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伊達家家臣伊達成実に関する私的アーカイブ

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。[sd-script](「エスディー・スクリプト」と呼んでいただければ…)です。
管理人:慶と申します。
こちらは、戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
ご意見・間違いご指摘・ツッコミ等は大歓迎ですので、コメント等でお気軽によろしくお願いいたします。間違いなどに気づいた場合、過去の記事もことわりなく書き直したりもします。

注:このサイトは御子孫各位・特定市町村・各種研究機関・出版社・著作権者様方…etcとは一切関係ございません。完全にただのいちファンが趣味でしていることです。
営業妨害・名誉毀損・著作権侵害などの意図はございません。
こちら記載の記事に関連して何か不都合な事がございましたら、こちらまでメールをいただけますようお願いいたします。
必ず折り返し返答させていただきますが、連絡先のないものには返答いたしかねます。

【更新履歴】New!!

20190830:『正宗公軍記』1-2:大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事をupしました。
20190823:『木村宇右衛門覚書』目次を別記事として独立させました。
『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇『治家記録』寛永11年2月23日条をupしました。この事件については後ほどまとめ記事を作ります。
20190822:『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火をupしました。
20190729:『伊達日記』84:小田原参陣『伊達日記』85:最上について『伊達日記』86:相馬について『伊達日記』87:大崎について『伊達日記』88:秀吉との対面『伊達日記』89:会津での騒動①『伊達日記』90:会津での騒動②『伊達日記』91:会津での騒動③『伊達日記』92:会津での騒動④『伊達日記』93:大里城攻め『伊達日記』94:宇都宮下向『伊達日記』95:鷂所望『伊達日記』96:九戸攻め『伊達日記』97:木村家中の狼藉『伊達日記』98:一揆勃発『伊達日記』99:須田伯耆の訴え『伊達日記』100:氏郷の疑い『伊達日記』101:名生での人質『伊達日記』102:須田伯耆の素性『伊達日記』103:上洛の勧め『伊達日記』104:上洛と一揆『伊達日記』105:佐沼攻め『伊達日記』106:関白秀次の下向『伊達日記』107:一揆終結『伊達日記』108:奥羽仕置の完了『伊達日記』109:高麗御陣への準備『伊達日記』110:岩出山出立『伊達日記』111:高麗への陣立『伊達日記』112:名護屋での喧嘩『伊達日記』113:名護屋での出来事『伊達日記』114:渡海『伊達日記』115:高麗人の出現『伊達日記』116:赤国合戦『伊達日記』117:食料の不足『伊達日記』118:秀吉の帰還『伊達日記』119:蒲生騒動『伊達日記』120:秀次事件『伊達日記』121:慶長伏見地震『伊達日記』122:秀吉の贈り物『伊達日記』123:秀吉の死『伊達日記』124:関ヶ原前夜『伊達日記』125:家康の返し『伊達日記』126:白石攻めをupしました。
これで群書類従版『伊達日記』の記事は終わりです。今後は類本との比較など行っていきたいと思います。
20190726: 『伊達日記』67:三春での在陣『伊達日記』68:政宗の移動『伊達日記』69:摺上合戦『伊達日記』70:首実検『伊達日記』71:三ヶ所の落居『伊達日記』72:田村の警固『伊達日記』73:会津の家老たちの動向『伊達日記』74:義重・常隆の帰陣『伊達日記』75:会津での知行割『伊達日記』76:四ヶ所の落居『伊達日記』77:猪苗代弾正の望み『伊達日記』78:新国上総の降伏『伊達日記』79:須賀川攻めの軍議『伊達日記』80:須賀川合戦『伊達日記』81:岩城との和議『伊達日記』82:須賀川の知行割『伊達日記』83:天正18年の正月をupしました。
20190723:『伊達日記』65:大越紀伊守の動向『伊達日記』66:高玉と新地駒ヶ嶺攻略をupしました。
20190513: 2019GW松島伊達函館をupしました!
20190330:『伊達日記』62:片平親綱との約束『伊達日記』63:岩城常隆の出陣『伊達日記』64:鹿俣落城をupしました。
20190226:『伊達日記』58:田村の仕置『伊達日記』59:成実の意見『伊達日記』60:片平親綱の寝返りについて『伊達日記』61:政宗の骨折をupしました。
20190224:『伊達日記』54:郡山合戦『伊達日記』55:窪田合戦『伊達日記』56:泉田安芸の帰還『伊達日記』57:三春の代理をupしました。
20190216: 『伊達日記』48:月斎・刑部少輔の訴え『伊達日記』49:高倉への視察『伊達日記』50:田村の内談『伊達日記』51:相馬の田村攻め失敗『伊達日記』52:田村衆の失敗『伊達日記』53:大越紀伊退治の訴えをupしました。
20190211:『伊達日記』45:石川弾正について『伊達日記』46:田村家の内情『伊達日記』47:再びの本宮合戦をupしました。
20190101:あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願い致します。
これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

(考察・雑記・雑談・感想の分類はフィーリングです…)

原文:

