他のことは考えないようにしてくださるようお願いします。以上。

正保2年8月15日 忠宗→宗実書状(亘理伊達家史料109)

忠宗から弟で、成実の養子である宗実への書状です。

安房守殿病気大形快気得られ候様に存知候処に、以ての外腫気指候由、扨扨笑止千万存じ候、老体と申し、ひとしお心もと無く候、其の為使者を進じ候。御養生の段、申すまでもなく候。快庵の薬相当申さざれ候はば、玄休に成れども、又作に成れども、御替候ひて然るべく候。快庵薬相当に候はば、申すまでもなく候、吉事追々申し述べるべく候。

替義候はば、草々に述べるべく候。吉事追って申し述べるべく候、以上。

【現代語訳】
安房守どのの病気がだいたい治ってきたようであると聞いていたところに、ひどく腫れ気が進んでこられたということで、なんとお気の毒なことであろうと思っています。
老体ということで、よりいっそう心配です。そのため使者を送りました。養生のことはいうまでもありません。快庵の薬が合わないなら、玄休の薬であっても、又作の薬であっても、お替えになって然るべきです。快庵の薬が合えば、いうまでもありません。よいことはおいおい申し述べることにします。

交換することになるのならば、簡略にお伝えします。良いことも追って申し述べます。以上。

正保2年8月24日 忠宗→成実書状(亘理伊達家史料96)

使者祝着申し候。先日扶庵*2に物語申し候き、常々、養生の御心懸油断無く成られ、何とぞ長命に御座候様に朝暮存候間、必ず左様に御心得有るべく候。諸事談合申すべく人も別に之無く候間、我々ためを思し召し候はば、如何様にも不断養生の御心懸候て、永年奉公も成られ給はるべく候、か様の義次而無く候へば、申されず候。尚、面に万万承るべく候、

返す返す、爰元へ節々御詰候事も、入らぬ義に候。心次第何とぞ緩々御休息候様にと存じ候。用所も候はば、即ち申し進ずべく候。必ず諸事御機遣なく、御養生有るべく候。隙入り早々申し候、以上。

【現代語訳】
使者をお送りくださいましてありがとうございます。先日扶庵に話伝えた通り、つねづね養生の心懸けを怠ることなく、どうか長生きして下さるようにと、いつも思っておりますので、必ずそのように思っていてください。いろいろなことを相談するべき人もいないので、私たちのためを思ってくださるのであれば、なんとしてでも常に養生する心懸けをなさって、永年の奉公をしてくださるようお願い致します。
このようなことはついでのようなことではないので、いわないでください。また、会って、いろいろのことお話ししたいと思います。

何度もいいますが、私の所へ時節ごとに出仕してくださることも不要です。思いどおりに、どうかゆっくりとお休みになってくださるようにと思っています。なにか用事がありましたら、すぐに申し上げます。必ず何ごとにもお気遣いなく、養生してくださるようお願いします。暇ができればすぐにご連絡します。以上。

1646正保3年:79

2/9:隠居願いをついに承諾、家督相続の許可。『治家記録』

二月九日丙戌。伊達安房殿成実隠居、治部殿宗実へ家督相続仰せらる。安房殿より度び隠居の願申し上げらるに就て、病気の障にもなるべき歟と思し召さる。存分次第隠居せらるべきの旨、今日津田近江頼康、古内主膳重広を以て仰し渡さる

正保3年になってから、ついに隠居が認められ、宗実へ家督が相続されます。「度び」とあるので、何度も隠居願いを出して、そのたびに断られてたんでしょうね…。

6/4:辰の刻、亘理に於いて死去。

辰の刻は午前8時頃。3日後、江戸に逝去の知らせが届きます。

経過

  • 正保1年の時点で既に体調が悪かった(しかし10月には嗣君*3光宗関係の行事には出席しているので快復した?)。
  • 正保2年の夏(6月)に体調を崩す(雨が続いている時期)。「諸人煩」というのは、深刻に思わせないための忠宗の思いやりかな?とも。
  • 正保2年の8月に治ったという報を聞いていたが、また腫気が進行していることがわかり、養子宗実と医師についての相談。
  • どうやら8月24日書状のまえに隠居を申し出たが、断られたらしい。正保3年2月の引退までに「たびたび」隠居願いをだしていた様子。

