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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script](「エスディー・スクリプト」と呼んでいただければ…)です。
管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『伊達日記』に振った番号がところどころずれていますが、お許しください。その内修正します。
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

(考察・雑記・雑談・感想の分類はフィーリングです…)

原文:

*1:宮城県図書館版『政宗記』によりながら『成実記』及び仙台叢書版によって校訂を加えられたもの

2019GW松島伊達函館

こんにちは。久しぶりの更新です。皆様におかれましては10連休楽しまれたでしょうか。
楽しんだ方もお仕事で楽しまれなかった方もいらっしゃるとは思いますが、私は後半(5/2〜5/5)に旅行行ってきました。いつも御相手してくださるTさんと一緒です。

今回は仙台まで新幹線、そこから船で渡るということをしました。
GWの予定がまったくなかったので、どっか行きたいなあと思っていたところ、その前に名古屋まで船旅をなさったTさんが「船いいよ!」って仰ってて、かつ仙台から北海道(苫小牧港)の航路がある!とわかったので、出来心でとったわけですよ。そしたらGW前半は無理だったんですが、取れちゃったんですね!予約が!てなわけで旅程が決まりました。
お金的にも時間的にも無駄じゃね?というのはいろんな人から言われたんですが、今回の旅行は旅程に意味があるのだということで、行ってきました!

1日目(5/2)

朝イチの新幹線に乗って仙台へ。
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これを見ると仙台に来たなあって思います。

そして

夜の19時に仙台港発ということで、長らく行ってなかった松島に行きました!私が伊達に再ハマりしたときは震災関係なく平成の大修理の真っ最中だったんですね。そのときは伊達オタ仲間のしぎのさんとかもご一緒に寄進もして、「私らの名が次の修理まで残るのか…」と変な感動をしていたのですが、それからもう7年が経ちまして、いろいろあって行けなかったので、行くことに。
松島って地味に遠いですよね…仙台から。







最近私とTさんの旅行って食い倒れ旅になっているよね…。そして松島はGW真っ盛りということでめっちゃコミでした!




円通院で、数珠作り!精神の平穏とお金が欲しいことが丸わかりな数珠となりました!






そして出発1時間前に、多賀城駅からタクシーに乗り仙台港へ!気づかなかったけどバスもありました。
この船は今年1月に就航スタートしたきたかみ。ものっすごく綺麗で、ものっすごく楽しかったです!
そりゃもちろん飛行機などに比べて時間はかかるんですが、その分自由にできて、遊べる。
夕暮れも朝日も楽しめる。最高でした!!





ちょうど日が暮れた後に出発です。うわーうわーうわーって感じで大興奮!ただでさえ海なし県人で海を見るとテンション上がるのに、もう港が美しすぎてもう…もう…(語彙とは)。
確かにちょっと揺れましたが、酔い止め飲んでたら大丈夫なレベルだし、足のばして寝られるし、とても快適でした。朝焼け(4時半頃)も堪能しましたよ!!

2日目(5/3)

日が昇り、船は苫小牧港へ。
そして苫小牧から伊達紋別へ。

いつものアレです。


やってきましただて歴史文化ミュージアムへ!!

鎧!

宇佐美長光!!

迎賓館!!

和歌みくじ!! 私は右のやつで、邦成さんのが出て、やったーと思っていたらTさんは成実辞世のを当ててて、ま、まけた…ってなりました…。勝ち負けの問題じゃないけど…欲しかった私も…。ちなみに翌日もやりましたが、保子さんのがでました。成実のは出ませんでした…出ませんでした…orz





ミュージアムのリーフレットです。熱いぜ!!


