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伊達家家臣・伊達成実に関する私的資料アーカイブ

『政宗記』6-10:会津にて知行判之事

『政宗記』6-10:会津で知行割りをしたこと

原文

斯て義重、田村の領内大平を攻落し給ふと云ども、其後別の手際もなく、況や次男義広は、会津を鈍性し給ひ、彼是無手際にて、同年の七月二十日に帰陣し給ふ。扨常隆も帰陣坐す。是に依て伊達より、田村へ遺し給ふ警固の勢も、大形帰り伊達・信夫の軍兵計り残りける也。然るに、右の両大将、面々我領分へ引込給へば、政宗会津郡の名主・百姓等を召あつめ、跡の事どもたづね給ひ、古参・新参に限らず忠節忠孝の浅深にしたがひ、それぞれに知行加増を賜はり、上下ともにいさみ悦ぶ事、尋常ならず。然して、原田左馬介会津へ手切の始めより、彼領手に入給はば津川を給ふべしと約束には御坐ども、津川の要害狐戻と云処は、金上遠江在所なり、然るに、遠江摺上にて討死なれども、家督彼城を踏へ、越後へ云寄り政宗へは敵と成。故に左馬介は未所領も拝領せず。然りと云ども、所領加増の其中に建く有ん、先当座物にと宣ひ、三百貫をぞ給はりける。かかりける処に、会津の山中に稲井・北横田・柳取・川口とて彼四ケ所は、未だ手に入給はず。是に依て、其年の八月左馬介に、会津新参へ長井の人数を差添、遣し給ひ、柳取の要害を攻落、撫斬にしければ、残三ケ所は津川へ除ける処もあり、訴訟申し出出城せしむ所も有て、右の四ケ所も落居なり。其外津川は大切所なるに、「卒爾の働き如何有ん」と、左馬介伺ひければ、「其義ならば春中になし給はん、先左馬介には帰れ」と宣ふ。故に津川より罷帰候事。

語句・地名など

鈍性:不明。とんせいと読んで、逐電の意味か。
狐戻:新潟県東蒲原郡津川町津川城址
稲井:南会津郡伊南村か
北横田:大沼郡金山町横田
柳取:南会津郡只見町梁取
川口:金山町川口

現代語訳

こうして佐竹義重が田村領内大平を攻め落としなさったといっても、その後他の動きもなく、まして次男の蘆名義広は会津を離れ、いろいろと不手際であったため、同年の七月二十日に帰陣なさった。また、岩城常隆も帰陣なさった。これによって、伊達から田村に使わしなさった警固の手勢も、大体が帰り、伊達・信夫の兵だけが残った。すると、この大将立ちそれぞれ、自分の領地へ引き込みなさったので、政宗は会津郡の名主・百姓たちをよびあつめ、これまでのことをお尋ねになり、古参・新参の区別なく、忠節・忠孝の深い浅いに随って、それぞれに知行加増をなさった。身分高い者から低い者までみな尋常でなく勇み喜んだ。
こうして、原田左馬助宗時会津へ手切れのはじめから、会津領が手に入れば、津川を与えると約束をしていらっしゃったのだが、津川の要害狐戻というところは、金上遠江盛備の在所であった。金上盛備は摺上原の合戦で討ち死にしたのだが、跡取りの金上盛実が其の城を守っており、越後の上杉景勝へ近寄り、政宗には敵となる。そのためまだ左馬助は所領も拝領していなかった。しかし所領加増の中にあって、よくないと思ったのだろうか、さきとりあえずの領地として、三百貫をお与えになった。
そうこうしているところに、会津の山中に、稲井・北横田・柳取・川口という四カ所は未だに手に入らなかった。このため、この年の8月、原田左馬助宗時に、会津の新しく降参した者へ長井の手勢をつけて派遣し、柳取の要害を攻め落とし、撫で切りにしたところ、残る三カ所は、津川へ退いたところや、訴えをおこし、城をださせたところもあって、その四カ所も手に落ちた。
そのほか、津川は大変重要なところであるため、「急襲は、どうでしょうか」と左馬助が伺ったところ、「そのことならば、春のうちにはどうにかしよう。まず左馬助は帰れ」と仰った。そのため原田左馬助は津川より帰ってきたのであった。