感想

こんな感じの文章なので、忠宗はかなり優しい人というイメージを勝手に持ってます。
一門衆が定期的に仙台に参府していたこともわかります。
あと、参勤交代の前の、首途(かどで)の宴が、政宗時代には茂庭邸で行われていたのが、忠宗時代になって伊達安房(成実)邸になっています。まあ実際の実務は宗実も手伝っていたと思われますが、成実のことを一家の大老として非常に尊重していたことがわかります。
成実の死因はよくわかりませんが、腫れ気・臃(はれもの)ができていたようです。体調が悪くなってからも時間が数年経っているようですし、政宗と同様に、どこかのガンで、それが広まって徐々に悪くなっていったのでしょうかね?

*1:【3/31追記】こういう意味では?とハルさんからアドバイスいただきました

*2:史料集では「扶庵」になってますが、これ上記の記事にでてきた「快庵」のことじゃないかな…?と思います

*3:当時の跡継ぎ

『政宗公御軍記』1-1:正宗公十八の御年、御家督御継ぎなされ候事

『政宗公御軍記』1-1:政宗公が18歳の時、家督を継がれたこと

原文

伊達大守輝宗公御代は、佐竹・会津・岩城・石川、何れも御一門中間にて御入魂に候。右の御大名衆、数年、田村へ御弓矢なされ、田村清顕公御手詰に罷成候。正宗公の御舅に御坐候へども、輝宗公御代故、是非に及ばず、御坐なされ候。然るに、正宗公十八の御年、天正十二年甲申十月、家督御継ぎなされ候。是に依って、方々より御祝儀の御使者参り候。塩の松の主大内備前も、伺候致候。正宗公御意には、大内事、代代伊達を頼み入り候由、聞召し及ばれ候処、近年は左様にも之無く條、此儘米沢へ相詰め申すべき由、仰出され候。大内申上候は、忝き御意に候。拙者親の時代より、御奉公仕り候へども、近年伊達御洞御弓矢に付きて、田村を頼み入れ候処に、少しの儀を以て、清顕公御意に係り、其後、会津・佐竹を頼み入れ、御介抱を以て身上相続ぎ候。尤も只今より米沢に相詰め、御奉公仕るべく候間、屋敷を申請け、妻子引越し申すべき由申し上げ、其年、米沢にて越年仕り候。

語句・地名など

現代語訳

お亡くなりになった伊達輝宗公の代は、佐竹・会津・岩城・石川、いずれもご一門であるお仲間であり、仲良く在らせられた。これらの大名衆がここ数年田村へ敵対なされ、田村清顕公は八方塞がりになられた。政宗公の舅であられたのだが、まだ輝宗公の代であったので、仕方なくその状態であった。
そうしているところ、政宗公が18になった天正12年10月、家督を相続なされた。このため、いろいろなところから祝いの使者がやってきた。塩松の領主大内備前定綱も同様にやってきた。
政宗公のお考えでは大内のことがあった。大内は代々伊達に頼って来たことをお聞きになったのだが、最近はそうでもないので、このまま米沢に出仕してはどうかとお話になった。大内は「かたじけなきお心にございます。私の親の時代から、奉公させていただいておりますけれど、最近の伊達の洞内の戦いのため、田村に頼るようになっていたところ、少々理由がありまして、清顕公の気に障り、その後会津・佐竹を頼るようになり、お助けいただいて、代をつないでおります」と申し上げた。「今から米沢にとどまり、奉公したく思います」ということで、屋敷をもらい、妻子を引っ越しさせたいと思うことを申し上げ、その年は米沢にて年を越した。

感想

これは軍記類纂に載っている『政宗公御軍記』の冒頭部分です。
読んでわかるとおり、文章的には伊達日記・成実記系統ではあるのですが、かなまじり文・章題つきというのが、やや政宗記に寄った内容になっています。石川弾正退治のあたりで途中で終わるんですが。
勝手な推測ですが、成実記を元にした政宗記のプロトタイプなんでは?と思っております。
政宗の家督相続後、大内定綱の米沢訪問が書かれています。