『正宗公軍記』1-2:大内備前、別心の事附会津義広御表裏に依り御弓箭を起す事

『正宗公軍記』1-2:大内定綱、反逆のことと会津義広の態度の相違により戦になったこと

原文

天正十三乙酉、大内申上候は、雪深く普請も成り難く候間、御暇申請け、在所へ罷帰り妻子を召連れ、伺候申すべく候。其上数年、佐竹・会津御恩賞相請け候御礼をも、申上げたくと申すに付きて、御暇下され候。其後雪消え候へども罷登らず候。是に依つて、遠藤山城方より、罷登るべき由、度々申遣し候へども参らず候。後には、何と御意候とも、伺候申すまじき由申払ひ、大内御退治なされ候はば、会津・佐竹・岩城・石川、近年仰せ組まれ御一党に候所に、御敵になされ候の事、輝宗公、御笑止に思召され大内伺候申す様に、御異見なさるべくと思召し候て、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎両使を以て御意候は、罷登り然るべく候。田村への御首尾迄を以て、斯様に仰せられ候間、其方身命知行、少しも気遣ひ申すまじく候。輝宗公御請取なされ候由、仰せ遣され候へども、御意は過分ながら、斯くの如くに申上げ候上は、縦ひ滅亡に及び候とも、伺候申すまじき由申候。又重ねて、片倉意休斎・原田休雪斎両使を以て、仰せられ候は、気遣ひ申す所、尤に思召され候。左様に候はば、人質を上げ申すべく候。其身罷登らず候とも、正宗公へ御訴訟なされ下さるべきの由、仰せ遣はされ候へども、何と御意なされ候とも、人質をも上げ申すまじく候由申払ひ、大内親類大内長門と申す者、米沢へも節々使者に参り、御父子共に御存の者に候。後は我斎と申し候。彼の者、休雪・意休に向ひ申し候は、正宗公、大内御退治は、存じ寄らず候由申し候。剰へ、散々悪口申すに付いて、両人の御使者、腹を立て、其方共、米沢へ「    」*1御退治なされ候か。末を見候へとて罷帰り、則ち其段披露致し候に付き、御父子共に弥々口惜しく思召され候。其後、会津より御使者として仰せられ候は、大内備前儀、御赦免なさるべく候はば、米沢へ遣すべく候。此方に於て少しも介抱申すまじき由、仰せ越され候へども、内々は会津の御底意を以て、備前逆心申す由、聞召され候に付いて、原田左馬之助・片倉小十郎を召出され、右の品々、具さに仰せ聞けられ、会津御表裏に於ては御無念に候間、御手切なされたく思召し候へども、大切所多く候間、会津の内に、御味方仕るもの一両人も候はば、御弓矢なされたく思召し候由、仰出され候。原田左馬之助申上げ候は、会津よりは、一段御懇なる御使者にて、大内備前申払ひ候事、不審の由存候へば、扨は会津よりの御底意を以て、逆心候哉、是非なき御事に候。会津へ御手切御尤に候。左様に候はば、拙者与力に平田太郎左衛門と申し候者、会津牢人に御座候。彼の者を差越し、一両人も御奉公申す様に、才覚仕らせ申すべき由申上候。正宗公御意には、左様の才覚も仕るべきものに候哉の由、御尋ねなされ候へば、底意は存じ申さず、当座の才覚能き者に御座候。其上御奉公の儀に候間、如才仕るまじく候由、申上ぐるに付いて、左候はば申付くべく候由の御意にて、差越し候所に、会津北方柴野弾正と申す者、御味方仕るべしと申上候。其外にも、二三人同心の方御座候。当方へ御出馬に於ては、手切仕るべき由申候に付いて、五月二日に原田左馬之助を、猿倉越と申す難所を越させ、弾正所へ差越され候所に、弾正、城も持ち申さず、少し抱へよき屋敷に居申候て、手替仕候所へ、左馬之助罷越し、火の手を揚げ候の所に、会津衆、殊の外乱れ申候。方々より人々助け来り候へども、何れも替り候。其後気遣ひ申す所に、右繕の使仕り候平田太郎左*2衛門、又会津の人数へ懸り籠り替る衆弾正一人にて候。原田左馬之助無人数にて、一頭越し申候由申すに付いて、其時、会津衆心安く存じ、一戦仕り候間、左馬之助敗軍致し、与力下*3中数輩討死、弾正妻子共に召連れ引除き候。正宗公、同三日に檜原へ御出馬なされ、檜原は則ち御手に入り候へども、御隠密の御手切故、長井の御人数計り召連れられ、総人数参らず候間、御出陣触なされ、御人数参り候を相待たれ候。人数大塩の城へ籠め置き、堅固に相抱へ、大切所にて大塩の上の山まで、八日に御働きなされ候。下へ打さげらるべき地形も、之なき大山にて、道一筋に候故、後陣の衆は、檜原を引離れざる様に、細道一筋にて罷成らず一働なされ、不肖*4の衆は相返され、檜原に御在陣なされ候。会津へは御手切候へども、二本松境は手切も之なく、八丁目に伊達実元隠居仕り候所へ、二本松義継より、細々、使を御越し御懇に候。其仔細は、会津・佐竹は、御味方に候へども、本々より二本松・塩の松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、弓矢の強く候所へ頼み入れ、身を持たれ候身上にて候間、此度も伊達強く候はば、実元を頼み、伊達へ御奉公申すべき由、義継思召し、御懇切に候故、手切之なく候の條、拙者事は、八日に大森を罷立ち、九日に檜原へ参り、直に正宗公御陣屋へ伺候致し候所に、御意には、二本松境如何候哉と、御尋ねなされ候。先づ以て、静に御座候。義継も大事に思召され候哉、打絶えず親実元所へ、遊佐下総と申す者、我等親、久しく懇切に候彼の者を使に預り、又飛脚をも預り申候。彼の境は、御意次第に手切仕るべき由、申上候へば、御前の人を相払はれ、会津への御手切の段、原田左馬之助合戦に負け候様子、残なく仰せ聞けられ、会津に御奉公の衆之なく候間、何れも大切所にて成さるべく候様之なく候て、御人数相返され候。定めて昨日人数に会ひ申すべき由御意候て、二本松は先づ赦免申すべく候。両口の手切は、如何候由御意候。拙者申上候は、会津に御身方申候衆、御座なく候はば、猪苗代弾正を、引附け見申すべく候由申上候へば、手筋も候哉と仰せられ候間、羽田右馬之助と申す者、猪苗代家老に、石部下総と申す者へ、筋御座候て、別して懇切に御座候。幸ひ此度、召連れ伺候仕り候の由申上げ候へば、則ち右馬之助を召出され、猪苗代に其身好身のある由、聞召され候間、状を相調へ越申すべき由、仰せられ候に付いて、御前に於て状を認め申候。拙者・片倉小十郎・七ノ宮伯耆状をも相添へ申すべき由、仰せられ候間、何れも状を書き申し候。此状共、檜原より、猪苗代へは三十里の間、之依り遣はさるべく候由、返事は大森へ差越すべく候間、早々罷帰るべき由、御意なさる。拙者申上候は、今日は人馬も草臥れ候。其上、日も晩刻に及び申候間、明日罷帰りたき由申上候へば、二本松境弥々御心元なく思召され候。此方に居り候て、御用なく候の間、一刻も急ぎ申すべき由、今夜の宿はつなきの民部に仰付けられ候。先へ遣され候間、早々罷帰るべき由、御意に候の條、檜原を日帰致し罷帰り候。此七ノ宮伯耆は、久しき会津牢人にて、不断御相伴を仕り、御咄衆に候。会津衆何れも存候故、差添へられ候。左候へば、四五日過ぎ候て、檜原より御使として嶺式部・七ノ宮伯耆、大森へ差越され、猪苗代よりの状共、御披見なされ候へば、合点に候。御大慶なされ候。其方此口に居り申さず候間、其許より繰り申すべき由にて、両人遣され候。人も存ぜず候所に、宿申付け差置かれ、本苗代より罷出て候三蔵軒と申す出家を、使に申付け、出湯通を越し申候。書状の文言には、檜原より進じ候御返答披見申し候。正宗へ御奉公之あるべき由、満足仕り候。此上は、望の儀も候はば、具さに承るべく候。正宗判形を調へ進ずべく候由申付け、弾正望の書付を越す。
一、北方半分、知行に下さるべく候事。
一、拙者以後に、御奉公申され候衆候とも、会津に於て仕置の如く、座上に差置かれ下さるべく候。御譜代の衆には構之なく候事。
一、御弓矢思召し候様に之なくとも、猪苗代引除き候はば、伊達の内にて、三百貫文堪忍分を一つ下さるべく候事。
右三箇條の外、望も御座なく候由、書状相認め差遣し申され候に付いて、式部・伯耆、大森に逗留致し、書付計り檜原へ上げ申候。正宗公御覧なされ、書付の通り、少しも御相違あるまじく候。弾正、書付を御前に差置かれ、引退き候時分の堪忍分、早早御書付下され候由にて、刈田・芝田の内、所々朝指三百貫文、御書付御判に差添へ遣され候。式部・伯耆は、御書付拙者に相渡し、則ち檜原へ罷帰り候。又三蔵軒に御判を持たせ、猪苗代へ差越し申候。二三日過ぎ罷り帰り候て申す様は、御判形相渡し申候。去りながら子息盛胤、会津御奉公是非仕るべき由、申され候間、之を如何様に催促申候て、手切れ仕るべき由、申越され候。一両日過ぎ候て三蔵軒を遣し候。早々手切れ申され候様にと、申上候へども、盛胤合点申されず候間、家中二つに別れ、如何はしく成り候由にて、手切れ罷り成らず候。会津への御弓矢なされず候て、檜原に新地を御築き、後藤孫兵衛差越され、御入馬なされ候。