感想

会津での知行割り、とくに原田左馬助宗時に下した所領のことが書かれています。まさに勢い十分のころでしょう。

総合目次

【ご挨拶】

はじめまして。こちらは[sd-script](「エスディー・スクリプト」)です。
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戦国〜江戸初期の伊達家家臣&ライター武将【伊達成実】(だて・しげざね)に関する趣味の考察ブログです。
「史実」の伊達成実に関するあれこれ(主にかれの著作について)の私的覚え書きと整理が目的です。
創作におけるものについては「感想」カテゴリで触れる以外はありません。

素人がやっております単なる趣味のサイトです。
考察・簡単な現代語訳を上げる予定ですが、読めば一目瞭然ですが間違ってる酷い訳です。間違いに気がついたらあとから勝手に書き直します。
計画的なものではなく、気が向いたとき&ところからフラフラテキトーにやっていきます。真面目な研究目的ではなく、ミーハーなファン心故のサイトです。
文法読解など、間違ってるところ多数なので、何かの参考にはされない方がいいと思われます。
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【更新履歴】NEW!!

  • 20240417:『成実記』15:人取橋合戦をupしました。長らく時間が空きまして申し訳ございません。私事になりますが、家族の者が死去したため、ここ一年ろくに歴活できておりませんでしたが、これからはもう少しあちこち行きたいと思います。
  • 20240103:『成実記』12:義継の頼み『成実記』13:粟之巣事変『成実記』14:二本松攻めと雪をupしました。
  • 20240101:あけましておめでとうございます。コロナ禍以降ろくに仙台にも北海道にもいけていませんが、今年こそは目がけて行きたいです。2022年分の更新履歴を過去の更新履歴リストにコピーしました。今年もよろしくお願いします。

これより前の更新履歴はこちら

おしらせ

  • 更新頻度が気まぐれかつ唐突ですが、ご了承下さい。
  • 今まで『成実記』で分類しておりました記事を書名である『伊達日記』に変更しました。(『成実記』と各『伊達日記』にも細かな違いがあるため、誤解を招かないために。合わせて参考にした書名を記すことにしました。)
  • 『政宗記』記載の地名の注は、合併後地名では(私に)分かりづらいこともあり、大体伊達史料集そのままにしてあります。

【総合目次】

原文:

その他の政宗逸話記事:

『政宗記』6-9:会津家老忠節事

『政宗記』6-9:蘆名の家老たちの寝返りのこと

原文

かかりける処に、三橋在馬の中、会津の家老富田美作、平田不休・同名周防・彼三人、「今度御忠節の其賞に、某とも前々持来ける本領は申すに及ばず、三人へ備付の与力の身代相立てられ下さらはんや」と申す。是大分の訴訟なれども、須賀川には義重未出陣、常隆も小森に御坐て田村へ日々の働なれば、先会津を一日も早く究んがため、右の望を承引したまふ。是に仍て三人又申けるは、「会津へ働き給はば、火の手を上て三人の備ひ御人数へ数へ加はり、忠節せん」と申す。此故に会津への働き無勢にては、如何とや思はれけん、名取の人数を呼給ふべしと宣ふ。然る処に、義広会津を持兼、天正十七年己丑六月十日の戌の刻に、在城を打あけ、他国の白川へ蓓んで、浪人となり給ふ。義広本は佐竹より白川の家を、継給ふべきに定りけれども、会津の盛隆、大波三左衛門と云御物上に図らず惨殺され、跡絶ければ、会津の家を継で盛隆の跡目となる。其故に今度白川へ除給ふにも、其昔盛隆を須賀川より引越、猶子となし家を継せ給ふ。父分なる盛氏の取立給ふ、仙道永沼の城主新国上総、其頃迄は会津方にて、義広心安く白川へも引退給へり。故に政宗二十三の六月十一日に、会津の城へ所入し給ふ。然りと云ども、義重・常隆未田村へ働き給へば、白石若狭と伊達成実をば、会津より直に田村へ遣し給ひ、三春に在陣なれども、日々の働と聞へ、重て又会津新参の平田周防に、原田左馬介を差添遣し給ふ。去程に、田村の要害に伊達の人数満々ければ、凡そは浮武者も五六百騎もあらんずらん、敵陣深く働くならば、一合戦参るべしと御方の各申けれども、左はなくして、田村の内下枝と云処へ、常隆働引上給ふを、彼地の者ども、田村右衛門を大将分にして、岩城の人数へ襲、方々の山道を押切、評議なしに取合ければ、岩城の殿思いの外敗北して五十余人討て取、物別れなり。三春へは遠路なれば、俄の助も相叶はず、警固迄にて少討取候由、田村の各物語候事。