『政宗公御軍記』軍記類纂版

『政宗公御軍記』軍記類纂版

改題

政宗公御軍記 二巻
本書は、伊達政宗が、奥州に於ける軍事を記したものなり。内容は、政宗十八歳にして家督を継ぎ、付近の大名を切従へ、数度の合戦に勝利を得、結局政宗一人、威を東北に振ふ次第を記したり。此の書、黒川蔵写本を採収す。
本書、同名異本あり。帝国図書館蔵本に、政宗鄕御軍記と題せるものこれあり。
巻数二巻にして、伊達成実と作者の名を揚げたる本なり。此の採収本とは別本なれば、一言そのよしを注意す。

一ノ巻

  • 政宗公十八の御年、御家督御継ぎなされ候事
  • 大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事
  • 青木修理御味方仕り、塩の松、御手に入り候事
  • 二本松義継降参の事附輝宗御生害の事
  • 佐竹義重公・岩城常隆公・石川昭光公・白川義近公仰合され、須賀川へ御出馬、伊達一味の城を御攻め候事附右合戦に付伊達加勢遣され、観音堂に於て、茂庭左月を始め討死、成実手柄の事

ニノ巻

  • 大崎義隆御家中叛逆を企て義隆公を抱へ置く事
  • 氏家弾正、義隆を恨み奉り、伊達へ申寄り御勢を申請け一揆起し候事
  • 下新田に於て小山田筑前討死附伊達勢敗北の事
  • 黒川月舟身命相助けられ候事附八森相模御成敗の事
  • 大内備前、御下へ参りたく御訴訟申上げ候事附同人苗代田へ再乱の事
  • 玉の井敵地より草を入れ候事
  • 大内備前御訴訟相済み御目見申され候事
  • 会津・須賀川衆、本宮へ働き、人取橋に於て合戦の事
  • 石川弾正逆心仕り、相馬へ忠節の事
  • 相馬義胤、田村の城取損じ候事附石川弾正、御退治の事

北海道の成実生誕450年関連いろいろ

心の伊達市民制度の案内が来て知ったのですが、開拓記念館改めだて歴史文化ミュージアムの開館が今年秋予定だったのが、来年春に延期してしまったそうです…(しかもそれ10月の記事だった…)。
あ、秋にいくはずだったのに!

と思っていたら、複数のフォロワーさんから7月に450年関連イベントがあるらしい?ということをお聞きしました。れいの…あれを…やるらしいですよ…。成実がシテの…摺上原合戦を…ごにょごにょ。

あと、今こういうのを募集しているらしいです。デザインに自信のあるかた是非!
だて歴史文化ミュージアム来館記念スタンプのデザイン募集 | 伊達市噴火湾文化研究所

『政宗記』3-11:黒川月舟死罪逃れらる事

『政宗記』3-11:黒川月舟斎が死罪を逃れたこと

原文

今度大崎との戦に、伊達の勢不手際なるは、黒川月舟逆心の故也。政宗重ねては先、月舟居城の黒川を押倒し、其れより大崎をと思はれけれども、大崎と取組玉へば、跡の如く佐竹・会津・岩城・白川、各本宮へ打出て働き給ふべきことを気遣ひ、其年は先延引にて御坐す。爾る処に翌年又仙道の軍再乱して、政宗方勝利を得られ、剰へ会津迄手に入れ、一両年の間在城となる。去程に今より後は関東へと志し、大崎の事をば詞にも出し給はず。爾るに太閤秀吉公小田原御発向に付て、会津をば召上米沢へ本領し給ひ、偖て葛西大崎をば木村伊勢守拝領にて、政宗へは名取・国分・宮城・黒川切に下されければ、月舟は聟の上野処へ蒐入「身命許りを助け下され候へ」と申す。其こと政宗へ上野申上けるは、大崎にて思ひの外討死なるは月舟逆心故なり、其供養に月舟首を刎んと宣ひ、秋保へ遣はし、境野玄蕃にあつけ給へり。是に仍て上野、米沢へ相詰、「右大崎にて浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡、我等の身命恙もなく退きけることは月舟心操なり、然りと雖ども是を申したつるには非ず、偖親分に候程に、其所領を一宇差上奉公に及び、只報恩に月舟身命助け下され賜らはん」と、百度の歎きに仍て、伯父*1の訴訟と云へば、是非なく承引し給ふ。上野、月舟を玄蕃の手前より請取、宮城の居城利府へ帰り、悦こぶこと尋常ならず。爾して上野申し立てられける所領も、召上給はず首尾能相済、後には上野方への志とて、少分ながら月舟へも堪忍分を給はり、其後仙台在城となりては屋敷を玉はり折節は政宗へも呼ばれけり。是偏へに上野への首尾とぞ聞ける。爾るに月舟伯父八森相模、右大崎桑折の城にて、月舟へ已に強き諌のこと、其上政宗差給ふ小旗の紋を、其身の紋になしければ、旁心に深くかかり、小国へ遣はし上郡山式部に預け、後には妻子共に死罪に行はれ候事。
          寛永十九年壬午止六月吉日    伊達安房成実