語句・地名など

喜多方:喜多方市
猿倉越:米沢市と喜多方市の境の大峠

現代語訳

天正13年乙酉の年、大内定綱は「雪が深く、工事も進めづらいので、しばらくお暇をいただけましたら、城へ戻り、妻子を引き連れて、御奉公したく思います。それに、数年間佐竹・会津に恩賞をいただいていたお礼も、申し上げたいのです」と言うので、政宗は定綱にしばらくの時間を与えた。その後、雪が消えたというのに、やってくることはなかった。
このため、遠藤山城基信から、こちらへくるようにと何度も言って使わしたのだが、来ることはなかった。ついには、なんと命n令されようとも、使えることはないということをきっぱりと言ってきた。もし大内定綱を退治するのならば、会津・佐竹・岩城・石ここ数年共に言い合わせて仲間となっているので、輝宗公は、もし敵にまわしたならば、大変なことになると思われ、輝宗は大内定綱に伊達に奉公するように意見を言った方が良いとお思いになり、宮川一毛斎・五十嵐蘆舟斎という二人の使いを送り、米沢へ上るべきである、田村とのいさかいの成り行きまでも含め、このように仰ったので、大内の身上や知行については、心配することはない、政宗ではなく輝宗の采配に任されたということをいい渡されたが、定綱は「そのお心は大変ありがたいことであるが、このように申し上げた上には、たとえ滅亡することになっても、伊達に仕えることはない」と言った。
再び、片倉以休斎景親・原田休雪斎の二人の使いを送って、「心配するところはもっともである。それならば、人質をあげるのが宵だろう。その身で来ることはなくても、政宗へ訴えるべきである」と仰ったのだが、「なんとお考えになられても、人質を上げることはない」と言い、大内定綱の親類の大内長門という、米沢へもたびたび使いとしてきたことがあり、輝宗・政宗親子ともによく知っている者がいた。後には我斎と名乗ったこの男が休雪斎・以休斎に向かって政宗が大内を退治することはないだろうと言った。あまつさえ、さんざん悪口を言ったので、二人の使者は腹を立て「おまえ達が米沢へ来るか、退治されるかどちらかだ。先のことを考えろ」と言って米沢へ帰り、すぐにそのことを政宗に申し上げたところ、輝宗・政宗親子ともどもますます残念に思われた。
その後、会津から使者がやってきて「大内備前定綱のことをお許しになるのであれば、米沢へ遣わすでしょう。こちらにとっては関係のないことです」と言ってきたが、うちうちでは、会津のかくれた考えにより、定綱が反逆したことをお聞きになったので、原田左馬助宗時・片倉小十郎景綱をお呼びになり、以上のことを詳しく仰り、会津の裏表な態度には無念であると思うので、関係を切りたいとお思いになられたが、しかし大きな要害が多くあるので、会津の中にこちらに寝返る者がひとりふたりでもいれば、戦をしたいとおっしゃった。原田左馬助宗時は「会津からは、特に仲良くしている使者で、大内備前がそのように言ったことは、不審であると思われます。もしかしたら会津からの内々の考えで反逆しているのかもしれません。それは仕方ないことです。会津への手切はもっともなことであると思います。それならば、私の与力に平田太郎左衛門(太郎右衛門)と言う者、かつては会津に仕えており、今は牢人となっております。この者を送り、ひとりふたりでもこちらへ寝返る者がいるように、仕掛てみるべきではないでしょうか」と申し上げた。政宗が「そのようなしかけも出来るであろうか」とお尋ねになると、「心の中の考えは知らないが、さしあたっての機転のきくものでございます。その上、寝返りのことについては、問題なくすることでしょう」と言ったので、政宗はそうであるなら、そう命じるようにとお思いになられ送ったところ、会津の喜多方の柴野弾正という者が、寝返り、味方になると言ってきた。その他にも、2,3人味方になるという者が現れた。政宗がそちらへ出陣するのであれば、手切すると言うことを言ってきたので、5月2日に原田左馬助宗時を猿倉越という難所を越えさせ、弾正のところへ送ったところ、弾正は城も持たず、保ちやすい屋敷に居り、代わって仕事をしていたところへ、左馬助がやってきて、火の手を上げたところ、会津の者たちは思った以上に取り乱した。あちこちから援軍が来たが、それも心変わりした。その後心配していたのは、この寝返りを仕組んだ平田太郎左衛門、また会津の軍勢にかかって、心変わりし、寝返りするのは弾正一人になった。
左馬助は無勢であったので、ただ一頭できたと言うことを聞いて、そのとき会津の衆は安心して一戦を行ったので、左馬助は敗北史、与力のものたちが多く討ち死にし、弾正妻子を連れて退いた。
政宗は同じく3日に檜原へ出陣なされ、檜原はすぐに手に入ったのだが、内密の手切であったため、長井の手勢のみ連れ、総軍を連れてこなかった。そのため出陣のお触れを出され、軍勢がくるのをお待ちなさった。その間、会津の軍勢は大塩の城へ籠城し、堅く守り、大きな要害であったので、大塩の上の山まで、8日に戦闘を仕掛なさったが、備えを立てるべき場所もない大山で、道一筋であったので、後からきた衆は、檜原をはなれることができなかったので、細道一筋で出来ない戦闘をなされ、小身の衆は返され、檜原に在陣なされた。
会津へは手切なさったけれども、二本松との境は手切することなく、伊達実元が隠居している八丁目城へ、二本松義継から、ほそぼそと使いを遣わし、親しくしていた。というのも、会津・佐竹の味方ではあったのだが、昔から二本松と塩松は、田村へも、会津へも、佐竹へも、戦の強いところを頼り、身代を保っていたところであるので、今回も伊達が強いのであれば、実元を頼り、伊達へお仕えすると義継は思い、親しくしていたのであった。そのため手切はなかった。
私は8日に大森を出発し9日に檜原に行き、直接政宗の陣屋へ行ったところ、「二本松の境はどうであるか」とご質問になった。「ひとまず静かでございます。義継のことも大事に思われておられるのでしょうか。いつも私の父の実元のところへ遊佐下総という者がいつも来ております。私の父が非常に親しくしているこの者を使いにし、また飛脚も受け持っております。二本松の境の手切は、政宗のお心次第でございます」と申し上げると、政宗は人払いをし、会津への手切のこと、原田左馬助が合戦に負けたようす、残らず仰られ、会津に、寝返る者がいないので、いずれの城も大きな城であるので、できることがなく軍勢をお返しになった。昨日軍勢を返すということを仰り、まず二本松のことは許さなくてはと思われた。両方面での戦はいかがであろうかとお聞きになった。
私は会津に寝返る者がいないのであれば、猪苗代弾正をこちらに引き付けるおはどうだろうかと言った。「つてはあるのか」と仰ったので、羽田右馬助という者が、猪苗代家老の石部下総という者とつてがあるので、特に親切にしていた。幸い、今回右馬助を連れてきておりましたと言ったところ、すぐに右馬助をお呼びになり、猪苗代によしみの有ることをお聞きになり、書状を調え、送るようにと仰られたので、政宗の御前で、書状をしたためた。私・小十郎・七ノ宮伯耆の書状も添えて送るべきであると仰ったので、三人とも書状を書いた。
この書状は、檜原から猪苗代までは30里の間、これから使いをおくるので、返事は大森へ送るので、すぐに帰るようにとご命令になった。私は「今日は人も馬もくたびれている。そのうえ、日も遅くなったので、明日帰りたい」と言ったが、二本松境のことがますます心もとなく思われたのだろう。ここにいても仕方ないので、一刻も早く帰るようにとのことで、今夜の宿は綱木野民部に命じられていた。先に使いを送ってあるので、すぐに帰るようにとご命令になったので、檜原から日帰りした。
この七ノ宮伯耆という者は、長く会津で牢人していた者で、普段は相伴衆で、お話をする者であった。会津の者を良く知っているので、付けられた。
すると、4,5日過ぎて、檜原から、大峯式部と七ノ宮伯耆が大森へやってきて、猪苗代からの書状を御覧になり、寝返りが決まったので、大変お喜びになった。「あなたはここにいなかったので、こちらから送った」と二人の使いをお送りになった。知らないうちに宿も言いつけられ、差し置かれ、猪苗代から出てきた三蔵軒という僧侶を使いに申付け、出湯通を越えてきた。
書状の文言には、檜原から送られてきたご返答が書いてあった。政宗へ味方することに満足しており、この上、望むこともあるので、詳しく書いてあった。
政宗は書状を調え送るように命じ、弾正は望むところの書付を送ってきた。
・北方半分を知行にくださるように。
・私の後に寝返る者がいても、会津においてそうするように、私を上座にしてください。譜代の衆には関係ありません。
・戦が思ったようにいかなくとも、猪苗代を退いたときは、伊達の領内で、300貫文の知行をくださるよう。
右の3カ条のほかは望むものはないと書状を書いて送ってきたので、式部と伯耆は大森に逗留し、書付のみを檜原に送った。政宗はこれを御覧になり、書付の通り、少しも相違のないようにすると誓われた。猪苗代弾正は書付を政宗にお送りになり、退いたときの知行について早々と書付くださったので、刈田・柴田のうち、300貫文を与える旨を書付に添えておつかわしになった。式部と伯耆は政宗の書付を私に渡し、すぐに檜原へ帰った。また三蔵軒に花押を記した正式な書状をもたせ、猪苗代へ送った。2,3日過ぎて帰ってきていうところには、書状は無事渡した。しかし子息の盛胤が会津へ仕えるべきであると言ったので、これをどのように催促して、手切すれあびいかと言ってきた。2,3日すぎ三蔵軒がやってきた。早く手切するようにと言ったが、盛胤が合意しないので、猪苗代家中は二つに分かれ、大変難しい状況になったので、手切は出来なかった。会津への戦ができなかったので、檜原に新地を築かれ、後藤孫兵衛を城代をして、御自身は先にお帰りになった。

感想

基本的には『政宗記』『伊達日記』と同じ流れですが、段落の切れ目が変わっています。その二つと比べて、少し長めです。

*1:召し上げられ候か

*2:

*3:家か

*4:小身か

『治家記録』寛永11年2月23日条

『治家記録』寛永11年2月23日条

原文

廿三日庚辰。天気好、寅の刻(午前4時)伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋に於て御茶饗し奉らる。亭主御花を望み申し、水仙花と梅を出さる。水仙は長く、梅は短く伐て出されしを、公山礬是弟梅是兄といへる事ありと仰せられ、水仙を短く伐り、梅をば長く継て入れ玉ふ。
巳刻(午前10時)表へ御出、御能仰付らる。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上九番あり。安房殿より大夫に時服二重、□惣役者に一万匹、舞台に於いて賜へり。
公より安房殿へ御時服十御夜着一賜ふ、安房殿より御馬一匹黒毛、綿百把、板物三十端献ぜらる。
子刻(午後12時)御帰。
今夜、寅刻安房殿宅出火、家屋不残焼亡し、肴町一町裏向かひ類火す。先刻、公御帰りの時分、今夕は火事御心許なく思召さる。用心せらるべき旨仰せられ、鎖間へ御入り、炉の底を御手自取り玉へり。火事と言ふを聞かせられ、安房殿宅なるべしと仰せられ、即ち御使を遣さる。又井上九郎兵衛を御使者として、御懇に仰遣さる。其後佐々若狭を以て、早々仙台屋敷へ移さる様にと仰遣さる。今日安房殿宅に於て怪異あり。御能以前、未明に桜井八右衛門はしかかり、幕の内より舞台を見るに、はしかかりに二三箇所黒き所あり、高井十右衛門に見すれか血なりと云ふ八右衛門も寄りて見る。又屋上の箱棟に生首二つ見えたり。今日翁の面を懸るに穢なりと思ひ、十右衛門は幸いに奈良の禰宜なり、祓い清めさせ、翁を勤む。箱棟の生首を夜明て見れば、鳶の二羽止り居れるなり。人々奇異の思をなすと云々。
また兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞はる。小野宗碧見て殊の外に褒美し、且つ公へ向て不敬の言を申す。公聞召し付けられざる体に御座せば、猶以て再三高声に申す。因て御立腹あり。御腰物鞘の儘に彼が頭を撃破らる。伺候の輩宗碧を御陰へ引立去る。公鎖間へ入り玉ひ、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て御申の時節斯くのごとくの事、近比御心許なく思召さるといへども、御能見物の中には他国の者もあるべし、不敬の挙動其儘には差置れ難し。因て斯くのごとくに、罰せらる。亭主心に懸けられまじき旨、安房殿へ仰遣され、宗碧をば即ち桃生郡深谷荘大塚浜へ差遣さる。
然るに先年越後少将忠輝朝臣へ台徳院殿御成の時、兼日御手水前の木を公の御物数寄を以て植置る処に、宗碧兄道巴と云ふ者、公の御物数寄なる事をしらざるにや、散々の植様なりとて植直したり。台徳院殿此木は誰が植たると向ひ玉ふ。道巴が植直したるとは御存知なく、公の植玉へる由を忠輝朝臣仰上らる所に、植様悪く思召さるの旨上意あり。其後公聞召し及ばれ、植直したる事を口惜しく思召さるといへども、台徳院殿へ仰分らるにも及ばざれず。此事に就て、年来御心底には宗碧をも悪み玉へり。然るに今度宗碧妻子御預けの時宗碧が甥上方より参りたる者の由申す。尋問はるれば道巴の子なり。公聞召され、道巴が御意に違いたるを存しながら、其者の子を数年隠し置事後闇き仕形なりと憎み思召され、宗碧並びに子供甥共に死罪に行はる。
廿四日辛巳。伊達安房へ書状送る。
廿八日乙酉。伊達安房殿を饗せらる。安房殿へ書院を造り賜ふべき旨仰出され、御絵図を成し遣はさる。