語句・地名など

名取(なとり):宮城県名取郡
戌の刻:午後八時
猶子(ゆうし):養子。
下枝:田村郡中田村下枝
御物上(おものあがり・ごもつあがり):昔貴人の持ち物として愛されたもの、一時は寵愛を受けたもののなれの果て。/小姓から取り立てられた者
浮武者:一定の部署につかないで機を見て味方に加勢したり敵を攻撃したりする者。浮備えの武者。

現代語訳

政宗が三橋に在陣しているときに、会津の家老富田美作・平田不休(左京亮)・平田周防の三人が、「今回の寝返りの褒美に、私たちが前々から持っている本領はもちろん、三人へ付いている与力の身代も立ててくださいませんでしょうか」と言った。これはかなり強気の交渉で合ったのだが、未だ須賀川に佐竹義重、小森に岩城常隆がいて、田村へ連日の戦闘をしかけていたので、まず会津を先に落とすために、この望みを受け入れなさった。このときにこの三人がまた言ったことには、「会津へ戦闘を仕掛けるのであれば、火の手を上げて、三人の手勢が伊達勢の軍勢へ加わり、裏切りを致しましょう」と言った。このため、会津への働きが手勢が少なくてはいけないとおもわれたのだろうか、名取郡の手勢を呼ぶようにと仰られた。
そうこうしているところに、蘆名義広は会津を保ちかねて、天正17年6月10日の戌の刻に黒川城を開城し、他国の白河へと逃げだし、浪人とおなりになった。蘆名義広はもともと佐竹から白河の家を継ぐように決まっていたのだが、会津の蘆名盛隆が大場三左衛門という小姓上がりの寵臣に不意に惨殺され、跡継ぎがいなくなったので、会津蘆名の家を継いで盛隆の跡継ぎとなった。そのために今回白河へ退くのも、その昔盛隆を須賀川より呼び寄せ養子となして家を継がせなさった。父親分である盛氏が取り立てた、仙道長沼の城主新国上総貞道が、その頃までは会津方であったため、蘆名義広は心安く白河へ退きなされた。
そのため政宗が23歳の年の6月11日に、会津黒川の城にお入りになった。しかし、佐竹義重・岩城常隆はまだ田村へ侵攻をしていたので、白石若狭宗実と伊達成実を会津から直接田村へおつかわしになり、三春に在陣していたのだが、連日の戦闘の話をきき、重ねて会津から新参となった平田周防に、原田左馬助宗時を添えておつかわしになった。すると、田村の要害に伊達の手勢でいっぱいになったので、おそらく機を見て加勢しようとした者が5,600騎もいたのでございましょう。敵陣深く戦闘し、一合戦するべきであるとおのおの言っていたけれども、そうはならず、田村の内下枝というところに岩城常隆が働き引き上げなさったところ、下枝の者たちが田村右衛門清康を大将にして、岩城の勢へ襲いかかり、あちこちの山道を押しきり、評議なしに取り付いたので、岩城政隆は想定外に敗北して50人余りが討たれ、戦は終わった。三春へは遠かったため、急ぎの助勢もすることができず、警固だけにして少しだけ討ち取ったと田村の家臣たちが語っていたことである。

感想

蘆名の家老たちに対する内応工作と田村侵攻への対処が書かれています。
今回初めて知ったのですが、「御物上」という言葉があることに衝撃を受けました。
蘆名盛隆は元寵臣の大庭に討たれました。その後佐竹の義広が養子に入ったので、親佐竹派と親伊達派に別れていたことがわかりますね。