語句・地名など

小国:山形県西置賜郡小国町
心操(しんそう):心がけ、心ばえ

現代語訳

このたびの大崎との戦に、伊達軍の手際が悪かったのは、黒川月舟斎晴氏が反逆したためである。政宗はまず月舟斎の居城黒川城をせめ、それから大崎をと思っておられたけれども、大崎と戦い始めたところ、既に記したように佐竹・会津・岩城・白川がそれぞれ本宮へ出て動くであろうことを心配し、その年はまず延期となされた。そうしている間に、翌年また仙道の戦がふたたび起こり、政宗方が勝利し、そのうえ会津まで手にいれ、1,2年の間城となされた。
これよりあとは関東へと勢力を伸ばすことを志し、大崎のことは言葉にもお出しにならなかった。そして太閤秀吉公小田原を出立されたとき、会津を召し上げられて米沢へ本領と戻され、葛西・大崎を木村伊勢守吉清が拝領した。政宗へは名取・国分・宮城・黒川を熱心に下されたので、月舟斎は婿の留守上野政景のところへ駈け入り、「命ばかりはお助け下さいませ」と言った。政景はそのことを政宗へ申し上げたところ、大崎にて想像以上に多くの兵が討ち死にしたのは月舟斎の反逆の所為である。その供養のために月舟斎の首をはねようと仰り、秋保へ遣わして、境野玄蕃にお預けになった。
これによって留守政景は米沢へ上がり、「以前大崎にて、浜田伊豆・館助三郎・宮内因幡、私の命もつつがなく退却できたことは、月舟斎のしてくれた配慮のおかげである。しかりといっても、これを申し立てるのではなく、私の親のようなものであるから、その所領をすべてさしあげ、仕えさせ、その報いに応じて月舟斎の命をお助けくださいませんでしょうか」と100度の歎きの言上により、叔父政景の訴えでもあったので、仕方なく引き受けなさった。
留守政景は月舟斎を境野玄蕃のところから引き受け、宮城の居城利府城に帰り、このうえもないほど非常に喜んだ。
政景の申し立てなされた所領も召し上げにはならず、首尾よくすみ、その後は政景への志しとして、少くはあったが月舟斎へも堪忍領をお与えになり、その後仙台に城が移ってからは、屋敷を賜り、ときどきは政宗のところにもお呼ばれになった。これはひとえに政景への配慮であると聞いた。
さて、月舟斎の伯父八森相模という者について、大崎桑折の城で月舟細を強く諫めたこと、その上政宗が指していた小旗の紋を自分の紋にしていたことが心に強くひっかかっており、小国へ遣わし、上郡山式部にお預けになり、のちには妻子ともに死罪になさったのである。

感想

ようやく、まとめてですが、大崎合戦のくだりをupすることができました。ここら辺戦の展開をよくわかっていないのもあって、なかなか訳せませんでした。おそくなって申し訳ない。
伊達史料集によるとこの巻三は前半の巻には珍しく、唯一寛永13年に成立した分なのだそうで(奥書がそうなっています)(1・2・4・5・6・7は寛永13年成立、3・8・10・11・12が寛永19年成立したと推測されています)。成実があまり関与していないこともあり、思い出すのに時間がかかったのでしょうか。理由はわかりませんが。