夕焼けがとても綺麗です。





ミュージアム内部はこんな感じ。湿度も温度もちょうどよく、見事な展示になっていました。
アイヌと日本人の出合いに重点がおかれていて、とてもよかったです。
奥が特別展の成実展でした。毛虫鎧や政宗公御軍記、褐色の幟が展示されていました。
気になっていたのが、宇佐美長光の拵え。南相馬で展示していたときに笄と小柄に龍の模様が入っていることには気づいていたんですが、手のところになんか金細工してあるんですね。なんなのかよくわからないけど、龍では?とお聞きしました。



おっさかなおっさかな(≧∀≦) いいお寿司屋さんを教えていただきました。くっそう何食べても美味しいぜ北海道…。

3日目(5/4)

道の駅で野菜をしこたま買ったあと、もう一度ミュージアムへ。
和歌みくじをしましたが、成実辞世ゲットはならず…。



Tさんが函館行くっていったらここにいけ!と言われたらしいのですが、若干並びましたが、行ってみました!他の支店もめっちゃこんでた…。

路面電車のある町っていいですね…。



赤レンガ倉庫などを歩きながら、函館山ロープウェイへ。




途中で南部さんの陣屋跡に遭遇しました。





そしてロープウェイで山頂まで。夕方から夜景まで堪能しました。寒かったけど綺麗なもの見られて最高!


函館と言えば塩ラーメン! 本当はジンギスカン食べようかって話してたんですが、もう終わってたんすよ…orz 今度いつか行くときは食べたいですジンギスカン…。

3日目(5/5)

最終日です!てなわけで今度は五稜郭へ!!


実は初五稜郭です!

こええ!こええよ!!(泣)

土方さん像。

地元有志の方による演舞が始まったので見ていました。よく見えて格好良かった。





土方さんの追悼碑。私あんまり知らなくて申し訳ないのですが、この日土方さんの(推定)誕生日なんですってね…。しらなくてごめんなさい…。


憧れの六花亭でお土産買い倒したあと、パンケーキを食しました!! 好みなタイプのパンケーキでした!!

そしてプリンも食べた…(本当に食い倒れ旅だな…)

おまけ


今回ずっと連れて回った政宗ベアーですが、仙台駅の改札前のNEWDAYSで売ってます!そして!

道の駅で見つけた木製成実くん人形!!

馬もついてる!!(≧∀≦)さっそくスマホケースに付けました!
かわいい!推しのグッズ嬉しい!!いやスマホケースとか自作で作りますけど、誰かが「誰かが買うと思って」作ってくれたという事実が嬉しいのですよ…。

そして友人に政宗ベアーを自慢したんですが、2日後ぐらいに突然これが届いたわけですよ…。


なんと私が大好きな山形陣羽織!! 世界にたった一つのオリジナル政宗ベアーとなりました!!
ありがとう友よ!!!!
あ、あとミュージアムもグッズコーナー出来てましたよ!アイヌ文様マステとか、成実Tシャツとかありますよ!箸とか買いました…使うもん…。

最後に

今回の旅は人と出会うことの楽しさを再確認した旅でした。
正直、同じところに何度も行ってるとマンネリ化してしまうのは否めないんだけど、一緒に行く人、そこで出会う人、行ける場所、知れること、行く方法、それはどれもそのときその人とでしかできないことで、必然な偶然なのだなと思い直した次第です。
特に船旅は本当に楽しかったです!またやりたい!(≧∀≦)
知り合っても残念ながらいろんな理由で縁が切れてしまう人がいる一方で、今も縁が続いている人には本当に感謝しかないです。
多分その人たちに出会わなかったら、いくら萌えや熱があっても、私は北海道にも仙台にも亘理にもこんなに行ってないと思います。本当にありがとうございます。
そしてこれからもよろしくお願いします。
今回、ものすごく暑くもなく寒くもなく、ずっと晴れで、めっちゃ過ごしやすかったのですが、私らが行くその前の日くらいが寒の戻りで雪までふりかけてたらしく、天候に対する自らの運の良さを再認識した…ホントにありがとうございます…全ての意味で…。

今回船旅にしたのは、時代も船も違いますが、仙台から北海道の船旅というのを体験したかったからです。
亘理伊達家の家中は寒風沢から出て函館を経て室蘭港へ、半月くらいかけて行ったらしいので、まったく違いますし、船酔いとかしんどさとか比べものにならないだろうけども、出発するときの気持ちや、北海道についたときの気持ちなど、少しでも追体験したいな〜というのが主目的でした。
どんどんと遠くなっていく仙台と亘理を見ながら、近づいてくる北海道の大地を見ながら、沈んでいく太陽と昇っていく太陽を見て何を思ったか。
想像しかできませんが、何か知りたかったのです。その目的は果たせたので満足です。
帰りも時間がかかっていて、なんのため?と言われそうですが、海路で行ったので、陸路で帰りたかったのですよ…。
それで、新函館北斗駅から仙台を経て東京へ、そこから京都経由して家へ帰りました。
すると、帰る途中に、親戚で物故者がでたことを知らされました。
会いたい人には会いたいときに、会えるうちに会っておかねばならないのだなあ…と思いました。
震災も含めて、2012年に伊達萌えが再燃してから、私はずっとそのことについて考えてるかもしれません。
あの人はあの人の死に目に会えたのかな、ということ。