『政宗記』6-8:田村警固事

『政宗記』6-8:田村領の警固のこと

原文

されば右にも申す、同年五月より、義重須賀川へ打出かふか、政宗三橋在馬の内、義重、常隆へ云合せ、南筋より働き給ふと聞へ、伊達より田村へ加勢として、大町参河・中島右衛門・宮内因幡を遣し給へり。義重田村の大平と云処を攻落し、常隆も同領門沢を攻取り給へり。さる程に、因幡と参河は漸引除恙もなし。右衛門は二の丸の役所を離れず、岩城衆を三人討取討死なり。右衛門名誉の者なりしが、可惜兵かなと時の人々惜みけり。然して後、右の両大将田村へ尚も働き給ふと聞へ、重て伊達の家老浜田伊豆・富塚近江・遠藤文七郎彼三人へ伊達・信夫・刈田・柴田の勢を差添、遣し給ふと云ども、今度会津との戦に付、伊達の旗本無人数なれば、浜田伊豆をば阿久ケ島より呼越給ふに、猪苗代へ参合、摺上の合戦にも用立ける事。

語句・地名など

大町参河:『治家記録』によると大町は相馬駒ヶ嶺に在陣したとし、田村派遣を誤りとする。
大平(おおだいら):郡山市大平
中島右衛門:『治家記録』は中島宗意の戦死を否定しているが、『世臣家譜』などによると戦死は事実である。

現代語訳

先の章でも述べたとおり、天正18年5月より佐竹義重が須賀川へ打出ようとしてか、政宗が三橋にいる間に、佐竹義重は岩城常隆へ申し合わせて、南方から戦闘を仕掛けようとしているとお聞きになり、政宗は伊達から田村へ加勢として大町参河・中島右衛門宗意・宮内因幡常清をおつかわしになった。佐竹義重は田村領の大平というところを攻め落とし、岩城常隆は同じく領内の門沢を攻め取りなさった。其のため宮内因幡と大町参河は徐々に退き、無事であった。中島右衛門は二ノ丸の担当を任されたところを離れず、岩城衆を三人討ち取り、自らは討ち死にした。
中島右衛門は名誉の者となったが、なんと惜しいつわものであろうかとそのときの人々は惜しんだ。
その後、佐竹・岩城の両大将はなおも田村へ戦を仕掛けているときき、かさねて伊達の家老浜田伊豆景隆・富塚近江宗綱・遠藤文七郎宗信の三人に伊達・信夫・刈田・柴田の軍勢を添え、おつかわしになったのだが、今回の会津蘆名との戦のため伊達の旗本がいなくなったため、浜田伊豆を阿久ケ島(安子ヶ島)よりお呼びになったが、浜田は猪苗代へ来て、摺上原での合戦にも役立てたのである。