*1:叔父の間違いか。留守政景は政宗父輝宗の弟

『政宗記』3-10:永江月鑑死附弾正誓紙

『政宗記』3-10:長江晴清の死と弾正が誓紙を提出したこと

原文

去ば月鑑は、相馬義胤の子舅なり、故に大崎下新田の合戦にも、月鑑人数は玉なしの鉄砲を打。此のこと政宗聞給ひ、居城の深谷は大崎境、況や義胤縁者といひ、亦も逆心危しとて、先秋保摂津守といひけん者に預けられ、後には死罪に行ひ給ふ。爾して後弾正親氏家参河も弾正と不和になり、名生の城に居ながら、彼城を懐て義隆へ忠をなす。故に政宗弾正に疑心をし給ふ、御十分の至りなり。然りと云へども、一旦の忠を争ひ不忠有べしとて、数通の起請を差上ければ聞分給ふ。是に仍て岩手山へ横目を申請、小成田惣右衛門を遣はし給へば、程なく弾正病死に付て、存生の如く万づ仕置を惣右衛門申付、岩出山をば抱ひ給はり、小成田惣右衛門を近頃は山岡志摩とぞ呼れける。

語句・地名など

現代語訳

長江晴清*1こと月鑑斎は相馬義胤の小舅である。そのため、大崎下新田での合戦でも、月鑑斎の手勢は玉のない鉄砲を打った。このことを政宗がお聞きになり、月鑑斎の居城の深谷は大崎との境にありましてや義胤の縁者であるため、また反逆するのではないかと、まず秋保摂津守という者に預けられ、のちには死罪にされた。
この後、氏家弾正の父親である氏家参河も弾正と仲が悪くなり、名生城に居ながら、この城を手に入れて義隆へ寝返った。このため政宗は氏家弾正を疑うようになり、それはとても強くなった。
しかし、一度の裏切りをきつく注意したなら、再びの裏切りがあるであろうと数通の上申をしたところ、納得なさった。
このため、岩出山へ目付のものを送ることを願い申し上げ、小成田惣右衛門をおつかわしになったところ、ほどなく氏家弾正が病死し、生前のようにいろいろの取りしきりを惣右衛門に申しつけ、岩出山を領土になさった。
小成田惣右衛門は最近は山岡志摩と呼ばれている。

*1:勝景とも

『政宗記』3-9:最上より大崎へ使者の事

『政宗記』3-9:最上から大崎へ使わされた使者のこと

原文

最上義顕より野辺沢能登と云臣下を、大崎の蟻ヶ袋へつかはし給ひ、月鑑に対面して何と語りけるやらん、月鑑をば本の深谷へ相帰し、安芸一人能登同心して、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門と云両人に渡しける。其夜に又能登、安芸宿へ来て「御辺を是へ相具しけること別に非ず佐竹・会津・岩城方々へ、義顕申組て已に伊達へ軍をせんと云謀あり、故に相馬義胤も一同有べき為に、芋窪又右衛門と云ける者出羽へ遣はし、其上言合せ玉ふ、只御辺も一門中へ内通して、伊達への謀叛ならば御身の上、悪かるべきや」と云。安芸「主君への奉公のために、二つなき命を擲ち、籠城の軍兵ども出しける其功をば、いかで二度取返し候べき、疾々首を刎らるべし」と申す。「あはれ武士には比類無き一言かな」と能登褒美の由なり。さる程に、安芸此趣を政宗に告げ参らせんとて、斎藤孫右衛門と云ふ者を米沢へ忍びの使を差上、右の子細を申けり。斯て義顕は政宗母儀方の伯父にておはせども、輝宗代には度々軍なりしが、政宗へは和睦を入、近頃は懇にておはす。爾りといへども我家の大身を多く滅し、或は御子両人迄死罪に行ひ、以の外なる悪大将なり。されば政宗四本ノ松・二本松を取給ふに仍て、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川、各伊達へ敵対し給ふ故に、義顕近所と云ひ互に時を見合せ、右の大将へ一和ありて、伊達へ戦、在城の米沢を日来のぞみ給ふ処に、況や今度大崎にて伊達の勢とも利なくして、人質の泉田安芸を、義隆より最上へ遣はし給へば、尚も政宗へ手切の為に、米沢と最上の境に、鮎貝藤太郎と云し者居たりけるを、義顕語らひ、天正十六年三月十三日に右の藤太郎伊達へ向て手切をなす。政宗時刻を移さず退治せんと宣ふ。家老の面々「義顕手の悪き大将なれば、隣国へ如何なる武略計略嫌疑無く、一左右を聞玉ひ爾るべし」と申す。「各申処は理りなれども、打延けること如何」の由にて、已に馬を出さるべきに相済けり。爾る処に鮎貝、最上より加勢を頻りに望と云へども、如何ありけるやらん一騎一人も助け来らず、剰へ政宗出馬のこと藤太郎聞及び、則最上へ引除けり。是に付て米沢中弥静謐にて候事。