現代語訳

『治家記録』寛永11年2月23日条
23日。天気良く、寅の刻から伊達安房守成実宅へお出かけになり、数寄屋において茶席の饗応をうける。亭主の成実が花を望み、水仙花と梅を出した。水仙を長く、梅を短く切ってだしたところ、政宗は「山礬は弟、梅は兄と言うことがある」と仰り、水仙を短く切り、梅の方を長くして継いでお入れになった。
巳の刻表へ出られ、能会が始まった。竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曾我・杜若・邯鄲・見界、以上の九番の演目が演じられた。成実から大夫に時服二重、すべての役者に□一万匹を舞台の上で与えた。
政宗から成実へは時服十と、夜着一つを与えた。成実は黒毛の馬一匹、綿百把、板物30端献上した。
子の刻お帰りになった。
この夜、寅の刻安房屋敷から出火し、家屋残らず消失し、肴町一町うらむかいに類焼した。先ほど、政宗が帰るとき、今日の夕方は火事のことを心もとなくお思いになった。用心するようにとご命令になり、鎖の間へお入りになり、炉の底を御自分の手でお取りになった。火事であるとお聞きになって「安房殿の屋敷だろう」と仰り、すぐに使いを送った。また井上九郎兵衛を使者として、非常に手厚く扱った。その後佐々若狭を以て、早く仙台屋敷へ引っ越すようにと仰ってきた。
この日、安房殿屋敷に於いて、怪異があった。能の前、未明に桜井八右衛門がはしかかり、幕の内から舞台を見たところ、はしかかりに二三ヶ所黒き所あり。高井十右衛門はそれを見て血なりと言った。八右衛門も寄って見た。また屋上の箱棟に、生首が二つ見えた。今回翁の面をかけるのに、穢れであると思い、十右衛門は幸いにも奈良の禰宜であり、祓い清めさせ、翁を務めた。箱棟の生首を夜明けて見れば、トンビが二羽止まっているのであった。人々は気持ち悪いと言い合った。
また、兵部殿宗勝小袖曾我の能を舞った。小野宗碧はこれを見て非常に褒め称え、かつ政宗に向かって不敬の言葉を言った。政宗は聞こえないふりをしていたが、さらに再三大きな声で言うので、ご立腹なされ、刀を取り、鞘の儘に宗碧の頭を打ち破った。控えていたものたちが宗碧を陰へ引っぱっていき、立ち去った。
政宗は鎖の間へお入りになり、中島監物貞成、佐々若狭元綱を以て仰ったのはつぎのような事であった。
この頃老いについて心もとなくお思いであると思うが、今回の能見物には他国の者もあるであろうし、不敬の言動を、そのままにしておくことはできない。なのでこのように罰した。亭主が気になさることないようにと成実へ仰り、宗碧をすぐに桃生郡深谷荘大塚浜へ送った。
それに、先年越後少将松平忠輝へ台徳院秀忠御成のとき、手水前の木を政宗の見立てで植えさせていたのだが、宗碧の兄道巴という者が、政宗が数寄に通じていることを知らなかったのだろうか、散々な植えかたであると言って植え直した。
台徳院はこの木は誰が植えたと面と向かって聞いた。道巴が直したとは知らず、政宗が植えたと忠輝が申し上げたところ、植え方が良くないと思うとの御言葉であった。その後、それを政宗は聞き及び、植え直したことを口惜しくお思いになったけれど、台徳院へ言い訳することも出来なかった。
このことについて、日頃心の底では宗碧をも憎んで居られた。すると、今回宗碧の妻子を預けるとき、宗碧の甥上方から来たとの知らせが来た。尋ねてみれば、道巴の子であった。政宗はそれを聞き、道巴のことを政宗が良く思っていないことを知りながら、その子を数年隠していたことを後ろ暗いところがあったのかと憎く思われ、宗碧並びに子供・甥ともに死罪にした。
24日伊達安房成実へ見舞いの書状を送る。
28日伊達安房を饗せらる。書院を作る様にと仰り、絵図をかきお渡しになった。

感想

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

『木村宇右衛門覚書』120:伊達成実邸での怪奇

原文

一、有年、伊達安房成実若林の屋敷新宅出来、吉日を選び太守公被為成候。朝は御茶の湯過候て、鎖の間にて色々飾り薄茶を終わって書院に出御、外舞台にて御能作法のごとく、大夫に唐織と箔の物太刀折紙、惣役者つみ銭百貫、太守公御長袴召させられ候故惣侍長袴也。書院上座真中に御着座、御敷居の内に石川民部殿伊達安芸殿伊達武蔵殿白川殿岩城殿、次の間に御一家御一族、御挨拶の為、御縁側に松前市正法橋衆衣体衆、見付のの御際に宿老衆、一間ほど引き下がって年寄衆に茂庭周防奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳片倉小十郎、少引き下がって大身衆段々伺候す。どなたまでも御作法正敷御事にて御能始まる。此頃伊達兵部殿千勝と申侍りしが、其日能二番鵺と小袖曾我めされ候。宗碧とて京方の者なれども御伽の衆に御取たて御知行百貫被下年老たるものなれば、別而御不憫におぼしめし、其日も朝の御茶の湯相伴仕り、沈酔やいたしけん又天命やつきけん、御座敷の縁側に中座して能を折折誉めけるが、千勝殿いたいけなる能をみて太守公御側近くさし出て、千勝殿御能扨も扨もしほら敷御事かな。あれを御覧して御誉めあれかしと申上る。太守公聞こしめし笑はせ給ひて見事能する也、其方は年寄役にただ物ほめ候へと仰られ、御一門衆に御向かひ、宗碧か為体今朝数寄屋にて少被下たる酒に酔い、さし出ておのおの御覧候前にてむさと申度ままの事申也。年ほど無念なるものはなし。酒までも弱くなる事不憫なりとの給ふ。成実御意のごとく年の寄るほど万口惜しき事御座なく候。此頃は殊の外衰へ見へ申候など御座興になる。しかあれどもなをさし出てとやかく申せとも、それぞれに御あしらひ酒に酔いたるな、しばし陰にたち休息して出よとの給ふ。なを御側近く参り、まったく御酒には被下酔申さぬ由申上る。酒に酔わすば乱心するかと笑わせ給ふ時、又申上るあの御子の御能御覧候て泣かせられぬは強き御心なりと申上る。聞こしめさぬふりにて御挨拶なけれは、や、殿殿あれを見あれ、さりとては心強き御人かなと申候へば、俄に御気色かわって御側なる御腰の物とらせられ御座を立たせ給ひながら、宗碧が天辺を鞘まま二つ三つしたたかに打たせられ、近頃空け尽くしたる奴かな、所から悪しければ首は助くる、座敷追ったてよとの給ひて入らせ給ふ。宗碧黒衣の衣装たちまち色変して立ち退く。其の後御家老衆を以て御亭主始め御一門衆へ仰訳也。唯今は近頃無礼見苦しくおぼしめし候はん事拠なし。さりながら予が存る所聞給へ。宗碧と申者は各々も御存のごとく、別而不憫を加へ取立てのものなれば、如何様の事申も常は赦し、荒き風にも当たらぬ様にと側近く召し使ふ所に、今日の仕方は乱心したると見えたり。あるいは野山又は密なる所にての事ならば、日頃愛したる者なれば、目先もちかふ間愛し置候事も候はんつれども、けふは国にをゐては晴がましきもよほし、芝居の白洲に数百人とり入候もの、たとえば一ヶ国のもの一人づつは有べし。然れば天下の目晒のみる所にて聞かぬふりにてあるならば、かのもの共国元へ帰り、いつぞや奥州へ下りし時、政宗親類に伊達安房とて有しかたへ振舞の時能ありし。尤其身も中納言にへあかり一門家老作法正敷様には見えけれども、伽する坊主いかにも親しく子供衆の能するを、座興とはおもへども尾籠の至り、其まま愛しをかれたるはかねてさようの仕掛と見えたり。さなくは空けものを愛す人か、音に聞きたると見たるは格別違うぞと、とりどりにいわれんは口惜しき事なりと、是をもっての義也。亭主も心に懸けられず、各々もさように存ぜらるべし。こなたに機嫌悪しき事なしと仰訳候へば、いづれも至極の御意なりとてやがて出御、終日能終わって帰り給ふ時、火の用心肝要也と被仰付、鎖の間にしばし被成御座、佐々若狭石田将監被召出、何と哉ん火事出んと、ややもすれば胸にたたす。内衆は此ほどの草臥に今日振舞過隙明たると油断有べし。両人は御跡に止まり、屋敷中用心よく申付帰るべしと残しをかる。さるによって両人心の及ぶ所は見届け、そこそこに不寝の者をきて帰る。明方近き頃、置囲炉裏の火よく消し水をかけ子細なしと置たる所より、火底の板に焼けぬけ燃へあかり、成実の屋敷残らず並びの町二三町消失也。太守公さればこそ不思議なれ、城へ帰り候ても火事といふ様にはかり思ひ、随分用心しての上にも焼け候事は天命也とて、翌日より御自身指図あそばされ作事御取立て也。扨又前に申たる宗碧事、御側ちかく被指置たる御慈悲に身命は御助け、陸近き島に流し、物をも心安く被下様にいたし、妻子は其島近所の城主に飢へここへぬ様に宛行預け置べしと奉行衆に被仰付、かくて三十余日経ぬ内に宗碧天命尽きたる印には、宗碧が兄道巴とて生心つきたる茶の湯好くもの有。一年江戸にをゐて、御婿上総守殿両上様へ御茶御上候付、御路次数寄屋の物数寄は政宗へ御頼候へと御内意によって頼み申度旨、上総守殿被仰候。これによって日々御通ひ路次御取立て、すでに御手水前の石共、袖すりの木御植へさせ、明日の事に申べしとて御帰の跡へ道巴御見舞申上る。上総の守殿道巴に方々見たるか、其方は茶の湯の心あれば木などの曲がりたるなどよく見よとの給ふによって、御路次へ参り、此石悪し此木の植へ所悪しきなど申て、石三つ四つ直し申也。木も一二本植へなおす。翌日太守公御出御覧して、是は上総の守直し給ふかと問ひ給へば、道巴が業なりと申。何者なれば上総殿の路次といひ、我等植へさせたる木を直す事推参至極、にくきやつかな是非つれて参れ、木石の悪き子細を尋ね晴れなきにをゐては、見せしめのため路次に獄門にかけて木を直させんと御腹立ち給へば、行衛なく逃げ失せぬ。尋ね給へども見えず、此意趣はれんれん探し出してとおぼしめせども、兄弟といひながら宗碧は御国にはかりさしをかるるものなれば、さのみ御祟りもなき所に、かの道巴が子供を宗碧所に数年隠し置、今度妻子御預けの時此ものは甥にて他国の者なりと知るる。道巴口惜しくおぼしめす事は、存の前にてかやうに御後ろ暗き事口惜しくおぼしめし、宗碧親子道巴が子供御成敗也。天罰逃れがたしとみな人申あへり。前に申安房殿屋敷にをゐて色々不思議なる事有と後に人々申也。太守公御成の一日前に路次の掃除最中に、いつく共なく鳶二つ中にて組あひ、路次の木の中へ落ると等しく二つながら死にけり。又其夜鼬いくつといふ数しらず、書院広間の庭に出て駆け歩き食いあひて、塀の控へ柱に伝わり屋根に上がり、天水桶の水をすくひたて浴びなどして、西隣の屋敷をさして行き去りぬ。又楽屋にて桜井八右衛門翁表を箱の蓋の上に飾り、いつものごとく神酒を供へ候所に、脇にたて置たる役者の刀、五六腰転びかかりぬけたり。大夫心に今日道成寺のあるに気の毒なりとて、行水などして観念し、すでに大夫幕際にかかり、面箱持ちの立ち上がり出る跡を見れば、なるほど凝りたる血吊橋の方へ四五ヶ所こぼれて見ゆる。大夫みて外へ行たるほどに、内に怪我はあらじと心に思ひ出たると也。宗碧が仕合、屋敷の火事後に人是を不思議といふ也。
*此ヶ条相違無御座候。私も其日罷出御能見物仕候。安房殿やしきにての物怪は不存候。舞台にて血こぼれ申候儀は、桜井八右衛門直咄承候事。