感想

摺上原の合戦の裏で、動いていた佐竹・岩城の田村進行について書かれています。
政宗は家老を派遣し、守護を任せています。

『政宗記』6-7: 摺上合戦

『政宗記』6-7:摺上原の戦い

原文

去程に六月五日の卯刻に、万づ評定し給ふべきとて、各猪苗代の城へ召寄給へば、「会津より働なり」と申す。「昨日も働と申程に、新橋迄景綱・成実出けれども、偽なり。今回も其分ならん」と申しければ、弥人数見けりと云、扨も迚、成実書院の西へ立寄みければ、備余多みへけり。政宗は摺上のみへける櫓に御坐を、成実参り「敵軍働とみえたり、勢を出されべきや」と申しければ、兼て伊達の備定を今度は引替、先陣をば猪苗代弾正盛国、二陣は景綱、三番成実、四番白石若狭五番旗本、左右は大内備前・片平助右衛門兄弟、跡をば浜田伊豆と備定を承り、景綱も成実も一度に立て罷り下れば、郎等共疾に仕度をなして待かけけるを、鎧堅めて打出けるに、会津・佐竹・岩城三家の勢雲霞の如く、新橋より北に段々備へ、夫より湖の方へ働出、近所の在家十間計焼払、猪苗代より出ける人数をみかけ、引上押向ひ摺上の此方にて、盛国と小十郎は合戦を始めけり、扨若狭と成実は、合戦にかまはず、双方の後へ相詰ければ、弾正と景綱人数足跡悪く、崩れそうにみへける程に、若狭も成実も敵中へ駈込ければ、敵崩れかかつて引除、摺上の上迄追付けるを、摺上の下に会津旗本の備扣けるが、押太鼓を打て守返されけるを、政宗旗本を以て助合押返し給へば、摺上の上迄は戦ながら引除けれども、摺上を追降給へば、敵悉く敗北して、夫より追討にし給へけるに、北方を差て迯散、新橋を引、中々人間の通ふべき川になけれども、為方なく飛入水に溺れて死しけるなり。又川鍛錬の者は越けるやらん、向の川岸湿てみへけり。成実は金川の方へ参り罷帰りに、川の様体見けるなり。成実は扨政宗大利を得られ、其夜は猪苗代の城へ引上給ふ。爰に旗本の中村八郎右衛門、御方各居ける前にて、「今日の御合戦乱合、敵にさながら太刀の付所みへざれども、物付なくては、日比の心かけ違と思ひ、見上と頬当の間に目を付け物付けるが、手にこたえなければ大方は切付ぬらん」と云。是を聞程の者八郎右衛門事なれば向て申す者なく、かげにて「如何に八郎右衛門と云ども、今日の程の乱合我人ともに眼に霧降て敵味方を見分難きに見上と頬当の間を物付なんどと云事は余りに過たる荒言かな」とて、時の人々笑けれども、案の如く頬へ切付其場は遯れて引除けれども、軈て相果たりと、後に聞く今に始めぬ中村かなとて、追て人々感じけり。されば政宗猪苗代へ移し給ふ事一日おそかりせば、景綱と成実はたとへは袋の内へ物を入たるが如し、大勢に取込られ滅亡眼前の処に、人々思の外有無の疑を切て六月四日の夜半に猪苗代に乗入、明る五日の卯刻に大軍と取合勝利をえ給ひ、景綱も成実も不思議の命とり、毒蛇の口を遯れたる心地して、あまつさえ会津迄乗取給ふは、古今稀なるべしとて、舌をふるう事、政宗二十三の年也。去ば其昔小田原北条氏、甲州武田信玄を頼み、越後の上杉輝虎の領分松山と云処を、両大将にて攻玉ふ、落城の二日目に、越後へ聞へ輝虎後詰に、前橋と云処迄出られけれども、六日の菖蒲節会に逢ず、華闘果てのちぎりきかなとて、輝虎腹立して小田原の領分に、山根と云要害を攻んとて、氏康・信玄へ使いを以て「松山後詰に出ざる事、輝虎漲ずと批判有べし、如何に後詰に出合ずと云、流石に是迄出向ひ空しくかへらん事、氏康・信玄へ対し、軍の慮外にも相似たり、然ば御領分山根の要害を取詰ん、但し無益ならば両家を以て妨給へ、其ときは城を巻きほごし、退散申すが如何様にも、明日卯の刻に打立」とて二本木の船橋を打渡り、仕損じなば跡へ二度かへられじとて、船橋の綱を切せて、氏康・信玄の御坐陣場に向ひて押通り、彼要害へ押寄一日一夜に攻落し、男女三千撫切して本の道にかかり、以上三日目に越後への帰陣は、末代は知らず、前代にも稀なるべしと云伝ふ。扨政宗猪苗代へ馬を入、会津まで乗取給ふは、輝虎の船橋にもあまり高下はあるまじきかと、家の者ども風聞す。然して後、其夜の御前所へ参りける頸どもの中に、会津親類金上遠江、成実郎等斎藤太郎右衛門、其年二十六歳にて、太刀共に討取持て参る、政宗其頸此方へと宣ふ。折敷にのせて差上るを、右の腋へ呼で持給へる箸を返し口を開、かねくろなりとて、斬口へ其箸を押込下より上へくるりと押返し、大きなる頸なり、一太刀に取たりとて引抜取直し、其箸にて物を聞召に、箸はさながら、紅に同じ、見る者興をさまし、誠に鬼神やらんとみへたり。惣じて首帳をしるしけるに、会津の家老佐瀬平八郎を始め、都合三千五百八十余なり。同六日には、会津の内金川へ働き給へば、堅固にかかへける故、平攻には成難く、明る七日に近陣を仕給ふべしとて、六日には大寺前の原に野陣をし給ふ、然るに、六日跡の朔日に、大森より原田左馬介を米沢へつかわし、最上境と下長井の勢を差置、北条と上長井の人数を相具し、会津の大塩へ働き出、猪苗代より成実・景綱、北方辺を働くならば、末にて出合ける様にと遺し給へば、思ひの外政宗猪苗代へ乗入給ひ、摺上にて勝利を得、会津の衆敗軍と聞へけるに、あまつさへ大塩の城は、引除残て金川・三つ橋・塩川と云、三ケ所持抱ひ、扨其外北方の侍、地下人に至る迄、皆残りなく会津へ引除ける由、左馬介承り、六日の夜に入働所へ参りけるなり。同七日に金川へ近陣を仕給ふべきため、先六日には惣手を引上、仕寄道具の仕度なれば、其夜に右の三ケ所も、会津へ引込故に、政宗も三橋へうつし給ひ、人馬の息を休められ候事。