今回の旅、本当後半伊達とは関係ないんですが、伊達に出会わなかったら行ってなかった場所なので、伊達旅という事で!(≧∀≦)
今回の伊達旅はこれにて終了!!

『伊達日記』64:鹿俣落城

『伊達日記』64:鹿俣落城

原文

一片平助右衛門事切に付。常隆公三月廿四日小野の地へ御出馬成られ候。小野御越の間に鹿俣と申候城は田村奉公の地に候。常隆公近陣成られ候。小野大越近候間田村より手越に候間。助も成らぬ地形候。六七日相抱候へども罷成らぬ御侘言申され。城を明田村へ引除申され候。常隆公は小野に御出馬成られ候。其様子政宗公聞召され田村へ郡治部大夫。飯坂右近大夫。瀬上中務指越され候。左候へども御足の痛堅く無く候故御出馬之無く候。

語句・地名など

鹿俣:かんまた

現代語訳

一、片平助右衛門親綱が伊達に内応したため、岩城常隆公は3月24日小野の地へ出馬なさった。小野と大越の間に、鹿俣という城があり、田村に使えていた地であった。常隆は近陣し、小野と大越は近かったので、田村からは遠く、援軍も出せない地形であった。6,7日は籠城していたが、不可能であると申し出、城を明け渡し、城に居た者たちは田村へ退いた。
常隆公は小野に出陣なされた。政宗はそのことをお聞きになり、桑折治部少輔・飯坂右近宗康・瀬上中務景康をお使わしになった。しかしながら、足の痛みがまだよくならなかったため、自らの出陣はなかった。

感想

岩城常隆がすばやく鹿俣城を落としたことが書かれています。

『伊達日記』63:岩城常隆の出陣

『伊達日記』63:岩城常隆の出陣

原文

一政宗公御足の御痛大形平愈なされ候に付。片平助右衛門に事切仕候様に申遣べき由御意に候間其通申越候処に。三月十六日に事切仕候由申越候條。則米沢へ申上候。助右衛門手切之儀岩城へ聞え。常隆公仰され候は。郡山表に於いて御対陣の見切。佐竹。会津自今以後御入魂候様にと仰合され候処に。政宗公程無く御再乱前代未聞之由仰られ。即田村の内へ御事切成られ候。

語句・地名など

現代語訳

政宗公の足の痛みがおおかた治ったので、片平助右衛門親綱に事切れするようにとのご命令につき、その通り申遣わしたところ、3月16日に事切れしたと言ってきたので、すぐに米沢へそれを申し上げた。
助右衛門が手切れをしたことは岩城に伝わり、常隆公は「郡山方面において対陣したとき、佐竹・会津へこれ以降懇ろにするようにと言い合わせたと言うのに、政宗公がすぐに再び戦を始めるとは前代未聞のことである」と仰り、すぐに田村領へ攻め入られた。

感想

すばやい常隆の動きです。

『伊達日記』62:片平親綱との約束

『伊達日記』62:片平親綱との約束

原文

一片平助右衛門二月廿日比飛脚を越申され候而。少用候間会申度由申され候間。其通小十郎所迄申宣候所に。御意を得られ候へば尤早々参申すべき由御意候由申越され候間。片平へ飛脚を越候而参会申すべき由申候に付。即安積堀ノ内と申所へ罷出られ候。拙者も罷出候へども。助右衛門申され候は。去年大内備前御奉公申付られ。会津より御疑心成られ人質を召上られ候上にも。我等少も御油断成られぬ体に候。ケ様にては以来身命大事に存候間。政宗公へ御奉公仕るべき由申上られ候。然る処に深雪の時分は御出馬成られぬ由にて事切相延候上。落馬にて弥相延申候に付。会津衆中須賀川岩城の老衆よりも状を預候。事切仕らず候故相返申事も罷成らず候。若如何様の表裏も候而会津へ御奉公仕候由申仁も候へば迷惑に存候條。連々米沢へ申上候様にと申され候。其上我等に会申候はば心中も違候と申唱。会津の通用も有間敷と存。御目を懸け度申越候由申され候。助右衛門奇特の義申上候。御大慶に思召され候。御出馬御過迄に御延引候はば事切申候而も如何と思召相延られ候。気遣無く御左右次第に手切れ申すべき由御意に候。其通助右衛門所へ申遣候。