語句・地名など

鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。
薄茶:抹茶の一種。製法は濃茶と変わらないが、古木でない茶の葉から製したもの。また、それでたてた茶。濃茶より抹茶の分量を少なくしてたてる。
法橋衆・衣体衆:僧侶衆
天水桶:防火用に雨水を貯えておく大桶。昔は屋根の上・軒先・町かどなどに置き、雨樋の水を引いた。

現代語訳

ある年、伊達安房成実の若林城近辺の屋敷が新築され、吉日を選び政宗が御成なされた。朝は茶の湯を過ごし、鎖の間にていろいろと飾り、薄茶を終わった後、書院に出、外舞台で能を行った。正式な作法通り、大夫に唐織りと箔の物太刀・折紙を与え、すべての役者に100貫を与えた。
政宗が長袴を着られたので、すべての家臣たちが長袴を着けた。書院の上座の真ん中に政宗がお座りになり、敷居の内に、石川民部・伊達安芸・伊達武蔵・白川・岩城らの一門衆が、次の間に一家・一族の者たちが居並んだ。挨拶のため、縁側に松前市正ら僧侶衆、目付の際に宿老衆が、一間ほど下がった所に年寄り衆と茂庭周防・奥山大学、書院の座とまりに石母田大膳・片倉小十郎がおり、少し下がって大身衆が一段一段列になって並んでいた。どの人であっても作法の通りにして、能会が始まった。この頃、後の伊達兵部宗勝は千勝と呼ばれていたが、その日能を二番、鵺と小袖曾我をなさった。
宗碧という京の方の者であるが、御伽衆に取り立てられ、知行100貫を与えられていた者がいた。年寄りなので、特別に気の毒だと思われ、その日も朝の茶の湯の相伴をした。酷く酔ったのか、それとも天命が尽きたのか、座敷の縁側の真ん中に座り、能をそのときそのとき誉めていたが、千勝丸の幼くかわいらしい能を見て、政宗のそばちかくまで出てきて、「千勝殿のお能は大変優美なものである。あれを見てお褒めになられますように」と申し上げた。
政宗はそれをお聞きになり、お笑いになって、「能は見事である。おまえは年寄りの役目としてただものを褒めていろ」と仰られ、一門衆に向かって、「宗碧のていたらくは、今朝数寄屋にて少し与えた酒に酔い、でしゃばってみなの見ている前にてむさ苦しく、いいたいことそのまま言っている。年を取ることほど無念なものはない。酒までも弱くなることは気の毒であるなあ」と仰った。成実は「仰ったとおり、年の取ることほどすべてにおいて口惜しいことはない。このごろはとくに衰えてしまっている」と冗談を言われた。
しかし、それでも宗碧はなおでしゃばってとやかく言ったが、政宗はそれぞれに挨拶をいい、「酒に酔わないように。しばらくかげに出で休んでこい」と言った。宗碧はなお側近くに居り、「まったく酒には酔っては居ません」と言った。「酒に酔わないのであれば乱心するか」とお笑いになったとき、また「あの御子息の能を御覧になって、お泣きにならないのは強きお心であります」と言った。政宗は聞こえなかったふりをして、返事をしなかったが、「や、殿、殿、あれを見なされ、それにしても心強い御方ですなあ」と言ったところ、急に政宗の様子が変わり、お側にあった刀をお取りになり、お立ちになりながら、宗碧の頭を鞘をつけたまま2,3回強く殴打した。
「もううつけつくしたのか、このような場であるから、首は助けてやる。座敷から出ていけ」と仰って、お部屋におこもりになった。宗碧の黒い衣はたちまち色が変わり、その場を退いた。
その後、家老衆を介して饗応の主人である成実をはじめ一門衆へ言い訳をされた。
「ただいまの言動はこのごろ礼義がなく、見苦しく思われることは仕方ない。しかしながら私の思うところを聞いて下さい。宗碧と言う者は、皆様も御存知の様に、特に気の毒に思い、取り立てた者であるので、どんなことを言っても普段は許し、世間の荒い風にもあたらぬようにと、側近く召し使っていたところに、今日の様子は乱心したかと思った。野山や、または内々の所でのことであったならば、日頃愛情を傾けていた者なので、目先も近いほど愛したこともあったけれども、今日は国に於いて、晴れがましき催しであり、芝居の白洲に数百人もの人が集まっている。その中には、一国のものが一人ずつは居るだろう。なので、天下の衆目が集まっているところで、聞かなかったふりでそのままにしておいたなら、その者たちは国元に帰り、『いつぞや奥州へ言ったとき、政宗の親類の伊達安房というところで振る舞いのとき、能があった。政宗は中納言にまで出世し、一門・家老たちも作法正しくしているように見えるけども、伽をしていた僧侶はいかにも親しげに子供が能をするのを、冗談とは思うけれども、礼義をわきまえないことしきりで、そのまま寵愛して側においておるのは、いつもこのような感じなのだなと思える。そうでなければうつけものを愛す人なのだろうか、噂で聞くのと、見るのではかなり違うぞ』といろいろといわれるのは口惜しいことであると思っての事である。主人も気にせず、みなもそのように思ってくれ。おまえたちに対して機嫌が悪いわけではない」と仰ったので、みなこの上ないお考えであると思った。
やがて政宗は現れ、一日中能が行われ、終わってお帰りになるとき、火の用心が大事であると仰られ、鎖の間にしばらく居られ、佐々若狭・石田将監を呼び出され、「なぜだろうか、火事になるのではないかと、もしかしたらという予感がする。この屋敷の者たちは今回の支度でくたびれ、今日の振る舞いが終わり、隙があるから油断があるだろう。二人は後に止まり、屋敷中の用心をよく言いつけて帰れ」と置いていった。そのため、若狭・将監の二人は気がつくところはすべて見届け、至るところに寝ずの番を置いて帰った。
明け方が近い頃、置き囲炉裏の、火をよく消し、水をかけ、問題ないと思っていた所から、底の板が火があがり、燃え上がり、成実の屋敷は残らず燃え、並びの町2,3町も焼失してしまった。
政宗は「やはりそうだったか、不思議なことだ」と城へお帰りになっても火事のことばかりを思い、あれほど用心したのに火事になってしまったのは天命であると言って、翌日から御自身で指図され、工事を行われた。
さて前述した宗碧の事だが、御側近く仕えていたため、慈悲を以て命はお助けになり、陸の近い島に流し、何事も問題ないようにして、妻子は島の近所の城主に、飢えたり凍えたりしないように扶持を与えて預けよと奉行衆にご命令になった。30日過ぎないうちに、宗碧の天命が尽きた理由には、宗碧の兄で、道巴という、中途半端に茶の湯を好く者があった。1年江戸に於いて政宗の婿である上総守忠輝殿、両上様へお茶を献上したため、路次数寄屋のしつらえは政宗へ頼めとのお心であったので、政宗に頼みたいと上総守殿は仰られた。
このため、日々お通いになる路次作りをされ、すでに手水前の石や袖すりの木を植えさせ、明日には完成させようとお帰りのところに道巴が見舞いに来た。上総守は道巴に「あちこちを見たか。おまえは茶の湯の心得があるなら、木などの曲がり具合などよく見よ」と仰られたので、路次へ来て、「この石は悪い、この木の植えた場所は良くない」などと言って、石を3,4つ直した。木も1,2本植え直させた。
翌日、政宗がお越しになり、御覧になり、「これは上総守がお直しになったのか」と問うと、道巴がしたことであると申し上げた。「上総の守の路次であり、私が植えさせた木を直すなど、無礼の極みであり、何者のつもりであるか。憎いやつである。是非連れて来い、木や石の悪いという理由を聞き、ハッキリとした答えがないのであれば、路次に獄門にかけて、木を直させよう」と腹をお立てになったので、行方知れずになって、逃げて消えた。行方をお尋ねになっても見つからず、このときのわだかまりは長く続き、探し出したいと思っていたが、兄弟とはいえ、宗碧は国元にばかり置いていたので、それほどお怒りもなかったところ、この道巴が子供を宗碧の所に数年隠しおいており、今回の妻子がお預けになったとき、この者が甥で、他国の者であったと知った。道巴にたいして口惜しくお思いになる理由は、このように後ろ暗い事を口惜しくお思いになり、宗碧親子と道巴の子供を処刑なさった。天罰からは逃れがたいと人はみな言い合った。
前述した安房屋敷においていろいろと不思議なことがあったとのちに人々は言った。政宗の御成の一日前に、路次の掃除をしている最中に、どこからともなくトンビが二つ飛んできて、くみあい、路次の木の中に落ちると、二つとも死んだ。またその夜イタチが数えることが出来ないほど多く、書院広間の庭に出て、走り、歩き、食い合って、塀の控え柱を伝わって屋根に上がり、防火用の桶の水をすくいたてて浴びるなどして、西隣の屋敷を向かって行き去った。
また楽屋にて桜井八右衛門、翁の面を箱の蓋の上に飾り、いつものように神酒を供えていたところ、脇にたておいていた役者の刀、5,6本倒れて、抜けた。大夫は、今日は道成寺があるのに気持ちが悪いと、行水などをして心を静め、大夫が幕際にかかり、面箱持ちが立ち上がって出ていったあとを見ると、たしかに固まった血が吊り橋の方へ、4,5ヶ所こぼれているのが見えた。大夫はこれを見て外へ行ったのは、内にけが人はないだろうと思ったためである。
宗碧の出来事、屋敷の火事のことは、のちに人々は不思議なことだと言った。
*この条のことは間違いないことである。私もその日屋敷に行き、能を見物したのである。安房殿の屋敷でのおかしな事は知らない。舞台にて血こぼれが有ったことは、桜井八右衛門の話を直接聞きました。