語句・地名など

金川:福島県耶麻郡塩川町金橋の内。
物付:太刀傷の印の意か。
見上(みあげ):かぶとの鉢のひさし。
後詰(ごづめ):応援のため後方にひかえる軍勢。後攻。
六日:五月五日の菖蒲が六日になったことで、間に合わぬたとえ。
折敷(おしき):食器をのせる盆。片木を折りまげて作ったもの。
六日跡:六日さき
下長井:長井は米沢市および長井町地方。南を上長井、北を下長井という。
北条:山形県東置賜郡赤湯町地方
大塩:福島県耶麻郡北塩原村大塩
北方:喜多方市地方
三ケ所:塩川町金橋の内。
荒言(あらごと):おおげさにいうこと、偉そうにいいはなつこと。
舌を振るう(=舌を振ると同じ):非常に驚き恐れる。
闘果てのちぎりき:諍い果てての棒乳切木/時期に遅れて何の役にも立たないたとえ。けんかすぎてのぼうちぎり。
まきほぐ(巻解):城をとりまいても落城しない場合、その軍勢を引き上げること。
かねくろ:お歯黒。

現代語訳

そうこうしている間に、6月5日の卯の刻に、いろいろなことを集まって相談しなくてはいけないと、それぞれを猪苗代の城へお呼びなさり、「会津から戦闘があった」と言った。「昨日も動きがあると言っていたので、新橋まで景綱と成実が出たけれども、間違いであった。今回もそうなのではないか」と申し上げたら、たくさんの軍勢を見たといい、そうであるかと成実が書院の西へいき、見たところ、敵の備えが多く見えた。
政宗は摺上原を見渡せる櫓にいらっしゃったので、成実はそこに行き「敵軍が動き出したのを見た。手勢をお出しになりますか」と言ったところ、いつもは伊達の隊列の定めを今回は変えて、先陣を猪苗代弾正盛国、第二陣を片倉景綱、第三陣を伊達成実、第四陣を白石若狭宗実、第五陣に政宗の旗本とし、左右に大内備前定綱・片平助右衛門親綱兄弟をおき、その後ろに浜田伊豆景隆と備定めを決め、景綱も成実も一度に立って面前から下がると、郎等たちが急いで仕度をして待っていたので、鎧を着用し出発した。会津の蘆名・佐竹・岩城の三家の軍勢は雲霞のごとく新橋より北側に隊列をしき、それから湖の方へでて、近くの家10間ほどを焼き払い、猪苗代からでた軍勢を見て、差し上げ向かい、摺上原のこちらがわで猪苗代盛国と片倉景綱は戦を始めた。そのとき白石宗実と成実の軍勢は戦には加わらず、双方の後ろへ詰めていたところ、盛国と景綱の手勢は足下が悪く、崩れそうに見えたため、白石宗実も成実も敵の中へ駆け込んだところ、敵は崩れて引き下がり、摺上原の上まで追い付いたところ、摺上原の下に蘆名の旗本の隊列が控えていたのが、押し太鼓を打ちながら守り返されたのを、政宗は旗本を使い、助け合って押し返しなさった。摺上原の上まで戦いながら退いたのだが、摺上原の追い掛け降りなさったところ、敵はことごとく敗北して、それから追い討ちになさった。北方をめざして逃散した。新橋は落とされ、簡単に人が通ることができる川ではなかったが、退いてきた人々は仕方なく飛び込み、水に溺れて死んだ。また川で訓練している者は越えたのであろう、向かいの川岸に濡れていたのが見えた。
成実は金川の方へ行った帰りに、川の様子を見た。成実はそういう状態で、政宗は大勝利し、その夜は猪苗代城へお引き上げなさった。
このとき、旗本の中村八郎右衛門、おのおのがいらっしゃる前で、「今日の合戦は乱れあったため敵に対して太刀を突くべきところが見えないくらいだったが、戦闘なしには日々の心懸けが足りないと思い、見上と頬当ての間に目を付けて差したが、手応えがなかったので、だたいは切りつけられただろう」と言った。
これを聞いた者たちは八郎右衛門のことなので、正面切って言う者はいなかったが、影で「いかに八郎右衛門であっても、今日ほどの乱れ具合ならば、自分も相手も目に霧がおりて、敵味方を見分けがたく、見上と頬当ての間を突き刺すということはあまりに過ぎた大げさないいぐさだろうか」といって、そのとき人々は笑ったのだが、考えたとおり、頬へきりつけ、その場は逃げて退いたのだが、やがて果てたと後に噂になった。相も変わらぬ中村であるなあとのちのち人々は感心した。