語句・地名など

深谷:宮城県桃生郡河南町・矢本町地方
我が家:自分の家/自分の家庭(我=話者でなく、我=話題の人)

現代語訳

最上義光より野辺沢能登という家臣を大崎の蟻ヶ袋へお使わしになり、月鑑斎に対面して何とかたったのであろうか、月鑑斎をもとの深谷へ帰し、安芸一人を能登が連れて出、小野田の城代玄蕃・九郎左衛門という二人の人に渡した。
その夜に野辺沢能登は安芸の泊まっているところに来て、「あなたをここへ連れてきたのはほかでもなく、佐竹・会津・岩城それぞれへ、義光が言い合わせ、すでに伊達へ戦をしようというはかりごとがある。そのため相馬義胤も一緒に加わって貰うために、芋窪又右衛門という者を出羽へ使わし、そのうえ約束なさっている。あなたも一門の中で内通し、伊達の謀叛があるならば、あなたの身の上も悪くなるであろう」と言った。
安芸は「主君への奉公のために、二つと無い命をなげうち、籠城している兵たちを出したその功しを、どうして二度と取り返すことができるだろうか、さっさと首をはねられるがいい」と言った。
これを聞いて「なんと、武士には比べる者のない立派なひと言である」と能登はたいそう褒めた。
安芸はこのやりとりを政宗に告げようとし、斎藤孫右衛門という者を米沢へ隠密に使いをおくり、以上の詳細を申し上げた。
義光は政宗の母の伯父でらっしゃるけれども、輝宗の代にはたびたび戦をしてらっしゃったが、政宗へは和睦を申し入れ、近頃は仲良くしていらっしゃった。そうであるとはいえ、自分の家の位の高い家臣を多く滅ぼし、あるいは自身の子ども二人も死罪にするなど、酷い悪大将である。政宗が塩松・二本松をお取りなさったとき、佐竹・会津・相馬・岩城・白川・須賀川の諸大将が伊達に敵対したときに、義光は近所であったため互いに時を合わせ、これらの大将たちと内約をし、伊達へ戦をした。伊達の城である米沢城を日頃から望んでいたところに、さらに今度大崎での戦において、伊達の軍と協調する利がなくなり、人質の泉田安芸を、大崎義隆から最上へお渡しなさった。さらにまた政宗へとの合戦開始の為に、米沢と最上の境界にいた鮎貝藤太郎という者と、義光は申し合わせて、天正16年3月13日にこの鮎貝藤太郎は伊達に対して手切れをした。
政宗はすぐに退治しようと仰った。家老の皆様は「義光は悪辣な大将なので、隣国へどんな武略計略をしても疑い無く、第一報をお聞きなさるのがよいでしょう」と言った。「おのおの言うところは理があるが、延期してはどうか」と言ったため、馬を出すことに決まった。
そうこうしているうちに、鮎貝は最上より加勢をもらえるようしきりに希望したのだが、どうだったのだろうか、一騎ひとりも助けが来ず、その上政宗が進軍を開始したことを鮎貝藤太郎は聞き、すぐに最上へと退却した。このため米沢領内はとても静かで平穏であったのである。