感想

寛永11年2月に、若林城のそばにできた成実屋敷での出来事を書いた記事です。
この記事は他の書物にも書かれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事、『名語集』42にも記事があります。
sd-script.hateblo.jp
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それぞれは筆者が違い、視点が違うのがこの記事のおもしろさになっています。
『政宗記』『名語集』では、饗応が行われたこと、政宗が宗碧について激怒したこと、政宗の弁明、火事の話題に続き、遠島になった宗碧が一ヶ月後に処刑されたところで終わっていますが、木村宇右衛門は他にも屋敷におかしな事件が起きたことを述べ、宗碧の兄道巴がそもそも政宗の怒りを買っていたことを記し、終えています。特に謎の血痕については、「直接聞いた」と注に述べるほどです。
『政宗記』では若林の町についてと、政宗の弁明、それに対する成実本人の感慨が中心で、『名語集』では宗碧事件を中心に、そして『木村宇右衛門覚書』では木村宇右衛門が見聞きしたことが加えられています。
こういう事件があったこと、政宗がどう語ったかはほぼ共通しており、こういう事件があったことは事実だと思われますが、それぞれの記事から違う事情が伝わってきて非常におもしろいです。

『木村宇右衛門覚書』目次

『木村宇右衛門覚書』について

仙台伊達家から昭和26年に仙台市へ寄贈された伊達家寄贈文化財の中にあった一資料である。江戸時代には「木村氏覚書」「木村宇右衛門書立」と称されることもあった。上中下巻の3巻からなる。
内容は伊達政宗が晩年に小姓の木村宇右衛門に語った様々なことを木村が書きとめたもので、184項目、政宗の出生から政宗の死後の慶安5年(1652)5月24日の17回忌までの記事が記されている。
木村宇右衛門可親(よしちか)は元の名を森右衛門といい、9歳の頃から奥小姓として政宗に仕えた。政宗死後職を離れたが、忠宗より慶安5年(1652)に30貫文の知行を宛がった。延宝3年(1675)4月に老齢を理由に隠居。覚書の成立は政宗の17回忌にあたる慶安5年に間もない時期と考えられる。
主人公政宗と書き手右衛門の同時代性こそが、本資料の最大の魅力である。
————小井川百合子編『伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書』序より抜粋・要約

当ブログはあくまで成実が書いたとされる各書の紹介・考察を目的としておりますが、内容比較のために、成実が登場する項や『政宗記』『成実記』や『名語集』と重なる項を紹介していきたいと思います。

『木村宇右衛門覚書』は小姓木村宇右衛門可親(よしちか)が政宗が語ったことを記した、政宗言行録の一つ。小井川百合子編『伊達政宗言行録-木村宇右衛門覚書-』として公刊されております。近習の小姓ならではの視点で、政宗の言ったこと・日頃の行動・考え方などを記した書で、とても読み物として面白いです。
成実の各書や『名語集』と違う特徴としては、

  • ものすごく記憶力がいい人だったようで、細かいディティールが詳しい
  • 都合の悪いことをかかない傾向がある成実や、感情に走りがちな『名語集』筆者と違って、自分の感情を入れず、聞いたこと・見たことを比較的正確に記している(と思われる)
  • 政宗のフィルターが入っているので、あくまで「こういうことにしておいた事」ではあるが、他の史料にない独自の記述がたまにあって興味深い
  • ただし木村のフィルターは成実のフィルターより薄いと思われるので信用できる
  • 成実より信用できる(大事なこと二回言いました)

『名語集』42:伊達安房屋敷にて宗碧を手討にす、同屋敷失火

『名語集』42:伊達安房の屋敷にて宗碧を手討にする、同屋敷の火事

原文

一、或時、伊達安房守殿にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様を御申入れられ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・小身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ、万事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。御相伴衆のうち、宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいたしける御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙胆に銘じける。折ふし、かの宗碧、感にたへず、醉興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、聲を上げ、頭をさすり、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。貞山公にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、聲をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらる。されども命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかやうの事ありとも、腹立つことゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候へ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免して朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州へ下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちおしき次第なり。只今の腹立ちは、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆえ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が、ここに希代不思議に、諸人存じたてまつり候御事は、日暮れ申すと、御前衆、或は御小姓頭衆など、召させられ、「何とやらん、今宵火事出来せんと心中にたへず。亭主方のものは、皆くたびれ候はんに、こなたより申付け、用心つよくさせよ」と、ひたすら仰付けられ、御立ちざまに、御自身、くさりの間の爐のうち御取らせ、水など御かけさせ、わざと数寄屋へ出御なされ、爐の中を御らんじ、そのうへ、佐々若狭を召させられ、「いかさま、今夜火事出でんと思ふなり。其方、跡にとどまり、爐中爐中に水をかけさせ、罷り帰れ」と、仰付けられ、御帰城なされ候。諸人も心つき、なるほどなるほどと火事の用心仕り、少しもあたたかなる所へは、水をかけ申すやうに仕り候へども、その暁、水をよくかけ申し候置囲炉裏より、火あまり、房州御屋敷、残りなく火事いたし、並びたる御町も、あまた焼け申し候。諸人、胆を消し、易からぬ御事と、舌をふるひ申し候。次の日、即ち御自身、御指図を以て、御作事悉くなされ進ぜられ、日頃御取立ての宗碧をば、諸奉行衆に仰付けられ、「日頃の御取立て、不便におぼしめされ候間、身命相助けられ候。里離れたる島へ流し候へ。さりながら、扶持などは迷惑いたさぬやうに」と、仰付けられ、又「成人の子供をば、その島近所の城代に預けおくべし。女房以下をば、親類にあづけ候へ」と、仰付けられ候。かやうに事済み候てのち、三十余日を過さぬに、不慮のことありて、宗碧父子御成敗なされ候。天命のほど、諸人身の毛を立てて、恐れ申さぬはなし。