語句・地名など

現代語訳

一、片平助右衛門親綱が2月20日頃飛脚を遣わしてきて、少し用があるので、会いたいということを言ってきたので、その通りに小十郎の処に言い、許可を得られるなら、すぐに行ってほしいとお思いであると仰ったので、片平へ飛脚を送って、会おうということになった。すぐに安積の堀の内というところへやってきた。私も行ったところ、助右衛門親綱は「去年大内備前定綱が伊達に奉公するようになってから、会津から疑われるようになり、人質を取られた上に、私は少しも油断出来ない状態でございます。このような有様では、命を大事に思いまして、政宗公へ奉公いたしたいと申上ましてございます。しかし、雪が深い頃は出馬出来なくて事切が延期になりましたが、落馬にてさらに延期になっていることから、会津の者、須賀川、岩城の家老衆からも書状を預かっております。事切できないため、お返事することもできないでおります。もし何らかの裏表があり、会津へ内通しているという者もいるので、大変困っておりますので、くりかえし米沢へ申し上げてください」と言った。その上私に会ったなら、心の中も変わるでしょうと言った。会津への裏切りも無いだろうと思い、お目をかけてくださいと言った。助右衛門親綱の態度に感心したことを申し上げたところ、政宗は大変お喜びになられた。出馬なさるまで延期になれば、事切したところでどうなるだろうかと思われ、延期しておられた。心配せずに、傷の平癒次第に手切れせよとのご命令であった。その通り助右衛門のところに申し遣わしました。

感想

政宗が骨折をし、戦に出られなくなったことから、内応の約束をしていたけれどもまだ蘆名の傘下にあった片平親綱は危機に陥り、成実に使いを送ります。
しかしまあ…骨折だから仕方ないですよね…。

『伊達日記』61:政宗の骨折

『伊達日記』61:政宗の骨折

原文

天正十七年正月之末政宗公御落馬成られ御足を打折られ候。御養生候而御足は付候へども。御痛にて御出馬抔成らるべき体に之無き候故。助右衛門事切弥相延候。

語句・地名など

現代語訳

天正17年正月の末、政宗は落馬され、足を骨折なされた。養生なさって、足は付いたけれども、痛みがひどく、出馬などできる様子ではなかったので、片平親綱の寝返りについては延期となった。

感想

雪が降っているとおもったら、正月早々落馬して骨折している政宗です…。戦国武将で落馬して足折るって!!(笑)
ちなみに発掘調査されたときに左足のスネの骨に折れたあとがみつかったそうで、成実のこの記述が正しいことが裏付けられました…。『治家記録』とかでは「御痛みありて」とかボカしてあるんですよね。なんでも書いちゃう成実こわい(笑)。