さて政宗が猪苗代へお移りになるのが一日おそかったならば、景綱と成実はたとえるならば袋の中へものを入れるかのようで、大勢に取り込まれ滅亡が目の前であったというのに、人々の予想を裏切り、六月四日の夜半に猪苗代に乗り入れ、明くる5日の卯の刻に大軍と戦い勝利を勝ち取りなさった。景綱も成実も不思議に命を拾い、毒蛇の口から逃れたような気分になり、さらに会津まで占領しなさったのは、いにしえにも現在にも稀なことであろうと非常に驚いたのは、政宗23歳のころであった。
その昔、小田原の北条氏が甲斐の武田信玄を頼りに、上杉輝虎(謙信)の領分の松山というところを、両人を大将にたてお攻めになった。落城の2日目に、越後に情報が届き、輝虎は前橋というところまで出馬したのだが、間に合わなかったため、喧嘩が終わったあとのちぎりきのようなものだと輝虎は腹を立て、小田原の領内の山根という要害を攻めようとして、氏康・信玄へ遣いを出し「松山の後詰めにでなかったこと、輝虎がやる気をださなかったと批判があるであろう。たとえ後攻めにいなかったといっても、流石にここまで出向いて空しく帰ったこと、氏康・信玄に退位し、戦の無礼にも似ている。なれば領内の山根の要害を取り立てましょう、ただし、無益であるなら、両家をあげて妨害なさいませ。もしそのときは城を落城させずに退き、逃げますが、どのようにでもしてください。明日の卯の刻に出発します」と言って、二本木の船橋をわたり、もし失敗したら、絶対に帰られないようにと船橋の綱を切らせ、氏康・信玄のいらっしゃる陣場に向かって押し通り、その要害へ押し寄せて、一昼夜で攻め落とし、男女3000人を撫で切り本街道にかかり、3日目に越後へ帰陣したことは、未来はしらないが今までには稀であることだと言い伝えられている。この政宗の猪苗代へ馬を進め、会津まで占領なさったのは、輝虎の船橋攻めにも比肩する成果ではないかと家中の者たちはしきりに話した。
その後、その夜の政宗の前に運ばれてきた首の中に、会津蘆名家の一門衆金上遠江盛備の首があった。成実の家臣斎藤太郎右衛門というそのとき26歳の者がいたのだが、太刀とともに首を討ち取り、持ってきた。政宗は太郎右衛門に首をこちらへと仰った。盆にのせてさしあげたとこおろ、右のわきへお呼びになり、持っていた箸を使って口を開き、「お歯黒をしている」と言って、首の切口へその箸を押し込み、舌から上へくるりとひっくり返し、「大きな首だ、一太刀にとった」と言って引き抜き、取り直した。その箸にてものをお食べになったので、箸はさながら紅のようで、見る者は興ざめ、気まずい雰囲気になり、誠に鬼神ではないかと見えた。そして首の記録を記したところ、会津蘆名の家老佐瀬平八郎をはじめ、全部で4580余りであった。
6日には、会津の領内金川というところを攻めなさったところ、堅固に守ったため、ただひたすらに攻めることは出来ず、あくる7日に近くに陣をしこうと、6日には大寺の前の原に野陣をしきなさった。そして6日あとの朔日に、大森から原田左馬助宗時を米沢へ使わし、最上との境と下長井の勢を配置し、北条と上長井の軍勢を引きつれ、会津の大塩に兵を進め、猪苗代から成実・景綱が北方辺りに攻め込んだら、最終的に対面できるようにと使わしなさったところ、想定外に政宗が猪苗代へ乗り入れなさり、摺上原にて勝利し、会津の衆は敗軍と聞こえたためか、大塩の城は引き上げており、残りは金川・三橋・塩川という三カ所のみとなり、その他北方の侍・下働きのものに至るまでみな残りなく会津黒川城に退いたことを原田宗時は聞き、6日の夜になって、陣場に来たのである。
7日に金川へ近陣を敷くため、まず6日にはすべての軍勢を引き上げ、攻め道具の用意をしていたら、その夜にその三カ所も会津へ退いたため、政宗は三橋城へ入り、人と馬を休ませなさったのである。