地名・語句など

所役:役目・任務
不便:迷惑/可哀想
いたいたし:可哀想だ・気の毒だ/程度のはなはだしいさま
一入(ひとしお):いっそう
鎖の間:六畳以上の広間で炉を切り、鎖で茶釜をつるすようになっている茶室。

現代語訳

あるとき(寛永11年2月23日)、伊達安房守成実の屋敷の工事がすべて終わり、よき日を選んで、貞山様(政宗)をお迎えになった。朝は数寄屋にて茶を、その後書院にて能を見ることになった。親類衆・身分の高い者、低い者も、みな長袴を着け、政宗も長袴をお着けになって、すべて作法の通りになさり、一日中能を見学なされた。
その日、兵部大輔宗勝は鵺を演じなされた。普段、お話や挨拶のために、相伴衆を家臣とは別に取立て、座敷の縁側に置いておられた。その相伴衆のうち、宗碧という、京のものを、特に取立て、100貫文の知行を役目なしにお与えになっている者があった。年も取っている者であったので、ますます面倒だと強く思われていた。
その日も宗碧は相伴し、書院の親類衆の中にまじり、政宗のいる縁側の近くに置かれていた。宗勝が能をしたとき、人は皆感動した。まことにすばらしいようすで、音曲や拍子に負けず、踊るさまが優美に思われたので、政宗もいっそう機嫌よく思われ、見ていた者たちはみな感動して涙を流し、心に刻んだ。
そのとき、その宗碧は感動がすぎ、また酒に酷く酔ったのか、また政宗に気に入ってもらおうとおもったのだろうか、政宗のいたところの側までおどりでて、「兵部大輔様のお能はさてもさても」と声をあげ、頭をさすり、立ち上がって、ものの音もきこえぬほど、うかれて振る舞った。
政宗も憎らしいとお思いになったけれども、座敷の雰囲気に、もてなしなど、それぞれに手を込めて手配したことが、すぐさま台無しになるだろうと思われたのだろうか、宗碧はまだ鎮まらず、政宗の膝近くねじより、「やあ殿よ殿よ、あれをよく御覧なされ。いかなる東の鬼神であっても、泣かないということがありましょうか」と声をあげて泣き叫んだとき、急に政宗の様子が変わり、そばにあった刀を抜いて急に打ちかかり、しとどに濡れるほどお打ちになった。しかし、命をとるのは可哀想であるとおもったのだろうか、浅い怪我を追わせて、刀をおしまいになった。この宗碧の黒衣はたちまち赤く染まった。
政宗は御座敷をお立ちになり、わきの座敷へ入られた。奉行衆を介して饗応の主人であった伊達安房守成実をはじめ、それぞれへ仰ったのは「今の様子、皆が何があったのかと思うだろうこと、大変痛み入り、恥ずかしいと思う。亭主の成実に対しては、今日どのような事があっても、腹を立てるようなことは絶対にしてはいけないと、かねてから思っていたのだが、想像外の出来事が起こってしまって、仕方がなかった。しかし、それぞれよく物事を考えてみて欲しい。この宗碧は特別に取立てたものであるので、どのようなことがあっても、許して毎日いらだちを感じており、今日まで側に置いていた。その上、今日のことは、うちうちのことであるならば、どんなことを入っても、結局そのときのふざけとして片付けるが、今日の能見物は庭に数百人の見物人が集まっている。私の国の内であれば、長袴なしで、気楽に見学するけれども、このように身分の高い者から低い者までみな礼義正しく行っているのは、私を重んじるが故のことでないことがあろうか。国の者たちも恥ずかしく思い、私も乱れたことのないように心遣いをしていたが、叶わなかった。また、今日の見物人の中に、様々な国の者が一人ずつはいるだろう。このようなことをそのままにしておいたなら、それらのものたちが国に帰り、いつだったか奥州へいったときに、政宗の親類の安房守という人の所で能があったときに、すべて行儀正しいように振る舞っていたけれども、そばにいた年配の相伴坊主が子息の宗勝の能のとき、『殿や殿や、あの子供の能を見て泣かないのはおかしい』などといかにも心安くいっていたけども、その通りだ、人は聞いたり見たりするのとはそれぞれ違うものだ。官位は中納言だろう。身分に見合わないなどといろいろ言われるのは、口惜しいことである。ただいまの腹立ちはそのことであり、饗応の主には何の障りもない。なので、私の機嫌が悪いはずもない。みなもこころをほどき、気遣いすることなく、能を見るがいい」と使いを介してみなへ仰ったので、そこにいたものはみな、有り難いことであり、御言葉はもっともであると感動なさった。その後政宗は元々の場所へお戻りになり、ますます御機嫌良く、一日中能を御覧になり、夜になってお帰りになることになった。
ここで大変不思議なことだとみなが思ったことなのだが、日が暮れたところ、側近く仕えている者や、小姓頭たちをおよびになり、「どうしてだろうか、今日夜、火事が起こるのではないかという予感がする。館の主の家臣たちはみなくたびれているだろうから、こちらから言いつけて、用心を強くさせよ」と何度も仰った。出発するときに、御自身で鎖の間の炉のうちをお取りになり、水などをかけ、わざわざ数寄屋へお入りになり、炉の中をごらんになり、その上、佐々若狭をお呼びになり、「どのようにかわからぬが、今夜火事がおこるのではないかと思う。おまえはここにのこり、それぞれの爐中に水をかけさせて、帰ってこい」とご命令され、城にお帰りあそばされた。
みな気を付けて、なるほどなるほどと火事の用心をし、少しでもあたたかなところには水をかけるようにしたのだが、その暁、水をよくかけておいた囲炉裏から火が出て、安房守の屋敷は残らず燃え、並んだ町も数多く燃えてしまった。みな大変に驚き、滅多にないことだと、舌をふるって言い合った。
次の日、すぐに政宗は御自分で指図をして、もう一度工事をやり直すように仰り、日頃取り立てていた宗碧を奉行衆にご命令になられ「日頃の取立てで、哀れに思ったため、命は助ける。人里離れた島へ流せ。しかし食い扶持などは不便の内容に」とご命令になり、また「成人した子をその島の近所の城代に預けおけ。女房たちは親類にあずけよ」と御命じになった。このように事が終わった後、30日も経たぬうちに、予想外のことがあり、宗碧親子は処刑された。天の命令であるとみな鳥肌を立てて恐れて言わぬ者はなかった。

感想

寛永11年2月23日に行われた、新築成実屋敷の饗応での出来事、及びその翌日の火事についての記事です。この日はいわゆる「御成」であり、朝から茶の席・長袴を着ての能見物がありました。
この日は様々なことが起こりました。
この能会は、様々な国から来た数百人の見物人がいたことが政宗の言い分からわかります。普段ならば長袴を着ることもなく、気軽に見るけれども、この能会は皆が長袴を着けており、フォーマルなものとして行われたようです。この能舞台が臨時のものか常設のものかははっきりとはわかりませんが、数百人が見られるということから、かなり大がかりなものであったことがわかります。
そこで、宗碧という相伴衆が酔っ払ってか機嫌を取ろうとしてか、ひどくみっともない様子をしたため、政宗は怒り、宗碧を殴打したあと、部屋に籠もってしまいました。政宗は亭主(成実)には関係ないと言ったあと、ふたたび能会は進みます。
そこでまた事件が起こります。
帰ろうとした政宗は火事が起こるのではないかと考え、念入りに火の用心をさせます。佐々若狭らにも命じ、また成実の家臣たちにも強く言い、用心をさせました。
しかし、その翌日の明け方、なぜか消したはずの囲炉裏から火が出て、成実屋敷は焼失してしまい、廻りの町をも燃やしてしまいました。
正直、この火事に関しては何があったんだかよくわかりません。
怪異なのか、政宗の逆説的な命令で館を燃やしたのか。町まで燃えるとなると大ごとです。何があったんでしょうね。
この事件があったあと、28日に政宗が成実を召して、自ら新しい屋敷の指図をしています。

この記事は他の書物にもかかれており、『政宗記』10-1:成実所振舞申事や、『木村宇右衛門覚書』20にも類似記事があります。
『政宗記』10-1はこちら↓
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こちらは亭主(=成実)側の記録らしく、どのように用意していたか、またこの事件を思い出しての成実自身の感慨などの記述が詳しいです。

『木村宇右衛門覚書』ではさらに宗碧を殴打するまでに政宗と成実がそれをどうにか紛らわそうとしてか、イヤミを言っているシーンなどもあり、非常におもしろいです。とにかくこれは非常に大変な事件だったようです。
(この記事はまた後日アップしたいと思います)