『伊達日記』60:片平親綱の寝返りについて

『伊達日記』60:片平親綱の寝返りについて

原文

一極月始小十郎より状を越申され候而。我等申候通申上候へば。御尤に思召され候間片平助右衛門召出され。御再乱成らるるべき由御意に候間。助右衛門所へ申ことはり然るべき由申され候條返答に候。大内備前御下に居申され候間。備前所より使を越申され候様に仰付られ然るべく。備前に使越候はば、我等所へ寄申すべき由申さるるべく候。我等も状を指添申すべき由申越候に付。極月廿日比備前使罷越候間。我等状を指添片平方へ指越候。助右衛門御奉公仕るべき由返答申され。去り乍ら其比は雪深候間先手切は無用之由。政宗公御出馬成られ候時分手切れ然るべき由御意成られ相延られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、12月のはじめ、片倉小十郎景綱から書状を送ってきたので、私が言った通り政宗に申し上げたところ、ごもっともと思われ、片平助右衛門親綱をお呼びになり、再び戦をしようと思われたので、助右衛門のところへいっておくべきだろうと思ったので、返答した。大内備前定綱がもう政宗の配下になっているので、定綱の所から使いをおくるようにと仰られた方がよい。備前に使いをおくられるのであれば、私の所へ寄るようにいうようにと言った。私も添え状を送るのでと申し上げたところ、12月20日ごろ定綱の使いがやってきたので、私の添え状を片平へ送った。親綱は政宗に奉公するということを言って返してきたが、その頃は雪が深かったので、戦もしかねて、政宗が出馬されるころ手切れするべきであると思われ、延期となった。

感想

片平親綱の寝返りをいったいいつにするかという話です。
雪で延期するあたりが寒い地方ならではだなあと思いました。

『伊達日記』59:成実の意見

『伊達日記』59:成実の意見

原文

一奥州の作法にて御無事御扱候衆へ双方従り御礼仰られ候に付。片倉小十郎を岩城へ御礼指越され候。罷帰られ候砌我等大森へ罷越。小十郎に岩城の様子相尋候へども。小十郎申され候は。小野大越本意背き岩城を頼入候故。上下共の心中田村へ頼をかけ候と見え候間。来年は必岩城は敵に成るべき由申され候。我等申候は。御手延に成られ岩城より手切候はば。田村の内春中相馬へ申合候衆数多候。其もの共末々身上を大事に存。又岩城へ御奉公申候はば田村の御抱成りがたく候。去年大内備前御奉公の砌。片平助右衛門御奉公仕るべき由申され候へども。如何様の儀に候哉相違申候。唯今は助右衛門も後悔すべし候間助右衛門を召出され。此方より御再乱候はば。縦岩城敵に成候とも御弓矢成られ能有るべきの由申候へども。小十郎挨拶は之無く候。我等は二本松へ日帰に仕候。

語句・地名など

現代語訳

一、奥州の作法にて、和睦を取り仕切った衆へ、双方からお礼を仰ったのに合わせて、片倉小十郎景綱を岩城へ御礼のために送られた。帰ったころに私は大森へ行き、小十郎に岩城の様子を尋ねた。小十郎は「小野・大越が伊達に背き、岩城を頼るようになった。みなは心の中では田村へ頼ろうとしていると思われるので、来年は必ず岩城は敵に成るだろう」と言った。私は「延期にされ、岩城から戦を仕掛けられたなら、田村の家中は春の内に相馬へ言い合わせている者たちは数多い。その者たちは未来のことを大事に思い、また岩城へ奉公するのならば、田村を押さえるのは難しいだろう。去年大内備前定綱が寝返ったとき、片平助右衛門親綱も奉公したいということを言ったが、どうなっているのだろうか。約束を違えて、いまは親綱も後悔しているだろうから、親綱を召し出し、こちらから戦を再度仕掛けたならば、たとえ岩城が敵になったとしても、戦をされても上手くいくだろう」と言うことを言ったが、小十郎は何もいわなかった。私は二本松へ日帰りした。

感想

岩城常隆が和議を取り仕切った後のことです。
景綱と成実の会見の時の話が書かれています。この二人は本当にちょくちょく気軽に会いに行ったり帰ったりしていて微笑ましい。