感想

摺上原の合戦のことが書かれています。
政宗を褒めちぎるために上杉謙信の船橋攻めのことが上げられ、それにも比肩するのではないかと書かれています。それほどの快進撃だったのでしょう。
合戦の途中、溺れていく人であふれる川を静かに見つめる成実の姿が眼に浮かぶようです。こういうちらっとした描写が成実の文は印象的でとても面白いです。
そして会津蘆名の一門衆で重臣であった金上盛備の首実検のときのことが書かれています。箸で首をぐりぐりする政宗、その箸でものを食べたため、紅を使ったかのように血で唇が染まったのでしょうか。鬼神のようだと記しているところもおそらくこれは成実の感想でしょう。
今の人間とは価値観が違うのは仕方有りませんが、近づきがたい壮絶な美しさがあったのでしょう。この描写も非常に面白いです。

2016秋亘理白石秋保/瑞巌寺と政宗展

10月10〜12日と、Fさんとはらこ飯ツアーに行ってきました!
今回の目的ははらこ飯食べること!佐勘に泊まって古文書や鎧見ること!でした。

おなじみの悠里館! でも今回ははらこ飯がメインです!
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新聞で読んだAら浜さんに行こうと思っていたのですが、50組待ち、どの店も数時間待ち…ということで、タクシーの運転手さんが知ってるちっさいお店に変更。でもそこも私らの次の次の組の人で「もう具がないので」って断られていたので、ぎりっぎりでした!はらこ飯人気ぱねえ!
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美味しかった〜。

そして白石へ移動。
何にでも乗っかる白石の貪欲な姿勢好きです。
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お梅ちゃん萌えキャラ。
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そして白石城。
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大手門。
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城内では正子公也先生の武将絵個展をやっていました。政宗&成実&小十郎親子の絵がかっこいい!イラスト集が売っていましたのでそれも購入。

仙台駅からバスで秋保温泉へ。
佐勘というのはこちら。政宗以降仙台藩主が愛した温泉。佐勘というのは政宗から湯守を任された佐藤勘三郎が当主をしている温泉宿。ちょっとお高い宿なので普段なら泊まる気にはなれないのですが、拝領した古文書や鎧などがあるため、いつか泊まりたいと思っていたら、連休最終日&夕飯無しの割安プランがあったので、Fさんと一緒に泊まりました。
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ねぶた政宗がお出迎え!
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高野山から取り寄せ、以来ずっと灯されているという火。
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秀宗の鎧。前立てが柊です!
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拝領のもの。
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忠宗の和歌。
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翌日は石ノ森章太郎萬画館に行った後、久しぶりに瑞鳳殿へ。
拝殿の修復工事中でした(瑞鳳殿自体は見られます)。
おそらくこれが成実の奉納灯籠の礎石後?
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駅で牛タン食べました。
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Fさんと別れ、東京で一泊。
翌朝、三井記念美術館でやっています、瑞巌寺と政宗展を見てきました。
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成実関係のものはなかったですが、いろいろなものが集められていてよかったです!グッズめっちゃいっぱい買ったよ…。

はらこ飯の人気に驚愕した秋旅でした。