『伊達日記』126:白石攻め

『伊達日記』126:白石攻め

原文

政宗公は岩出山迄は御下成らせしめられ。北目に御在陣候て七月廿四日白石の城へ御働候。甘糟備後城主に候間若松へ引取られ備後甥北城式部居候朝城外を打廻り。御働引上られ候。八つ時分又城廻りを御覧成られ。別而改普請仕所も之無く候。町を御取せ成らるるべき由仰出され町枢輪へ惣人数取付押込火を懸候間敵は本城へ逃込。其夜二三の枢輪迄相破本丸計に成。翌日石川大和守を頼。城中の者命相助られ候はば明渡し申すべき由にて廿五日七つ時分出城候。伊達へは相返され間敷由にて表立候衆はいづれも御旗本に罷有候。雑兵は夜に紛伊達へ逃帰申候。簗川へ御取懸成らるるべく思召れ候所に。家康小山より御帰之由申来候付。関東口より御取詰成られずしては政宗一人にて働成りがたく思召され。白石へ御人数相籠られ。江戸御一左右聞召られ候迄先ず北目へ御引籠成られ候也。

右伊達成実記三冊依無類本不能校合

語句・地名など

現代語訳

政宗は岩出山までお下りになり、北目城に在陣なさり、7月24日白石の城を攻められました。甘糟備後景継という城主でしたが、会津へ呼ばれていたため、備後の甥北城式部(登坂式部勝仍?)が城にいた。
朝城の外を見て回り、引き上げられました。8つ頃また城の周囲を御覧になり、とくに改めて工事するところもないので、町を取るようにと仰り、町曲輪へ総軍を取付押し込め、火をかけると敵は城の中に逃げ込んだ。
その夜は2,3n曲輪まで破り、本丸だけになり、翌日石川大和昭光を頼って、城内の者の命を助けるのであれば、城を明け渡すと言ってきたため、25日7つ頃、城を明け渡した。伊達へ戻ることはできなかったので、表だった衆はみな旗本であった。雑兵たちは夜に紛れて伊達に逃げ帰った。
梁川へ攻めかかろうとお思いになっていたところ、家康が小山から引き返したことをお聞きになったので、関東から取りかかることは政宗1人では難しいとお思いになったため、白石へ軍勢を籠もらせ、江戸の知らせをお聞きになるまで、とりあえず北目城にご滞在になられたのである。

(これは伊達成実が記した三冊である。類本がないため、内容のかみ合わせができない)

感想

とうとう『伊達日記』の最後の章になりました。政宗は対上杉の抑えを命じられ、上杉領南部の白石城を攻めることになります。
ちなみに書かれていませんが、この戦の直前出奔していた成実は石川昭光・留守政景・片倉景綱らの尽力によって帰国し、石川昭光の陣に入り、白石攻めに参加します。
そして白石を攻めた政宗は家康が引き返したことをしり、北目で様子を見ます。ここから北の関ヶ原というべき伊達・上杉・最上三つ巴の戦が始まりますが、成実はそれに触れず、この書は終わります。
それが何故か、というのはわかりませんが、一応『伊達日記』・『成実記』系統のものはいずれもこのあたりで終わっています。
『政宗記』後半ももしかしたら他人の手が入っている可能性もあります。詳細はわかりませんが、読み比べるとおもしろいです。

『伊達日記』125:家康の返し

『伊達日記』125:家康の返し

原文

一義顕。政宗。南部信濃以下奥の大名衆。景勝退治のため国々へ御下候。家康小山迄御出馬の所上方にて謀叛起。伏見の城又京極若狭殿御座候大津の城にも籠置かるる由申来候付而家康江戸へ御引返候。

語句・地名など

現代語訳

最上義光・政宗、南部信濃守利直をはじめとする、奥州の大名たちは上杉景勝退治のため、国々へお帰りになりました。
家康は小山まで出馬したところ、上方にて謀叛が起こり、伏見の城と京極若狭高次がいた大津の城もろうじょうすることになったことが伝わり、家康は江戸へ引き返しなさりました。

感想

政宗をはじめとする奥州大名は家康に従い、下向しましたが、家康は上方で謀叛が起こったので、戻ることになりました。

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

『伊達日記』124:関ヶ原前夜

原文

一家康公。政宗公御入魂の故か。政宗娘を上総殿へ御取合成られ度思召。宗薫を以御内証に候。四人の大名衆聞召され。秀吉公御他界の砌五人の大名衆申合仕置き仕べき由仰置かれ候所。各相談無く縁初の儀覚悟の外由仰られ。宗薫を死罪に申し付くべき由に候。家康公。政宗公。左候はば御相手に罷成るべき由仰られ候故其後は其沙汰無く候。石田治部少輔乱逆を存立。家康と四人衆間を申へだて候由に候。家康は向島に御座なされ候処に押懸候などと伏見。大坂唱事候。佐竹義宣伏見より治部少輔へ御出。治部少輔を義宣一つ乗物に御のせ御帰。御屋敷にかくしをかれ候。大坂にては治部少輔欠落の由にて唱候事相止候。然而義宣大津迄治部少輔を召連。棹山へ送らせしめらる由申候。其年より二年過景勝へ上洛有るべき由家康仰遣はされ候所。秀吉公へ五年の御暇申上候間罷登間敷由仰られ候。其に就いて浮田殿。毛利殿。筑前殿へ御たづね候而重而上洛候への由仰遣され候へども。景勝御上洛ある間敷由仰られ候。左候はば景勝を御退治有べき由にて。伏見御留守居として鳥井彦右衛門に人数三千計指添籠置かれ候。江戸へ御下向に候。治部少輔竿山より方々へ申合。景勝も御同心にて乱逆企申候。

語句・地名など

現代語訳

家康は政宗と仲よくしてらした為か、政宗の娘を上総介忠輝と娶せるよう思われ、今井宗薫を使者として、秘密裏に縁談を進めた。
4人の大名の皆様がこれをお知りになり、秀吉が他界したときに、5人の大名衆で相談して仕置を行うようにと言いつけになったというのに、それぞれ相談もなく、縁談を進めるのは違反であるとして、宗薫を死罪にするようにと仰られた。家康と政宗はそうであるならば、相手にするということを仰られたので、その後は鎮まった。
石田治部少輔三成は反逆を思い立ち、家康と4人衆との仲をわざと隔てるようにされた。家康は向島にいらっしゃったところに押しかけたなどと伏見・大坂で噂になった。
佐竹義宣は伏見から三成のところへお越しになり、一つの駕籠に乗せて、お帰りになり、屋敷にお隠しになった。大坂では三成がいなくなったので噂は止まった。そして義宣は大津まで三成を連れて行き、佐和山へ送った。
その年から2年過ぎ、景勝へ上洛するようにと家康がご命令になったところ、秀吉へ5年の暇をいただいたので、上洛しないでいると言って返したため、家康はそれについて、宇喜多・毛利・前田へお尋ねになり、くりかえし上洛するよう言いつ交わされたのだが、景勝は上洛しないと言ったため、そうであるなら景勝を退治するとお決めになった。伏見の留守居役として鳥居彦右衛門元忠に軍勢3000ほどおつけになり、さしおかれた。
家康が江戸へ下向なさったので、石田三成は佐保山からあちこちへ言い合わせて、景勝も同意し、反逆を企てた。

感想

秀吉の死後、すぐに家康と政宗は子息の婚姻を決め、それが知れ渡り、騒ぎになりました。そしてその後2年の間に世は家康の方に傾き、それに対し反感を持った三成との対立が起こってきました。それに上杉が呼応し(たと思われ)て関ヶ原の戦のタネがまかれました。

『伊達日記』123:秀吉の死

『伊達日記』123:秀吉の死

原文

一秀吉公御違例に候処。次第に重候故諸大名衆をめされ。御病気つよく候間。御他界も候はば秀頼公にたいし逆意存まじき由誓紙仕るべき由仰出され候に付。熊野牛王に血判いづれも成られ候を。大峯にをさめ申すべき由御意にて。正護院殿山伏多召連られ御登山に候。天下の仕置家康公。浮田中納言。安芸毛利殿。加賀筑前殿。長尾景勝へ仰置かれ候。然る処に秀吉御存命の時分。景勝は国替仰付られ。程なく秀吉公御煩に付上洛仕候間。御暇下され候へとも御違例の内は在京にて。御他界以後会津へ下向に候。秀吉公新八幡と祝申すべき由御遺言に候へども。勅許なきによつて豊国の明神と祝申候。東山に宮相立られ候。

語句・地名など

現代語訳

秀吉が病になられ、次第に重篤になっていったので、諸大名をお呼びになり、「病気が重くなってきたので、もし私がシンだなら、秀頼に対し反逆しないように」と誓紙を書くようにとご命令になり、熊野牛王の血判をみな押したものを、大峯に納めるようにご命令になったので、聖護院の山伏を多く連れて山に登らせた。
天下の采配は家康・宇喜多中納言秀家・安芸の毛利輝元・加賀筑前前田利家・上杉景勝へお目維持になった。
秀吉が存命の頃、景勝は国替えを命令され、ほどなく秀吉がご病気になられたので、上洛したので、在地に戻りたくとも病気の間は在京するしかなく、秀吉薨去ののち、会津へ下向した。
秀吉は新八幡として祭るよう御遺言であったが、天皇のお許しがでなかったので、豊国大明神と祭ることになった。東山に神社が建てられた。

感想

秀吉がとうとう病に倒れ、そのまま亡くなりました。秀頼のことを諸大名に頼み、豊国大明神として祭られることになりました。