『伊達日記』58:田村の仕置

『伊達日記』58:田村の仕置

原文

一御北様も舟引へ相移され。孫七郎殿も三春の城へ御うつり候條。米沢御帰城成らるるべき由思召され候処に。月斎。刑部少。小十郎へ申され候は。今度義胤三春を御取有べき由思召られ候ば。牢人衆へ申合され候故普代衆も多分申合され候。此前会津にても牢人払を成られ候而御洞しまり申候。田村の牢人は大杉相馬普代衆に候間。牢人払を仰付られ候はば。弥田村は安泰に之有るべき由申され候に付而原田休雪。片倉小十郎御使として月斎。梅雪。右衛門大輔。刑部少へ其通仰届られ候。此牢人衆は梅雪。右衛門大夫へ申合相馬へ御奉公申すべき由申。組々を政宗公努々御存知なく仰届られ候故梅雪。右衛門大夫跡より申され。組々牢人譜代ともに三十八人同心候而小野の地へ引除かれ候。其外御譜代衆に申合候衆数多候へども相除かれず候。政宗公もケ様の儀は存候者連々御仕置ならるるべき物をと思召され候へども是非なく候。月斎。刑部少分別に牢人衆を御払候はば梅雪。右衛門も引除申すべく候。左候はば田村衆心易孫七郎殿を取立両人仕立申すべきと存。小十郎へ申され候と存候。其に就いて御帰城も成られず。政宗公御仕置き成さしめ三春へ御馬を移され。三十日あまり御在馬成られ候。然る所に大越紀伊守。右衛門大輔。梅雪父子。相馬は相捨。岩城へ申寄せられ候。常隆公御入魂之儀に候間。若松紀伊守と申衆三春へ遣はされ。今度梅雪。右衛門大輔。田村へ引除候。我等迄口惜思召候。去り乍ら両人は清顕親類のものに候間。万事を御免候はば本々の如く御奉公仕候様に申すべき候由御理に候。則時に御耳に立たれ申さず候由にて伊達元安宿へ家老衆打寄。常隆公よりの御ことはりを承り。各挨拶には。政宗ためを思召され常隆公よりの御意忝何れも存候。去り乍ら今度牢人衆相馬へ申合儀歴然に候。内々切腹申し付けらるるべき儀に候へども。数年田村の弓矢に清顕公へ奉公を仕候者どもに候間。命を助相払われ候処。牢人衆いんぎう申。梅雪。右衛門大輔。小野へ引除申され候事。政宗公深口おしく存られ候間。申聞せ候事唯今は機づかひに候條。永御訴訟仕るべき由挨拶申され候。紀伊守は相返申され候。政宗公田村の御仕置仰付られ。門沢くりて両地は小野大越のさかひに候間。田村の衆少々警固相籠然るべき由仰付られ。十月始に米沢へ御帰城成られ候。

語句・地名など

現代語訳

一、北の方も船引へ移られ、孫七郎宗顕も三春の城へお移りになられたので、米沢へ帰ろうと思われて居たところに、月斎・刑部少輔が小十郎へいってきたのは、「今回義胤が三春を取ろうと思われ田野ならば、牢人衆へ言い合わせため、譜代衆も大部分が申し合わしている。このまえ会津で牢人払いを行われたので、一門の団結はよくなった。田村の牢人は大抵が相馬の譜代衆なので、牢人払いをご命令していただいたら、一層田村は安泰であろう」ということをいったので、原田休雪斎と片倉小十郎を使いとして、月斎・梅雪・右衛門大輔・刑部少輔へその通りご命令が伝えられた。
この牢人衆は梅雪・右衛門大夫へ言い合わせて田村へ奉公する方がいいということを言い、そのことを政宗公は一切御存知ないということを仰られたので、梅雪・右衛門大夫がのちに言った。組々牢人たちは譜代と共に38人心を合わせて、小野の地に退いた。そのほかの譜代衆に言い合わせたものは多くいたが、退きはしなかった。政宗もこのようなことは思わず、長く仕置きをするべきだと思っていたのだが、仕方がなかった。月斎と刑部少輔は特に牢人たちを立ち退かせれば、梅雪・右衛門も退く出あろうと思っていた。そうなったならば、田村衆は安心して孫七郎を取り立て、両人が支えていくのがよいと思っていたと小十郎へ言ったと聞いた。
このため、政宗の帰城もできず、政宗は仕置きを終わらせて、三春へ移動し、30日あまり滞在なさった。
そのとき、大越紀伊守・右衛門大輔・梅雪親子は相馬を捨てて、岩城へ言い寄った。常隆公は入魂であったので、若松紀伊守という者を三春へお遣わしになり、「この度梅雪・右衛門大夫は田村へ退いた。私まで口惜しいと思う。しかしながら2人は清顕の親類のものたちであるので、すべてのことを許したならば、もとのように奉公するのであれば、許すだろう」と仰った。
すぐにお耳に入らないようにと、伊達元安斎の屋敷に家老衆は立ち寄り、常隆公よりのご意見を承り、それぞれ言うところによると「政宗のためを思った常隆公のお考えはかたじけなく何れも思っている。しかしながら、今回牢人衆が相馬へ言い合わせたことは歴然であり、内々に切腹申し付けられるほどのことではあるが、数年田村の軍に、清顕公へ奉公をしていた者たちであるので、命を助け、追放にしたところ、牢人達はもめた。梅雪・右衛門大輔が小野へ退いたことは、政宗は深く口惜しく思われたので、言い聞かせたことが今は心配なさっている。長く訴えをすること」を伝えた。紀伊守はお返しなさった。政宗公は田村の仕置きをお命じなされ、門沢と栗手の二つの土地は、小野と大越の境にあるので、田村の者たちを少し警固に当たらせるべきであると御命じになり、10月始めに米沢へお帰りに成られた。

感想

引き続き田村の仕置きについての記事が続いております。

『伊達日記』57:三春の代理

『伊達日記』57:三春の代理

原文

一八月十九日田村月斎。梅雪。右衛門大夫。橋本刑部少。宮森へ参られ申上られ候は。今度義胤三春を御取有度由思召され候ば。本丸に御北様御座候故仰合され候。兎角御北様を御隠居も御申成さしめ。政宗公御若君御出候迄誰ぞ御番代を仰付られ然るべき由申上られ候。政宗公も内々左様に思召され候処に申上られ候間。即御合点成られ。田村孫七郎殿は清顕公御舎弟善九郎殿と申之御子に候間。是を番代と思召され候。如何あるべきの由御意に候。右四人の衆尤御番代を伊達より遣はされ候は存ざず。田村親類に孫七郎の外は之無く候間尤然るべき由申され候。左候はば御北様御隠居所は何方然るべく候哉と御たづね候へども。右四人申され候は。平屋敷持は如何候。ただ今田村右衛門大輔居申候船引の城を明させ。指置御申然るべき由申され候に付而則右衛門に仰付られ候へば。尤早々明申すべき由申され候而四人衆は罷帰られ候。誰も御使を以隠居。尤孫七郎御番代義も仰付られ然るべき由申合候付而白石若狭。片倉小十郎。守屋守伯三人を三春へ遣わされ候。右四人の老衆を以御北様へも尤孫七郎殿へも仰渡され候。右四人の老衆又参られ候而。迚も孫七郎殿へ御一字を下され候様にと申され候に付。宗の字を遣はされ宗顕と申候。

語句・地名など

現代語訳

一、8月19日田村月斎顕頼・田村梅雪顕基・田村右衛門大夫清康・橋本刑部少輔顕徳の4人が宮森へ来て「今回義胤が三春を取ろうとお思いになったので、本丸に北の方さまがいらっしゃったので、言い合わされた。とにかく北の方様を隠居させ、政宗公に若君がお生まれになるまでだれか代理をご命令くださるのがよい」と申し上げた。
すると同意なされ、田村孫七郎は清顕公の弟の善九郎という者の子であるので、これを代理とお思いになり、どうかと思われた。右の四人衆は代理を伊達から遣わすのではなく、田村の親類に孫七郎以外の者は居なかったので、適任であると言った。
ならば、北の方の隠居所はどこにすればいいだろうかとお尋ねなさったが、右の4人は「平屋敷はどうかと思うので、ただいま田村右衛門大輔がいる船引の城を開けさせ、差し置くのがよいのではないか」と言ったので、すぐに右衛門大輔にご命令になったので、もっともであるので早々城を空けるべき出有ることを言われて、4人は帰っていった。誰も使いを遣わして隠居させようと、孫七郎が代理となる話もご命令になるべき話するために白石若狭宗実・片倉小十郎景綱・守屋守伯意成の3人を三春へ遣わされた。この4人の家老衆を回して北の方へも、また孫七郎へも言い渡された。この4人の家老衆はまた来て、では孫七郎に字を一文字下さるようにと言ったので「宗」の字をおつかわしになり宗顕と名乗った。

感想

三春の四家老衆が政宗に訴えた内容が書かれています。
北の方の隠居所について、平屋敷ではよくないので、城を空けさせようという計画があり、未亡人である北の方にはそれなりの待遇をするべきであるという考えがあるのがわかります。興味深いです。